シガナイロンド

悟房 勢

第1話


 実はコップ三、四杯、ビールを飲んでいた。名古屋の港区で客に会い、見積もりを出し、昼食を共にした時にである。酌に専念していると相手もビンを取ってくれて、そのビンの口を三、四度、僕の方に向けてきた。


 僕は断らなかった。地元に帰れば会社までは社用車だった。運転するのはまずかったが、それを除いてすべての移動は電車であったから、アルコールをますには十分時間があると思えた。名古屋駅からは特急で、リクライニングを命一杯押し倒し、隣がいないのをいいことに悠々と寝入った。


 車内アナウンスで目が覚めた。会社の最寄りの駅の一つ手前だったが上出来だ。特急券には到着時刻が記載されている。それに合わせて一応、スマホが震えるようにアラームは設定してあった。もしもの保険だったので、使わないに越したことはない。


 時間は午後三時を過ぎていた。直帰することも考えたが、金曜日だったから、帰るかどうかは明日による。久しぶりに土曜を休めそうだった。一方で、忙しい同僚に遠慮する気持ちもある。日曜日は、絶対に外せない予定が入っているから当然休むとして、明日を出勤にするのなら、直帰。休みにするのなら、今日のところは一旦会社に戻ろう、と僕はそのどちらかで迷っていた。


 ホームの突端に喫煙ルームがあった。電車を降り、酔い覚ましのダメ押しと言っちゃぁなんだが缶コーヒーを片手に禁煙ルームに入り、タバコをふかした。その頃にはもう会社に帰ることを決めていてタバコをもみ消すと、喫煙ルームを出てすぐそこのゴミ箱に缶を捨て、足早にホームを進んだ。


 駅は混み合っていなかった。人はまばらで、一人一人数えようと思えば数えられそうだった。一応、ここは特急が止まる駅なのだが、全ての特急が止まる訳でもない。当然、にぎわいは名古屋駅と比べるべくもない。


 目立つのは学生らだった。高校生から小学生までが各々のグループで固まっていた。僕の行く手には小学生四人のグループがいた。


 黒いブレザーに半ズボン。男の子たちがコツキ合っていてキャーキァーと声を挙げていた。僕は、こっちに来んなよと思いつつ、道筋を少し迂回させた。


 通り過ぎて間もなく、背中から悲鳴が聞こえた。先ほどまでとは明らかに様子が違う。足が勝手に止まった。耳に飛び込んで来たのは、エキセントリックに叫ぶ声。そして、あまり聞き取れなかったが、おそらくは誰かの名前と『助けてー』である。


 振り返った。およそ距離にして五、六メートル。男の子が一人、ホームから落ちていた。もぞもぞと体を動かしており、よく見ると、その子は砂利の上でレールに手を付き、立ち上がろうとしている。一方で、ホームの三人はパニック状態で、泣いているのもいれば叫んでいる者もいる。彼らはそのまま点字ブロックの線路側にいて、そこから離れるわけでもなく、ホームの下に手を伸ばすわけでもない。


 見渡せば、ほとんどが学生だった。大人はざっと二十人ほどか。私服の女性が多く、スーツを着ている男性は五、六人。そのうち二人はホームのずっと向こうの方、先ほど僕と一緒に喫煙ルームにいた男たちだった。


 どこにでもある駅である。屋根に張り付くどの蛍光灯もいつ取り替えたのか分からないくらい煤か埃で黒ずんでいた。八人掛けのベンチはというと、設置された時は虹のようにカラフルだったのであろうが、今は風雨にさらされて、くたびれた駅に同化している。


 非常停止ボタンがどこかにあるはずだった。だが、誰もが動けないでいた。どの影法師も夕暮れに近いせいか、ホームに長くその姿を伸ばしていた。


 子供はまだ立てないでいた。どう見ても自力での退避は難しそうだった。線路の向こうは鉄柵があり、その向こうは道である。田舎で、しかもそこは駅の裏道だった。滅多に車は通らないようで、しかもその鉄柵には大きな看板がホームに沿って張り付けてある。塗料が色あせているだけでなく、端から浸食が進み、留め金も腐っているのか、鉄柵から浮いている物もいくつかあった。


 大都会であるはずの原宿駅を考えると、どっちが田舎なのか分からない。あっちは、ホームの向こうに森がせり出してきている。危ないとなれば森に駆け込めが良いのであろうが、こっちは全く聞き覚えがない企業や飲食店の看板に行く手を阻まれている。


