第2話 Bali-Hai(バリハイ)

 バケットに挟んだハムを落としそうになりながら、海はクラマスの海岸へまだ明けやらぬ湿った高速道路を古いピックアップトラックで飛ばしていた。眠気ざましに“Sum 41”や”Linkin Park”を大音量でかけても、助手席のピロ(向井 浩志)はイビキをかきながら爆睡してた。

「オイ、ピロ。いい加減に起きろ。もう、着いちまうぞ!」

 目をこすりやっと目を覚ましたピロは、ヨダレを手で拭って外を見やり、目ヤニのついた目で海の方を向いた。

「オー、いい波たってんじゃん。カイ!」

海はピロのこの無神経なところが嫌いだった。


 バリ島のクラマス海岸(Kuramas Beach )は、

バリ島東部に位置し、WSP(世界プロサーフィン連盟)の大会が開かれるサーファーには有名なビーチで、海が所属するJPSA(日本プロサーフィン連盟)の大会の開幕戦と最終7戦目、8戦目の舞台となっている。

 その4月の開幕戦に合わせて、海は他の選手達とバリ島へ来ていた。大会期間は1週間程だが、海たちは1週前に調整のため前乗りしていた。ここクラマスは季節風の影響を受けやすく、山からの風がおさまる明け方から朝の10時くらいまでがオフショアになり、コンディションが良くなる。

 近く駐車場にクルマを止め、ボードを担いで300mほど歩くと、顔馴染みのビーチハウスがあり、ピロがオーナーのJik(ジック)にいつもように冗談を言い、海は白いリップカールのキャップを取った手を振り挨拶した。

 海はストレッチを入念にし、少しの時間も無駄にしたくなかったから、ボードを脇に抱え砂の上を駆けた。ピロはもうすでにパドルで沖合遥かにでてしまっていた。まったくアイツはいつもろくすっぽストレッチもせず海に出て、よく怪我しないなと思う。そんな心配をよそに、ピロはすでにオーバヘッドの波をとらえていた。

アップスアンドダウンスで加速して波に乗り、崩れた波の深いところでボトムターンしてリッピングを完璧に決め、そしてカットバックで波にのまれた。さすが去年WPSA総合で準優勝した実力者だ。海より4つ年上のピロは3年前の事故さえなければ、今頃はWQS(ワールドクオリティファイシリーズ)でも上位、あるいはWCT(ワールドチャンピオンシップツアー)に参加できていただろうと言われていた。

ピロは父親の影響で4歳でもうサーフィンをはじめていたらしい。中学の終わりから始めた海からみたら、とても手の届かない神レベルの天才だった。


 海のサーフィンとの出会いは最悪だった。中学生の時は横浜のクラブユースで攻撃的MFの位置でレギュラーをつとめ、サッカーに明け暮れていた。トレセンにも呼ばれ10番の背番号をつけて、将来は海外で活躍するプロサッカー選手になることを夢みていた。しかし、ジュニアユースからユースに上がれるリストに海の名前はなかった。

周囲からも海は絶対大丈夫と言われていたし、周りにも海以上に上手なヤツはいなかった。納得のいかない海は清水コーチに上がれなかった理由を知りたくて詰めよった。

「うーん、オレも海が上がるのが当然だと思っていたよ。でも、新しくスペインから来たガビがオマエじゃなくて、柊ニ(しゅうじ)を強く推したんだ。」小野柊ニはボランチの位置で中学からクラブに入ってきた190cmの長身で、ボールの扱いはそれほど上手くなかったが、視野の広さと果敢な奪取力が魅力の選手だった。結局、クラブは海の完成度より柊ニの将来性・伸びしろを選んだのだった。

 その日、海はいつも練習が終わると寄り道もせず逗子の家に急ぐのに、2試合連続で試合をした後みたいに脚が重く、頭の奥で大きな鐘が鳴り響いて何も考えられなくなっていた。

 気づいたら、海辺にいた。

小さい頃から陸と遊んだ、良く見知った砂浜と海の風景だった。犬を散歩させている人や沖には黒いウェットスーツのサーファー達が波に浮いている、いつもの何も変わらない景色がそこにあった。

「どうした、ボウズ?何かあったか?」気づくと、隣に白髪頭で少し腹の出たウェットスーツ姿の中年のオヤジがいた。

「海はいいぞ。頭を空っぽにしていい波を待つ、そして自然の抗えない大きな力に身を委ねるしかないから、人間のちっぽけな悩みなんかへのカッパだぜ!」その声で、海は自分が泣いていることにやっと気づいて、慌てて涙を袖で拭った。

