それからの日々(2)
仕事を終えたワンダがギルド本部の外へ出ると、あたりはほんのりと暗くなり始めていた。
魔石ランプの火が灯され、淡いオレンジ色の光で満ちていく通りをワンダは足早に歩いていく。ふと遠くを見やれば赤い果肉のような夕焼けがその体躯を地平線に沈めつつあり、光を失った空は暗い青に染まっている。
やがてしばらく歩いていくと、通りの角に馴染みの建物と看板が見えてきた。朝焼け亭。今の下宿先とギルド本部への通り道に位置し、朝や昼の食事を調達していくワンダの馴染みのパン屋だ。
もうだいぶ遅い時間のはずだったが、ありがたいことに店にはまだ明かりが点っている。駆け込むように重い木のドアを開くとチリンチリンと高い鈴の音が鳴り響いた。
「はい、いらっしゃー・・・あら、ワンダちゃん」
「どうもライザさん。まだ開いてますか?」
「ちょうど閉めるとこだったけどいいわよ」
ライザと呼ばれた中年の女性がワンダを店内に迎え入れる。短く切った赤茶けた髪に太い手足。年を取って太ったというのもあるが、ほとんどは筋肉だ。よく見ると腕のあちこちにうっすらと傷のあとも消える。
ここ朝焼け亭の主人オーツとライザの夫妻も何年か前に
「けど、もうそんなに品物残ってないわよ――ってあ、そっかいつものやつね。それならまだあるわ」
「ありがとうございます」
ワンダはそう言って店内へと入っていく。ライザのいう通り大半のものは売り切れていたが目当てのものはまだあった。表面を固く焼き上げた茶色い堅パン。木の表面のような見た目に対して中はふわふわで、素朴な味はワンダのお気に入りだった。
「あんたー? あたし外の閉店の準備しておくからワンダちゃんのお会計お願いねー」
ライザがそう叫ぶと店の奥からのっそりと大柄な男が出てくる。主人のオーツだ。ライザ以上に太い手足に加えて大きな身体は近くに寄られると圧迫感が強い。
「どうもオーツさん」
「…………」
オーツは無言でこくりと首を振る。よくしゃべるライザと違い、オーツはほとんどその口を開かない。ワンダがカウンターに代金を出すと、オーツはゆるやかな動きでそれを取った。
「調子、どうだ」
釣り銭をライザに返しながら、ふいにオーツが口を開く。
「あ、はい大丈夫です、おかげさまで」
「そうか」
そう言って再び沈黙が降りる。ともすれば無愛想とも取られかねないぐらいに言葉を発しないオーツだったが、ワンダはこの男性が言外に発している雰囲気が決して嫌いではなかった。
「――あんたね、もうちょっと愛想良くしなさいよ」
――と、若干呆れ気味のライザがこちらに向かってきた。どうやらこちらの様子を見ていたらしい。
「だいぶ明るくしてるつもりだが」
「いや、どこがよ」
「声の調子とか――」
「いや、ぜんぜん変わらないし」
ワンダを尻目にライザが捲し立て始め、彼女より一回りも大きいはずのオーツの身体が小さくなり出したので、ワンダが慌ててフォローに回る。
「あの……そんなに悪くはなかったと思うんで……たぶん……」
「ワンダちゃん……やっぱあなたは優しい子ね……」
ライザが感激した風にその手を取ってくる。「いつもよりかは」という言葉を寸前で飲み込んだ自分にワンダは感謝する。
――いい人たちだ。
ライザの小さいけど固くてたくましい手のひらの感触を感じながらワンダは思う。こんなふうに風に生きられたのならと、
けれど同時にそう思ってしまう自分に、強い引っ掛かりもワンダは感じていた。
サン=グレイルという街の中心部は、中央の大迷宮入り口とその周辺に円形に広がる陽光の広場だ。そしてそこのほぼ真ん前に立つ
もっともこれも分かりやすく説明すればという話で、実際はここまで綺麗に別れているわけではなく、モザイクのように様々なものが混ざりあって存在しているのがサン=グレイルという町だ。
そんな迷宮街の中心部からは遠く離れ、小さな住宅や宿屋がほそぼそと軒を連ねる小高い丘の上に、ワンダの今の下宿先はある。
迷宮街では基本的に迷宮に近ければ近いほどアクセスが容易であるため家賃や宿屋代は当然高くなっていくが、一方街の外れまで行くと家賃はそこそこ安くなる。
長く緩やかな坂を登り終えると、空は完全に暗い青に染まっていた。太陽は完全に地平線の向こうに姿を消し、境目に残る赤い線がその名残を残しているだけ。もう少しすれば青から黒に変わり、夜が来る。
ふと、後ろを振り返る。オレンジ色の魔石ランプの光がグレイルの姿をくっきりと浮かび上がらせている。夕日とも、星の光とも違う、小さな人工の光の群れ。この丘から見えるサン=グレイルの夜の風景だ。
