博麻 対 土師富杼
「待たせたな」
「良いんや。親が子を褒めるのは当たり前やからな」
土師は上機嫌だった。元から明朗な男だが、先ほどのラジンの戦いを見てから、彼自身もいつになく期待に胸をふくらませていた。
「さっきの坊主、ラジンといったか」
「ああ」
「お前たち二人は、他の筑紫兵と毛色が違うな。隊の幹部みたいなもんか?」
この問いに博麻は首を振った。
「そんな立派なものではない。むしろ俺は罪人として徴兵された」
「……普通の兵より、自分たちは位が低いと言いたいんか?」
博麻はうなずいた。
土師は歯を見せて、くっくと笑う。
「お前は、あのラジンよりも強いんやろうな」
そう尋ねる土師の目は、赫赫とした熱を宿していく。
「どうなんや」
問われた博麻は上着を脱ぎ捨てた。
上半身裸になった博麻を見て、周囲が息を呑んだ。
日に焼けた博麻の体には、朱の刺青が施されていた。背中には燃えたぎる太陽、そして背中から肩、肩から胸にかけて、太陽からうねる炎が描かれている。
また、この刺青はラジンと初めて出会った時よりも、色鮮やかに、荒々しく彫られている。
戦におもむく博麻の無事を祈るために、息子の豆が新たに刻んでくれた渾身の一作である。
周りにいる人間はこの刺青に目を奪われていた。それだけ鮮やかで、雄々しく、見事な朱の刺青だった。
しかし土師や物部などは、博麻の鍛え上げられた肉体を脅威と見た。ただの狩人が一朝一夕で身にまとう筋肉ではない。
「俺が強いかどうか……それは自分で確かめろ」
博麻が軽く身を沈め、腕を構えた。
これは期待できると、頬が緩みそうになる土師だったが、それをこらえて名を問う。
「お前の名は?」
「博麻だ」
博麻が名乗ると、土師は目を輝かせ、片足を高々と上げた。
一体なんだと思った直後、彼は足を振り下ろして、砂浜を踏みつけた。
ずおっと地面が揺れた。
近くにいた博麻はもちろん、見物人たちも揺れを感じたようだ。力比べを楽しみにしていた彼らの顔が、みるみるうちに凍りついた。
「わしは出雲の
喜色満面のまま土師が突っこんでくる。
速さは物部にも負けていない。しかも体が大きい分、迫る圧力はずっと上だ。
だが、博麻は後ろへ逃げない。
つかみかかってくる土師の手を受け流し、すれ違いざまに脇腹を肘打ちする。
目にも止まらぬ反撃におおっと声が上がったが、土師はすぐさま体を切り返して襲いかかってくる。
「ちぃっ、待てや!」
肘が入っても痛がらない土師を見て、さすがの博麻も息を呑んだ。
再び手をかわして、すねを蹴った。並の人間なら立てなくなる一撃だが、土師は気にせず攻めてくる。手応えある反撃が、この男にはまったく効いていない。
本物の熊を相手にしているようだと思った。
しかし、それもすぐに思い直す。
がむしゃらに突っこんでくるように見えて、土師は油断なく隙をうかがっている。少しでも気を抜けば捕まってしまう。そうなれば命取りだ。これほどの体格差で捕まれば、投げる、締めるなど、好きな方法でねじ伏せられてしまう。
頑丈さは熊に劣らず、野生の熊にはない狡猾さが見え隠れしている。彼は熊よりも恐ろしく、手ごわい怪物だ。
博麻は後ろへ跳んで距離を取り、息を吐いて、先ほどよりも深く身を沈めた。
何かを狙っていると、土師だけではなく周りの見物人も察した。
「へへっ、望むところじゃあっ!」
それでも土師に様子見という選択肢はない。
正面から突撃し、今度は拳を振り上げてきた。
博麻も走り出す。初めて正面から土師に立ち向かう。
走った勢いのままに跳び、土師に膝蹴りを浴びせた。
膝は土師のあごに命中、土師の突進が止まり、体が後ろに傾いた。
「うお、おおおぉーっ!」
会心の跳び蹴りに、見物人が叫ぶ。
