第3話 Aller Anfang ist schwer (アラー・アンファング・イスト・シュベアー)

 エージェントが手配してくれたアパートメントはネッカー河を挟んで城跡の反対側にある“Philosophien Weg (哲学者の道)“から少し下った日当たりの良い建物の3階だった。

 最初に大家から渡された鍵(die Schlüssel )の束にまず驚いた。ポスト、地下室、ゴミ捨て場、裏庭、共用入口、そしてもちろん自分の部屋のドア。どれがどれだか分かるか心配になった。

 とりあえず、当面の水と少しだけの食料を調達して街の様子を探るために、生活に必要な物がすべて集まるという旧市街へ向かった。

シュランゲン小道の急勾配の道を避けて、テオドール・ボイス橋を渡ってビスマルク広場に出た。まだ朝10時を回ったところなのに人通りが多く、観光客と学生達の自転車が行き交っていた。ドイツの多くの都市では、深刻な市街地の駐車場不足と世界的なエコロジーの普及で、市街地への入場制限行われていて、街中には配達や商店の荷物を積んだ車しか見当たらなかった。

 広場では朝市(マルクト)が開かれていた。色とりどりの野菜や珍しい果物をキレイに並べたお店、チーズやオリーブの専門店、魚屋、肉屋、パン屋、焼き菓子やマジパンを売ってる店、花屋にソーセージやフライドポテトを出す屋台など、売り手の掛け声や買い物客たちの笑い声に溢れていた。チロリアンハットを被った老人が、手回しの演奏機で古い人形劇で流れてくるような音楽を奏でていて、朝陽だけのせいではなく、陸には広場全体がキラキラして見えた。


 実はドイツ留学を決めるにあたって、陸が唯一事前に相談した相手がいた。叔父の葉月諒太だ。

 諒太は父・翔太の弟で父が継がなかった神楽坂の実家の洋食店“Le Marais(ル・マレ)“のオーナー兼料理長だ。兄の海も同じだが、陸は赤ちゃんの頃から会社勤めで忙しかった父より、よく遊んでくれた諒太の方に懐いていた。小学校に入る前まで、諒太のことをパパと呼んでいたくらいだ(ちなみに、翔太はトトと呼んだ)。

 諒太は四谷にある大学を休学し、フランス・パリの服飾大学に入り、ファッションの勉強をしていたらしい。それが5年後突然帰国し、その時体調を崩していた祖父の葉月太一の代わりに“Le Marias“を引き継いだ。

 諒太は父の翔太と比べると寡黙で、いつも穏やかな表情をしていた。そして人の目を見てじっくり話を聞いてくれて、返ってくる答えに重みがあった。後から聞いた話だと叔父はパリの大学を半年もたたずにやめて、フランスだけではなく、イタリア、ドイツ、スペイン、イギリスなどヨーロッパのレストランを渡り歩き、祖母から祖父の容態が悪いという連絡に応じて急遽帰国したということだった。 


 大学の帰りに飯田橋で電車を降り、神楽坂の小さな路地を入り、細い石畳の道を通り、大きな料亭を過ぎた反対側の角を目指して歩いた。叔父の洋食屋(父の実家だが)は山手線の中とは思えないくらい閑静な通りに面した3階建の白い壁にブルーの窓枠、そして同色のひさしの上に“Le Marais “と白抜きに金色の縁取り文字が書かれてる小さな店だった。祖父の代は木造の2階建だったが、叔父が5年前に今のように建て替えていた。