「ボウズ、気が向いたら、あそこの“ Back Yards(バックヤーズ)“って店に来いよ。海に入ってなかったら、だいたいそこに居るから波乗り教えてやるよ!」そう言って白髪頭は、長いサーフボードを脇に抱え海に入っていった。


 数日後、サッカーの練習に行かなくなった海は、遼に誘われて鎌倉のライブハウスへ行く途中、海沿いの国道を自転車で走っていた。その道沿いにハワイ風のカフェと雑貨屋の隣り、木の看板に“Backyards”と白ペンキでなぶり書きされたサーフショップらしき店が現れた。先日の白髪頭が言ってた店だ。

 海は自転車を隣りの雑貨屋の前に止め、恐る恐る店の中を覗いてみた。店の中はそれほど広くはなかったが、サーフボードが15枚くらい置いてあって、カウンターの前にはフィンだのワックスだの雑貨が並び、小さなテーブルには雑誌が置いてあった。

カウンターの上部には小さなモニターが斜めにかけてあって、サーフィンの画像が映し出されジャック・ジョンソンが流れていた。店内には誰もいなかったが、カウンターの奥、透明のビニールブラインドの向こう側に人影が見えた。慌てて帰ろうとすると、そのメガネとマスクをつけた男と目が合った。

「おお、この前のボウズ!よく来た、まあ座れ!」と言って、ペンキで汚れた手で折りたたみのイスを開いて座るようにすすめて、待ってるように手振りで合図した。

しばらくして、奥からタオルで顔を拭きながら白髪頭が出てきた。スマホで誰かと話をしてから、自分も壁に立てかけてあった折りたたみイスを取って、テーブルを挟んで海の正面に座った。

「待たせたな。すぐに海に入るか?」

「いえ、ちょっと寄ってみただけなんで。」

「そうか。狭い店だろ、でもオレの作るボードをモノ好きなヤツがいてハワイだの、カリフォルニアだのバリだのに送ってくれって注文きて、こう見えて結構忙しいんだぜ。」

「また、若い子相手に自慢話?」デニム地のエプロンのすらりとしたキレイな女性がコーヒーカップを2つ載せたトレイを手に現れた。

「夏美、そりゃないだろ!自慢話だけのくそオヤジたちと一緒にするなよ。」白髪頭は少し照れながらそう言った。

コーヒーをテーブルに置きながら、夏美さんは海に向かってニッコリ笑った。

「この人ね、こんなイカつい顔してるけど案外いいヤツだから安心して。では、ごゆっくり。」

耳元で囁いて、外に出て行った。

夏美さんは、白髪頭(本名は森川健吾、通称:モリケン)の元奥さんで、隣のカフェと雑貨屋のオーナー、モリケンの店も夏美さんの父親の土地だと後から知った。

 翌日、海は学校から帰ると水着だけを持って家を飛び出した。自転車を飛ばして、夏美さんの雑貨屋の前に停めると、カフェの奥から夏美さんが手を振るのが見えた、今日も一段とキレイだ。どう考えてもモリケンとは美女と野獣だと思っていたら、目の前に本人が立っていた。

「なにデレ〜としてる、コイツに着替えろ。」と真っ黒なウェットスーツを海の方に放り投げた。


 泳ぎには自信があった、中体連の自由型の学校代表にも選ばれたことがあったくらいだ。小さい頃から浜辺とこの波とは陸と遊びまくった。

その時分でも砂浜から見える沖にプカプカ浮いてるだけのサーファー達は何やってんだろうと思っていた。

 モリケンに基本の動きを教わって、一緒に海に入った。まず最初からパドリングで沖にいくのに苦労した。力ずくで腕を使っても少しも前に進まない、モリケンはずっと先に行ってしまった。

沖合いに出た時には腕がパンパンになっていた。モリケンはお手本に何本か波に乗って、立ち上がるタイミングを教えてくれた。でも、海は何度やってもボードに立てなかった。

体幹トレーニングはサッカークラブでもやってたし、運動神経には誰にも負けないと思っていた。しかし、この日海は一度もボードに立てなかった。もうヘトヘトで10km走を全速力でやらされた気分だった。

