潮風に逢いに〜ワイルドサイドを歩け〜
降布 麻浪(ふりふ まろう)
第1話 Aprilwetter(アプリルベッター)
スキポール空港に近づくと、飛行機は少しづつ高度を下げ、小さな窓からは色とりどりの春の大地が眼下に広がるのが見えた。
陸は読んでいた本を閉じ、黒い帆布のバッグの中にしまって、着陸の機内アナウンスを待った。まもなく英語、オランダ語、ドイツ語の機内アナウンスが流れて、KLM機は着陸態勢にはいった。機内は日本からの長旅で疲れたような気だるさと、もうすぐこの狭いハコの中から解放されるというささやかな期待感が混じり合った空気が包んでいた。
飛行機が左右に小刻みに揺れながら思ったよりも小さな衝撃で着陸すると、大柄なオランダ人CAの女性と長身の金髪男性がテキパキと2人にはいささか狭い通路を行き来して、ハッチを開けて前方の乗客からタラップを降りるよう案内してくれた。
陸は初めてヨーロッパの大地に降り立った。
オランダの空は快晴で、午後の日差しは暖かく、空気は爽快だった。空の色が東京とは違い、ブルーの色が濃くはないのに奥行きを感じる澄んだ空だった。
バスで到着ゲートへ行き、フランクフルトへのトランジットの時間を確認した。
空港内は人種の坩堝で北欧系、アフリカ系、ラテン系、アジア系の人々がオリンピックか万博か国際会議の時のように、多言語の騒めきと人波でひしめきあっていた。フランクフルトへの乗り継ぎ時間まで2時間弱あったので、ホールの脇にある楕円形状のカウンターに椅子が並んでいるバーでビールを頼んだ。
「One glass of beer, Please(ハイネケンを一杯くだい。)」
長い黒髪を後ろでまとめたスペイン人のような大きい黒目の小柄なウェートレスが立ち止まり、
「Yes, Soon! (はい、すぐにお持ちします。) Sorry, How old are you? May I check your passport?(ところで、年齢はおいくつですか?よろしければ、パスポートを拝見できますか?)」
陸はバッグからパスポートを取り出し、写真のページを開いて見せた。
「Oh, so sorry. Asian people are always look so young than their actual age! (これは失礼しました、アジアの方はお若く見えるので。)」とウィンクをして、カウンターの中に入り、サーバーにビールを作りに行った。
「Here you are.(さあ、どうぞ。)」
細長いピルスナーグラスに薄い金の液体と上部の細かな泡、グラスの表面が少しだけ汗をかいて、「ハイネケン」と印刷された丸い紙皿の上に置かれたと同時に喉が鳴り、鼻の下に泡がつくのもお構いなしに一気にグラス半分ほど喉に流し込んだ。
美味い、日本みたいにキンキンに冷えていないことで、より味わい深く、ホップの苦味も爽やかな後味を残していく。
葉月陸は去年の冬、大学1年生の夏からつき合っていた女の子と別れた。陸の小さな過ちが原因で、彼女の大切にしていた気持ちの一部を傷つけてしまった。
自分のしてしまったことを自分の部屋のベッドに寝転んで、天井に貼られたアイマール(アルゼンチンのサッカー選手)のポスターを眺めて考えても、自分自身に腹を立て、同時に世界にたった一人残されたような不安が襲ってきた。古い映画の『猿の惑星』でチャールストン・ヘストンが演じた宇宙飛行士の気持ちが少しだけわかる気がした。
ずっと同じだと信じてた道が2つに分かれ、もう二度と交わることない、彼女は永遠に少しだけ知っている人になってしまった。陸は取り乱している自分に驚いた。彼女の声、仕草、笑み、すべてが今でも輝いて愛しかった。彼女のためなら、たぶん死んでもかまわないとさえ思っていた。
