倭国天皇の祈禱

「わかった、すぐに身支度を済ませる。案内を頼むぞ」

「ははあっ」




 すぐに大海人皇子は寝所に戻り、従者を呼びつけ、祭祀用の礼服に着替えた。

 官吏が灯りを持ち、大海人皇子を先導する。




「陛下はどちらで祭祀を行うのだ?」




 早足で向かいながら、案内役の官吏に問う。




「港の北にある、小山の山頂で行うとのことです」

「あそこか……」




 大海人皇子はすぐにその場所を思い出した。


 湾になっている港の北に、木立が茂る小さな山がある。

 山頂の木々は伐採され、土を敷いた広場になっており、そこには船乗りのための灯台が建っている。

 あの小山ならば、間近で海を見渡すことができる。祭壇を建てて、海と空を鎮めるための祭祀を行うにはうってつけと言える。


 だが、その場所で行う祭祀は、大きな賭けだ。

 港北の小山は、軍船がひしめく港に近いため、すべての兵士たちの目に入る場所だ。山頂にいる人間の顔まではわからなくても、そこに何人の人間がいて、何を行っているか、港からはっきりわかる。


 つまり、その祭祀の結末は、倭国の全軍が目撃することになる。

 この時代、為政者による祭祀は重要な意味を持っていた。そしてその結果こそ、為政者の神聖な力や人徳の賜物と伝えられ、人々は心からそれを信じていた。




「もしも失敗、いや、それどころか途中でお倒れになったら……」




 誰にも聞こえない小さな声で、大海人皇子は不安を口にした。

 天皇の体は限界を迎えつつある。年齢は六十を超えているにも関わらず、この軍の中でも一、二を争うほど忙しく活動していたのだ。


 その弱りきった体のままで、兵士たちが見ている前で、祭祀を行う。

 考えたくないことだが、もし祭祀が成功せず、嵐が来て船に損害が出たら、兵たちの士気は著しく低下するだろう。それだけならまだしも、万が一、天皇の身に何かあれば、軍は完全に崩壊してしまう。


 震えそうになる手をきつく握りしめ、大海人皇子は祭祀場に向かう。

 小山のふもとに着き、曲がりくねった石段を登る。石段の両脇で生い茂る木々が、強くなってきた風を受け止めて、ざわざわと音を立てて揺れている。




 やっと石段を登り切ると、山頂の広場には皇族、重臣の一同が集まっていた。彼らは地べたに膝をつき、広場の奥にある祭壇を見守っている。


 海を見渡せる祭壇に立つのは、天皇ただ一人である。

 天皇は海の方に体を向け、そばで体を支える女官もつけず、直立の姿勢でいる。


 しかし女官は一人だけいる。集まった君臣一同から離れたところに、ほっそりとした妙齢の女官が座っている。

 その女官の名は、額田王ぬかたのきみといい、大海人皇子の妃の一人である。彼女は高位の豪族の娘として生まれ、十年以上、天皇の右腕として神事や歌を執り行ってきた才女だ。また、今も稀代の歌人として、天皇から絶大な信頼を得ている。


 一方、額田王が大海人皇子の子を産んでから、天皇は彼女の負担を減らすため、彼女を女官として付き従わせる機会を減らしていた。


 それにも関わらず、今回、額田王が公式の場に現れている。

 すなわち天皇がこの祭祀に、並々ならぬ想いを懸けて挑んでいることは明白だ。




 大海人皇子は静かに広場の中を進み、皇太子の隣に座った。

 広場は静まっていたため、隣にいる皇太子に声をかけることはできなかったが、その表情だけは読み取れた。


 兄も同じく、不安らしい。

 祭壇を見上げる皇太子は、唇をきっと結び、ほとんどまばたきをしていない。


 天皇である母の祭祀を見守るが、いざとなれば、自分が真っ先に助けなければ。

 そんな想いが、大海人皇子にも伝わった。


 祭壇上にいる天皇の着物が、潮風を浴びて、ばたばたと音を立ててはためいている。手には大幣(おおぬさ)を握り、耳には黄金の鈴を飾っている。鈴が風に揺れ、清らかな音を鳴らしている。


