百済から来た父娘

 夜が明けて、鳥の鳴き声で少女は目が覚めた。

 少女は体を起こすと、目元をこすって横を見た。


 父親は隣に眠っていた。

 藁の敷物の上で寝ており、右の太ももには布が何重にも巻いてある。布にはわずかに血の染みがあるだけで、止血はされている。


 おだやかな寝息を立てる父親を見て、少女はほっと息をつく。それから自分の身の回りを見渡した。




 ここは一軒の住居の中だった。地面に掘った浅い穴の上に、木の骨組みを組み立て、樹皮や植物で覆っている。

 粗末な造りだが、それなりに広い。天井には干し柿が吊るされ、畑仕事の道具なども転がっている。

 さらには子どもが砂遊びをした形跡があり、家族が暮らしていることが伺える。




 ただ、家の中には誰もいない。

 助けてくれたあの男、博麻という男の家のはずだが、少女と父親以外に人の気配はない。


 少女は立ち上がる。体の至るところが痛かったが、昨日ほどではない。

 誰かいないかと思い、家を出ると、辺りは木に囲まれていた。

 森の中ではないが、木立の少し奥まったところに建てられた家らしい。家の出入り口から道が伸びているため、そこを進めば広い場所に出られそうだ。


 父親から離れるべきか悩んだが、少女は近くに人がいないか探すことにした。




 まずは家の周囲を回ることにした。

 そこかしこに束ねられた藁があり、生活感がある。

 そして家の裏手に来たところで、少女は息を呑んだ。


 家の裏手は広く、木が生えておらず、村全体を見渡せた。ここは森ではなく、見晴らしの良い高台に建てられた家だったのだ。

 さらにそこには、小さな木の墓標があった。

 墓標は村をよく見下ろせる位置にある。古ぼけているが、近くに雑草はなく、よく手入れされている。

 少女は墓標に刻まれた名を読めなかったが、ここ眠っている人は、この家に住む人たちにとって大切な人なのだろうと思った。




 それから家の正面の坂道を下った。木立の間にできた道は、大きく曲がって伸びており、そこを抜けると村が広がっていた。


 村は山々に囲まれている。

 山から流れる川のそばに住居が並び、女性が水汲みや洗濯をしている。下流に目を向ければ、川の水を引いた田畑が広がり、大人も子どもも働いている。


 季節は秋だ。村を囲む山林は朱に染まり、晴れた青空を赤とんぼたちが飛んでいる。田んぼは朝日に照らされ、実った稲穂は黄金に輝いている。




 のどかで豊かな光景に目を奪われていると、ばしゃりと水音が鳴った。


 少女の前方を横切っている川に、上半身裸の男が入っていた。

 筋肉が発達しており、後ろ姿だけでも屈強な男だとわかる。


 そして、彼の背中の中心には、朱い太陽の紋様が刻まれていた。

 燃えたぎる巨大な太陽を、そのまま背負っているかのような、雄々しい紋様だ。


 男は頭を乱暴に振って、髪についた水滴を飛ばしたところで、後ろの少女に気づいた。




「起きたか」




 そう言って男が振り返ると、少女は目を大きくさせた。


 背格好や声から、助けてくれた『博麻はかま』という男で間違いない。

 朱い化粧を落とした顔は、印象がまるで違う。

 二重のまぶたで目は大きく、眉は太い。武骨な面もあるが、鼻筋は通っていて、輪郭も太すぎないので、涼やかな青年という印象だ。

 これであごひげがなければ、さらに若々しく見えただろう。


