第一章 百済戦役

朱い刺青の男

 薄暗い森の中を、一人の少女が走る。

 少女は何度も首を振り、後ろに顔を向けている。瞳は恐怖に揺れ、涙があふれている。何かに追われ、必死に逃げているのだ。


 逃げる少女の激しい呼吸とは別の、複数の荒い息づかいが森に響いている。

 その息づかいは徐々に少女に近づいている。すでに少女の足は限界を迎えつつあり、何度も転びかけて、ふらふらとした千鳥足になっていく。



 あっと少女が叫ぶ。


 いきなり地面が消えて、足が宙を踏む。その直後、少女の体は落下した。

 少女の体は斜面を転げていき、ざぶっと水音を立てて倒れた。



 彼女が転落したのは小さな沢だった。


 冷たい水が全身を濡らし、川底の石は固くて痛い。おぼれるような深さではなかったが、転落した時の衝撃でまともに動けない。

 水底の石に手をついて、上体を起こす。そして顔を上げれば、追ってきたやつらの姿が見えた。



 斜面の上には、三頭の野犬の影が見えた。森の暗がりにぼんやりと映るだけだが、それは紛れもない現実だ。野犬たちは口を開けて呼吸し、飢えた視線で少女を見下ろしている。


 逃げようとしても、少女の体は思うように動かない。立ち上がれないまま、沢の水底を手でかき、這いずって距離を取る。絶望的な状況にも関わらず、彼女の生存本能は叫び、痛む体を突き動かしている。



 野犬たちの息づかいが、斜面を下りきった。もう、近くまで来ている。


 少女は振り向き、石ころを拾って投げつける。

 力なく飛んだ石ころは、一番近くにいた野犬の目元に当たった。


 やった、と思った。しかし野犬はひるまず、うなって怒りをあらわにした。

 少女は叫ぼうとしたが、声が出ない。喉の奥からかすれた音がこぼれるだけで、誰にも届かない。


 歯をむき出し、先頭の野犬が跳びかかる。もう二頭も、それに続く。


 生きたまま喰われる。

 少女はその恐怖に、はっと目を閉じた。





 しかし、悲鳴を上げたのは野犬のほうだった。


 悲鳴に驚き、少女が目を開ける。

 目の前にいた野犬が倒れている。脇腹には矢が刺さり、だらしなくよだれを垂らして、痙攣している。



 矢が飛んできた先に顔を向けると、一人の人間が立っていた。



 その人間は弓を構え、沢の下流に立っている。

 薄暗いせいで、どんな表情かわからない。背は高くないが、体つきはしっかりしている。下履きしか履いていないため、おそらく男だろう。


 仲間が殺されたことで、野犬たちの標的が変わる。

 残った二頭は男のほうに向き、毛を逆立ててうなる。

 それでも男はたじろぐことなく、弓を足元に置き、背負っていた薪割り斧を構えた。



 にらみ合いが続く。威嚇しているのは野犬たちだったが、先に男が動いた。

 男は右側にいた野犬に近づいた。野犬は迫ってきた男に反応して、歯をむき出して跳びかかる。


 男が斧を振るう。跳んだ野犬の胴体を刃ですくい上げ、野犬の体が宙を舞う。

 どさっと落ちた野犬は動かなかった。痩せた腹は真一文字に裂かれ、そこから鮮血と内臓がこぼれていく。 


 もう一頭が残っていたが、あっという間に仲間たちがやられたのを見て、すでに戦意を失っていた。

 斧を拾って襲いかかるまでもなく、男が大股で近づくと逃げていった。




「大丈夫か?」




 男が歩み寄ってきて、少女に手を差し伸べる。

 助けてくれた男の手を取ろうとした時、夕陽が雲から出てきて、森の中を赤く照らした。


 あらわになった男の姿を見た途端に、少女はひっと声を上げた。



 ーーー真っ赤な紋様が、男の顔と上半身に広がっている。その紋様は複雑な形で、独特のうねりをした曲線で構成されている。それは鱗のある蛇のようにも、燃える炎のようにも見える。


