終わりと始まり(2)

 数週間前――いやその前から少しずつワンダは自分の中の歯車が噛み合わなくなっているのを感じていた。


 サン=グレイル地下に広がる「大迷宮」――その中の探索は常に死の危険と隣り合わせだ。


 迷宮そのものが魔物を生み出しつづける巨大な母胎であり、いついかなるアクシデントが起こってもおかしくない環境。その中で探宮者エクスプローラーたちは魔物と戦い、天然の罠を突破し、ありとあらゆるものを犠牲にしながら富そしてときに栄誉を得る。


 もうかれこれ一年以上前、ワンダもまたレクスたちと一緒にそんな世界に飛び込んだ。


 最初の一年は好調だったと思う。迷宮に関しては多くの経験を重ねているヴォルフから様々なことを学びながら、浅い階層でひたすら経験を積み重ねていく日々。はじめのうちこそ戸惑ったものの、二、三ヶ月もすると慣れてより多くの事が出来るようになっていった。


 パーティも調子をどんどん上げていき、一年後には一つのヤマといわれる一〇層付近まで到達していた。パーティの密かな目標であるグレイルの最下層到達――もさほど夢ではないように思えた。


 歯車が噛み合わなくなり始めたのはこのころからだった。


 一〇階層を超えると魔物の数も強さの質も少しずつ上がっていき、迷宮内の地形、さらには迷宮そのものが生み出す天然の罠――「グリッジ」が魔物の固有能力と合わさって、思わぬ形で牙を向き始める。


 毒の沼に落ちたスライムが猛毒を持つポイズンスライムに変貌する。


 大型の敵の攻撃が足元を崩落させ、下の階層に落ちる。あるいは上に空いた穴から大量の魔物が落下する。


 倒したあと処理しそこねた魔物の死肉を食らったものがより上位種へと変化する。


 エトセトラ。エトセトラ。エトセトラ。


 ありとあらゆるものが人に向けて歯を突き立てて襲いかかる、生物の負の感情から生まれ、生きとし生けるものを等しく憎む魔物という存在を煮詰めたような場所――大の男でも精神を病んでしまうこともある環境下で、ワンダは特に追い詰められつつあった。――それも、彼女自身の能力で。


 魔術の無詠唱での行使――ワンダがレクスやヴォルフたちに張り合うことの出来る数少ない強み。

 

 大気中に存在する特殊な物質である魔素マナ。本来魔術師は体系化された呪文を通して魔素マナに干渉し、通常の物理法則を捻じ曲げ、奇蹟を実現する。一方ワンダは口に出して使用する呪文を脳内で自然と「走らせる」ことが出来た。それも「複数」を。


 魔術はどうしてもその特性上攻撃のタイミングが読みやすく、またその場で止まって撃つ「固定砲台」になりがちだが、ワンダは呪文を脳内で展開させつつある程度動き回ることができ、発動タイミングもある程度いじることが出来た。すべてワンダが持つ、異常とも言える集中力のおかげ――だったのだが、これがここに来て負の要素として持ち上がってきた。


 ワンダの持つ集中力――それはすなわち往々にして周りが「見えなく」なることでもある。


 実際はじめのうちはそれ故にレクスたちとの連携がうまく取れないことも多かった。しかしそれでもある程度連携をパターン化するなどして乗り切ってきたが、それも深い階層に進むにつれ通用しなくなっていく。


 単純な強さだけでなく、魔物同士が、あるいは迷宮そのものがまるでこちらと同じく連携するかのごとく襲いかかってくる環境。それを突破するにはこちらもそれ以上の速度で決断し、行動しなければならない。ワンダはそれにどうにかついていこうとしたが――次第に何かが狂い始めた。


 魔術が思ったタイミングで発動しない。頭の中の詠唱がうまく出来ない。しまいには魔術が思わぬタイミングで発動する。どうにかしようとしても、まるで自分の中の歯車がバラバラと抜け落ちていくように、なすすべもなく崩れていく。


 仲間はみんなそんなワンダを慮る。彼女はそれに笑顔で「大丈夫」と返すが、そのたびに内臓がねじ繰り返りそうな不安に苛まれていた。たった一つの――この人達といていいと思えるものが手のひらからすり抜けていく。自分の存在意義が――ここにいていい理由が――消えていく。


 そんな日々がしばらく続いた数週間前――ついにワンダは壊れた。


 手こずりながらどうにかたどり着いた十七階層、次なるヤマである二〇階層まで後少し――といったところでワンダたちはいつもとおなじく魔物との戦闘に突入した。決して対処できないレベルでもない数。だが戦闘が終わりに差し掛かったころ、思わぬ事態が襲った。