 いや、待てよ。確か原宿駅の森側にもホームがあったはずだった。そこは、一般人は降りられず皇族の方以外は使えないと聞いた。と、まぁなぜか、全く関係ないことに思いを巡らせていたわけだが、ホームに流れるチャイム音に僕はハッと我に返った。放送は自動のようで駅員はおらず、内容は接近放送で列車の通過を知らせていた。


「くそ!」


 カバンを投げ捨てていた。気が付けばホームに降りていて、男の子を抱きかかえていた。背が高いのが幸いしたと思う。すぐに男の子をホームに上げることが出来た。後は自分自身がホームに上がるだけ。


 ところが、上手くいかない。ホームの下には非難スペースがあった。足が掛からない。それは、脚立なしで家の軒に上がるようなもので、泥棒とかプロでないとスムーズにはいかない。


 それでもなんとか、上半身だけはホームの上に預けはした。が、案の定そこからがなかなかじゃない。匍匐前進(ほふくぜんしん)の要領で、ホームに足を掛けられるところまで行かなければならない。


 これは足を失うな。一瞬、いや、冷静に自分が置かれた状況を判断していた。気が付けば轟音、突風。そして目の前に、四十代のサラリーマンの親父と、旅行に行こうかとする同年代の若者。


 僕は助けられたようだった。間一髪、彼らに引っ張り上げられたところで、名古屋行き特急が通り過ぎて行ったというわけだ。


 僕は一息吐き出すと立ち上がり、スーツの埃を払った。そして、助けてくれた若者に固く握手をし、ハグした。おっさんにも同じことをした。ありがとうとは言えなかった。言葉が詰まってしまって全く出て来なかった。だが、気持ちは十分伝わったと思う。相手も、強くハグをし返してくれた。


 僕は、投げたカバンを拾い、ホームの階段に向かった。この駅の階段は地下に潜って線路を横断するタイプの駅ではなく、電車を上から見下ろすタイプの駅であった。階段の手前で女性が立っていた。僕を阻むように立っていたのであれっと思った。


 目が合って、女性は視線を下げた。僕はその視線を追って自分の足元を見た。片方の足に靴がなかった。女性が黒い何かを差し出した。まさかとは思ったが、それはまさしく革靴であった。思わず僕は、ぼくの? と自分を指差していた。


 とはいえ、どう考えても僕のである。上手くやれた自尊心と無謀なことをした自責の念とが頭の中でごっちゃになって、素直になれなかったんだと思う。女性は無言でうなずいていた。照れくさいというか、恥ずかしいというか、僕が造った笑顔は微妙だったと思う。


「ありがとう」


 しかし、ホントに間一髪だったんだ。片方の足が、列車とかすっていた。手渡された靴を履き、階段を上がった。五、六段ステップを踏んだところで助かった実感が湧いたのか僕は、子供たちがどうなったか気になった。間違いなく助けられた、はず。


 振り返るとホームの一か所に人が集まっていた。どこから来たのか駅員も大勢いる。子供たちの泣き声と「大丈夫」との大人らの声。黒山の人だかりの中心に黒いブレザーの子供たちが、しっかりと四人いた。


 階段を上がった僕は、改札を出ると隣接した市営の立体駐車場に向かった。騒ぎがあったのが嘘のようである。違う世界に来たような気もする。おばちゃんやおっさん、夢中に会話する若い女の子ら、うつむき加減に歩くサラリーマン。タクシーは、まるで自動拳銃の玉のように次から次へと発車し、どんどんと充填されていく。


 立体駐車場のエレベーターの前には喫煙ルームがあった。いつもはそこで一服をし、エレベーターに乗り、車へと向かう。社用車は禁煙なのだ。だが、今日は素通りした。車で吸ってやると思っていた。気持ちが大きくなったなのか、馬鹿になったのか。


 おそらくは馬鹿になっていたのだろう。この精神状態だ。普通なら、気持ちを落ち着けさせるために家に引きこもるのだろう。直帰し、土曜も日曜も休むところだったが、気が付けば会社だった。


 二階の事務所には誰も居なかった。『一人一人が経営者』をモットーとする会社である。自分で仕事を取ってきてそれを自分でやる。電気工事屋で基本、サブコンの下請け。たまに病院とかのメンテを直請じかうけする。


 誰かしら図面を引いている者も居そうなものだったが、今日に限っては誰も居なかった。部長は金曜日だから接待だろう。この時間には居ないのは分かっている。いずれにしても僕はというと、喋る相手もいないし、当然やる気も出ない。