 しかし、背中から首、首から左の頬にかけて、うねる朱い紋様がはっきり残っている。その紋様だけは化粧ではなく、皮膚に刻まれた刺青であった。


 あれほど恐ろしい化粧をしていたというのに、意外にも美青年であった。

 その変化の激しさからくる戸惑いもあり、じっと博麻に見つめられると、少女は頬が熱くなるのを感じた。




「それにしても、ひどい格好だな」




 博麻は川から出てきて、ぼやきながら少女の手をつかんだ。

 驚いた少女は手を振りほどこうとするが、博麻は気にせず川に引きずり入れた。




「おいおい、ただの水浴びだ。その臭いと汚れでは、どこにも行けないぞ」




 水浴びを嫌がる少女に呆れつつ、博麻は容赦なく川に浸からせた。




「少し寒いが我慢してくれ。流されないように、ちゃんとつかんでやるから」




 そう言いながら、強引に少女を川に浸からせ、服の帯をほどき、脱がした上衣を片手で揉み洗いする。

 なおも少女は暴れようとしたが、川に流される怖さが出てきたのか、暴れるよりも博麻の腰にしがみつく。


 ようやく少女が大人しくなってくれたので、博麻は洗うことに専念した。


 まずは汗や泥でべたついた髪に何度も水をかけ、空いている手でごしごしと洗う。髪の次は顔に水をつけ、指で汚れをこすって落とす。


 もはや博麻が何をしても、少女は水面から首を出したまま、必死にしがみついて動かない。服と頭が終われば、あとは首から下を洗うだけなのだが、これは少女が自分で動かなければどうにもならない。




「仕方ない小僧だな。俺の息子よりずっと年上のくせに、そんなに水が恐いのか」




 少女はこの言葉で、博麻が勘違いしていることに気づいた。

 少女の髪は短く、ボロボロの服を着ていた。声も発していないので、博麻は少女のことを男だと勘違いしていた。


 自分は女だと訴えるため、少女は何度も首を振った。


 しかしその意味は正しく伝わらなかった。それでも水が恐いんだ、という意味だと博麻は捉えてしまった。




「ああ、もう……なら俺が持ちあげる。もう水から出してやるから安心しろ」




 水面から出す。


 そう言われた少女は、さらに強くしがみついた。服を洗われたせいで上半身が裸になったというのに、そのまま持ち上げられたら、胸が丸見えになってしまう。

 

 しかし少女が博麻の力にかなうはずもなく。


 しびれを切らした博麻は、少女の上衣を自分の腕に結んでから、力づくで少女を引き剝がし、そのまま担いで岸に戻った。

 担いだ少女を岸に下ろし、さて体を洗わせようとしたところで、少女は慌てた様子で自分の胸元を腕で隠した。




「……なに?」




 一瞬、意味がわからず目を白黒させた。


 半裸の少年が胸を隠して、なおかつ体を丸めている。寒いから丸まっているのではなく、明らかに自分の上半身を隠そうとしている。


 やっと気づいた博麻は、腕に巻きつけていた上衣を少女にかけた。




「すまない、おなごだったのか」




 博麻は素直に頭を下げたが、少女は顔を上げない。怒っているというよりも、恥ずかしいという想いのほうが強かった。


 また、博麻も困りきっていた。


 少年だと決めつけていたからこそ、遠慮することなく世話を焼いていたが、年若い娘となると話が違ってくる。しかも知らなかったとはいえ、強引に服を脱がせてしまったので、居心地が悪い。