店の外には本日のおすすめを書いた黒板とメニューが置いてあった。正面のドアには、「Closed」の札が掛けてあり、ディナータイムの営業まではまだ時間があった。

 ドアを開けると伯母の朝倉奏(あさくらかなで)がカウンターで伝票の整理をしていた。

「あら、陸くん久しぶり!元気?雪乃さん達も変わりない?翔太は相変わらず忙しいわよね?」矢継ぎ早の質問に、ただ頷くしかなかった。

「ごめんね、私ちょっと銀行とお買い物に行かなきゃいけないの。」と言って、慌てて店を出て行った。

「相変わらずだろ、姉さんは。」と、カウンター奥のキッチンから、諒太が声をかけた。叔父は以前店に来た時にはなかった口髭をたくわえていた。

「腹空いてるか?もうすぐ仕込み終わるから、ちょっと待ってろ。」陸はカウンターの真ん中の席に座り、店内を見渡した。4人掛けのテーブル席が奥と壁側に4台、窓際に2人掛けが3台とカウンターにストゥールが6脚の30席弱の小さな店だった。

しかし、月中の平日にもかかわらず、4人掛け席の2台と2人掛け2台にはすでに「予約席」の立札が置いてあった。

 しばらくして、店の名前が刺繍されたコックコート姿の諒太が皿を片手に現れた。相変わらずコックコート姿の叔父はピリッとしてカッコよかった。

「これ昨日仕込んだパテ、食ってみろ。」そう言って、陸の目の前に皿を置いた。見たところオーソドックスなレバーのパテのようだった。

一口食べて驚いた、うまい。陸は普段レバーが苦手だった。あの生臭い臭みがダメだったが、このパテはレバーの臭みがまったくなくて、ねっとりとした食感の中にお肉の旨みが香辛料でより豊かな味わいが感じられる。

「どうだ、うまいだろ。コイツと合わせるともっとうまいぞ。」と言って、ワインセラーから1本の赤ワインを取り出し、口の大きく開いた大ぶりのグラス2つに2cmくらい赤い液体を注いだ。そして、その液体を回すようにワイングラスをゆっくり振り、陸の前に置いた。

 陸が知っている赤ワインよりも、色が薄く澄んだワインで、口をグラスにつけると、華やかな香りが立ち上がり、苦味の少ない軽い口あたりの中に柔らかな酸味とカシスのような味わいが残るワインだった。

「これ、美味しいね。赤ワインって、もっと渋みがあるイメージだったんだけど。」

「だろっ、だけどそれだけじゃないんだな。」と珍しく諒太は勿体ぶった口調になった。

「まあ、見てな。」と言って、残っているボトルのワインをデキャンタに少し移すと、優しくゆっくりと回した。


「で、なんか話があったんじゃないか?」そう言って、諒太は陸の顔を覗き込んだ。

「うん、まあ。」少し間をおいて、「オレ、ドイツに留学しようと思うんだけど、叔父さんどう思う?」と、陸は切り出した。諒太は少し考え、自分のワイングラスを頭の高さまで持ち上げ、ワインの色味を確認するように照明の前で揺らして、また一口、口に含んだ。

「いま飲んでるワイン、ピノノワールって品種、『ロマネ・コンティ』って言うバカ高いワインの名前だけは陸も聞いたことあるかもしれないが、そのワインと同じ品種なんだ。でも、フランス産じゃないよ。なんとドイツのアール地方のピノノワールだ。」

 そして、先ほど移し替えたデキャンタから新しいグラスにワインを注いで、最初のグラスと並べて差し出すと、アゴで飲んでみなと合図した。陸は新しいグラスのワインに口をつけると言った。

「何これ? 同じワインだよね?」さっき飲んだワインとは全く違っていた。香りが一層華やかになり、味もベリーの感じが強くなって、よりまろやかで深みのある味わいに変わっていた。

「昔は甘ったるい白ワインしかドイツにはないと思ってたけど、アイツら真面目だから、ずいぶん勉強して試行錯誤したんだろうな、今ではこんなうまい赤ワイン作るようになってたよ。」諒太は続けて、「面白いじゃないか? 猫も杓子もアメリカ行ってMBA、右を見ても左を見てもビジネスビジネスじゃあ、つまんないだろ世の中。」そう言って、諒太は快く陸を送り出してくれた。