 清算だけでもやっておこうかと暇つぶしに清算書を書き、今日の電車代、昼食代、駐車場代の領収書を束ね、一階の総務に持って行った。


「ちょっと待ってね」


 中小企業である。総務と言ってもおっさんと女性二人の合計三人で、清算はその女性の内、高校出たて若い子がやっていた。彼女は南奈々という。忙しいのだろうか、パソコンのモニターから目を離さない。


「そこに置いておいて」


 どこにでもあるようで、無い名前。言っちゃぁ悪いが、ゴロから言ってまるでAV女優のような名前だ。実際、スタイルは抜群で特に胸がでかい。背は低く、顔は童顔でジャンル分けすればロリボインのカテゴリーに入るのだろう。当然おっさんらに大人気である。


 とはいえ実は、彼女は僕の彼女である。いや、それはどうかな。ラインしても返って来ないこともあるし、喋りかけてもこの通り、いつもつっけんどん。


 ツンデレっていうのがあるが、彼女に限ってはそうではない。会社だからわざとそうしているのだろうと思ったりもしたものだが、それを言うなら彼女はというと、おっさんら相手にはキャピキャピと振る舞う。


 逆に言えば、僕への対応こそ特別だった。会社であろうとなんであろうと、僕に対しての彼女の姿勢は終始一貫していた。こちらの精神状態によってはキツい時もあるのが、おおむね僕としては、その姿勢と彼女の見た目とのギャップがたまらなかった。


 ま、それはいい。彼女の冷たさに打ちひしがれ、一階からおずおずと帰って来ると僕は、やることもなく今日請けて来た港区の仕様書を眺めていた。どれぐらい経ったか、南奈々が後ろに立っていた。僕と目が合ったかと思うと彼女は一歩踏み出し、僕の机に「これっ」と言ってドンッと手を付いた。その指には僕の清算書が挟まれていた。


「間違いだらけ。足し算も出来ないの?」


 確かに、あっちこっちに二重線が引かれている。


「訂正印、押して」


「あ、はい」


 彼女が立つ側の反対にある引き出しから三文判を手に取った。そして印を押そうと椅子を回転させた。するとそこに彼女の顔、そしてブラウスの襟元からは彼女の谷間。さっきPCに向かっていた時、かっかしていた。おそらくは、それで熱くなったのか、胸苦しくなったのか、一番上のボタンを外したに違いない。ぞくっとし、僕は思わず言ってしまった。


「あのさぁ、今日、飯行かない?」


 さっきは駅で命拾いした。やはり馬鹿になっていたのだろう。僕は、目の前にあるおっぱいを揉みしだきたいという欲望に駆られてしまっていた。


「訂正印」


 当然、冷たい答えが返って来た。身を起こした南奈々は、腕を組んで僕を見下ろした。僕はというと、机に残された清算書に視線を戻し、言われた通り上から順に訂正印を押していき、お手数かけました的なこびへつらいの笑顔を見せ、彼女にそれを差し出した。


 組んでいた腕を解こうとはしない彼女は、清算書を指先だけで受け取った。まるで大きな荷物を抱え、手が離せないといった風である。


「今日は予定があるの。あんたは仕事でしょ」


 南奈々はそう言って、今度は封筒を差し出した。ちゃんと計算し、間違ってない金額がそこには入っているのだろう、僕はそれを受け取ると言った。


「だれと?」


「関係ないでしょ」


「社長か」


 社長は四十になったばかりだが、独身である。海外留学の経験もあって女性の扱いもけている、ように思える。偏見かもしれないが、少なくとも僕なんかよりは女性に対して物怖ものおじしない。それに金を持っている。


 彼のタチが悪いのは、先代の社長が株を握ったままだということだ。肩身の狭い想いをしているのではなかろうかと普通なら思うのであるが、社長本人はその方がいいみたいだ。責任はないし、まったくの自由人だ。時間に拘束されず、仕事も総務の親父だけを手なずけていたらなんとかなると思っている節がある。


 それでも、先代に「結婚しろ、早く孫を見せろ」と口酸っぱく言われているらしい。遊び人の彼には耳が痛そうだが、南奈々に取って見れば絶好のチャンスなのかもしれない。事実、社長に言い寄られていると聞いた。もしかしたら、ということがあるかもしれない。と、いうわけで社員は危なくて誰も南奈々には手を出さない、ここにいるこの馬鹿を除いては。


