百済国の末王子、倭国の皇子たち

 夜と夕焼けが混じった紫色の空の下、中大兄皇子は護衛を連れて、瀬戸内海を一望できる高台に立っていた。


 初春の潮風は強く、刺すように冷たい。

 風は港を乗り越えて高台にまで吹きつけてくるが、皇太子は寒さに体を震わせることなく、悠然と腕を組んだまま港を見下ろしている。




「皇太子殿下」




 名を呼ばれ、皇太子が振り向く。

 振り向いた先に立っていたのは、美しい鎧を着た青年であった。




「豊璋どの、いかがなされた」




 豊璋と呼ばれた青年は、一度頭を下げてから答えた。




「恐れながら、殿下が軍を監督する姿をそばで学びたく、こうして馳せ参じました。ご迷惑であれば、また日を改めますが」




 緊張した様子で話す豊璋に、皇太子は優しく微笑んだ。




「迷惑などとんでもない。さあ、どうぞ近くまで来られよ」




 許しを得たことで、豊璋はわずかばかり安堵したが、いざ皇太子の隣に立つと、堂々とたたずむ皇太子の雰囲気に飲まれそうになる。立ち姿や所作だけでも、学ぶべきことがたくさんある。


 豊璋は百済王の血を引く、末王子である。


 幼年期に人質として倭国に渡り、倭国の管理下で育った。名目上は人質であったものの、彼の待遇は極めて良好だった。屋敷や使用人も与えられ、趣味であった養蜂を屋敷近くの山で行えるほど自由な生活を送っていた。


 今回、豊璋が軍に随行しているのは、滅ぼされた百済を再建するために、正統な王位継承者が必要になったためである。


 唐・新羅の連合軍に百済の王都は落とされ、百済の義慈王は唐の都に連行された後、亡くなってしまった。現在も抵抗を続ける百済の将兵たちも、このまま王が不在では、戦い続けることは難しい。

 それに加えて、いずれは唐帝国も別の人間を百済王と宣言するだろう。義慈王の遠縁の人間を見つけ出し、または無関係な者をでっちあげてでも、唐の操り人形を王座に据えることで、無駄な労力を使わず領土を支配できる。


 ゆえに豊璋王子は、倭国が参戦する大義名分であり、死にかけた百済の人々を奮い立たせる旗印である。彼こそが新たな百済王だと知らしめた上で、唐と新羅を撃破すれば、倭国の完全な勝利となる。


 しかし、豊璋本人の顔色はすぐれない。故郷に帰り、自分が王になれるという喜びもあったが、生涯初の戦に対する不安や恐れの方がはるかに大きい。若い王子にとって戦とは、伝聞で聞くような別世界の出来事であった。




「ご安心くだされ、豊璋どの」

「え?」




 何も口にしていないのに、まるで心を読んだかのように皇太子が声をかけてきた。




「我が軍は強い。新羅が唐帝国と手を組んでいても、必ずや打ち倒すでしょう」




 皇太子は豊璋の肩を叩き、高台から見下ろせる港を指し示した。


 港は軍船で埋め尽くされ、その至る所から炎の明かりが灯されている。今夜もまた、各地から集まった兵士たちが船の整備や訓練に努めている。

 少なくとも二十を超える豪族が天皇の命に呼応し、ついには大和朝廷が開かれて以来、最大規模の大船団となった。


 また、博麻と薩夜麻が滞在している筑紫の港とは違い、この伊予(現在の愛媛県)の港にいるのは、皇室が指揮を執っている本軍である。その規模はもちろん、装備や練度の面でも、倭国の粋を極めた精鋭である。




「豊璋どのの役目は、我が軍の上に立ち、堂々と振る舞うことです。恐れも、不安も、使命感という熱で焼き払えば良いのです」




 皇太子が焼き払うという言葉を放ったことに、豊璋の表情が一瞬固まった。




「ああ、少し物騒でしたな」

「い、いえ、お気遣いなく。使命感で己の弱さを律するという考え、大変勉強になります」

「うむ。かく言う私も、自分の内にひそむ弱い部分に負けないよう、いつも頭を悩ませておるのです。だからこそ、日ごろから己を厳しく奮い立たせなければなりません」

「……殿下に弱い部分があるとは初耳です」




 意外に思った豊璋がそう言うと、皇太子は自嘲気味に笑った。




「もちろん、私にも弱い部分があります。大きな決断力は陛下におよばず、冷静な判断力は弟の方が備わっております。私は自分の至らぬ点を封じながら、少しでも強くあろうと立ち振る舞っているだけに過ぎません」