その間も博麻は足を止めず、着地した直後に腹を蹴った。
二発目の蹴りもまともに受け、土師の巨体が後ろへ飛ぶ。波打ち際に巨体が沈み、派手な水音を立てた。
浅いとはいえ、土師の全身は水に浸かっている。もしも意識を失っていれば溺れてしまうが、彼の部下は誰も動こうとしなかった。
主が倒れた姿を見て固まっているのではない。立つのが当たり前と、全幅の信頼を置いている顔だった。
その直後、やはり水面から土師が出てきた。あれほど激しく蹴られたにも関わらず、平然と立ち上がって、海から上がってきた。
「やるなあ、博麻」
嬉しそうに笑いながら、土師は自分の服を破り捨てた。
あらわになった肉体に、再び周囲はざわついた。
彼の上半身にも刺青が入っていた。色は黒で、雄大な曲線を使っているところは博麻と似ているが、彼の刺青は八つ首の大蛇をあしらった恐ろしい紋様だった。
出雲に伝わる怪物、ヤマタノオロチの刺青である。それは洪水や嵐の化身とされ、博麻と同じように、大自然への畏敬を表すものだ。
しかし、その意味を正確に理解する者は少ない。周りにいる大半の人間は、あのヤマタノオロチの刺青と見るや、慌てて土師から距離を取ろうとする始末だった。
「まだや、まだ足りんわっ!」
かっと叫ぶと、隆々とした土師の筋肉が膨れる。木の根っこのような太い血管が、どくんどくんと波打つ。
思わず博麻の体が震えた。恐怖ではない高揚感が体内を震わせ、熱を帯びていく。
両者が同時に走りだす。お互いが拳を引き、近づいた瞬間に打ち合う。
先に土師の拳が当たった。打ち下ろしの拳を顔面に喰らい、博麻の視界が揺れる。
歯を噛みしめて意識を保ち、今度は博麻の拳が、土師のあごをかち上げた。
「もっとや!」
殴られても土師は笑い、さらに殴り続けてくる。
負けじと博麻も殴り返す。二人の顔は腫れ、飛び散った血が砂浜に染みていく。
激しくなる殴り合いを見て、周りの人間は寒気を覚えた。今さら流血などを気にする人間はいない。彼らを震え上がらせていたのは、殴り合う両者が浮かべる薄ら笑みだ。
「兄貴……」
昔から博麻のことを知っている薩夜麻も、戦い、傷つけあうことを楽しむ博麻など、一度たりとも見たことがない。ラジンもまた同じ心境のようで、薩夜麻と同じく不安げな様子で見ている。
「とどめじゃあっ!」
叫んだ土師の両手が、頭を左右から鷲づかみする。博麻が抵抗する間もなく、土師の頭突きが顔面に炸裂した。
薩夜麻は叫び、ラジンは目を見開いて息を止めた。
凄惨な光景を前にして、周りの人間は顔をしかめ、これはひどいと首を振った。
博麻の体から力が抜ける。振りほどこうとした手は、だらりと垂れる。頭をつかまれたまま膝を屈し、砂の上で正座の体勢になった。
土師はゆっくりと頭を離した。彼のひたいには、博麻の鼻と口から出た鮮血がべったりと付いている。
焦点の合っていない博麻の瞳を見て、土師は頭をつかんでいた手も離した。
しかし次の瞬間、前に倒れていった博麻が足を前に出し、すばやく土師の懐に潜りこんだ。
「なっ……」
勝ちを確信していた土師は反応が遅れた。
腹の下に潜られたので、必死で引き剝がそうとするが、博麻はまったく動かない。
博麻は土師の下履きの腰部分をつかみ、全身で土師を持ち上げようとしている。
「ぬぅっ……こ、この……!」
巨体を誇る土師にとっては、苦しい姿勢だ。どれほど腕力があっても、それを充分に使うことはできない。逆に自分の体の大きさが邪魔をして、腹の下にいる博麻に四苦八苦する。
並の相手なら、力任せに引き剝がしていただろう。
だが、博麻の背中が押し上げてくる圧力は並ではない。
少しでも気を抜けば、一気に持ち上げられる。