 一同が向いている先は、荒れ始めた海だ。

 風を受けて波が逆巻き、地鳴りのような水音を立てて、荒れ狂う。

 それは音しか聞こえない。炎は焚いているが、海までその光は届いていないため、まるですぐ目の前に大海原が迫っているかのような錯覚を抱く。


 祭壇に立つ天皇は、それを物ともしていない。

 天皇が大幣を両手に握り、それを頭上にかかげる。




 そして、祈りの言葉を唱え始めた。

 祭祀が始まり、一同も手を合わせて祈る。

 粛々とした空気が、祭祀の場を支配した。

 波がうねり、騒々しい音を響かせている中、天皇は朗々と祈りの言葉をつむぐ。


 海よ、静まりたまえ。

 風よ、収まりたまえ。


 どれほど強風にさらされようとも、あまねく国津神に恵みを乞う。

 海、土、草木、あらゆるものに神が宿っていると伝えられた国だからこそ、自然に宿る名もなき神々を心から敬い、畏れ、身を挺して祈る。


 だが、自然は時に厳しい返礼を浴びせる。

 海の向こうが、かっと光る。

 その直後に雷鳴が轟き、祭祀の出席者たちは息を呑んだ。




 落雷を「かみなり」と呼ぶ起源は、神が鳴っているというところからだ。

 つまり雷鳴は神の意志表示、強い怒りが具現化したものだと言われている。


 その場にいた者たちは姿勢を崩さず、無言で祈り続けていたが、内心では肝を冷やしていた。


 陛下の祈りが届かず、むしろ神の怒りを買ってしまったのではないか。

 そういった疑念や諦めの感情が思わず生まれそうになるが、目の前で必死に祭祀を行っている天皇の姿を見れば、諦めようとする人間は一人も現れるはずもない。




 やがて風だけではなく、雨も降って来た。

 ぽつ、ぽつと顔にしずくが当たってきたかと思えば、それがだんだんと強さを増し、風に吹きつけられた横殴りの雨となった。


 冬の豪雨はとてつもなく厳しい。

 冷たいというものを通り越して、皮膚に突き刺さるような痛みを覚える。着物はずぶぬれになり、体のすみずみまで冷やしきってしまう。


 地べたに座り、多少は体を丸めて耐えている君臣たちも、体の震えをこらえることに意識が支配されてしまうほどだ。頭のすみでは、神々に対して祈り続けなければと考えていても、体の芯まで凍えてしまっては、とにかく我慢の一文字しか頭に浮かばない。


 しかし、その間も天皇は祭壇に立ち、祈りを一句も途切れさせない。

 刺すような雨粒も、息が止まるほどの強風も、まるで意に介していない。


 六十を超えた老女だというのに、その背から老いや弱さは微塵もない。そびえ立つ岩のように微動だにせず、ひたすらに祈りの言葉を唱え続ける。

 皇太子と大海人皇子は、天皇に最も近く、なおかつ、ななめ後ろに座っているため、天皇の横顔がわずかに見える。


 表情の細部までは読み取れないが、横顔から、大体の雰囲気はつかめる。

 天皇は苦しみを抱いていない。少なくとも、苦しい表情は一切浮かべておらず、はつらつとした表情で祈っている。

 息子たちですら、目を覆いたくなるほどの豪雨の中、その母は朗々と祭祀を続けている。


 国の長としての覚悟と、執念。

 天皇の背中を見た者は、その鬼気迫る想いを感じ取り、ぶるりと体が震えた。




 どれほど時間が経ったのだろうか。

 ほんの数分だったのか、それとも数時間も過ぎていたのか。

 祭祀の場で耐えるだけだった君臣たちは、その変化に気づくまで、ややしばらくかかった。


 はじめに、風向きが変わった。

 暴風が吹き荒れていたため、変化に早く気づいた者は少数だった。しかし大多数が気づいたころには、海から舞い込んでいた西風が、ほとんど逆方向である北東の風になっていた。


 これだけでは終わらない。風によって雷雲が徐々に押し流され、雨の勢いが弱くなっていき、散発的な雨粒が降るだけになった。空を見上げれば、あれほど分厚かった雲の層が、薄くなりながら太平洋に流れ始めた。