 南奈々は言った。


「誰と予定か、気になる?」


「まぁな」


 ふふっと南奈々が笑った。


「一階のメンバーで飲み会」


 社長室は一階にある。まぁ、仕方ないかと思った。






 朝は八時に起きて菓子パンを食べ、コーヒーを飲んだ。1DKに一人住まいで、ほとんど合成皮革のソファーで寝起きしている。場所を取りたくなかったので二人掛けのこぢんまりとしたソファーにしようかと迷ったが、三人掛けの家族向けにして正解だった。二人掛けでは背が高いので横になったらまず足が出てしまう。


 そもそも居間の和室で寝ればいいのだが、プラスチックの衣装ケースが壁に沿って積まれていて、ほとんど物置状態だった。布団を引くスペースはあるにはある。押し入れから布団を引き出し、座敷の真ん中に布団を引く。見渡せば衣装ケース、そして天井の真ん中に丸い照明器具。さぁ寝ようかとなって、布団の中からリモコンで明かりを消す。


 ボタン一つで、その日一日が終わる。それはリビングにいても変わりがないことだが、リビングでなら深い眠りに落ちていたとしても、世界のどこかで何かが起こっていると実感できる。PCには絶えず情報が入ってきているだろうし、TVだって放送局と繋がっている。


 そもそも三人掛けのソファーは居心地がよく、ソファーの方も僕を離さそうとはしない。甘い誘惑を絶えず仕掛けてくる可愛い一品だったのだが、それにもましてテーブルである。一番のお気に入りと言っても過言ではない。僕は背が高いので、テーブルが低いと飯が食いづらい。ソファーで寝起きすることは考えてもみなかったが、ソファーで食事をすることは想定していた。探し当てたのは、ソファー用のテーブルではない。古道具屋で見付けたアンティークの机だった。


 板は厚く、重厚感があり、中途半端にデカく、引き出しがついている。高さも中途半端で、元の持ち主がどこにどうやって使っていたんだと思わせる代物だった。ソファーに合わないどころか、個性のない1DKの部屋では浮いて見える。けど、アクセントというか、そこがなんとも味があるように思えた。


 基本、リビングには何も置かない主義だった。置いてあるのはほとんど趣味のもの。CDやらDVD、雑誌や文庫本。本棚にきれいに並べ、床には物を置かない。部屋は本棚、TV台と本体といった最小限にとどめ、PCはノート型で机というか、テーブルのすみに置いておく。大抵はスマホで用が足りるのでそれこそ使う時になったら、よっこらせと自分の前に設置する。


 どうも僕は、フローリングが見えないと落ち着かないようだった。絨毯はテーブルの下だけ。結構な頻度でクイックルワイパーを床に走らせている、と思う。


 ニュースやワイドショーを流しっぱなしで、十時過ぎ頃から洗濯を始めた。明日は外せない予定がある。待ちに待った市橋叶いちはしかな主演の映画、『衛星と恋するお月様』の公開初日なのだ。少女漫画が原作で、嬉しいことに話題性もばっちりだ。


 といっても、市橋叶が主演なのだ。話題にならないのがおかしいのだが、それでも彼女は宣伝のためにTVやラジオに出演していた。僕はそのチェックはもちろんのこと、『衛星と恋するお月様』公式HPのメディア情報に記載されている雑誌や新聞も手に入れていた。


 当然、ツイッターはフォローしているし、ファンクラブにも入っている。プレミア試写会は一か月ほど前に終わっているのだがそっちの方は行く気にはなれなかった。実物を見るのは僕にとっては色んな意味で刺激的過ぎた。


 自他共に認める市橋叶ファンだった。なのに昨日のことを考えると僕は尚更、なんて馬鹿だったんだと思わざるを得ない。もしかしたら市橋叶の最新作を逃すことになっていたのかもしれない。いや、それどころかTVのCMで市橋叶を見ることすら叶わなかっただろう。


 公開初日が明日とあって、どうも緊張しているようだった。映画館にいっぱい人が入るのだろうか、半分にも満たなかったらどうしようか。市橋叶のこれまでの三作はどれも成功だった。彼女にはたくさんの映画に出てほしい。


 昼はカップ焼きそばを、バターを塗った食パンで挟んでほおばり、合間合間にクノールのスープをすすった。それから昼寝をし、三時ごろに起きてベランダから洗濯物を部屋に入れ、それからコーヒーをちょいちょい口に含みながら『衛星と恋するお月様』の漫画を読んだ。


