倭国、飛鳥朝廷

 ーーーひどい顔だ、と官吏は思った。


 ある官吏かんりのすぐ後ろを、若い僧がついてきている。

 まだ二十歳も過ぎていない僧侶の顔はやつれていて、死人のような血色をしている。身元を知っていなければ、病を患った老人かと見間違えてしまうだろう。


 見つめすぎるわけにもいかないため、官吏は顔を前に戻したが、後ろにいる僧の気持ちを思えば、こちらも暗澹たる気持ちになってくる。



 戦によって故郷を引き裂かれるとはこういうことなのかと、官吏は胸を痛めた。



 官吏と僧は、板の張った渡り廊下を進んでいる。南へ目を向けると飛鳥の都が広がり、さらにその先は美しい景観が広がっている。秋の気配が深まった飛鳥の山々は赤く染まり、平原いっぱいに広がった黄金色のススキが、秋風に揺れて波打っている。


 ふと、若い僧が立ち止まった。前を歩いていた官吏もそれに気づき、足を止めた。




「どうされた、覚従がくじゅどの」




 官吏が話しかけても、覚従と呼ばれた僧は呆然と都をながめている。

 さわやかな秋晴れの下で、今日も至る所から炊煙が立ち昇っている。往来を人々が歩き、働き、いつも通りに過ごしている。


 それを見た覚従の目には涙が浮かんでいた。

 乾ききった唇を震わせ、さめざめと泣いた。


 見ていられないと思いつつも、官吏は態度を律し、涙を流す覚従に呼びかけた。




「しっかりなされよ。貴殿には、大きな役目があるのだろう」




 官吏の言葉を聞いて、はっと覚従は我に返った。

 二人の目が合う。官吏が念を押すようにうなずくと、覚従も涙を拭いてからうなずき返した。まだ覚従の目元は赤いが、わずかに生気が戻っていた。


 改めて都を見渡した覚従は、ここが海を越えた辺境の島国とは思えなかった。


 この国に流れ着いた当初は生き延びることに必死で、とにかく都に連れて行ってくれと考えていた。都へ向かう途中も山が多く、本当にこの先に都があるのかという疑いの言葉を、護衛に何度も投げかけてしまった。


 しかし、こうして冷静になれば、この倭国は想像以上に栄えていると実感した。

 都を護衛する兵士の装備は充実しており、民の身なりも荒れていない。港には大小さまざまな船が停泊し、寺でのもてなしも非常に手厚いものだった。



 そしてこれから覚従が謁見するのは、急進的に発展した倭国の天皇である。



 必死な想いでここまで来たものの、自分で大丈夫なのかという不安も湧き上がってきた。

 広大な都を歩き続け、ついに覚従は宮殿の門前に着いた。いつの間にか住民たちが集まっており、悲壮感ただよう覚従の顔を見て、ただならぬ会見が始まるようだぞと話し込んでいる。 


 宮殿の階段を上がり、最奥の広間に着く手前で、案内役の官吏が立ち止まり、覚従の方に振り向いた。




「よろしいか、覚従どの」




 官吏が尋ねると、覚従は大きく深呼吸してから、ゆっくりうなずいた。

 それを見て、官吏はのびやかに声を張り上げた。




「百済の使い、沙弥さみ覚従がくじゅどのが謁見いたします!」




 その言葉の後に、覚従は大広間に足を踏み入れた。


 大広間は正四方形で、奥の間は一段高くなっている。倭国の重臣たちは左右に分かれて座っており、覚従が大広間に姿を現すと、彼らの視線は覚従の方に集中した。


 覚従は背筋を伸ばして歩き、左右の視線に挟まれながら、しずしずと奥へ進む。

 大広間の中央で、覚従は膝を折って正座した。



 覚従は重臣たちの列の中で、一番奥の左右に分かれた二人の男に視線を向けた。



 左手側の男は、立派なひげと太い顎を持ち、目には爛々とした輝きがあった。歳は三十半ばといったところだが、まるで若い戦士のように精悍な男だった。


 対して右手側の男は、薄い髭と切れ長の目が印象的で、覚従に向けた視線はとても落ち着いている。しかし弱弱しい雰囲気は一切なく、油断ならない思慮深さを感じさせる。



 両者の目鼻立ちは似ているものの、受ける印象はまったく違う。最も上座に座っていることから、おそらく二人は兄弟で、なおかつ現在の天皇の血縁者なのだろう。




「陛下のおなり!」




 その声とともに、重臣たちが改めて姿勢を正し、頭を下げた。


 覚従も素早く平伏した。

 ここからは許しが出るまで、顔を上げないのが作法である。


 上座から足音が聞こえる。その音が正面で止まり、続いて服がすれる音が聞こえた。膝を曲げ、着物のすそを広げなおし、目の前に座ったのだろう。




「面を上げなさい」




 しばしの静寂の後、穏やかな、低い女性の声が響いた。

 重臣たちが頭を上げてから、覚従はおそるおそる顔を上げた。


 正面の上座に一人の女性が座っている。

 長い黒髪を頭上で結い上げ、色鮮やかな朱色の羽織を着ており、その羽織の華模様は美しく咲き広がっている。

 しかし出で立ちの華美に凝っているわけではない。

 袴は白く、装飾もほとんど身に着けていないため、どちらかと言えば神事を取り仕切る巫女のように思えた。



 そう思った覚従は現れた天皇の顔を見た途端、より大きな緊張が走った。



 老いている女性だ。しかしまぶたから覗く目は鋭く、挑戦的な若々しさであふれている。口角をわずかに上げて、柔和な笑みを浮かべているが、どこか計算高いふくみを匂わせている。


 そこには、長年にわたって国を率いてきた威厳と自信がそなわっている。


 目の前に座る女帝は、左右の上座にいる二人の男に似ている。いや、この二人の男が女帝に似て育ったのだろう。



 このお方が倭の天皇陛下なのか、と覚従は胸の内でつぶやいた。



 わずかな時間固まった覚従を見て、左手にいる男が小さく咳払いした。

 しまったと思い、覚従は再び手をついて頭を下げた。




「は……拝謁を許していただき、まことにありがとうございます、陛下」




 上ずった声で挨拶した覚従に、天皇は挨拶を返した。




「こちらこそ、礼を言わせてもらいます。険しい戦から逃れ、よくぞ重要な知らせを伝えに来てくださりました」

「は、ははあっ!」




 覚従は深々と頭を下げてから、ゆっくりと顔を上げた。

 次に天皇は、覚従の左手側にいる男に視線を移した。




「殿下、この方の知らせをとくと聞いておくれ」

「はっ」




 指示を受け、精悍な男は天皇に一礼した。


 この男は皇太子である中大兄皇子なかのおおえのおうじといい、天皇に次いで権力を持つ男である。彼の実務能力は目ざましいもので、近年の天皇は、実質的な政治活動をこの息子に任せている。




「覚従どの、こたびの戦についての知らせを、事細かに奏上していただきたい」




 皇太子は丁寧な口調で問いかけた。


 これから現場で軍を編成する彼だからこそ、覚従を見るその目には一言一句も聞き逃さないぞという意志が感じられた。故意にではないだろうが、威圧感のようなものがひしひしと伝わる。




「承知、いたしました。では、故国の戦況を奏上いたします……」




 覚従は息を整えてから、百済が滅ぼされたいきさつを話し始めた。



 ーーー話は朝鮮半島の情勢に移る。

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