薄闇に、声響いて(1)

「確かなの」


 レイシアの小さく潜めた声にシエルが小さく頷く。その表情には先程まで叱られた小さい子供のような憔悴はみじんも無い。


『さっき ほんの少しだけ 音した から 目を 向けたら 尻尾 が  他にも 数か所 それっぽいのが 見える』

「ワーグですか」

『おそらく』

「数は」

『分からない でも たぶん 四 五匹』


 素速く出力される文字を食い入るように全員が見る。先程襲って来たものたちが追いついてきたのか――あるいは森の中にいたものか――正直どちらでも大差は無い。大事なのは今現在彼らは魔物に包囲されており、そう遠くないうちに一斉に襲いかかってくるということだ。


「どうする? 今の人数でもやりようによってはギリギリ対処できなくもない数よ?」

「いや、やはり数的に厳しい。……ワンダ、魔術で仕留めることはできそうか? お前さんなら近づかれる前に蹂躙することもできなくはないじゃろ」

「狙いを付けないでいいならいけなくはないとは思いますが……」


 ワンダはしばし考える。いつぞやのように広範囲にばらまく形もできなくはないかと一瞬考えるが、すぐに思い直す。


「……すいません、今のこの状態だと術を使ったとしてもどこへ飛んでいくかいつも以上に保証できないです」

「正直に言ってもらえて助かるわ」

「……やめといたほうがええかの」


 一同は顔を見合わせ、天を仰ぐ。――と、その時シエルがマンジの着物の袖を小さく引いているのがワンダの視界に入った。


「何じゃ、シエル」


 マンジの問いかけにシエルは自分の顔を指差した。スカーフに隠れたちょうど口のあるあたり。そのジェスチャーで何かを察したマンジが、小さく息を飲むのをワンダは見た。


「使ってええのか? あれは……」


 マンジの問いかけにシエルが首を横に振る。そして念紙マインドペーパーではなく自分の言葉で告げる。


「信用、大事。隠し事、できるだけ、無し」

「……そうじゃな。この際見せたほうがええかもしれん」


 マンジは小さく息をつくと、腹を決めたようにその場にいた全員に告げる。


「――お前ら合図したら耳を塞げ。んで三つ数えたらまたワシが合図するから、指差した方向に向かって走れ。目の前にワーグがいたら処理して正面突破じゃ」

「ずいぶん雑ね」

「全滅させろ言うわけじゃない。最低限のやつだけ倒して逃げるってことじゃ。ついでに言えば

「どういう……」


 と、次の瞬間ワーグたちが草むらなどからその姿を現した。数は予想されていた通り五匹ほど。ワンダたちの周囲をぐるぐると周回しながら少しずつ距離を詰めてくる。


「説明は後じゃ。とにかく構えろ。敵をなるたけ引きつけてから突貫する」


 レイシアが訝しげな視線を浴びせてくる中、マンジは敵との距離を計っている。そうしている間にワーグはこちらとの間隔を詰めていき、それが数メルタメートルのところにまで達した瞬間――


「今じゃ! 耳塞げ!」


 ――マンジの号令と同時に、様々なことがいっぺんに起きた。


 まずマンジの指示通り全員が耳を塞いだ――シエルを除いて。それとほぼ同時にゆっくりと周回しながら円を縮めていたワーグたちが一斉に襲いかかってきた。確実にワンダたちを仕留めきれる間合い。ワーグのその鋭い爪や牙が、はっきりと見える距離。


 だが結論から言えばそれらがワンダたちに届くことは無かった。


 ただ一人耳を塞いでいなかったシエルの顔のスカーフがずらされ、その顔の全体像がさらされる。真っ先に目を引いたのは頬に刻まれた稲妻のような文様。唇の端から耳の根元付近まで大きなひび割れのように走っている。ワンダの記憶にある限り、以前シエルの顔を見たときには無かったものだ。


