斉明天皇

「そなたもついてこい」

「ははっ」




 阿部は小さく頭を下げてから、足早に歩く大海人皇子の後ろにつき従った。

 お付きの護衛たちも、今の二人の背からにじみ出る緊迫感を察して、一定の距離を取りながら追ってきている。官吏が報告した内容は聞き取れなくても、緊急の要件だと気づいていた。


 二人は港から内陸に向かい、低い山の中腹に建つ大きな社にたどり着いた。

 石段を登った先に朱色の社が建っている。境内は多くの火が焚かれ、兵士たちによって厳重に警護されている。


 この社こそ、天皇の滞在地である。天皇は高齢の身であったが、軍の心を一つにするために、弱った体に鞭を打ち、自ら遠征軍を率いていた。

 天皇が朝廷どころか畿内から離れ、自ら軍を指揮するのは異例中の異例であったが、軍にとっては功を奏した。


 今回も、実際の指揮権は皇太子にあったが、天皇自らが豪族たちと交渉したことにより、想定を超える数の豪族が参戦を表明した。当初は五千人から一万人の兵を集めるつもりであったが、集まった兵士はすでに二万人を超えている。


 皇太子自身も、自分の力だけでは、ここまでの軍にはならなかっただろうと思った。


 また、老いた女帝は息子たちが圧倒してしまうほど、過密な予定を立てて働いた。

 政治の中枢であった飛鳥の地を離れても、山積みの政務をこなし、数々の豪族と直接交渉にあたった。新たに軍に加わった豪族がいれば、自ら出迎えてもてなし、少しでも時間があれば頻繁に兵たちを鼓舞した。


 そうして、今日まで疲れ知らずに働いた天皇であったが、ついに体調を崩してしまったという。いつか来るかもしれないことであったが、国を挙げての大一番を前にして、天皇が倒れてしまえば、軍の士気に甚大な影響が出てしまう。


 石段を登り切ると、すでに境内には皇太子と豊璋がいた。この二人も来たばかりのようで、わずかに息がはずんでいる。




「兄上」




 大海人皇子が皇太子に話しかけ、皇太子は小さくうなずいた。




「そうか、阿倍と一緒におったのか」

「はい。阿倍ならば問題ないと思い、同行させました。いかがいたしますか」




 皇太子は少し考えてから、「良い」と返答した。弟が連れてきた老将軍は、古くから朝廷に仕えた忠臣であるため、陛下を見舞う場に同行しても良いと判断した。




「今、女官に取り次いでもらっている。もう少しで、陛下のもとへ参上できるはずだ」




 皇太子がそう伝えると、残る三人もうなずいた。

 ほどなくして、女官の長が社の中から現れた。




「お待たせいたしました。陛下のもとに、ご案内いたします」




 女官長は頭を下げて告げてから、背を向けて歩き始めた。

 女官長の後に、皇太子、大海人皇子、阿部比羅夫、そして豊璋と続く。


 社の中は広く、入り組んでいる。長い廊下を何度か曲がって、ようやく大広間に着いた。




「陛下は容態がすぐれないと聞いたが、見舞いの場は寝所ではないのか」




 皇太子が案内役の女官長に問うと、彼女は首を振った。




「いいえ。陛下は身支度を整え、まもなくこちらへお見えになります」




 女官長の言葉に、皇太子は一瞬言葉を失った。




「体調を崩された陛下に、そのようなご負担をかけることはできない。ここではなく、我々が寝所の前まで出向き、扉越しに励ますほうが良いのではないか」




 念を押して皇太子が問うが、女官長は譲らない。




「しかし、それが陛下のご意思なのです」




 女官長がそう答えた後、大広間の上座にあった扉から、別の若い女官が出てきた。




「陛下のおなり」




 はっきりとした声で若い女官が告げると、一同が姿勢を正し、平伏した。

 床に手をつき、平伏した彼らの視界には、板張りの床しか見えない。


 そこで、ゆっくりとした足音が現れる。歩くごとに着物のすそが床に擦れ、その音が四人の正面で止まる。膝を折って座った音の後に、ふぅと疲れた吐息が聞こえた。




「面を上げなさい」




 天皇の言葉を受け、彼らは顔を上げた。


 正面の上座には天皇が座っていた。病人が着るような休みやすい着物ではなく、客人をもてなす正式な着物を着け、背筋を張って四人を見下ろしている。やはり顔色は少し悪いように見えたが、表情は平然としており、苦しさを感じさせていない。




