出兵の朝

 季節は過ぎ、やっと春の気配が感じられるようになった。

 野山に積もった雪は溶け、その下の緑から花が芽吹く。日に日に太陽の輝きは増し、厳しい冬を乗り越えた民は、今年も生き残ったことを祝う。



 一方、筑紫氏の屋敷がある村では、そういった場を設ける雰囲気ではなかった。


 早朝にもかかわらず、屋敷の前には三百人の兵士が集まっていた。彼らの大半は筑紫氏が常備している警護兵ではなく、今回の百済救援のために徴兵された農民たちだ。


 彼らの本当の戦いはこれから始まる。

 自分たちが戦う相手は冬の気候ではなく、武器を握り、殺意のままに襲いかかってくる異国の人間たちだ。


 ゆえに彼らに余裕や笑顔はまったくない。彼らの行く先は、血を血で洗う戦場だ。それを喜び、勇む人間は普通の神経ではない。




「若さま、俺たちは生きて帰れるのでしょうか」




 ある兵士が、馬上の薩夜麻に問いかけた。


 今回、筑紫氏の軍を指揮するのは薩夜麻だ。彼は焦げ茶色の鎧を着て、腰には伝家の剣を差している。




「案ずるな。私は決して皆を捨て駒にはしない」




 薩夜麻はそう答えるしかない。生きて帰れるという無責任なことは言えず、かといって全員で玉砕するぞと言えば兵は絶望する。




「す、すまねえです。若さまも大変なのに、困らせるようなことを……」




 農民あがりの兵士は、すぐ薩夜麻に謝った。親しみやすい薩夜麻だからこそ、彼のような一兵士ですら、思わず素直な不安をぶつけた。




「良いのだ。恐いのは全員同じだからな」




 薩夜麻もそれをわかっているため、この問いを無礼だと怒ることはない。


 兵士たちの周りには、彼らを見送りに来た家族も集まっている。家族たちもまた、今生の別れとなるかもしれない兵士を、悲しそうな目で見つめている。


 その時、屋敷の正門が開かれ、護衛を率いた国麻呂と安麻呂が出てきた。

 わざわざ見送りに来た兄たちを見て、薩夜麻は顔をしかめた。




「こうして見ると、壮観だな」




 にたにたと笑いながら、安麻呂がそう述べた。




「なかなか似合うな。その鎧と剣が似合うのは、我が三兄弟の中でお前しかいないぞ」

「無駄口を叩くな、安麻呂」




 国麻呂がたしなめると、安麻呂は仕方なく口を閉じた。




「あの男は、まだいないようだが」




 国麻呂がそう言うと、薩夜麻はうなずいた。




「なんだと! せっかく大兄上が温情を与えたというのに、あの男はそれすらも反故にする気か?」




 すかさず安麻呂が文句を言った。

 彼は自分を軽んじてきた博麻のことを嫌っているため、博麻が嫌々ながらに出陣する姿を心待ちにしていた。




「薩夜麻、もしもあの男が約束を破れば、あの男の家族ものとも領地追放だぞ。あそこに建てられた家も墓も、まとめて更地にしてやるからな!」




 しつこく念を押してくる安麻呂に、薩夜麻はあからさまに舌打ちした。




「なっ……なんだ、その態度は!」




 安麻呂は声を荒げたが、手出しできなかった。


 曲がりなりにも薩夜麻は軍を率いる立場である。日頃から兄という立場を笠に着ていても、出陣前の将に手を出すような暴挙は取れない。


 いつも兄を立てる薩夜麻でも、安麻呂の器の小ささに、我慢の限界を迎えていた。


 国麻呂はともかく、安麻呂から労いが感じられない。今日この場に来たのも、気に入らない薩夜麻と博麻が出陣したかどうかを見届けるためでしかないのだろう。




「先日、あの博麻という男に使者を送り、出陣の日程は伝えてある。それでも今日中に来なければ、約束を破ったと判断させてもらうぞ」




 国麻呂に言われ、薩夜麻はうなずいた。




「良いでしょう。兄貴は約束を破る人ではありません」




 初めて兄たちの前で、博麻のことを兄貴と呼んだ。国麻呂は鼻で深く息を吐き、安麻呂はさらに不機嫌な顔になった。




「……俺たちを差し置いて、やつを兄貴と呼ぶか。たいそう信頼しているようだな」




 遠慮のない当てつけに、国麻呂は苦笑した。




「もちろんです」




 薩夜麻は曇りのない目で答えた。それどころか不敵な笑みすら浮かべていた。


 兄たちと言葉を交わすのは、これが最後となるかもしれない。ならば遠慮することは何もない。兄たちも心のどこかで、今日が生意気な弟の見納めだと考えているはずだ。




「若さま!」




 一人の兵士が、薩夜麻の近くで膝をついた。




「どうした」

「あの刺青の男が来ました。子どもたちも一緒です」

「そうか……」