翌日全身筋肉痛で、ベッドから起き上がるのも大変だった。ロボットみたいな歩き方をクラスのヤツにからかわれた。それでも海は放課後、“Back yard s”に向かった。1度も板に立てないことが悔しくてたまらなかった。今までやったスポーツで、まるで歯が立たなかったことなど1度もなかったから。

でも、次の日もその次の日も、海は板から落ち続けた。その日店に引き上げる時に「オレって、才能ないのかな?」そう呟くと、辛抱強く付き合ってくれてるモリケンが「あるある、3日続けられる根性が才能だよ。明日は乗れるさ、大丈夫!」と慰めてくれた。

 習い始めて4日目、筋肉痛もとれ始め身体が軽く感じた。そしてモリケンが昨日言ったように、この日最初のライドで、ほんの数秒だったと思うが、海は初めてボードに立った。波が、南太平洋から地球の表面を渡ってきた波が、海のボードを押し出している、そんな感覚を感じた。

 それから、海はサーフィンにのめり込んだ。他のクラブチームやサッカーの強豪校から幾つも誘いを受けたがすべて断った。サッカー好きの父はもったいない、サーフィンなんて金にもならないのにと残念がったが、もう海の頭の中にはサーフィンのことしかなかった。勉強も学年で上位に入るくらいの成績だったので、地元鎌倉の県立進学校へ行くことにした。これで、思う存分サーフィンができると海は思った。


 海とピロは宿泊先のホテルへ帰る途中、小さな集落のバラックの家の前に車を停めた。

「Rahajeng siang(こんにちは)」そう言って、粗末な戸を開けると、縮毛の目のクリッとした痩せた小さい男の子が中から飛び出してきてピロの足に抱きついた。かたわらに男の子に似ている黒髪を肩まで伸ばした大きな目の少女がはにかんだ笑みを浮かべて立っていた。二人は兄弟で、姉はWayan(ワヤン)、弟はKadek(カデック)と言った。

「ワヤン、カデック元気だった?」

「うん、元気だよ。母ちゃんは仕事行っちゃった。」

「ああ、いいんだ。今日はワヤンとカデックにお菓子持ってきただけだから。」と言って、ピロは大きな紙袋を部屋の中に置いた。

「いつもすまないね。」奥から兄弟の祖母がお礼を言った。

「いいえ、海の帰りに寄っただけなんで。」“ウミ(Laut)“と言う言葉を聞いた時に彼女の顔が少しだけ曇った。

 3年前の事故で彼女は1人息子のPutu(プトゥ)を失くしていた。それがワヤンとカデックの父親で、まさにその事故でピロも右足を負傷したのだった。

 その事故の当日は、タイフーンの影響で波のサイズがダブルを超える”Big Day“だった。年に一回あるかないかの大きなショアブレイクが起きていた。そのかわり、非常に大きなカレントも同時に発生してプロサーファーでも尻込みするような危険な海だった。

 プトゥはローカルのサーフチャンピオンで、この大波を待ち望んでいた。ピロもまた、WQSの大会で上位を狙っていたのでこの滅多にお目にかかれない大波に挑戦したかった。他にも10人くらいのサーファーがいたが、プトゥとピロの2人の技術は抜きん出ていた。

 先に波をとらえたのはピロだった。素早いパドリングから身を起こし、アップスアンドダウンスでスピードを上げる。ピロから離れた位置にいたプトゥは、大波の影でピロが波に乗ったのが見えなかった。両者は互いにスピードを上げ、夢中で技を繰り出した。ピロがいち早くプトゥに気づき、ボードから降りようとしたが遅かった。2人は衝突し、プトゥのボードは波のはるか上に飛んでいき、ピロのボードはまっ二つに折れてしまった。すぐに救出の船やライフセーバーが駆けつけ、ピロの右足は膝から下が逆向きになった状態まま浜に引き上げられたが意識を失っていた。一方プトゥは早いカレントに流されて行方不明になってしまった。

 ピロの意識が戻ったのは、それから3日後デンパサールの病院のベッドの上だった。身体中包帯でぐるぐる巻きにされ、自分の体がどこにあるのか、自分が生きているのかさえわからなかった。一方プトゥは、翌日20km先の沖合いで遺体で発見された。昨日の大波が嘘だったような凪いだ海原にポツンと浮かんでいたそうだ。