「皇太子殿下、そなたは軍を統括する立場でしょう。なにゆえ、あなたが自ら、私のもとに駆けつけたのですか」




 開口一番、天皇は厳しい口調で問いただす。

 皇太子はわずかに気圧されそうになったが、すぐに気を取り直して答えた。




「陛下のご容態が思わしくないとの伝令を受け、陛下の身を案じて、急いで駆けつけた次第です」




 皇太子が答えても、天皇は態度を和らげない。




「私の身を案じるお気持ちには感謝しています。ですが、私の容態に右往左往していては、軍の士気に良くありません」

「ですが、」

「この通り、私の身は問題ありません。おのおの、役割を果たしなさい」




 有無も言わさぬ口調で命じた天皇に、皇太子を含めた男たちは静かに平伏した。

 天皇は立ち上がり、一歩一歩を踏みしめるようにして、大広間から去った。


 しんと静まった大広間の中、皇太子が頭を上げてから、大きく息を吐いた。




「兄上、いかがいたしますか」




 大海人皇子が前に座っている皇太子に問いかける。

 皇太子は困った顔を向けて、無言で首を振った。


 母が問題ないと言ったからには、外野が何を言っても無駄だろう。

 兄弟だからこそ、その無言のやり取りが伝わる。

 大海人皇子は皇太子に向かって一度うなずいてから、立ち上がった。




「阿倍よ」

「はっ」




 大海人皇子が呼ぶと、阿倍は体を向き直して返事した。




「陛下の指示通り、持ち場に戻るとしよう。この中で、そなたが最も多忙なはずだからな」

「ははっ」




 阿部が立ち上がり、大海人皇子に付き従う。

 最後に皇太子と豊璋に一礼してから、二人は大広間を出ていった。

 大広間に皇太子と豊璋が残ったが、彼らもあまり長居せず、大広間から去った。


 社を出て、石段を下る前に、皇太子は社に振り返った。

 皇太子の眉根は寄り、不安の色が見て取れる。

 それを見た豊璋も、同じ想いだった。




「陛下のお身体が、何事もなければよろしいのですが」

「うむ」




 豊璋のつぶやきに、皇太子もうなずく。




「陛下は非常に忍耐深いお方だ。倭国の長という自負もあると思うが、息子である私には、母親の覚悟のようなものを感じる」

「母親の、覚悟」




 豊璋が噛みしめるように言葉を繰り返すと、皇太子はさらに続けた。




「母親は、目の前にいる我が子の成長を守るものだ。だが、それは現在の我が子だけに目を向けているわけではない。いずれ来る成熟のために、今ここであらゆる手を尽くす。そのためなら、自分がどうなっても構うことはない。陛下は、昔からそういう方だ」




 その次に、皇太子は石段を下った先、港を埋め尽くす船団に目を向けた。




「この国は、未熟だ。大陸から新たな制度や文化を取り入れ、少しずつ形作られているが、まだまだ育てなければならないことが多い。だからこそ、痛みを伴ってでも、恐れず挑まなければならない時もある。赤子を産む母親が、苦痛を乗り越えるのと同じように」




 この皇太子の言葉を受け、豊璋は尋ねた。




「殿下、つまりこの戦も、倭国を大きくするための試練ということですか」




 皇太子は迷うことなくうなずいた。




「百済を助けることが第一だが、この戦にはそういう意味合いもある……中には、百済を助けなくても良いという意見もあるだろう。当事者ではないのなら、あくまでも自分たちを富ませることに専念すれば良い、安易に手を出すことは間違っている、とな」




 自然と皇太子の目に熱が帯びる。その真剣な眼差しに、豊璋はつばを呑みこんだ。




「だが、私はそのような人間が最も嫌いだ。自分さえ良ければ、今だけ何事もなく乗り切れば、後は誰かがどうにかしてくれる。そういった考えの人間は、政にたずさわってはならない。それどころか、人の上に立つことも許されない」




 皇太子は豊璋の肩に手を置いた。




「できることなら、私も戦地で戦いたかった。百済との関係が続いたことは、先人たちの努力によるものだ。それを守るためなら、豊璋どのと肩を並べて、私も身を削るべきなのだ」

「で、殿下、しかしそれは」

「わかっている。私が身を削る場所は、戦場ではない。この国に残り、命が尽きるまで、この国に住む民を豊かにしなければならない」




 自分に言い聞かせるように語り、皇太子は石段を下り始めた。

 豊璋も皇太子の後を追って、長い石段を下る。


 びゅうっと強い風が吹きつけ、下ろうとする足が止まりそうになる。地形の影響もあるのだろうが、今日も相変わらず、海からの風が強い。




「もう、五十日になるな」

「え?」

「この港に着いてから、五十日も経ってしまった。予定では、一か月で出発するはずだった」




 皇太子は苦い顔をして言った。


 船の整備、追いつけなかった豪族たちの合流など、この港でやらなければならないことは多かったが、そういったものはほとんど終わっている。

 軍というものは、維持するだけで非常に労力がかかる。巧遅拙速に如かずという言葉がある通り、多少のほころびがあっても、遅すぎるよりは早い方が良い。


 しかし、それができない理由が、まさにこの風である。

 毎日のように海から吹きつける強風が、大船団の出発を押しとどめていた。




「これが少数の船団なら風など気にせず、順繰りに出発させていただろう。だが、こうして一丸となりかけた大軍を、再び分けて向かわせるのは良くない。ましてや筑紫までの方角、地理にうとい豪族もいるのだから、余計に放っておけないのだ」