 映画はというと、多羅尾俊治が監督を務めていた。彼はヒットメーカーだ。原作を超えてくれることを願いつつ漫画を本棚に戻し、今度は市橋叶の雑誌記事をチェックし直す。ふと、時間を見れば六時を過ぎていた。恒例の前夜祭だとばかり僕は、家を出て一人居酒屋へと向かった。






 結論から言うと『衛星と恋するお月様』は、すっげー面白かった。観客もいっぱいだったし、その観客も面白いところは笑い、見終わった後は泣いていたようだった。薄暗い中でも目が慣れていたから分かる。気になって、ちょくちょく周りを見渡していた。


 漫画が原作だとよくクレームが出るというが、おそらくは、出ないだろう。いや、むしろ原作を超えていたと言っても過言ではない。さすがは多羅尾俊治だ。それに市橋叶。やっぱ彼女は綺麗だし、べっかく過ぎる。


 昨日はというと、キャバクラで大はしゃぎして、ぐてんぐてんに酔って帰って来ていた。いつもなら、グースカ馬鹿みたいに寝入るはずだったが、市橋叶の公開初日が明日とあって、寝られなかった。


 とはいえ、それはいつものこと。織り込み済みだ。ちょっとした時差ぼけ感覚で九時に家を出、ショッピングモールに併設された映画館に行き、十二時十分で席を予約した。それからはドキドキだったが、映画を観終わって安堵した。


 映画の興奮そのままに、僕は車を走らせ、海へと向かった。海が見える公園という名の公園に着くと駐車場に車を止め、一人ふらついた。夜までは時間があった。映画の成功に祝杯を上げなければならない。しかし、素晴らしい映画であった。それにラストの彼女の笑顔は忘れられない。確かに、彼女の笑顔は印象に残る。


 カモメが何匹も、悠々と低い位置を飛んでいた。プードルを散歩させているお姉さんは足取りが軽そうだった。スタスタと僕を追い越していく。デニムの、形を隠さないプリプリおケツを眺めながら僕は、ベンチに腰を下ろすと思いを巡らせた。


 市橋叶はギター奏者を探していた。高校生活の最後を記念すべき年にしたかったんだ。歌手志望の彼女は学祭のライブを派手に盛り上げてこれまでにないものにしたかった。用意周到に、二年生の時からその準備に取り掛かっていた。


 まるで『七人の侍』のようなメンバー集めだった。あっちこっちと奔走し、これだと思った人物を勧誘する。だが、相手はすでにバンドを組んでいたり、噂倒れだったりした。それでもベースとドラムは探し出せた。ちょっと変わった連中だったが仕方なかろう。どこにも属せなかった者たちである。それでも腕は確かだった。


 とはいえ、肝心なギター奏者が見つからなかった。更に幾つかのつてを頼ったが、やはり納得出来る人物はいない。それで彼女がとった行動は校庭で身を隠し、登校してくる生徒を一人ひとりチェックするというものだった。結果、これだと思ったのがギターも引いたことない素人、安藤飛鳥だった。


 ベースもドラムも自分の腕を誇っているだけに、素人の加入には納得がいかなかった。だが、市橋叶は押し切った。一年あるからいっぱしのギター弾きにすると啖呵たんかを切ったんだ。このバンドは市橋叶のバンドだった。彼女の歌声がなければ始まらない。ベースもドラムも半年後の審査会を条件に、しぶしぶ承諾するしかなかった。


 やると言ったからには当然、市橋叶はギターを弾け、安藤飛鳥はというとその市橋叶から直に教えを受けた。逆らって喧嘩することもあったが、やがてはいっぱしのギター弾きに変わっていく。そのころには、ベースもドラムも協力的となりバンドは一つになっていく。


 市橋叶と安藤飛鳥はいつもいっしょだった。二人の仲は噂されたが市橋叶は意に介さない。休み時間も放課後も、話題はずっとギターと音楽だった。学祭の前日も二人はいっしょだった。夕暮れ、河川敷の遊歩道を歩く二人。安藤飛鳥は、今まで聞けずじまいだった疑問をこの時初めて市橋叶に投げかける。


「なぜ、僕を選んだんだ」


 前を歩いていた市橋叶は振り返って笑顔を見せた。そしてこぶしを差し出すと「見て」と言った。腑に落ちない安藤飛鳥だったが、「もっと近くで」との市橋叶の誘いで頭を下げてそのこぶしを覗き見る。ぱっと手がひらかれる。何もなかった。