家への帰り道、金木犀(キンモクセイ)の香りにふと気づいた。しかし、近くにはそんな木は見当たらなかった。思えば、ずっと通り過ぎてからその香りに気づくことが多い気がする。失った恋が、彼女のことが、また津波のように陸の心に押し寄せてきた。
魂を抜かれた人形のように生きていたとき、大学の掲示板に留学の最終期限の張り紙が目に入った。突き動かされるように、資料を集め、担当職員に相談し、提出書類を準備して両親を説得した。
商社に勤めていた父は、将来のことを考えアメリカかカナダの大学を勧めたが、陸はドイツのハイデルベルク大学に決めた。自分にはビジネスライクなアメリカではなく、歴史があり他の国とも地続きのヨーロッパが合ってると思ったのだった。
一つ上の兄貴はバリで開かれてるサーフィンの大会(彼はプロテストに合格し、国内大会でも複数回入賞していたから、スポンサーも5社以上ついていた)に出かけていたので、メールで後から連絡した。すぐに折り返しの電話が来た。
「まあ、いいんじゃね。陸が決めたことだから、反対したって変わんねーだろ。親父はブツクサ言うだろうけど、オレからもフォロー入れとくわ。」
「それから、遼にも知らせてやれよ。アイツ、最近メールしても、オマエがろくに返信して来ないって言ってたぞ。」
「わかった、連絡しておくよ。」
遼とは、幼稚園からの幼馴染で、中学まで同じ学校、同じサッカークラブチームに通っていた。先祖代々からこの辺りの大地主、岩淵家の一人息子だ。兄貴の海と同じ学年だったが、大町(鎌倉)の人妻に入れ上げて、受験に失敗してしまい、激怒した親父にその人妻と別れさせられて、1年後に三田の大学に入学したので、今では陸と同学年になっていた。
「何だよ、陸。オレを1人置いていくのか?慰めに、アナウンサー志望の可愛い女の子、紹介しようと思ってたのに。」
「夏にはゼッテー遊びに行くから、オレ好みのファビュラス用意しとけよ。絶対だぞ!」
「わかった、わかった、そんときは待ってるよ。」
フランクフルトはドイツ経済・金融の中心地で、ミュンヘンやベルリンほどの大都会ではないが国際見本市のメッセなどが開かれ、マイン川沿岸日本画そびえ立つ近代的なビル群はマンハッタンならぬ、マインハッタンと呼ばれている。フランクフルト国際空港も近代的な造りで、清潔で無駄のないいかにもドイツらしい建物だった。
陸は初めてのヨーロッパということもあり、今日はフランクフルトのホテルで一泊して、明日の朝ハイデルベルクへ行くことにした。空港からはSバーンで市街に行き、ホテルは旧市街のレーマー広場近くに予約した。陸は長旅の疲れも忘れて、目にするもの触れるものにワクワクしていた。ホテルでチェックインを済ませて、部屋に入るとスーツケースとバッグをベッドの上に投げ出し、母親と兄貴に無事着いたことを知らせるメールを眼下の広場と街並みの画像を添付して送った。それからシャワーを浴び服を着替えて、はやる心を抑えて中世の街に飛び出した。
レーマー広場はその名の通りローマ時代に作られた周囲をほぼ同じ高さの石と木で造られた家にこ込まれた円形の広場で、中央に噴水と正義の女神像が象徴的な美しい広場だった。
観光地によくある絵葉書や観光スポットのカードが並べられたスーベニアショップがあり、広場の奥にテーブルが整然と並べられ、ビアグラスがデザインされた金属製の看板がついた、生ビールサーバーのあるオープンテラスの店が目に入った。まだ午後4時過ぎだと言うのにテラス席は客でいっぱいだった。運良く端寄りの眺めの良い席が空いたので、陸はそこに腰を下ろした。
すぐに白いひだのついたブラウスに、膝丈の黒いスカートに絞った腰に2つポケット付のエプロンをした赤いショートカットのウェートレスがメニューを持ってきた。