 ワンダの魔術を受け倒れた重量級の敵が倒れた瞬間、地響きが起き天井が崩落。そして運が悪いことにその上層に魔物たちの群れがいたのだ。高所から落下しながらも、情け容赦なく疲弊したワンダたちを襲う魔物たち。その様を見てそこまで過剰に負荷をかけ続けていたワンダの頭から何かが吹き飛んだ。


 次に気がついたときには魔物はあらかたいなくなっていた。いやと言ったほうがいいかもしれない。あたり一面の壁や床が破壊され魔物の手足や体液が飛び散った後にそれがいた痕跡が残っている。そしてその荒涼とした景色の中に――傷ついた仲間が倒れていた。


 魔力の暴発――術者によるコントロールを失った魔素が行き場を失いエネルギーが暴発する現象――本来、魔術師としてはあってはならない事態。


 ――その後、どうやって戻ったかろくに覚えていない。


 あとで聞いた話では比較的軽傷だったダリアが応急処置的な法術による回復術を施し、どうにか動けるようになったレクスと崩れた壁の下敷きになっていたヴォルフを救出、虎の子の地上へ戻ることの出来る転移アイテムを使い、命からがら帰還したらしい。


 茫然自失の状態のワンダが全ての事態を知るまでにはさらに数日間の時間を要した。いや「飲み込む」と表現したほうが正しいかもしれない。そして起きてしまったことは飲み込めたとしても到底消化出来るものではなかった。事実はワンダの腹のうちでのたうち回り、内側から彼女を際限なく切り刻んでいく。


 そうしてある朝目覚めたとき――ワンダは自らの何かが完全に失われたことを悟った。


「――わたしはもうたぶん戦えません。あの日からずっとどうしたらいいかずっと考えて、考えて、考えて――でももう、自分があの場所で戦えるってイメージが湧かないんです」


 膝においた両手を強く握りながら、ワンダは一言一言を絞り出すように答える。体のうちでは嵐が暴れまわっているのに、出てくる言葉はびっくりするほど淡々としていてワンダは驚いていた。


 ワンダの様子を見ながら、ヴォルフは気まずそうに頭をかき、レクスは沈痛な面持ちで見つめてくる。その瞳を見ていられなくてワンダはつい下を向きがちになる。そうしてしばらく時間が立ってから、レクスが重い口を開く。


「……一時的なものだよ、きっと。しばらく休めばよくなる。俺たちがどうにかワンダの分まで稼ぐからさ、だからそれまで――」

「私のぶんまで? 迷宮にも潜れないのに?」


 ギルドの規定では迷宮に潜る際のパーティの規定人数は四人以上――それ以下だとリスクが高まると言う理由で一定の条件をクリアしない限り許可されない。今のレクスたちの現状では変わりのメンバーを探すか、メンバーを維持したまま他のパーティに身を寄せるいわゆる「預かり」の立場になるかだろう。しかしいずれにしろ戦うことのできないワンダがいるというのはいい顔はされないに違いない。


 探宮者エクスプローラーにとって最大の収入源は大迷宮の探索であり、それができないのはまとまった収入を得られないということである。事実ここ数週間パーティには収入が無く、幸いレクスたちはそれほど贅沢をするたちではないがそう遠くないうちに限界が来ることは必至だ。


 加えて迷宮に潜れないというのは探宮者エクスプローラーにとって収入もそうだがカンや技術を失っていくことでもあり、迷宮に潜れない期間が長ければ長いほど失われていくスピードも早い。


 いまやワンダはこのパーティにおける傷であり、


 致命傷になる前に決断しなければならないのは自明の理だった。


「……けどずっと一緒にやってきたんだ。今はダメでもワンダの強さは俺もじいさんもダリアもよく分かってる。放り出すなんて――そもそも俺が――」


 そこまで言ってレクスの声が途切れる。そもそもワンダを彼女の故郷から連れ出したのはレクスだった。それも主にヴォルフの反対を押し切って。


 責任がある。レクスは間違いなくそう言うだろう。けれどその真っ直ぐさもいまやワンダにとって呪いでしかない。そしてワンダもまた、彼らにとって呪いに変わるのかもしれない。


「レクスが――みんなが――わたしを大事にしてくれるのは分かってます。でも、だからこそわたしは、もうここにいられないんです」


 席に重たい沈黙が落ちる。反対に周囲からは大音声が染み込むようにワンダたちの周辺を満たしていく。まるで洪水のような音の奔流にワンダは窒息しそうになる。


 場の空気を割ったのはヴォルフだった。

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