焦りだした土師の表情を見て、周囲が騒ぎだした。薩夜麻とラジンも予想を超えた展開に驚き、手に汗を握って見守る。
「うぅっ……ぉおおおっ!」
吼えた博麻の腕が震え、わずかに土師の腰が浮いた。
それを見逃さず、土師の足を刈る。巨体がなすすべなく後ろへ倒れる。
「がっ!」
後頭部から砂浜に激突し、土師の視界が揺れた。
まぶたを何度も瞬かせ、頭を振り、土師は急いで立ち上がろうとする。そんな彼の耳に周りの叫びが届いたが、意識が混濁していたため、彼はそれを理解できなかった。
さらに首に太い物が巻きつき、土師の呼吸が強制的に止まった。
「かっ⁉ ……く、ぐぐうっ……は……っ!」
土師の首を、博麻の腕が絞め上げている。
後ろに回りこんだ博麻の裸絞めが極まったのだ。
周りが思わず叫んだのは、博麻に背後をとられたと知らせるためだった。頭を打ちつけてしまった土師は、それほどまでに無防備だった。
「か、かっ……かはっ……」
あごを引こうとしても、博麻の腕は完全に喉元に入っている。
体を振って暴れても、博麻は両足も使って背後から組みついているため、いくら土師でも振り飛ばせない。
みるみるうちに土師の顔が真っ赤に染まり、周囲の人間もそれを見て狼狽する。
その間も博麻は絞めつけを緩めない。体格の劣る自分が勝つために残された、最後の好機を逃すつもりはない。
しかし土師も諦めていなかった。腰にしがみついた博麻の足首をつかみ、ありったけの力を込めてねじり上げた。
左の足首に激痛が走り、博麻も顔をゆがめる。ねじられた足首の関節が、みしみしと嫌な音を立てていく。
さらに過激になっていく両者に圧倒され、兵士たちが騒ぎだす。
「お、おい……もう、そろそろ……」
「なっ、なあ! 止めた方が良いんじゃないか? このままだと二人とも……!」
決着はまだついていないが、ここで中断させた方が良いのではないかという声が上がる。
しかし勝負している二人に、そんな声は届いていない。
気づけば土師の顔はほとんど土気色に変わっており、博麻の足首もおかしな方向に曲がり始めている。
そこでラジンが走りだした。
一瞬遅れて、薩夜麻が叫んだ。
「おしまいだ! 力比べはここでやめだ!」
博麻の味方である彼らが止めてしまえば、それを後で非難される可能性もあったが、それでも彼らは両者を引き剝がそうとした。
他の豪族たちもそれに続いて、二人の戦いを止めに入った。
白熱した両者を引き剝がすまで時間がかかったが、大人数が動いたことで、なんとか引き離すことができた。
「げほっ、ごほっごほっ」
土師は喉を押さえ、何度もむせながら呼吸を繰り返す。
対する博麻は左足をかばいながら立ち上がり、土師のほうを睨みつけている。
「まだだ、まだ……」
うつろな目でつぶやく博麻は、なおも土師の方に近づこうとする。そこに怒りはなく、嬉々としている笑みすらあった。
その眼前に、薩夜麻がすっと腕を出した。
「兄貴、もう良いんです」
薩夜麻は首を振った。
ラジンも博麻の隣に来て、背中に手を添えてきた。
「若……ラジン……」
やっと博麻はいつも通りの顔に戻った。
落ち着いた博麻を見て、薩夜麻とラジンも胸をなでおろす。
「立てるか、土師」
物部が手を差し伸べ、土師はそれをつかんで立ち上がった。
「ひどい顔だ。一人の将が、こうも殴られた姿を見せるとはな」
物部に小言を言われても、土師は気にしなかった。
口にたまった血を足元に吐き捨て、血に染まった歯を見せた。
「うへへっ……久しぶりに、ガキの頃に戻った気分やあ」
「そんなことは聞いていない」
満面の笑みを見せる土師に、物部は呆れていた。
「それで、どうするのだ」
「おう?」
「いい加減にしろ。力比べの結果はどうするのだと聞いているんだ」