ドリンクメニューの中に知っているブランドがあった。“Veltins (フェルティンス)、ブンデスリーガのクラブ“Schalke 04(シャルケ ヌルフィーア)、かつて陸がサッカーをやっていた頃のLSBポジションに元Jリーグ鹿島の内田篤人がいたチームのメインスポンサーだ。堅実なディフェンスと果敢な攻撃参加とスピード、陸は試合になるといつも内田選手のプレーをイメージして試合に臨んだ。もちろんイメージ通りにプレーできたのは、ほんの2、3回だけだった。注文は迷わずVeltinsのPilsnerに決めた。
「What would you like to drink? (何をお飲みになりますか?)」キレイな発音の流暢な英語だった。陸はメニューを指差して上手じゃないドイツ語でビールを注文してみた。
「Ich hätte gerne ein Glas these Pilsner Bier.(このピルスナービールを1杯お願いしたいのですが。)」
「Ja, danke schön.(はい、かしこまりました。)」今度は、ドイツ語で答えてくれた。
店の奥からは親父がよく聞いていた80年代のロックがBGM的にかかっていた。確かブライアン・アダムスとか、エアロスミスとかだったと思う。親父がいたら、曲の蘊蓄と学生の時はああだったとか、昔は将来を疑うことなんかなくて良かったとか語ったに違いない。
ビールサーバーの置いてあるカウンターにも常連客とおぼし客が5名ほど並んでいた。先程のウェートレスが注文をカウンターの中にいるカイゼル髭を蓄えた金髪の男に伝え、常連客と冗談を言っているのか、こちらを振り返り大声で笑っていた。そして、その中の1番サーバー寄りに座っていた白いスーツに白いシャツの痩せた男が、陸にウィンクをした、いや確かしたように見えた。
すぐに例の赤毛のウェートレスがビールグラスを片手に持ってきて、細い人差し指と中指に挟んだ角を丸くした紙の皿(後で知ったが、そのグラスの下敷きを“Decken(デッケン)“というらしい。)を慣れた手つきでスゥーと差し出し、その上にグラスを置いた。
「So, Bitte schön!(さあ、どうぞ!)」その夏の夕陽のような色をした液体を、陸はグイッと1口飲んでみた。日本で飲んでたビールとはまるで別物、フルーティでほのかな苦味、なのに後味がスッキリしている。「うまい!」思わず胸の中で叫んでいた。残りを味わうように飲み干し、手を上げてウェートレスを呼び、空のグラスを指差してお代わりを注文した。機内食を詰め込まれたおかげでお腹は空いていなかったが、ついでに隣のカップルが食べていたビスタチオも指差して頼んだ。
2杯目のビールが運ばれてきて、広場を行き交う人達を何となく眺めていると母親の雪乃からメールが入っていた。ちゃんと毎日連絡しなさいとか、ドイツは寒いから風邪ひかないようにとか、ソーセージとポテトばかりじゃなくちゃんと栄養のあるもの食べなさいとか、落ちついたら学生時代の友人の家に挨拶に行くようにとか、とにかくいつもの長いメールだからサッと流し読みした。
外が少し暗くなってきて、肌寒くなってきた。陸はホテルから、海のお古のホリスターのグレーのパーカーとユニクロのジーンズにネービーのニューバランスの996という逗子の自宅にいた頃と同じような恰好で飛び出してきたので、トイレに行きたくなってきた。赤毛のウェートレスを探したが4、5名で入ってきた中国人の接客で忙しそうだったので、席を立って店の奥まで行き、カウンターのカイゼル髭に尋ねた。
「Where is the restroom?(トイレはどこですか?)」カイゼル髭はグラスを洗っていたので、アゴでカウンターの反対側斜め奥の地下へ降りていく階段の方を指した。陸はうなずいてお礼して、階段を降りた。
タバコと避妊具を売ってる横長の自動販売機の奥「Herrn (紳士)」と書かれた年季に入った重い扉を開け用を足していると、カウンターに座っていた白いスーツの男がオペラ蝶々夫人のアリアの一節をイタリア語で歌いながら入ってきた。何故それがオペラ蝶々夫人だとわかったかというと、音楽大学出身の母が海と陸がまだ小さい頃から1人の時、リビングでよく聴いていたから、内容はよく知らないがその旋律は覚えていた。