あの光の一つ一つの下に
ふいにレクスたちのことを思い出しそうになり、ワンダは慌てて止めていた足を前に動かす。少しだけ重たいそれを引きずるようにして、丘の上の小さな集合住宅にたどり着く。
「たーだいまー……」
重たい木のドアを開け、自分以外誰もいない部屋の中に入るなりワンダはベッドに倒れ込む。自分でも想像以上に疲れていたらしい。とはいえそのまま寝てしまうのも大変良くないので、重たい体を引きずってどうにか浴室に向かう。
浴室に入ると風呂を沸かす。といってもこの家では場合バスタブにあらかじめ用意していた「水」と「高熱」の魔術印が刻まれた魔符を貼るだけだ。こうした家事に使える魔符は便利な分それなりに高価ではあったが、それを内職で作って収入の足しにするぐらいにはワンダは作りなれている。むろん今使ったものも自分で材料を揃えて作った自作のものだ。
風呂から上がると疲れは多少マシになってはいた。部屋に置いてあったパンを齧りながら、窓の外の光景を眺める。夜の帳が完全に降りて、魔石ランプの明かりがよりくっきりとサン=グレイルの街の形を映し出している。
大小様々な灯火の中を、八方から大きな光の川のように走る大通り。そしてちょうど中心に、夜中は火が消えたように静かな場所がある――大迷宮の入り口だ。
――今から百年程前、「狭間の地」ことプラウジアはまともに人が住める土地ではなかった。
太古から空気中に存在する物質、
中でも厄介なのが、生物の負の感情に魔素が反応して生まれる瘴気だった。
瘴気に侵された土地は腐り、作物が正常に育たなくなるばかりか、その中からほぼ全ての生物に敵対し襲ってくる「イキモノ」――魔物を生み出してしまう。時には周辺の地形を時空ごと歪ませ、魔物を生み出し続ける領域――「迷宮」すら生み出すこともある。
厄介なことにプラウジアの地は大地の底を滞留する魔素の流れ――霊脈が安定しておらず、瘴気が吹き出しやすい環境にあった。不作に加え、魔物が跳梁跋扈する環境――当然人心は荒れ、国土は荒廃する。そしてまともに機能する土地を巡って戦乱が各地で頻発し、それによる負の感情の高まりからさらに瘴気が世に溢れ出る。
とはいえ――人々も手をこまねいて見ているだけではなかった。長年の瘴気とそれの影響によるもろもろの問題に疲れ果てていたプラウジアの地の国々は一計を案じる。
夜光石――現在では魔符に文字を刻みつけるインクにも使われているそれは、空気中の魔素を吸着し、安定させる性質を持っていることが確認されていた。そしてちょうどプラウジアの七箇所にこれの大鉱脈が存在することが分かった。
そこで霊脈の流れをある程度調整し、これらの鉱脈に瘴気を溜め込ませて霊脈を安定させるという計画が立てられた。文字通りの国家的事業に各国は団結して取り組み、鉱脈のあったところには地下何メートルにも渡る瘴気を溜め込むための「器」とそれを監視するための駐屯地が設けられることになった。
「グレイル」の誕生である。
何年にも渡る事業の末グレイルは完成し、大地から瘴気が吹き出すということはほぼなくなった。土地は次第に肥沃になり大陸全土が繁栄することになったのだが、一方で別の問題が浮上してきた。
グレイルが瘴気を溜め込んでいくうちに、予想はされていたことながらその周辺の地下の地形にまで影響を及ぼしていった。そして内部から半永久的に魔物を生み出す天然の構造物――「大迷宮」と化したのである。
迷宮からは魔物が溢れ出し、グレイルに駐屯する兵士だけで対応しきれなくなった王国は、各地から傭兵や賞金稼ぎ、そして
やがて魔物の生命活動の核であり魔力の塊である魔石、そして魔物から取れる毛皮等の素材――いわゆる迷宮資源を活用するものたちが現れはじめ、さらに多くの人間がグレイルへと集まり始める。
王国も迷宮資源とそれらが生活にもたらす影響を無視する事ができなくなり、グレイルは急速に一大経済圏へと発展していった。迷宮に潜る人々はいつしか
サン=グレイルは国内で最大の規模を持つグレイルだ。階層はおよそ七〇階以上と思われる――というのも最大到達深度が今の所その前後であり、そこから先は誰も到達していないからだ。すでにグレイルが当初作られた時の地下の深度からは大きく逸脱しており、今のグレイルの全貌を把握できているのはおそらく誰もいない。
ワンダがここに来て二年以上が経過しようとしている。
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