「なんだよ」と安藤飛鳥が言いかけたその瞬間、市橋叶がその言葉を遮るように安藤飛鳥に唇を合わせる。


 ライブは、言うまでもなく盛り上がった。伝説になったと言っても過言ではない。アンコールの嵐で、それに応えた市橋叶は一曲歌い上げるも、またもアンコール。それでも大丈夫、曲は用意してあった。だが、そこから更なるアンコールである。もう曲はなく、アドリブで何かやらなければならなかった。ベースとドラムの視線が安藤飛鳥に向かう。


 ギターを始めて一年やそこらの安藤飛鳥には荷が重いってものだ。すると突然、市橋叶が舞台の袖に下がる。そして愛用のアコースティックギターを片手に戻って来てマイクに向かって言った。


「みんな、アンコール有難う! わたしから一つ提案があるんだけど」


 会場は、彼女の言葉に聞き入った。彼女は続けた。


「いっしょに練習した仲間に、この場で私の感謝の気持ちを伝えたいんだけど、いいかな?」


 市橋叶がソロで歌うというのである。そのサプライズにバンドメンバーは歓喜し、会場は熱狂の渦である。


「じゃぁ、お言葉に甘えて」


 ギターを構えると会場は水を打ったようである。市橋叶が奏でたのは斉藤和義の『歌うたいのバラッド』であった。


 ギターの一音一音が、波紋のように広がっていく。詩の言葉一つ一つを、市橋叶はゆっくりと丁寧に、まるで小鳥を手のひらで包むように大切に、メロディーに乗せていく。


 彼女の想いが伝わって来る。どんな一年を過ごしたか、そこにどんな物語があったのか。そして、踏み出そうとする未来。市橋叶には、ずっとそばにいながら、どうしても伝えられない言葉があった。照れくさくって言えなかったのだろうけど、歌の中でなら言えた。映画の素敵なシーンを思い描きつつ、ずっとそばにいた人を胸の内に感じながら、メロディーに乗せその言葉を言う。


 市橋叶は、ギターのげんからそっと手を離した。バンドメンバーの誰もが泣いていた。安藤飛鳥なぞは尚更である。鼻水を垂らし、声を上げておいおいと泣いていた。会場の生徒たちも壇上の光景に感動し、言葉を詰まらせる者もいたし、泣く者もいた。もちろん、歓声は鳴り止まない。






 市橋叶いちはしかなの映画の成功に、僕は一人祝杯を挙げていた。居酒屋でちびりちびりやって時間を稼ぎ、キャバクラに繰り出す予定だった。すでに店の子にはラインを入れておいた。手っ取り早く同伴という手もあるのだが、今日は趣旨が違う。


 しかし、市橋叶はどんな男と付き合うというのだろうか。アナウンサーはスポーツ選手か芸人、女優は企業家か同業者が多いか。いずれにしても金持ち、そして権力者。僕は完全に持たざるものだった。ホッケに生ハムサラダ、オニオンリングに砂ずり。出世したって僕の場合は部長止まり。社長になんて成れるわけがない。


 自分で会社を立ち上げなければならないのか。いや、まさかね。


 とはいえ、僕だけじゃなく誰の人生にとってもこれは大事な命題だった。女を得るには金。金があってこそいい女を養える。金と女の二つの長い道は、たまには離れ、たまには交差して進んでいく。しかしそれはまさに、華やかな繁華街、大通りだ。僕の道は田んぼに走った農道で、真っ直ぐ南に走っているかと思いきや、日の沈む西に向かっている。


 道はビルとか建物などの目印もなく、緩やかにカーブをしているのも体感できず、出くわすのは十字路のみ。見通しが良いので信号が設置されていないが、実はそれが良くない。相手も気付いているだろうと互いに楽観視し、一旦停止せずに先に進む。田んぼの真ん中でよく衝突事故が起こるのはそのためだ。


 僕の行く手は、まさにそんな道だった。だが、悪くもない。じいさんがのんびりスーパーカブで走っているだろう。コンバインも堂々と渋滞を造っている。あれはあれでいいのではないだろうか。


 ふと、スマホの着信音に気が付いた。ラインを開いてみれば南奈々である。『どこにいるのか』だってよ。『いつものとこ』と返してやった。


 十五分ぐらいで、南奈々がやって来た。よくある田舎風を装った狭い店内を、「いらっしゃいませー」の声を無視して一直線に僕目掛け向かって来ている。何やらすごい剣幕で、前に座るや否や、「これ見てみろ」とスマホを突き出した。映像はユーチューブのものだった。