土師はようやく合点がいった顔になった。どうやら熱中しすぎたせいで、本気で力比べの意味を忘れていたらしい。
「どうするもこうするもないやろ」
土師は博麻のほうを見た。
「わしと互角以上にやり合える男を、戦に出さないのはあり得んわ。そこのラジンと同様に、博麻も文句なく素晴らしい兵士や!」
あれほど激しく傷つけあったにもかかわらず、土師は清々しい笑顔だった。
「お前らも見たか!」
土師は周りに向かって叫ぶ。
「戦は所詮、殺し合うだけや! そこには立派なもんはなく、強さしかないんじゃ!」
身も蓋もない言いかたに、一部の兵士たちは顔をしかめたが、多くの兵士は土師の言葉に耳を傾けている。
「薩夜麻の部下二人は、確かな強さを証明した! わしらの敵は、あくまで唐と新羅や! この薩夜麻の隊は、なんと頼りになる味方じゃあっ!」
その場にいた人間のほとんどが土師に応え、彼らも拳を突き上げて叫んだ。
それから土師は、物部のほうに振り返った。
「これで文句ないな」
物部の部下たちの視線が、先頭にいる物部に注目する。
腕を組んでいた物部はうなずいた。
「良いだろう。筑紫どのの隊が港に入ることを許そう」
「船造りも、やって良いと?」
薩夜麻が確認すると、物部は「無論だ」と答えた。
「ただし、治安を乱すようなことをすれば即刻追い出す。どれだけ優秀な部下がいたとしても、そこは肝に銘じておけ」
「ありがとうございます」
薩夜麻は頭を下げたが、物部は顔をしかめた。
「今後、人前でそういう真似はするな」
「え?」
薩夜麻は顔を上げた。
「こうなったからには、筑紫どのも立派な将だ。官位の上下はあっても、戦場に出れば私も同列扱いとなる。将が簡単に頭を下げれば、下の人間に示しがつかないぞ」
そう言ってから物部は部下を連れて歩きだした。
「おう、どこに行くんや?」
「陣に戻る。もうじき天皇陛下と皇太子殿下が、朝廷軍を率いて来られるのだ。今日もその出迎えの準備を進めなければならない」
「せっかく新たな仲間が加わったんや。今日ぐらいは休んで、祝いの宴でも開こうや」
土師の誘いに、物部は仏頂面で首を振った。
「やりたければ勝手にやれ。言っておくが、酔って民に迷惑をかけるなよ」
羽目を外さぬよう釘を刺してから、物部たちは坂道を上って、砂浜から去った。
整然と歩く物部の隊を、博麻たちは見送った。
「さあて、物部の許可も出たんや! 今夜は酒盛りじゃあ!」
上機嫌で叫ぶ土師に、薩夜麻は苦笑いを浮かべた。
「本当に良いのですか? 物部どのは仕事があると……」
「ええんや、言いかたはどうあれ、許可は許可や。勝手にやれと言ったなら、思いっきり勝手さしてもらうわ!」
どんっと土師の手が薩夜麻の肩に乗った。
「薩夜麻よ、酒はいけるやろ?」
「しかし、」
「固いことは言いっこなしや! どうせ明日から忙しくなるんやから、今夜は気兼ねなく飲んだほうがええ!」
それから土師は、博麻とラジンに目を向けた。
「お前らも、わしらの陣幕に来い!」
「いや、俺とラジンは良い。俺は傷が痛む前に手当てするつもりだ」
博麻は断ろうとしたが、土師は「だったら、なおさら来い」と言った。
「医術に長けた部下に診させて、出雲に伝わる秘伝の塗り薬も用意したるわ。怪我や傷にたいそう効くからな。その処置が終わったら、黙って同席せい!」
強引な男だと博麻たちは思ったが、嫌な気はしなかった。強引なように見えて、博麻たちを周りに馴染ませようとしている。彼は根っからの親分肌なのだろう。
その夜、博麻たちは土師の陣営でもてなされた。倭の列島各地から集まった豪族、部族たちとともに、酒を酌み交わして語らった。
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