トイレには2人の他に誰もいなかったが、白スーツは陸の隣の便器に並んで、陸の方を向いてニコリと笑った、歯並びはキレイだったがスーツほど白くはなかった。そして、おもむろに陸の尻を撫でた。
「Süßer Junge, Spielst du mit?(カワイイ子、遊ばない?)」
陸は何が起こったかわからなかったが、危険なことは察知して、内田篤人ばりの速さで逃げ出した。おかげで最後の階段につまずいて、前に一回転して頭をカウンターのストゥールに思いきりぶつけてしまった。
「イテーッ!」思わず日本語で、叫んだ。
「アンタ、日本人?」赤い髪のウェートレスが目の前にいた。
「ちょっとダサいから中国人かと思ったけど、ホリスターにパーカー着てるし、やっぱ日本人だったか!」
後ろを振り向くと、白スーツの男がニヤニヤ笑っていた。
「Shone wieder! Peter! ( また、アンタやったね!ペーター!)」赤髪は白スーツをにらんで、声を荒げた。白スーツは悪びれもせずカウンターの席に戻ると、何もなかったかのように隣の常連客と話しはじめた。
「ドイツだけじゃなくヨーロッパには、ああいうヤツらがいっぱいいるから気をつけな!」そう言って、手を上げていたテラス客のテーブルへ行ってしまった。遅ればせながら今になって、赤髪の彼女が日本語を話したことに気づいた。
席に戻ると、外はいつしか雨が降っていた。辺りも暗くなり、小塔や広場を囲んでいる建物に灯りがともり石畳に反射して、とてもキレイだった。
残ったビールに口をつけながら、何故か笑っている自分に気づいた。この前笑ったのはいつだったろうか?陸は異国のちょっとした出来事に、何が起こるかわからない明日に自分が胸震わせていることに気づかされた。
陸は最後にフランクフルトの名産と言われる”Äpfel Wein (りんご酒)“を頼んだ。ドイツらしい肉厚のワイングラスに注がれた琥珀色の飲み物に口をつけた。リンゴの酸味とほのかな甘味、それと生のリンゴを皮のまま齧った時の一瞬の香りがグラスから立ち上がった。
外の雨は本降りになっていた。そろそろホテルに帰る頃合いだった。
「Zahlen Sie bitte!(お会計お願いします!)
運ばれたレシートの金額に1ユーロ足したお金を置いて席を立った。
「Dankeschön!(ありがとうございます。)」
傍らに赤髪のウェートレスが立って、外の雨に一瞬足を止めた陸に日本語で、
「これぐらいの雨、ドイツ人はほとんど傘をささないわ。ワタシの家なんて、マミーくらいしか傘持ってないもん。それにこの雨、“Aprilwetter(4月の天気)”って言って、コロコロ変わる気まぐれな天気のショーチョーみたいなもんね!」
そう言って、雨の中へ陸の背中をポンと押した。
雨の中に投げ出された陸は、パーカーのフードに手をかけたがすぐに思い直して、ドイツ人風にそのまま歩き出し、広場の中央近くにきたところで、両手を広げ雨の落ちてくる先を見上げた。辺りでは光の石畳の上を、雨粒がダンスしていた。
陸は泣いていたのかもしれない、頬を流れる雨だけが少しだけ温かく感じた。ただ大粒の雨がモヤモヤしていた気持ちまでも洗い流してくれた。
さっきまでいたオープンテラスの店の方を振り返ると、赤髪の彼女が子供みたいに大きく手を振っていた。降りしきる雨で霞んでよく見えなかったが、陸には何故か彼女が微笑んでいるのがわかった。
Aprilwetter、気まぐれな雨に違いはなかったが、この雨は陸を優しく包んでくれた。
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