 どうしたものかとなったところで、下流のほうから声が聞こえてきた。




「父ちゃーん!」




 間延びした声で呼びかけたのは、博麻の息子だった。




まめか、どうした」




 豆と呼ばれた少年は、ぜいぜいと息を吐きながら、大きな魚を三匹も見せてきた。




「家に怪我人がいるって言ったら、おじちゃんたちが魚を譲ってくれたんだ!」

「そうか、でかしたぞ」




 博麻は息子の頭をなでた。息子の豆も、まんざらではなさそうに笑顔になる。


 豆は今年で九つになる。

 男手一つで育ったが、母親に似て愛嬌があり、村の人間にとても好かれている。




「父ちゃん、この子は?」

「あの少年だ。水浴びをさせてみたら、おなごだった」




 困った父親を見て、豆はうんうんとうなずいてから、少女のそばにしゃがんだ。




「大丈夫だよ。お魚もあるし、果物もあるから、みんなで食べようよ」




 豆の無邪気な笑顔に、少女も笑顔を見せた。


 もう自分の出る幕はないなと思い、博麻は先に家に向かう。

 豆は服を着た少女に寄り添い、博麻の後ろをついていく。


 博麻が家の中に入ると、少女の父親が起きていた。まだ顔色は優れないが、峠は越したようだ。




「怪我の具合はどうだ」




 男は言葉の意味を一つ一つ理解してから、「なんとか、なりそうです」と答えた。


 博麻は安心し、うなずいた。

 それから、かまどのそばに座り、火打石を擦って着火した。


 かまどに残っていた薪が、再び燃える。新しい薪をくべれば、さらに火は大きくなり、家の中が一気に明るくなる。


 豆と少女も家の中に入ってきた。少女は濡れた衣服を着ていたので、博麻は火のそばで温まるようにうながした。

 だが、少女は自分の父親が目覚めたのを見て、父親に抱きついた。

 父親も娘を抱きしめ、頭に手を添えた。


 この時、少女の父親が娘に向かって発したのは、倭の言葉ではなかった。


 やはりな、と博麻は思った。




「いったい何があって、こんな怪我を?」




 博麻が尋ねると、少女の父親は倭の言葉で答えた。




「森でイノシシに襲われ、牙が刺さりました」

「イノシシか。どうりで深い傷だと思った」




 博麻はうなずきながら、目の前の親子の素性について考えていた。


 父親は倭の言葉を上手に話し、娘も倭の言葉を理解している。

 特に父親のほうは、異国人特有のぎこちなさや癖はあるが、それも意識しなければ気づけないほど倭の言葉が達者だ。




「あんたと、そこのおなごは異国の人だな」




 この問いに、少女の父親はわずかに躊躇してからうなずいた。




「安心してくれ。何かするつもりなら、最初から助けたりしない。ただ、あんたたちが何者なのか知れたほうが、俺たちも安心できる」

「はい、おっしゃる通りです」




 少女の父親は神妙な面持ちだった。




「俺は博麻という名だ。そこにいるのは息子の豆だ」




 豆はかまどの火で魚を焼きながら、小さくおじぎをした。




「私は、ラジンと申します。そして娘はウンノといいます」

「ラジンさんと、ウンノか。どこの国の生まれだ?」

「百済です」




 百済、と聞いた博麻は、大陸にある国だなと思い出した。




「あんたらは百済の人か」




 博麻の住む村は、筑紫国に属する。


 筑紫国は現在の福岡県で、ここに住む民は、古くから異国との貿易で栄えてきた歴史を知っている。

 そのため、ほとんど港に行くことはない博麻でも、海の向こうにある国の名前くらいはわかる。




「百済という国は、倭と仲が良いらしいが、あんたら親子は貿易商人か?」

「いいえ、違います。故郷から逃げてきたのです」

「逃げてきた?」




 おだやかではない言葉に、博麻は眉をひそめる。




「はい。百済は戦に負けて、滅びました。もう、これまでの生活はできません」

「戦だと……どこの国と争ったんだ」

「新羅と、唐です」

「唐? あの、唐帝国か」




 博麻が唐の参戦に驚くのも、無理はない。


 唐は大陸一の強国で、文化、技術、あらゆる分野において時代の最先端を誇る。倭国も唐から多くを学んできたため、唐には畏敬の想いがある。

 その唐が百済を滅ぼしたと聞けば、いくばくかの恐怖を感じてしまう。




「生きるためには、海を渡るしかなかったということか」

「そうです。唐と新羅の兵がいては、まともな人として生きることはできません」




 ラジンは嚙みしめるように答えた。


 故郷を追われたこの親子の姿に、博麻は哀れみを感じていた。

 このウンノという娘にとっては、より過酷な出来事だっただろう。大人たちの戦によって生活が壊され、言葉も通じにくい異国に渡るというのは、これからの長い人生を根元から崩されたことに等しい。




「倭の港に逃げてきた百済人は、まだまだいるのか」




 ラジンは黙ったまま、うなずいた。




「これから、どう生活するのだ?」

「職を得て、一から住み家を作るしかないと、思っています。まだ先のことですが……」




 故郷から逃げるだけで精一杯だったせいか、今後の生活のことを聞くと、ラジンは歯切れ悪く答えた。


 この親子は、これからが大変だなと思った。


 戦が起こっていない分、倭の方が住みやすいのは確かだ。しかし職と住居を得て、生活の基盤を作るのは一朝一夕ではできないことだ。




「博麻どの、お願いしたいことがあります」

「なんだ?」




 ラジンは寝藁から起き上がった姿勢から、体の向きを変え、地面に手をついて頭を下げてきた。




「まことに申し訳ありませんが、数日だけ、私たち親子をここに居させていただけませんか。私が歩けるようになるまで、どうか、どうか……」




 深く頭を下げるラジンの肩に、博麻は手を置いた。




「心配するな。助けておいて放り出すことはしない」




 この言葉にラジンは顔を上げる。彼の目は、うるんでいた。




「良いの、ですか」

「ああ。怪我が治るまで、あんたと娘のことは面倒を見てやる」

「うぅっ……ありがとう、ありがとう……っ!」




 ラジンは嗚咽し、彼は両手で、博麻の手を握った。

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