滅びし百済、立ち上がる倭国
この時代、朝鮮半島には三つの国があった。
北の
東の
そして西の
この三ヵ国は互いに半島の覇権を狙いつつも、隣国どうしのよしみを残しながら、大きな戦を起こさず時代を経てきた。
だが、六六〇年、七月。
その均衡がついに崩れた。
新羅が、アジア最大の国家『
しかし、新羅が味方につけたのは、押しも押されぬ唐帝国である。
これまで唐は西方の遊牧民族との戦で手いっぱいだったが、その遊牧国家も数年前に滅ぼせたため、ようやく朝鮮半島に軍事力を割くことができたのだ。
こうして百済はまたたく間に敗北し、百済の
一方、倭と百済は昔から友好的な関係を築いていた。
それはさながら兄弟国のようなもので、頻繁に臣下どうしが行き交い、
さらには百済が任那という地域を新羅から奪い取った時、そこで採れた特産品などを倭に献上しているため、商業的にも密接な関係だ。
「……まだ、百済には再興の望みがあります。
故国の状況を語る覚従の目には、いつの間にか涙が浮かんでいた。
案内役に見せたような、悲しみに打ちひしがれた涙ではなく、たしかな悔しさをにじませた熱い涙だった。
「唐と新羅は残虐で、歯止めの利かない兵であふれております。手段を選ばず、欲望のままに民を喰らい尽くし、我が故国が築いてきたものを全て覆そうとしております。天皇陛下、皇太子殿下、どうか、どうか百済をお救いください!」
覚従は声を張り上げ、勢いよく頭を下げた。
ひたいが板間に当たり、ごんっというにぶい音が響く。それでも覚従は表を上げず、床に手をついて体を震わせている。
大広間にいた重臣たちは黙ったままだったが、彼らの態度は明らかに変わっていた。はじめ、大半は半島で巻き起こった戦を冷静にとらえており、中にはどこか他人事のように感じている者もいた。
今や、そういった想いの人間はこの場にいなかった。百済に救援の軍を出す出さない以前に、海の向こうでは凄まじい戦乱が起こっており、友好を結んでいた国の民たちが無残に引き裂かれているのだと自覚した。
「状況はわかった。ならば唐と新羅を打ち破り、義慈王を救い出せば、そなたの故国は持ち直せるということだな」
「いえ、王はすでに……唐の都である長安で亡くなったという知らせがありました」
それを聞いた皇太子の眉間にしわが寄った。母である天皇の方に目を向けると、天皇もわずかに憂いの表情を示していた。
「そ、そうか。ならば王を失ってもなお、百済の将兵は奮戦しているということか……」
兵たちが諦めていないことは敬服すべきことだが、現実は想像以上に悪い。
今でさえ百済の残党が持ちこたえているだけという状況で、いつそれが瓦解し、百済全土が唐と新羅の旗で埋め尽くされるかわからない。
この援軍要請を受けるべきか、否か。
英断即決で鳴らした中大兄皇子ですら、今回ばかりは即決できず、思わずうなってしまった。
そこで、覚従は顔を上げた。泣き腫らした目をかっと見開き、皇太子に嘆願した。
「もはや頼りになるものは世に一つ、貴国のお恵みしかありません。百済の民と兵を救うために軍の援助と、そして……つつしみて願います、百済王室最後の一人、
その要請に重臣たちがざわついた。
前述のように、百済の豊璋王子は、幼少の頃から現在まで倭に滞在している。
百済から倭に送った人質という身分だったが、それはあくまで名目上のことで、豊璋は倭の豪族に保護されながら、今も不自由なく暮らしている。
豊璋は百済王室では位の低い王子だったが、亡くなった義慈王の血を引いていることは事実だ。
百済軍としても王が不在のまま戦い続けるのは厳しいが、豊璋を新たな王にまつり上げれば、倭の軍も、百済の残党軍も、百済王室の復興という大義を得ることができる。さらに、百済中に散らばった将兵たちの心を一つにまとめることができる。
だが、それは良い事ばかりではない。
古来より、戦で滅ぼした敵の王室には、自分たちの息がかかった者を新しい王に据えるという方法がある。そうすることで抵抗し続ける兵たちから、王室を建て直すという大義名分を奪い、こちらこそが新たな王を守る者だという名目を得る。
特に唐帝国はこの方法を使い、多くの国を属国としてきた。当然、今回も唐は百済王室に縁のある者を見つけ出し、その者を唐の色に染め上げてから、真の王はこの方だと高らかに宣言するだろう。
つまり倭が豊璋を正統な王だと主張すれば、唐は黙っていられない。