 いつ風が止むのか、という悩みはとっくに終わっている。

 止むまで待つか、それとも突き進むか。

 ここ十数日の間、皇太子の悩みの種はそればかりであった。




「風を鎮めるための祭祀を行うのはどうでしょう」

「それは私も考えていた。しかし、祭祀を行うとなれば、その場で最も神聖な方が執り行う流れになる」




 それを聞いた豊璋は、はっとした顔をしてから、力なくうつむいた。

 天候を祈る儀式をするという提案は悪くないが、それを行うとなると、天皇が自ら祭祀の実行することになる。




「陛下がご壮健であれば、祭祀も可能であっただろう。だが、今の陛下のご体調はそれどころではなく、また陛下にそれを打診することもできない」

「どういうことですか」

「陛下のことだ、もしも我々が想定外の風に苦慮していると知れば、病の身をおして祭祀を行おうとするに違いない。それだけは避けなければならない」




 石段を下りきったところで、皇太子は足を止めて夜空を見上げた。何も言わなかったが、どうか風よ止んでくれという祈りが、隣に立つ豊璋にも伝わった。


 それから数時間後、夜も更け、西から流れてきた雲が、港の上を覆おうとしていた。

 雲の色は黒く、濃い。夜空だというのに黒さがわかるほど、いやな色をした雷雲がやって来ようとしていた。

 皇太子、大海人皇子、豊璋など、位の高い人物は、もうそれぞれの寝所に戻っている。



 大海人皇子はまだ眠らず、持ち込んだ書物を読んでいたが、やってきた雲が雷鳴の鼓動を響かせていることに気づくと、書物を閉じて夜空をながめた。


 まずいな、と大海人皇子は苦々しくつぶやいた。

 現在、港では軍船を造り、風さえ止めば、いつでも出発できるように整備させている。これから海を渡って戦をするには、とにかく船が重要だ。


 それゆえ、嵐だけは来てほしくない。

 多少の悪天候ならば問題ないが、激しい雷雨によって、港に停泊させた船に損害が出てしまえば、また一から振り出しに戻ってしまう。


 空模様を見ていると、お付きの官吏の声が、寝所の前から聞こえてきた。




「火急の用にて、参上しました! 殿下はご就寝でございますか」




 寝所の前は衛兵が守っているため、官吏はそこで立ち止まって要件を告げたようだ。

 しかし、その声を耳にした大海人皇子は、自分から部屋を出て、寝所の門を開けた。




「まだ起きておる。なにがあった」




 官吏はその場で膝をつき、声を張った。




「申し上げます! 陛下が、陛下がっ」




 言葉をつっかえさせながら、陛下のことを言おうとする官吏を見て、さすがの大海人皇子も顔を青くした。




「陛下の身になにかあったのか。私は急がないから、息を整え、ゆっくりと申せ」




 なんとか落ち着きを保った大海人皇子の背中に、冷たい汗が流れる。

 今日の夕方、天皇は体調を崩した。皇太子や大海人皇子たちが駆けつけた時には、心配をかけまいとして大広間に現れていたが、ついにその時が訪れてしまったのかもしれない。


 最悪の事態を予期して、官吏の言葉を待つ。

 官吏は、はあっと大きく息を吐いて、一度吸い込んでから答えた。




「へ、陛下が、風を止める祭祀を、ただちに執り行うとのことです!」

「……なにっ?」




 予想を超えた報告に、大海人皇子は目を丸くした。


 大海人皇子も皇太子と同じく、何日も吹き荒れる潮風にやきもきしていた。兄弟ゆえに考え至ることも似ているようで、一度は天皇に祭祀を行ってもらうことも考えたが、今となっては不可能だと諦めていた。


 しかし、官吏の告げたことは、皇太子たちが諦めていたことである。




「まさか、そんな……陛下には、風で困っていることを伝えていないはずだが……」




 当然、大海人皇子も風の件を報告しないようにしていたが、どういうわけか、天皇は軍が出発できない理由を知ったらしい。




「わかった、すぐに身支度を済ませる。案内を頼むぞ」

「ははあっ」




 すぐに大海人皇子は寝所に戻り、従者を呼びつけ、祭祀用の礼服に着替えた。

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