 そう語る皇太子の目に、不安や恐れは見当たらない。自分の弱い部分を豊璋に伝えながらも、皇太子としての顔を崩さない。


 中大兄皇子は母の天皇に代わり、若い時期から様々な政治改革に着手した。


 二十歳の時には、皇室に取って代わるほど権力を握った男、蘇我入鹿そがのいるかを自らの手で暗殺し、敵対していた豪族をことごとく支配した。その事件以降も、唐から学んだ律令制度の基盤づくりに奔走し、倭国の力を大いに高めた。


 新しい知識をふんだんに取り入れ、国づくりに活かす。それを邪魔し、敵対する勢力には暗殺すら辞さない。これらの皇太子の行動と実績に、多くの人間が恐れ敬っているのは、周知の事実である。


 だが、これほど豪腕を振るう皇太子ですら、弱い自分との戦いの連続だと語った。それは単なる謙遜ではなく、彼自身が重い口調で語った真実であった。


 豊璋はこの時、皇太子の強さを初めて正確に知れたと思った。

 彼は初めから強かったのではない。強くあろうと乗り越え、今も戦っているのだと豊璋は理解した。




「私も、殿下のように強くなりたい」




 つぶやく豊璋の拳には、いつの間にか力が入っていた。弱い自分を乗り越え、大軍団を平然と指揮する皇太子は、若い豊璋にとってあまりに大きく、遠い存在だ。




「急ぐ必要はありません」




 皇太子は豊璋の背中を優しく叩いた。




「豊璋どのは、まだ若い。これから多くの人間の姿を見て、学び、少しずつ大きくなれば良い。まずは自分ができることに力を尽くす。それを積み重ねた先に、百済の王となったあなたがいるのです」

「私に、できること……」

「はじめは上に立つ者として、堂々と振る舞うことからです。あなたが弱気でいては、百済の民も戦えない。人が急に強くなることはありませんが、自分の弱さを理解しながらも、周りを勇気づける為政者になることはできます」




 皇太子の助言を受けて、豊璋は力強くうなずいた。先ほどまで弱気だった王子の顔が、少しだけ大人びて見えた。




「ありがとうございます、皇太子殿下」

「礼には及びません、王子」




 それからも二人は、隣り合いながら話し続けた。二人の話題は戦や政治、経済のことが中心で、簡単な雑談ではあったものの、これからの倭国と百済をどう成長させていくかと、真剣な想いで語り合った。


 皇太子はひげを生え揃えており、彼の表情や姿勢には、権力闘争に揉まれ続けた風格を備えているが、実際の年齢は三十代半ばである。

 対する豊璋は十歳以上も若く、顔立ちも幼さが残る青年だ。


 はたから見れば親子のように見える二人だが、このようにお互いの国を想い、忌憚なく話し合う姿は、将来の天皇と百済王が手をとり合うことを暗示しているようだった。


 その頃、皇太子の弟である大海人皇子は港を歩いていた。


 護衛とともに港の様子をながめている大海人皇子を見て、兵士や豪族たちは急いで平伏しようとするが、その度に大海人皇子は「気にせず仕事せよ」と命じた。

 ほとんど言葉を発さず、軍船にいる兵士たちの動きや表情を観察する大海人皇子に、お付の護衛たちも近づきがたい雰囲気を感じ取っていた。彼の集中した表情には、単なる視察以上の何かが含まれていた。




「殿下」




 左から声をかけられ、大海人皇子は顔をそちらに向けた。


 左の足元に、一人の男がひざまずいていた。

 男は鎧と上衣をまとっているが、その上からでも、筋骨隆々とした体つきだとわかる。肩は大きく盛り上がり、腕は丸太のように太く、白髪が多く混じった長髪を後頭部で束ねている。




阿部あべの 比羅夫ひらふか」

「はっ」




 大海人皇子が尋ねると、阿倍 比羅夫と呼ばれた男は切れの良い返事をした。ただし声はとても渋く、猛獣のうなり声のようだった。




「良い。表を上げよ」




 大海人皇子の許しが下りたところで、阿倍は顔を上げた。


 深い皺を刻み、白い髭を豊かに伸ばしている。見た目こそ年老いているが、厚めのまぶたから覗く瞳は大きくて黒く、直視しがたい威圧感がある。さらには、こめかみから頬に伸びた荒々しい引っかき傷は、この男の容貌をより恐ろしくさせている。