百済領で戦う兵たちを助けるだけならまだしも、王位継承をかけて争うとなれば、唐・新羅の連合軍と全面的な戦争に発展する。
「豊璋どのを新たな百済王に、か」
皇太子が内容を繰り返すと、ある重臣が声を上げた。
「それは即決いたしかねますな。百済の旧領で狼藉を働く輩を討伐する分には良いが、王室を建て直すとなれば、唐帝国と本格的な戦になる」
全員が思っていた懸念を代弁してくれたおかげか、他の重臣たちも口を開いた。
「その通りだ。現在の形勢は圧倒的に不利、なおかつこちらが半島の戦に参戦するには、日数がかかる。百済を救うために意気込んでも、唐と新羅の軍が埋め尽くした後では、まともな戦いにならない」
「豊璋王子には戦の経験がない。ここは時勢を待って、唐と新羅が百済から目を離した時に、鍛え上げた我が軍を送る方が有利に戦えるのでは」
にわかに大広間が騒ぎ始める。今すぐ救援に行くべきだという意見もあったが、大半の意見は即時出兵をしないという方針だ。
天皇は視線を伏せて思案し、皇太子も全員の意見を聞いている。
皇太子はいざとなればこの場をただちに鎮め、すべての意見を封殺することが可能だ。しかし、ここは倭国にとって大きな岐路になるため、重臣たちの意見をつぶさに聞いて黙している。
だが、百済人の覚従は気が気ではない。
もしも豊璋王子を迎えられず、さらには援軍すらもやって来ないとなれば、故国は滅亡を待つばかりだ。
隣国の新羅兵も残忍だが、唐帝国の兵はさらに容赦がない。百済の言葉や文化など、あらゆるものを唐で塗り替えない限り、生きることを許してくれないのだ。
もはやこれまでかと思った時、ある男が口を開いた。
「いずれ、唐はここまで来るぞ」
はっと覚従は顔を上げる。
意見を出し合っていた重臣たちの声も、ぴたりと静まった。
意見を発したのは、右手の上座にいた男だ。
「
皇太子がその男の名をつぶやいた。
男は中大兄皇子の弟で、名を
彼は皇太子である兄を影から支えているが、重要な場面では的確な意見を述べ、周囲をうならせる切れ者だ。
皇太子も弟の能力を高く評価しているため、重臣たちの視線が大海人皇子に集まったことを確認してから、弟に向かってうなずいた。
遠慮なく発言せよ、という実兄からの許可を受けて、大海人皇子は続けた。
「これまで、唐は厄介な敵に囲まれていた。遊牧民族、
大海人皇子の言葉に、全員が聞き入っている。淡々とした口調だが、その一言一言に説得力がある。
「だが、情勢は変わった。唐の野望の目は、東に向いている。その視界には百済だけではなく、今は味方である新羅はもちろん、ひいては倭国も入っていると考えた方が良い。百済を助ける助けないに関わらず、いずれ唐は俺たちとぶつかるぞ」
倭国が侵略されるという言葉に、戸惑いの色が広がる。
さすがに飛躍しすぎているのではと一部の者は思ったが、冷静に考えれば、大海人皇子の言っていることはもっともだ。
唐はこれまで多くの国を滅ぼし、あらゆる文化や思想を吸収して、その度に大きく発展してきた国だ。当然、大海人皇子が話したことはあくまで仮説であるが、自分たちだけは安全だと決めつけることはできない。
大海人皇子は重臣たちに、その危険を端的に突きつけたのだ。
発言を終えた大海人皇子は、そこで視線を伏せた。
自分の考えは伝えきったということだ。
大広間が沈黙に包まれる。すでに多くの意見が飛び交い、重臣、皇子たちの視線は、奥の天皇に向けられた。
最後の決断は、国の長である天皇にゆだねるべき。君臣一同がその想いを抱き、老いた女帝の言葉を待った。
背筋を伸ばして座り、目を閉じて沈黙していた天皇のまぶたが開いた。
「苦難にあえぐ者を救い、滅びつつあるものを守ることは、古くから大切にされてきた正しき理念である。今こそ、この理念を掲げる時でしょう」
場は静まったままだ。
しかし大きな決定が下されたと一同が理解し、空気が張り詰めた。
「百済の民の苦しみを知りながら、耳を塞ぎ、安眠することは許されぬ。倭国は助け合ってきた国を見捨てることはせず、手を取り合って共に戦う。今は時節を読むときにあらず。雷雲のごとく集い、落雷のごとく動き、唐と新羅を討ち払うべし」
女帝の宣言を受け、覚従は大粒の涙をこぼし、平伏した。
君臣たちも背筋を正し、一斉に拝礼した。
激動の朝鮮半島へ、倭国が動く。
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