彼女は彼女ではない
三鹿ショート
彼女は彼女ではない
他者に愛想を振りまいている女性は、私の知っている彼女ではない。
彼女は他者と会話をするときは下を向き、何を喋っているのか分からないほどに早口で小さな声を出していたはずだ。
だが、今の彼女は少し離れた場所に立っている私にも聞こえるほどの声量であり、大口で笑っている。
それに加えて、彼女は他者の目を惹きつけるような過激な格好をしていなかったはずだが、今では自身の豊かな乳房を惜しげもなく主張させていた。
数日でこれほどまでの変化をするとは、考えられない。
ゆえに、私は眼前の彼女を別人だと断ずることにした。
性格や衣服に手を加えられているものの、素材が彼女であることは間違いないために、何者かが彼女の身体を奪っているのだろう。
超常的な存在が何故彼女の肉体を使うことに決めたのかは不明だが、私は彼女を取り戻したかった。
私は、かつての彼女を愛していたのである。
***
彼女と出会ったのは、学生時代だった。
便所から出てきた彼女が濡れ鼠になっていたことから、性質の悪い行為の対象となってしまったのだと即座に理解した。
それから私は幾度も彼女が酷い目に遭わされている場面を目にしたが、手を差し伸べる人間は皆無だった。
彼女を救おうと行動すれば、自身が新たな標的と化すことを理解していたのだろう。
自分から底なしの沼に飛び込むような物好きなど、存在していない。
その思考は正しいが、人間としては間違っている。
私もその中の一人だったが、誰の目も届かない場所にて、彼女を慰めるようにしていた。
当初は私を警戒していたが、やがて彼女は私に心を許してくれるようになり、ぎごちない笑みを見せてくれることもあった。
彼女が外へ出ることが無くなってしまってからも、私は彼女の自宅を頻繁に訪れては、二人きりの時間を過ごした。
何故、私がそこまで彼女のために行動していたかといえば、下心が存在していたためである。
彼女のような弱々しい人間ならば、異性とは縁が無い私のような人間でも、簡単に親しい関係を築くことができると考えていたのである。
自分でも汚い思考の持ち主だと理解しているが、彼女にも生活の支えとなる人間が現われるために、誰もが得をしていることになることを思えば、一概に悪と断ずることは出来ないだろう。
そのような時間を過ごしているうちに、ある日、彼女は顔を赤らめながら、
「これくらいのことしか、私には出来ませんが」
世話になった謝礼か、彼女は自身の肉体を差し出した。
そして、我々は恋人関係に至ったのである。
それから数年が経過したが、彼女は学生時代の記憶が影響しているのか、未だに外出することができなかった。
性格や口調なども変化が見られないが、私を愛することに対しては、全力だった。
私もまた、切っ掛けが醜い下心からだったとはいえ、今では彼女を愛するようになっていた。
彼女が自宅から出る必要が無くなるためにも、私は懸命に稼ぐことを決めた。
彼女と会う日は減ったが、その時間を埋めるように、以前よりも彼女に対する愛情を強く示すようにした。
そんな日々を送っているうちに、何時の間にか、彼女は変わってしまっていた。
***
変化した彼女が私を愛することに変化は無かったが、その愛し方が以前と異なっている。
変化する前の彼女は、私が手を繋ぐと恥ずかしそうに顔を赤らめたが、その後手に力を込め、口元を緩めていた。
しかし、現在の彼女は、当然のことのように手を繋ぐばかりで、恥じらいも何も無い。
以前の彼女と同じ時間を長く過ごさなければ分からないような些細な行動のほとんどが、今の彼女には見受けられなかった。
一体、今の彼女は何者なのだろうか。
彼女を演じようとするその態度が気に入らなかったために、私はとうとう相手に問うた。
彼女は私が奇妙な質問をしたことに苦笑を浮かべるばかりで、正面から答えようとしなかった。
だが、私が諦めることはない。
肩を掴み、至近距離で大声を出すことを繰り返したところ、彼女は観念した様子で、息を吐いた。
事情を説明すると告げた彼女についていくと、地下の倉庫のような場所に辿り着いた。
彼女が扉を開くと、奥で横になっていた人物が振り返った。
それは、彼女だった。
彼女が二人も存在することに驚きながらも、私は彼女に駆け寄った。
彼女は私と再会することが出来たことに涙を流し、私は彼女を力強く抱きしめた。
その様子を見下ろしていたもう一人の彼女は、紫煙をくゆらせながら、事の経緯を説明し始める。
もう一人の彼女とは、彼女の双子の姉だった。
妹である彼女とは異なり、姉は出来が良く、周囲の評判も良い人間だった。
ゆえに、出来損ないである妹の存在が疎ましかった。
妹を目にすることすら嫌ったために自宅に近付かず、己の研鑽に時間をかけるようにしていた。
しかし、姉は挫折を味わった。
自信を取り戻そうにも、姉が味わった屈辱や犯した失敗は、簡単に無かったことにすることが出来るようなものではなかった。
味わったことの無い無力感に苛まれた彼女は、別人として人生をやり直すことを決めた。
幸運にも、社会とほとんど関わっていない妹が存在していたために、その人生を奪えば、簡単に新しい人生を開始することができると考えたのである。
その結果、妹をこのような場所へと閉じ込め、己は悠々と新しい人生を歩んでいたということだった。
悪びれた様子も無く語るその姿に、私は怒りを覚えた。
彼女の姉に飛びかかろうとしたが、懐から取り出した噴霧器から放出されたものが顔面に襲いかかり、私は激痛で地面を転がり回った。
その隙に、彼女の姉は逃げ出し、扉を閉めてしまった。
内側から開けることは出来ず、私は彼女と閉じ込められたということになる。
だが、彼女いわく、最低限の生活は保障されているらしい。
確かに、彼女の周囲には食事の痕跡が存在していた。
つまり、我々が彼女の姉にとって害のある行動をしない限りは、生き続けることができるということだ。
私は彼女の姉に対する怒りをとりあえず忘れ、再会することができた彼女と愛し合うことに決めた。
彼女が存在していれば、それだけで充分だった。
彼女もまた、私が存在していれば、それだけで良いらしい。
彼女の姉は我々を苦しめたつもりだが、実際のところ、最も良い空間を作り出してくれたということになる。
感謝するということも奇妙な話だが、彼女の姉に対する不満は姿を消した。
彼女は彼女ではない 三鹿ショート @mijikashort
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