 旧市街のスーパーで、ミネラルウォーターと缶ビールを半ダース買って、エコバッグに入れたら、それだけでもかなりの重さ、いい筋トレになる。帰り道、さっきのマルクトでカリーヴルスト(パンにソーセージを挟み、ケチャップとカレーパウダーをかけたベルリン発祥の料理)を買って、広場のベンチで齧りついた。カレー風味のケチャップは少し甘めに感じたが、ソーセージはさすが本場の味、硬めのドイツパンとの相性も抜群で、陸の空腹を満たすには十分だった。

 一旦、アパートに戻って仮眠をとり、午後からハイデルベルク城をまわって、大学を見学に行くことにした。

 アパート前で、学生らしい東洋人とインド系の男が話をしていた。陸は会釈をして通り過ぎようとしたところを呼び止められた。2人ともやはりハイデルベルク大学の学生で、1人は韓国人でチャ・ドンクンという名前で哲学を専攻、もう1人はインド人でアニク・クマリ、医学部にいるということだった。2人の話を聞くと、ドンクンがアニクの部屋から絶えずカレーの匂いがして我慢できないと言うと、アニクはドンクンの部屋から臭うキムチこそ我慢ならないと言い合っていた。

 何ともくだらない話で、将来コイツらが哲学者や医者になるのかと思うと、大韓民国とインド共和国の未来が心配になったが、陸は2人の言い分を聞いてやり、こんな提案をした。明日2人が好きな料理を持ち合い、陸の部屋でパーティして理解を深めよう、せっかく同じアパートに暮らして知り合いになったのだからと。

 2人は渋々この提案を受け入れ、陸が後から大学に行くと言うと街中のガイドをしてくれることになった。


 ハイデルベルク城は旧市街の上の高台に位置するので、城までの道はかなり急で相当な運動になる。途中、案内してくれる2人は先ほどの言い合いがまるでなかったみたいに仲良くなって、旧市街のこのレストランは観光客向けで高くてまずいだの、あそこのカフェで働いているリトアニア人の女の子がとびっきり可愛いとか、あのクナイペ(居酒屋)は学生割引があるとか楽しい情報を教えてくれた。

 ハイデルベルク城の高台のテラスからの眺めは最高だった。レンガ造りの家々がひしめき合う旧市街と陸のアパートがある哲学者の道の森や丘の間をゆるやかにネッカー河が横たわり、河を横断するようにレンガ造りの大きな橋が架かっていて、まさにポスカードのような景色が広がっていた。陸はスマホで何枚も写真撮ったけど、みんなあまり変わり映えしなくて、やっぱ実物を見なきゃダメだとつくづく思った。

 ハイデルベルク大学は、ドイツ最古の歴史ある大学で、キャンパスが3つに分かれているそうで、陸が来週から通う留学生のための「ドイツ語集中講座」は、1番古い旧市街の中心にあるキャンパスで行われると教わった。メンザ(学食)やカフェテラス、事務センター、国際交流会館などすぐにお世話になるところを2人は効率よく案内してくれた。


 アパートへの帰り道、ドングンがよく行く学生酒場があるから寄っていこうと提案した。学生酒場とはハイデルベルク市内には何軒もあるレストラン兼居酒屋のことで、その店の名は“Schwarze Katze (黒猫)”といった。

 旧市街の外れのネッカー河沿いに通じる小道にレオナール・フジタの絵画に出てくるような黒猫の看板が出ていた。辺りはまだ明るく、店の前にも人気はなかったが、映画や演劇、コンサートなどのポスターや英語やドイツ語で書かれた紙がベタベタと不規則に貼られた両壁を地下に降りて行くと、ガラス張りのドアの向こうに灯りが見え、地味めの音楽とお客達の騒めきが聞こえ、ドアを開けると思っていた以上に客で混んでいた。