 シエルが大きく息を吸い込む。すると文様から暗い紫の霧のようなものが漏れ出しシエルの口元を覆っていく。さほど時間をかけずにシエルの顔の下半分が覆った“それ”の見た目は、まるで獣の大きな顎のようにワンダには見えた。


 そしてシエルの口が開かれる。耳を塞いでいるのではっきりとは聞こえなかったが――口の形で言っていることは分かった。


「う ご く な」


 ――森の底が、一瞬で音で満ちた。


 この世のものとは思えない、腹の底まで響くような重低音。それが塞いだ耳を通り越してワンダの身体を――いや辺り一帯を「振動」させる。ワンダはその音が、シエルから発せられたものと気づくまで若干の時間を要した。


 奇妙な現象が起こったのはほぼ同時だった。


 今にも爪が、牙が、届きそうな距離まで接近していたワーグたちの動きが一斉に止まった。地面を蹴り上げ、跳躍しつつあったものに至ってはそのままの姿勢で地面に落下した。まるで魂を剥ぎ取られた剥製のように生命感がなくなり、少しでも押せばそのまま倒れてしまいそうだった。


「走れ!!」


 ワーグの異様な様子にすっかり目を奪われていたワンダは、マンジの叫び声で現実に引き戻された。先頭を切って走り出しているマンジたちの姿を見て自らも足を動かそうとすると、ほんの少しだけ足先にしびれが走る。――先程の「振動」の余波だと気づくのにさほど時間はかからなかった。


 それでも足をどうにか引き上げて走り出すと、重しでもつけられていたようなそれが少しずつ軽くなっていくのが分かった。相変わらずピクリとも動かないワーグの横をすり抜け、前方へとひた走る。そうしばらくしないうちにマンジたちに追いつくことができたが、今度はまた別のことに気づいた。


 マンジ、シエル、ミャオ。そして自分―― 一人足りない。


「――いかん!?」


 切羽詰まったマンジの声にワンダは後ろを振り向く。見るとレイシアの姿が――あろうことかワンダの遙か最後尾にあった。表情は懸命に前へ出ようとしているが、足はまるで進んでいない。身体が思うように動かない――そんな感じだった。


「アイツちゃんと耳塞いで――いや、『効き』がいい性質たちなのか!? ああもうどっちでもええ!? 早くこっち来い!」


 頭を抱えるマンジの声と呼応するかのように、周囲の空間に身体を縫い付けられたようだったレイシアの動きが一気に軽くなった。――と、同時にワーグたちもようやく動き出した。両者共にあっという間にトップスピードに達するが、ワーグのほうに身体的利があるのは明らかだった――距離はあっという間に縮んでいく。


 追いつかれる――ワンダは知らない間に身を乗り出していた。前方に向けて杖を構え、頭の中で呪文を展開しかけるもレイシアの姿が目に入った。このまま闇雲に撃てば当たる――ならば。


「レイシアさん! 跳んで!」


 ワンダが咄嗟に出した声に、レイシアは鋭敏に反応した。ワンダが杖をついた瞬間と同時に地面を蹴り上げ、高く跳躍する。自分たちの方向に飛び込んでくるレイシアを横目で見ながら、ワンダは呪文の展開をすでに終えていた。


(【氷結】――!)


 地面に突き刺した杖の先から前方のワーグたちへと向かって、青い氷面が伸びていく。手や杖が触れた部分から、ものを凍り付かせる【氷結】の術。風の術を併用し、より早く広範囲に展開できるようにしたそれは、敵を倒せなくても“足”を殺しきるのには十分だった。異変を察したワーグたちがブレーキをかけようとするも、術の効果が広がるほうが遙かに早く、あっという間に動けなくなる。


「よし! あとはひたすら逃げろ!」


 足を必死で動かそうとするワーグをちらりと確認するやいなやマンジは森の奥へと向かって走って行き、全員もそれに続く。足がピクリとも動かせないワーグたちは忌々しげに吠えだしはじめたが誰もろくに聞きすらしなかった。


 後ろからワーグの遠吠えが響く中、一同は森の奥へとひた走った。

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