 そうして雲が晴れた夜空には、星々と月が浮かんでいた。

 月は満ちていた。

 真円の月は大いに輝き、そのまばゆさは光の輪郭が二重に見えるほどだ。




神憑かみがかっている……」




 ある重臣が、思わず口にした。

 晴れ渡る夜空を目にした一同は、これは現実なのかと己の目を疑っていた。


 ただ一人、祭壇に立つ天皇だけが、これは必然であると言わんばかりに平然としている。

 ゆっくりと天皇が振り返る。鈴の耳飾りが、ちりんっと鳴った。

 すぐさま一同が姿勢を正し、手をついて平伏する。




「みな、面を上げなさい」




 天皇の指示を受け、一同は顔を上げた。




「まずは、私たちの祈りに応えてくださった八百万の神々に、まごころを込めて、感謝いたしましょう」

「ははぁっ!」




 返事した一同は、その場で柏手を打ってから、合掌したまま拝礼した。

 天皇も海へ向き直り、同じ所作を行い、深々と拝礼した。

 次に天皇は、君臣たちに感謝の意を伝えた。




「みなのおかげで、今日の祭祀はつつがなく、厳粛に行われました。この場を借りて、みなに感謝いたします」

「陛下の大御心に、感謝と感服を言い表す言葉が見つかりません。八百万の神々にも、陛下の切なる祈りが通じたことでしょう」




 代表して皇太子が祝辞を述べ、一同もそれに続いて拝礼した。

 天皇は彼らの祝辞にうなずいてから、祭祀場の端に目を向けた。




「額田王よ、こちらへ」

「ははっ」




 天皇は自分が最も信頼する女官の名を呼んだ。

 額田王は返事をしてから、君臣たちの横を通って、祭壇のそばに立った。




「風と潮目が変わり、見事な月に照らされています。これ以上ない船出の時です」

「はい」

「そなたに一首、詠んでもらいたい」




 天皇が額田王に言い渡したのは、この状況を表した和歌を作り、詠むことだった。

 これは、単純に余興を命じたわけではない。


 命がけの祭祀を完遂し、またとない天候になった今、兵士たちの戦意を高める決め手が必要であるためだ。

 これは天皇を始めとした皇族が難しい言葉で命じても、威圧感のある武将たちが檄を飛ばしても、最大の効果は生まれない。


 しかし、和歌ならば通じる。


 古今より、和歌は貴人も庶民も問わず、親しまれてきた。最古の和歌集である万葉集には、乞食や遊女の作った歌すらあったほどだ。たとえ教育が行き届いていない兵士たちにも、和歌に乗せた想いは、正確に伝わる。


 嵐が収まり、船出の好機が訪れたことを詠み、あらゆる人々を奮い立たせる。

 これは、天才的な歌人である額田王にしかできない仕事だ。


 今、祭祀場はもちろん、港にいる兵士たちも静まっている。雷雨によって上から下への大騒ぎであったのだが、それが奇跡的な早さで過ぎ去ったことで、呆気にとられている。


 額田王は一歩進み、空を見上げてから、少しずつあごを引いて、目線を下げていく。

 最後に正面を見すえて、月光に照らされた海をながめたところで、彼女は息を吸った。




熟田津にきたつ

 船乗りせむと月待てば

 潮もかないぬ

 今は漕ぎ出でな」




 彼女は、朗々と詠み上げた。

 熟田津の港にて、船出の時を待っていると、月が昇り、ついに風と潮目が変わってきた。さあ、今こそ海へ漕ぎ出そう。


 この瞬間に訪れた好機を前面に押し出す、これ以上にない一首であった。

 その和歌を君臣一同が自然と口ずさみ、それが祭祀場を守る警備兵へ伝わる。


 それはまるで波が広がっていくようだった。だんだんと人々が口ずさみ、その和歌の意味を理解していく。やがては港にいた兵士のすみずみまで、額田王の和歌が伝わった。


 二万を超える人々の心に、出港の二文字が刻まれた。




「殿下」




 天皇が皇太子を呼ぶ。




「はっ」

「後は、そなたに託します」

「っ……ははあっ!」




 一見すれば、要領を得ない命令だろう。

 しかし、この場にいるすべての人間は、自分が何をやるべきなのかを理解していた。


 天皇が祭壇から下り、額田王が横から支える。

 足どりは重く、顔には隠しきれない疲労の色が見て取れる。


 その姿に、皇太子を始めとした一同は、思わず目頭が熱くなった。

 皇太子はそでで目元をぬぐうと、祭祀場に集まった君臣たちに振り返った。




「みな、急ぎ出港の準備を進めよ!」

「ははっ!」




 君臣たちが声を上げ、ただちに動きだす。

 諸将は軍船に乗り込み、戦意たかぶる兵士たちとともに、岸から続々と離れていく。


 天皇は指揮を執る息子たちを見届けてから、今にも崩れ落ちそうになる自分の体を、必死に叱咤しながら祭祀場を去った。

 そばで支えている額田王は、涙をこらえ、震えそうになる唇を噛みしめていた。


 陛下はもう、長くない。


 今日の祭祀は、最後の力を振り絞ったものだった。本来ならば寝床で休まなければならない体調であったが、天皇は己の残り少ない寿命を鑑みて、最後の最後まで、国の礎のために力を尽くした女性だった。


 これこそ国母と言うのだろう。

 己の身を削り、国を育てる母とは、こういう人物なのだろう。


 その日、倭国の全軍がつつがなく出港し、二か月後、筑紫に無事到着した。

 天皇はそれから数か月もの間、病に伏せる日々が続く中、息子たちの軍務を支え続けた。




 ―――そして七月二十四日、筑紫国の朝倉宮にて、天皇は崩御された。六十八歳であった。


 生涯に二度、天皇として即位し、国力増強に腐心した女帝の名は、斉明さいめい天皇。

 彼女は大化たいかの改新という、目まぐるしく国の制度が移り変わっていく時代に生き、日本列島にいる諸民族の平定、土木建設の推進、そして海外出兵など、あらゆることに挑み続けた。


 だが、斉明天皇の功績は富国強兵だけにとどまらない。

 彼女は祈禱きとうによって天候を変えたとされる、日本最古の公式記録を持つ天皇であった。

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