 この阿倍比羅夫という男は、天皇三代にわたって仕えた老将である。

 彼は現在の天皇の命を受け、倭国の北方に住んでいた蝦夷(えみし)や粛慎(みしはせ)を征伐し、見事に服属させた歴戦の猛者だ。彼の顔や体に刻まれた傷も、それらの部族との戦いや、ヒグマ退治の際にできたものである。




「ご挨拶が遅れ、まことに申し訳ございません、殿下」




 阿部が再び頭を下げると、大海人皇子は首を振った。




「良い。そなたは我が軍の屋台骨であり、日々の軍務に追われる立場であろう。私も、そなたが忙しい身の上だとわかっておる」

「お気遣いいただき、ありがとうございます。ですが、今回は私も一人の老将に過ぎません。やれる仕事も少なく、時間を持て余してしまい、視察中の殿下に声をかけてしまいました」

「気にするな。そなたのような豪傑にかしこまられては、こっちもいたたまれなくなる……よし。せっかくだ、もしそなたの都合が良ければ、軍を案内してもらえないか」




 大海人皇子の提案を聞き、阿倍はうなずいた。




「承知いたしました。喜んで、案内させていただきます」




 そう答えた阿倍はすくっと立ち上がった。大海人皇子は平均よりも高身長だったが、阿倍比羅夫の背丈はさらに大きい。


 阿倍比羅夫は素手でヒグマを絞め殺し、そのまま喰らって平らげるという逸話もある。あくまでそれは誇張された話だと本人は言うが、彼の豪傑ぶりを知る周りの人間は、もしも彼がその気になれば、どれも可能だろうと思っている。


 阿部は部下から松明をもらい、自ら先導して大海人皇子を案内した。




「圧巻だ。これほどまで集結した軍を、私は見たことがない」




 港に停泊している船団に向かって、大海人皇子が感心してつぶやくと、阿倍も静かな口調ながら、誇らしげに答えた。




「ええ。倭国が始まって以来の大軍でございます。北は我が領地のある越州(北陸)から、南は筑紫(福岡県)まで、数多の豪族、部族たちが集まっております」

「うむ。船も多く、港を埋め尽くしている。何艘ほどになるのだ?」

「この港にある軍船は大小合わせて四百艘、また、筑紫の港にすでに集まっている豪族軍も合わせますと、六百を超える軍船が揃うことになります」




 数を聞いた大海人皇子は、満足そうに何度もうなずいた。




「殿下は軍のことになると、目を輝かせてくれますな」




 思わず阿部がそうこぼすと、いつも冷静な大海人皇子が照れくさそうに笑った。わずかな時間だったが、純朴な少年のような一面が見えた。




「失礼、殿下のことではなく、軍の紹介が仕事でした」

「阿倍よ、気にするな。自分にもまだ幼い部分があることはわかっている。こうして面と向かって言ってくれることは、存外に嬉しいことだ」




 それから大海人皇子は、船の上にいる兵士、特に部隊を率いる人間の顔に目を向けた。




「先ほど、そなたは自分のことを一介の将に過ぎないと言ったな」

「はい」

「たしか畿内の豪族が、今回の戦の主導であったな」

「はい。はたの 田来津たくつ狭井さいの 檳榔あじまさの両名でございます」




 名前を確認してから、大海人皇子は阿倍にその二人について質問した。




「阿倍よ、私はその二人の顔と名前は知っているが、彼らの能力や人柄については詳しく知らないのだ。そなたから見て、彼らはどんな将だ?」

「どちらも実直で、賢い男たちです。まだ若く、場を取り仕切る力は少し足りませんが、異国の言葉や作法に詳しい。彼らが代表となって百済の将兵と関係を深めれば、うまく連携して戦うことができるでしょう」




 今回の戦の指揮を執る二人の将は、阿倍のお眼鏡にかなう人間らしい。

 阿倍は戦に関して大変厳しい目を持っているが、そんな彼が太鼓判を押すということは、相当優秀な者たちなのだろう。




「それは頼もしいことだ。語学の堪能な若手に加えて、そなたのような経験豊富な男がついているのなら、私も安心できそうだ」




 嬉しそうに目を細めた大海人皇子だったが、その後で、港の反対側にある高台の方に目を向けた。


 先ほどの上機嫌な様子とは打って変わって、大海人皇子はどこか悲しげに眉根を寄せている。

 玩具を前にした少年ように喜んだかと思いきや、世を憂う老僧のような顔を見せる。大海人皇子はいつも兄を立て、自分から目立つことはしない男だが、こうして身近に話す関係になればなるほど、不思議な魅力のある男だった。