「なに考えてるの!」


 まさしく金曜日、駅で起こったことが克明に映し出されていた。しかも、見知らぬ女性に手渡された靴を、僕が履いて駅の階段を上り、振り返るところまでちゃんとあった。


 見終わると、「まだある」と南奈々がスマホを操作しだした。今度はツイッターだ。かっこいいってコメントもいっぱいある。どうやら金曜日のヒーローを、いや、馬鹿を、世間が探しているようだった。


「確かに、僕に似てるな、こいつ」


 僕は、とぼけて見せた。SNSに載ったっていうことは全国に広まっている恐れがある。それにしても、と思う。あの惨事でどうして動画が取れているのか、それが不思議だった。僕でさえ初めは身動きすら取れなかったのに、こいつは初めっから終わりまでちゃんと動画を回してやがる。


 ふつふつを怒りが沸いてきた。こいつ、新聞社とかテレビにこの映像を売るのだろうか。よく台風や地震でスマホの映像がニュースで映し出される。それに比べれば、映していたこいつは悪質だ。災害なら被害状況の情報提供という側面がある。この映像には何の意味を持たない。だだの金儲け映像だった。


 見つけ出してぶん殴ってやろうか。「映っていたのは僕です」と、名乗り出ればすぐにでも映像の持ち主が分かるというものだ。が、しかし、ここは泣き寝入り、知らぬ存ぜぬである。そんなことがあったのかぁ的な、涼しい顔をしておかなければならない。


 南奈々が言った。


「あんたさぁ、怪しいんだよね」


「何が?」


「今の今まで絶対に、あんたは二股かけているって思ってたけど、そうじゃないんだ」


「はぁ?」


「あんたさぁ、身を隠しているわけ? 人殺しとか何か、警察に追われているわけ? 名古屋にいたんでしょ、わざわざこんな田舎で就職したってぇのもねぇ」


 何を言い出すかと思えば。僕は思わず声を上げて笑ってしまった。


 南奈々は、ぶすーっとしている。自分としてはおかしいことを言っているつもりもないのに、いや、いたって真剣なのに、僕に笑われた、って顔だ。


 気持ちは分からなくもないが、わりぃなぁ。そう思いつつ話の流れを変えるつもりで僕は、客から客に飛び交っている店員に声を掛けた。


「すいませーん! 生中!」


 僕は常連だ。酒関係の注文は同じものが重なってない限り、何をおいても僕から先に持って来てくれる。店員はすぐにジョッキ片手にやって来た。礼を言いつつ、僕は手渡されたジョッキを南奈々に差し出した。


「飲めよ。で、金曜は楽しんだのか?」


「あの糞社長、胸に触りやがった」


 僕はまた笑ってしまった。南奈々は手に取ったジョッキを、喉を鳴らせて半分まで減らした。僕は言った。


「ほれ、好きなものを頼みな」


 僕の余裕っぷりが癪に障ったのか、南奈々にギロッと大きな目で睨まれた。よっぽどうっぷんがたまっているのだろう、南奈々はジョッキをグイっとあおって空っぽにした。


 ドンッとジョッキをテーブルに置き、目でお替りの催促。僕はというと、彼女の言う通りにした。


 「店員さーん、生中」と声を掛けると店員は、素早くジョッキを持って来てくれた。憂さ晴らしなのだろう、南奈々は僕に「何食べたい?」ぐらいのことを訊いてもいいのに、自分の食べたい物だけをこれ見よがしに注文し始めた。あれもこれもといっぱいオーダーする。ホントに食えるのか、こいつ。


「ところでさぁ、あんた、例によって映画行ったんでしょ。市橋叶いちはしかな


「行ったよ。良かったぁー。って、おまえ、もしかして、妬いてるのか?」


「んな、馬鹿な」


 南奈々が僕の食べかけの生ハムサラダに手を付けた。生ハムで葉っぱや大根をくるみ、大きく開けた口に放り込む。むしゃむしゃ咀嚼しつつ、言った。


「どこか遠くの男と魂だけが入れ替わって、その男の友達に市橋叶は恋をする。でもその男友達も、どこの誰かは分からないんだけど魂だけが入れ替わっていて、その実それはクラスメイトだったりする、みたいなややこしいやつ。二人は、いや、四人か、その関係も分からず元に戻ったり、入れ替わったりしつつ、事件や恋の問題を解決していくんだけど、映画はどうよ。わたしは漫画のファンなの。市橋叶はイメージ違うわぁ、漫画での糸崎あやめと」


