行きはよいよい、帰りは――(4)
馬車の前方数
「――今すぐ、逃げろ」
「どうやってえ!?」
マンジの言葉にミャオが泣きそうな声を上げた瞬間、ワーグは突撃をかける。だがその牙が彼らに届くことは無かった。突如土の壁が目の前で隆起し、ワーグたちの行方を阻んだからだ。【土壁】の術――無論使ったのはワンダだ。
「い、急いでください!? 急ごしらえだからそんなに長くは――」
切羽詰まったワンダの声は、次の瞬間馬車の側面からの重たい衝突音で遮られる。一同が反射的にその反対側へと後ずさると、馬車の幌を突き破ってワーグの爪が姿を現した。
側面からの別働隊――知らないうちに囲まれていることに一同はようやく気づく。先程後方から来ていたものたちに目を取られているうちに側面から回り込まれたか――あるいはあらかじめ待ち伏せされていたか――今それを考えている暇はない。
――真っ先に動いたのは、レイシアだった。
短いほうの剣を抜き放ち、幌の向こう側へと剣身を突き立てる。瞬間ワーグの痛々しい悲鳴が響き渡り、そのまま何度も闇雲に短い剣を幌の向こう側へと突き立て続けた。するとワーグも距離を取ったのかうなり声が小さくなっていく。
「馬車を出ろ! 早く!」
一同は最低限の荷物だけ手に取り、非戦闘員のミャオを取り囲むようにして馬車の後方から外へ出る。すると馬車の側面にいたものたちもまたその動きに気づいて回り込んで近づいてきた。それをレイシアとマンジがそれぞれの得物を向けて牽制する。
「来んな! もう一度痛い目見たい!?」
レイシアの声と向けられた刃の前にワーグの動きが止まる。数は先程と同じく三匹。一匹にはまだ生々しい傷の跡が見える。おそらく先程レイシアが付けたものだ。そのまましばらく膠着状態が続いた後、マンジがワンダたちに向かって叫ぶ。
「――森じゃ! 後ろの森の中に向かって走れ!」
声に従ってワンダが後ろを振り向くと、確かに鬱蒼とした森が広がっていた。木々の間は狭く、身体がそれなりに大きいワーグの動きをある程度削ぐことができるかもしれない。あまり迷っている余裕は無さそうだった。
ワンダ、シエル、ミャオが一足早く森に向かって走り出す。ワーグたちがそれに気づいて突破しようとするが、突き出されたレイシアとマンジの刃に阻まれる。そうしているうちにシエルとミャオの姿が森の奥へと入って行くのを確認すると、ワンダは叫んだ。
「お二人とも走って!!」
ワンダの声にレイシアとマンジが弾かれたように森に向かって走り出し、それを見たワーグもまた反応して追いかける。だがその牙が二人に届くことは無かった――ワンダの【土壁】の術がちょうど彼らの足下で展開したのである。宙高く打ち上げられた彼らの身体は、まもなく地面へと強く打ち付けられていた。
そのうちにレイシアとマンジもまた森の内部へと飛び込み、ワンダもそれに続いた。後ろからパニックに陥った馬のいななきがずっと響いていたが、やがてそれも聞こえなくなった。
「……追ってこないね。撒いた、ってことでいいのかな」
「……たぶんの」
肩で息をしながら、マンジがミャオの言葉に答える。
暗い森の中の少し開けた場所。そこでワンダたちは一息ついていた。みんな程度の差こそあれど呼吸は荒い。ワンダもこの一年ちょっとの間であるかないかという全力疾走のせいで、地面を拝む羽目になっている。
「はあ……はあ……心臓バクバクです……も、今日走れないかも……」
「なっさけな……そんなんで復帰とかいいご身分だわ……はあ……はあ……」
かくいうレイシアもだいぶ呼吸が荒い。その様子になんとなく安心していると、当の彼女がこちらをじっと見ていることに気がついた。
「どうかしましたか?」
「いや、あんた眼鏡」
「眼鏡?」
そこまで言われてワンダはようやく異変に気づいた。さきほどから視界がなんとなくぼやけている――
慌てて自分の眼鏡を取り外す。すると片方のレンズが完全に消失してフレームだけになっていた。見ればつるやフレームもほんのり歪んでいる。動揺するワンダの中で先程馬車の中で派手にすっころんだ記憶が呼び起こされる。
「さっき割れて外れちゃったんだ……」
「見えんのか?」
「見えないわけではないですが……遠くのほうはだいぶぼやけてます」
頭が芯から真っ白になっていく中で、ワンダはかろうじて言葉をひねり出す。片方のレンズは無事だが壊れたほうの視界との差で頭がぐらぐらしそうだった。
ふと先程【土壁】の術で高く打ち上がったワーグのことを思い出す。あれも実はもう少し自分たちから見て手前のほうに展開させる予定だったが、微妙に奥にずれていた。
「なんか狙いがつけづらいなーとは思ってたんですけど……これのせいかあ……」
「なんで今まで気づかなかったのよ……」
「いや本当にそれどころじゃなかったんで……」
「ワンダらしいね……てかその感じだと魔術は使えるの?」
「使えないわけじゃないけど狙いをつけるのはちょっと」
ただでさえ復帰したばかりで実戦用に調整できているかは微妙である。これで照準がうまく合わせられないというのは厳しい。
「こないだみたいに周りにばらまく感じだったらいけるかもですけど」
「やってみろ、もう片方のレンズも使い物にならなくしてやる」
レイシアに凄まれ、ワンダはその身を縮める。――と、次の瞬間レイシアが周囲を見渡しながらぼそりと言った。
「……妙ね」
「何がじゃ?」
顔を上げたマンジにレイシアが先を続ける。
「いくらなんでも、追ってこなさすぎじゃない?あれだけ数匹がかりで大仰に追い込んでおいて、引き際が良すぎる」
「確かにそうじゃが……」
レイシアの思案顔に、ワンダは言い知れぬ不安を覚える。と、同時にあることを思い出した。膨らんでいく嫌な予感をどうにか押し留めつつ、胸元からあるものを取り出す。まずこのようなときにはほとんど必要のないものだが、お守りがてら常に持っているものだった。
――果たして、予感は的中していた。
「……あの、すいません」
自分の声が少しだけ震えていることにワンダは気づく。他のメンバーもワンダの声色のただ事でない様子に振り返った。
「あんたのその手に持ってるの……
ワンダは無言でこくりと頷く。
「えっと、わたしさっき森の中に入るときに変な感じがして、それでひょっとしたらーって思って……そしたら……」
ワンダは震える手で手に持っている
――そして今は淡い紫色のほうの部分が、強く発光していた。
「多分だけどこの森――迷宮化してます」
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