「殿下、どうされたのですか」




 阿部が尋ねると、大海人皇子は高台に目を向けながら答えた。




「私は兄とは違い、ひどく小心者でな。そなたのような頼もしい将たちがいても、この戦に勝てるかどうかと思い悩んでしまう。恥ずかしながら、人よりも不安の種が多いのだ」




 思わぬ弱音を吐露され、阿倍はどう返したものかと困ってしまったが、そんな阿倍を察してか、大海人皇子はさらにこう続けた。




「ここからは、私の独り言だと思い、聞いてほしい……私が知る言葉で、天の理は地の利におよばず、地の利は人の和におよばないという言葉がある。これは戦に限ったことではないが、私は何事にも、そこに目を付けてからでなければ行動に移せない」




 大海人皇子が語った言葉というのは、今から七百年以上前の中国で活躍した思想家、孟子の言葉である。孟子はかの有名な孔子の弟子であり、性善説や仁徳による王道政治を唱えた儒教家だ。


 天がもたらした好機も、地勢の有利さも、人々の団結力の前にはかなわない。

 人の徳に重きを置いた孟子は、戦に関して王に助言を頼まれたところ、このような言葉を残したという。




「今回の戦は、厳しいものになるだろう。唐と新羅は百済を滅ぼして勢いづき、なおかつ百済の領土の大部分を掌握している。天と地は、今やあの二国が握っていると言える」

「であれば、我々には……」

「そう、人の和だ」




 阿部も同じ考えに至ると、大海人皇子も体を向け直して、うなずいた。




「心を一つにして、何事にも団結してぶつかる。それを忘れなければ、たとえ他国の土地で戦っても、たとえ相手が唐帝国であっても、勝ち筋は必ず見えてくる。むしろそうすることで、敵の団結を揺らがすこともできる」




 ここまで話を聞いた阿倍は、大海人皇子の考えにいたく感動していた。


 しかし、先ほど大海人皇子が発した不安というのも気になる。人の和が崩れなければ勝てると語ったのであれば、その不安要素というのも、人の和が崩れる危険を見つけたということになってしまう。




「まさか、我が軍の団結力を崩す不届き者がいるということでしょうか」




 真剣な顔つきで阿倍が問うと、大海人皇子は首を振った。




「そう心配するな。そなたも含めて、我が軍は忠実だと私は信じている」

「では、殿下の不安というのは……」




 その時、阿倍はハッと顔を上げて、再び高台の方を見た。

 港を見下ろせる高台には、皇太子と豊璋がいる。遠くからでははっきり見えないが、彼らは友好的に語り合っているように見える。




「我が軍の古株であるそなただからこそ、遠慮なく言わせてもらう。私が不安を抱いているのは、豊璋どのの力量だ」




 歯に衣着せぬ大海人皇子の言葉に、阿倍も思わず息を呑んだ。


 豊璋は百済王の血を引き、今回の戦の総大将である。もちろん戦場での指揮は秦、狭井の両名や、百済の重臣などが行うことになるが、それでも名目上の総大将は、王子である豊璋となっている。




「彼が剣を取り、戦う必要はない。しかし大きな決断を下さなければならない時、辛い状況に耐えなければならない時には、豊璋どのの意思決定が大きな意味となる」

「軍全体が苦境に立たされた時、豊璋どのでは乗り切れないと?」




 この阿部の問いかけに、大海人皇子は首を振った。




「私が言いたいのは、単に豊璋どのは頼りないとことではない。彼はまだ経験が浅いだけで、これから大いに育つ人物だ。だからこそ、厳しい状況になった時、周りの人間が心の底から彼のことを考えて、正しく導くことができるかどうか……」




 大海人皇子が話している途中で、一人の官吏が慌てた様子で駆け寄ってきた。官吏は息を切らせながらその場でひざまずいた。




「何事か」




 大海人皇子が要件を問うと、官吏は肩を震わせながら答えた。




「も、申し上げます。陛下の、陛下のご容態が……っ」




 押し殺すように告げた官吏の言葉に、二人の顔色が変わる。

 大海人皇子は官吏に「ご苦労、下がって良い」と言い渡してから、阿倍の方に顔を向けた。




「そなたもついてこい」

「ははっ」




 阿部は小さく頭を下げてから、足早に歩く大海人皇子の後ろにつき従った。

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