「そうかぁ、僕は漫画も読んだけど役にハマってたと思うよ、市橋叶」


「市橋叶ならなんでもいいでしょ、飛鳥は」


 僕は笑顔を作っていても、笑っていなかった。実際、南奈々は間違っていない。映画の市橋叶は輝いていたし、ずっと昔、いっしょにバンドをやっていた時も綺麗だった。


 河川敷の、あのキス。僕はまだ、彼女の唇の感触を思い出すことがある。だが、それは遠い過去の話、終わったことだ。別にやましいことはないし、隠し立てする必要もなかったのだがやはり一番は、僕の気持ちだった。


 なんて言ったらいいのか、子供を助けたヒーローとしてニュースには出たくなかった。それもこれも、僕なんかを市橋叶に思い出してもらいたくないためだった。間違っても、あの金曜日の映像から、僕が友達だったことを市橋叶には言ってもらいたくはない。彼女には彼女の人生がある。前だけ向いて進めばいい。僕はずっと君が好きだし、応援していく。それが僕の人生だし、いっしょに東京行こうって誘われ、それを断った時に、僕の道は彼女から大きくれて行った。


 とはいえ、それも今から思えば正解だったと思える。市橋叶は歌手ではなく女優になっていた。CMでちょくちょく見かけ始めてからいきなり人気が爆発した。CMに出る前はどういう経歴を辿たどったか分からない。音楽をしていたのだろうか。雑誌のインタビュー記事を見てもバンドをやっていたという言葉はどこにも見当たらない。それが不愉快だと言ってはいない。ただ、彼女は女優に向いていて僕と一緒に東京に出たなら、もしかして芸能界で芽が出なかったのかもしれない、ということなんだ。


 南奈々が言った。


「好き嫌いのタイプってのが、あるでしょ。市橋叶とわたしは全然タイプが違う。わたしは馬鹿だし、あんたがわたしを好きだなんてどうしても思えない。どうせあんたも、わたしの体が目当てなんでしょ、安藤飛鳥っ!」


「年上を呼びつけっスか。それにそのコンプレックス。おまえこそ、そのひずんだ性格なんとかしろよ」


「えらっそうに。おまえがいうな、安藤飛鳥っ!」


「わかった、わかったよ、南奈々。だったら、いっそ、それを武器にしようぜ」


「ボインダーミサイーーーール」


「フル。どこ情報よ」


「お父さん」


「酔うの早や」


「ほっとけ」


「そう落ち込むなって」


はげましなんていらない。そう思う気持ちがあるんだったらちゃんと言え。金曜日のことは?」


「だから僕じゃないって。なんで怒ってんの」


「こんなに心配させといて?」


「だからさぁ」


「でしょ。でしょでしょ。もう二度とするなって怒ってやろうとせっかく意気込んで来たっていうのにぃ、飛鳥の糞野郎はぁぁぁとぼけるしぃ」


 南奈々は、イーって顔をしている。だが、笑ってはいけない。彼女は僕を心配してくれている。


「で、かな振りしたその怒り、どうすんのよ」


「ユーチューブの本人は安藤飛鳥でした。素直にそういやぁぁいいのよ」


「で、ぶったたくのか? いや、ぶったたくに決まってる。どうしても僕がやったにする気なんだな」


「飛鳥だったら子供を助けそうだし、あれでしょ。急に男らしいとこ見せたりするんだよね」


「もしかして、僕のこと、好きなの?」


「はぁ? わたしが好きだっての困るわけ? ってことは、やっぱり!」


「違うって。君のスタイルも当然好きだけど、かわいい顔も好き。そのひねくれた性格もな、全部好きって。言うなれば、そのぉー、市橋叶は架空の人物な」


 疑いの眼差し。が、しかし、これが僕の本心なのだろう、と思う。南奈々とは肌も合うし、馬も合う。何より、手を伸ばせば触れられる距離に、南奈々はいる。


 僕の言葉に納得したかどうか、南奈々はというと、ふふーんって顔をし、そして、箸を動かし始めた。僕は頬杖を突き、その南奈々をじっと見ていた。むしゃむしゃ食って、ぐいぐいジョッキを空けている。僕は言った。


「今日、泊って行くか?」


 南奈々の箸がピタッと止まった。ニヤッと笑って、言った。


「どおしよっかなぁー」










( 了 )

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シガナイロンド 悟房 勢 @so6itscd

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