 報告を聞いた薩夜麻は、複雑な心境だった。

 家と墓を守ると言った手前、兄貴ならば這ってでも来るだろうと思っていた。


 しかし豆とウンノも見送りに来たと聞いて、薩夜麻は胸が重くなった。


 父親を戦地に率いる自分が、どのような顔をすれば良いのだろうか。

 時には博麻に危険な命令を下す立場なのだ。父を死なせたら許さないぞと、恨み言の一つや二つを言われてもおかしくない。




「……よし。丁重に迎え入れてから、ここに連れてきてくれ。彼は罪人という扱いだが、君たちと助け合う仲間たちだからな」

「わかりました」




 兵士は一度離れてから、すぐに博麻一家を連れてきた。

 その場にいた筑紫氏の兄弟たちは、博麻たちを見て、息を呑んだ。


 まず驚いたのは、三人とも左頬に刺青が入っていることだ。博麻はともかく、豆もウンノも荒々しい朱の刺青を刻んでいる。ウンノにいたっては火傷のような痛々しい色も混じっていて、見れば見るほど不気味な刺青だ。


 だが、本当に驚くべきなのは、容貌の変化などではない。


 博麻とウンノ、この二人が武装している。


 博麻は狩猟する時に着る毛皮の服で、弓を背負い、斧を持っている。ただし大きな薪割り用ではなく、片手で振り回せそうな斧を二本、腰の左右にぶら下げている。

 ウンノは髪を短く切り、少年のように見せている。彼女も博麻と同じ服を着ているが、さらにその上に、なめし革を重ねた胸当てを装着している。そして背中には短い弓、腰には父の剣を差している。




「待たせたな、若」




 博麻が挨拶したが、薩夜麻はそれどころではない。




「兄貴、ウンノ、これは一体……」

「見ての通りだ」




 そう言ってから、博麻はウンノの肩に手を置いた。




「理由は後で話すが、こいつも出陣する」

「ええっ?」




 先ほどの緊張はどこへやら、薩夜麻は素っ頓狂な声を上げた。




「じょ、冗談ですよね」




 薩夜麻はもう一度尋ねたが、博麻は笑って首を振った。

 それから博麻は、近くにいた国麻呂と安麻呂に話しかけた。




「安心しろ、約束通りに俺も出陣する」




 安麻呂はうろたえ、困った顔で国麻呂を見た。

 隣の国麻呂も少し沈黙してから、口を開いた。




「本気で、そいつも連れていくのか」

「そうだ」

「……おなごが戦場で何ができるというのだ」




 小声で国麻呂が指摘すると、博麻はウンノに耳打ちした。

 ウンノは微笑むと、矢筒から矢を取り、弓を構えた。




「お、おいっ! 何をする気だ!」




 安麻呂が悲鳴のような声を出すが、博麻は「安心しろ」と答えた。


 ウンノは辺りを見渡してから、屋敷を囲む外壁に何かを見つけ、矢を引き絞った。

 屋敷を矢で狙っているウンノを見て、安麻呂以外の人間もざわついた。


 ウンノが矢を放つ。


 力強く飛んだ矢は、壁に架かっている松明に命中した。

 松明は矢に砕かれ、木片となって落ちていく。


 博麻と豆以外は素直に驚いていた。ウンノのことをよく知らない兵士も、その弓の腕に感嘆していた。




「文句はないな」




 博麻が鋭い視線を送る。

 国麻呂は目を閉じ、小さくうなずいた。




「兄貴、家のことはどうするのですか?」

「俺たちが帰るまで、豆に任せる。今のこいつなら、たとえ村が賊に襲われても大丈夫だ」




 今度は豆の肩を叩く。豆は照れくさそうに笑った。

 薩夜麻は豆の体つきや仕草を見て、妙に納得していた。


 どういうわけか豆とウンノは、博麻の手によって立派な少年少女に成長していた。ただ体つきが大きくなっただけではなく、二人とも余裕と落ち着きを兼ね備えている。




「一人多く加わったが、他は何も変わらない。さあ、号令をかけてくれ」

「わかりました。ウンノ、これからよろしく」




 改めて名を呼ぶと、ウンノは首を振った。




「ラジン」

「え?」

「戦場で女の名は使わない。今日から僕は、ラジンと名乗る」




 亡き父の名を使い、男装をして戦場に行く。

 並々ならぬ決意を察して、薩夜麻は黙ってうなずいた。




「皆の者、出発だ!」




 薩夜麻が号令をかけた。

 先ほどまで戦を恐れていた兵たちだったが、意外にも雄々しい声を上げ、二度、三度と拳を突き上げてくれた。


 ウンノ改め、ラジンの弓を見たせいだろう。その気分の高まりは一時だけでも、初めて軍を率いる薩夜麻にとっては、声を張り上げてくれる部下は頼もしかった。

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