 ドンクンが知り合いの小柄なウェイターのロベールに手をあげて合図をすると、手招きで奥のテーブル席へ通された。さっそく地元のピルスナー・クラフトビールで乾杯した、このビールも美味しい。アニクが牛肉と豚肉を食べないということで、“Käsespätzle(チーズクリームのショートパスタ)“と“Brathänchen(チキンの丸焼き)“を注文した。

およそ食欲が湧くとは思えないようなトム・ウェイツやピンクフロイドなど、ウチの親父でも聴かない暗いロックばかりが流れ、ドンクンの趣味を疑ったが、周りの客は気にするふうでもなかった。

 料理が届くと、陸とドンクンは地元の Schwarzbier(黒ビール)を同時に注文した。

ショートパスタはイタリアの乾麺と違いモチモチしてチーズクリームに良く馴染んで美味しいし、チキンも皮がパリパリでお肉はしっとりしていてちゃんと鶏の旨味があり美味しい。


 お酒が進むにつれ、それぞれが自分の話になり、ドンクンの父親はIT会社のヨーロッパ統括本部長、母親は韓国でも有名な詩人だそうで、自分は母親に似ていて、父親みたいなビジネスマンには絶対になりたくないと力説した。一方、アニクは地元で市長をしている父親がいて、母親が医者だと言った。

2人が共通して自分の国ついて語ったのは、貧富の差・所得格差がひどいということ。2人が日本ではどうだと聞いてきたが、確かに格差は存在するし、年々広がってきていると思う言うのが精一杯だった。

 原因の一つがドンクンは学歴社会、アニクはカースト制度と言った。2人とも自分の国では裕福層に属するが、自国の社会を真剣に変えなきゃいけない考えていたし、アニクは貧しい人々も適切な医療を受けられるように努力したいと言い、ドンクンもまた分断され、傷つき病んだ心を癒せるような活動をしたいと思ってると言った。なんて素晴らしいんだ、昼間カレーとキムチで喧嘩してたとは到底思えないと陸は思った。

 ドンクンは黒ビールを飲み干してしまい、もう少し強い酒が飲みたいと言い出した。さすがに韓国ドラマに出てくるような緑色のガラス瓶の焼酎はここには置いてないと思ったが、なんとロベールが同じような緑色の瓶と霜のついた、ドラマに出てくるような小さなグラスを2つ持ってきた。

 これは“Jäger Meister (イエーガーマイスター)“という蒸留酒で、最近は世界的にも人気があり、アルコール度数は韓国の焼酎よりも高い35度だった。味はアメリカのドクターペッパーに似た味だが、もちろん強い、35度だから。

ロベールがドイツではビールを飲む合間に、キュッと一杯飲むと体を温めてくれると言って、成分の56種類のハーブも健康に良いと言われていると話してくれた。


 店内は少し空いてきて、ロベールがテーブルまできて、挨拶をした。フランス生まれで、ハイデルベルク大学にもう8年も通っていて、社会学が専門だと言っていた。ロベールはヨーロッパの人にしては小柄で幼く見えたけど、陸から見れば大先輩だった。ロベールは、チラチラと陸たちの話を聞いていたらしく、少し胸を張り両手をテーブルの上に開いて置き、まるで政治家が演説するようにこう言った。

「よろしいか、紳士諸君。皆それぞれに問題を抱えている。しかし、すべての問題を解決できるマスターキーなどないのだ。皆がおのおのの解決の鍵穴に合う鍵カギを見つけ出さなくてはならない。ドイツのことわざにこういうのがある。”Aller Anfang ist schwer.(何事も始まりは難しい。)“

始めはどんなに困難なことに思えても、我々はこのダンジョンをクリアできるカギを必ず見つけ出すのだ!」最後は、RPGみたいになったが、3人とも酔っていたせいもあって、心にズシリと響いた。

 

 陸は日本の大学にすでに2年も通っていたが、その2年間より多くのことをこの数時間で学んだ気がした。

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