 少女の故郷に、このような怪奇な化粧をほどこす人間はいなかった。少なくとも少女が生きてきた中では、初めて見る文化だった。


 男がもう一度手を差し伸べると、少女はとっさに身構えてしまった。

 助けてくれたことはわかっても、怖いものは怖い。少女の目には、赤々とした皮膚の怪物にしか見えない。




「……おいおい、別に何もしないぞ」




 助けた相手に警戒されて心外だったのか、男はため息を吐いた。しかし彼が怒ることはなく、ひとまず後ろへ退いた。




「村の子どもじゃないな。名は?」




 名前を尋ねられても、少女は答えることはできない。

 男の言っている言葉の意味は少しだけわかる。だが、それを言葉にできない。




「どうしたものか」




 男がそうつぶやいた時、また別の方向から、何かが草むらをかき分けてくる音が聞こえてきた。その音の大きさから、野犬より大きな動物であることは察した。

 男は血で汚れた斧を構え、その方向へ叫んだ。




「来るなら来い! おおっ!」




 思わず少女が飛び上がるほど、草むらに向かって怒号を浴びせた。




「ま、待て、違うんだ。その子の、父親だ」




 しかし聞こえてきたのは、人の言葉だった。


 草むらから出てきたのは、少女の父親を名乗る男だった。ひげが生え放題で、服も汚れきっており、顔はひどく青ざめている。腰に剣は差しているが、その剣も薄汚れている。


 人間が出てきたため、男は斧を下ろして、ひと息ついた。



 しかし、少女は父親が出てきたことに衝撃を受けた。

 父親は右足に重傷を負って、ずっと寝こんでいたはずだ。

 だからこそ、動けない父親に代わって、彼女は森の中で食糧を探していたのだ。


 父は右の太ももから血がにじみ、服の上から布を巻いているというのに、その布全体に血が染みこむほど出血している。

 立って歩ける状態ではない。それでも父親は娘の身を案じて、ここまで追いかけてきたのだ。


 助けてくれた男も、少女の父親の足にぎょっと目を剥いた。




「これは、ひどいな」




 男が父親に駆け寄ったのを見て、少女は自分も動かなければと思った。

 だが、少女自身も負傷している。幸い大怪我は負っていないが、全身を打ちつけたことで、どこもかしこも痛みが走る。


 男は斧を捨てて、下履きの一部を破り、父親の太ももにきつく巻きつけた。

 包帯代わりに服を巻いた時、少女の父親は痛みにうめいたが、巻き終えるとか細い声で、




「ありがとう」




 と、男に礼を言った。

 男はうなずいたが、これで済む傷ではないとわかっていた。

 さらに男は、自分よりも大きな父親の体を背負った。




「こいつ、あんたの子どもか」




 男が問うと、父親は「そうです」と答えた。




「あんた、自分で、腕でしがみつけるか」

「でき、ます」

「よし。心配するな、こいつも連れていく。あんたはしがみついていれば良い」




 そして男は少女に近づき、腕で抱きかかえた。

 少女は身を固めたが、抵抗はしなかった。恐ろしい朱色の化粧をしていても、父親を手当てしてくれた男ならば、少なくとも悪人ではないと信じられる。




「む、んっ……動くなよ、じっとしていれば、すぐに着く」




 男は二人分の重さに耐え、前に足を踏み出す。

 日が暮れるまで時間がないため、男は休まず歩き続けた。森を抜け、村に着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。




「家に着いたら、手当てできる。もう少しの辛抱だ」

「ありがとう、ございます」

「死ぬなよ」

「はい……あなたの名を、せめて……」

「縁起でもない。礼は元気になってからで良い」




 男はぶっきらぼうに答えたが、少女の父親は食い下がった。




「万が一のことが……だから、あなたの名を」




 男は観念し、少し間をおいてから、




博麻はかまだ」


 


 と、答えた。

 薄れゆく意識の中、少女の父親は博麻の名をつぶやいてから、ありがとうと言った。




「もう良い。無理してしゃべるな」




 男はそう言ったが、血を流し過ぎたせいで、少女の父親はそこで意識を失っていた。少女も恐怖と緊張から解き放たれたことで、襲ってくる疲労と睡魔に抗えず、意識が途切れた。

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