 ピロが入院してから1週間が過ぎた頃、1人の女性が訪ねてきた。Iluh(イルウ)というプトゥの奥さんだった。長い黒髪を後ろで一つに結んで、大きな目は少し赤く腫れていたが、瞳の奥に強い光を持ったキレイな顔立ちの小柄な女性だった。まだ小さな赤ちゃんを胸に抱き、不安そうな顔つきの女の子の手を引いていた。

 彼女はピロの体の状態を案じ、夫の過ちを必死に詫びた。ピロはこの時初めて事故の相手が亡くなったことを知って、いたたまれない気持ちになった。それから彼女は、毎週末病院を訪ねてくれた。時には果物を持って、またある時は自分で焼いたお菓子を持って。

後から看護師に聞いたところ、イルウは子供2人を乗せてバイクでこの病院まで2時間近くかけて来ているということだった。

もう来なくていいからと何度言っても、彼女は大丈夫だと言って気丈に振る舞うのだった。

ピロはこんな女性から笑顔を奪ってしまった自分が許せなかった。

 半年後、ピロの退院の日、タクシーでサヌールのコンドミニアムに移動することになった。サヌールの病院にイルウが看護師として勤務していて、リハビリ治療の手配をしてくれた。半年の間に子供達もすっかりピロに懐いてしまった。下のカデックなど、最初に発した言葉が「ピロ」だったとイルウから聞かされた。

ピロはイルウの優しさ、大らかさに惹かれ始めていた。しかし、プトゥのことを考えると自分の心に鍵をかけてしまうのだった。


 ピロと海は明後日から予選が始まるという緊張感と高揚感を徐々に感じ始めていた。ホテルに一旦戻り、少し睡眠を取った。熟睡していた海のスマホが鳴って、また母親の雪乃からだろうと思ったら、珍しく弟の陸からだった。

「どうだ、ドイッチュランドは?金髪のカワイ子ちゃんでも知り合いになったか?あっイケネ、まだハートブレイク中だったっけ?」

「バカ言うな!ちゃんとドイツがいかにして強固な経済基盤を築き上げ、発展・維持させているかを学びに来たんだぜ!」

「はい、わかったわかった。元気そうで良かったよ。」

「兄貴の方はどうだ?今年はやれそうか?」

「まあオレの方は、まず決勝に残ることが目標だからな。」

「ネットから応援してるよ!」

陸とは年子で、小さい頃から何をするのも一緒だった。どこへ行くのも海の後を着いてきた。たまに意地悪して、木の影に隠れたりすると、地球の終わりのようにビエンビエン泣いた。そんな陸が、自分からドイツに留学したいと言い出した。

兄貴風吹かせていたが、案外弟の方が芯が強いのかもしれないと海は思った。性格も顔もあまり似てないが、アルコールが好きなところだけ似ていた、親父は一滴も飲めないというのに。


 服を着て、夕食に行こうとピロの部屋のドアを叩いた。ピロはいつになく静かで、考えごとをしているようだった。すっかり顔馴染みになった地元のレストランのいつもの席に着いた。海はいつもの”Bali Hai“というインドネシアのビールを頼んだ。”Bali Hai”は「南太平洋」というミュージカル映画の中の有名な曲で、海もミュージカル好きの母のDVDコレクションの中にあって、何度か見させられたのでそのメロディーは覚えている。

 オーストラリア人ウェイターのランディが緑色のよく冷えたビンの栓を開けたまま持ってきて、テーブルの上に揚げ塩ピーナッツと一緒にドンと置いた。黄金色の液体が喉を通り荒い泡が唇につく、軽い飲み心地だが穀物の香りが鼻に抜けて美味い。また、この揚げ塩ピーナッツがビールによく合う。つかさず2本目とピーナッツを注文した。料理も定番のサテリリット(肉の串焼き)とナシアヤム(焼き飯)を頼んだ。これもまた辛くて、ビールが進む。

ピロもいつもより飲むペースが速く、食事が終わるころにはトイレに行く足取りも怪しくなってきた。会計を済ませ、水を一杯口に含んだとき、ピロが急に真顔になって言った。

「海、オレこの大会で優勝する!絶対優勝してやる!優勝して、イルウに結婚を申し込む!」

海はあまりに突然過ぎて、あっけに取られた。

「プトゥのことは関係ねえ、償いとか憐れみなんかじゃない。オレはイルウが心の底から好きなんだ!ワヤンやカデックを愛してるんだ!」

海は肩を震わせて泣いている男の肩を抱きしめた。

ピロのこういうところが、大好きなんだ。

 

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