覚悟の刺青

 三人が身構える。

 豆は小刀を構えたが、博麻の後ろに隠れた。何かがあった時はそうしろと、二人に言い聞かせている。


 しかしウンノは、いつもと違った。

 博麻の近くに寄らず、草むらに向かって剣を構えた。




「おい!」




 博麻は怒鳴ったが、それでもウンノは動かない。

 自分のことは自分で守れる。そう言いたいのだろう。


 何が出てくるのかと三人が待ち構えていると、幼いイノシシが草むらから顔を出した。豆とウンノは安心して、肩の力を抜いた。


 幼いイノシシは好奇心が旺盛なようで、すんすんと鼻を動かしながら草むらから出てきて、そのまま人のいるほうへ寄ってきた。

 その愛らしい動きを見て、ウンノは剣を納めてしゃがみこんだ。




「離れろ、ウンノ!」




 えっと声を上げた時、草むらが激しく揺れた。

 叫んだ博麻がウンノを突き飛ばす。草むらから大きなイノシシが飛び出し、博麻に向かって衝突した。




「ぬぅっ!」




 まともに突進を受け止め、博麻はよろめいて倒れそうになる。

 興奮したイノシシはさらに襲いかかろうとしてきたが、博麻はイノシシの首を上から抱きかかえ、組み付く体勢になった。


 イノシシは歯をむき出してうなり、首を振って暴れだすが、すでに博麻は両手の指をがっちりと組み合わせていた。指がちぎれない限り、自分から離すことはない。




「がぁあああっ!」




 博麻が吼える。イノシシを地面から引っこ抜くようにして、後ろへ投げ飛ばした。

 イノシシの巨体が宙に浮き、博麻の背後にあった樹木に叩きつけられる。がさがさと樹木は揺れて、雪が舞い散っていく。


 木の幹に叩きつけられてもイノシシは立ち上がった。

 まだ戦意を失っていないイノシシに、博麻は斧を構える。


 一本の矢がイノシシの横っ腹に刺さった。

 視界の端で、豆が弓を構えていた。

 射られたイノシシはうめいたが、すぐに豆のほうに体を向けた。




「うぁああっ!」




 ウンノが叫びながら、イノシシの首元に剣を突き立てた。

 剣はやすやすとイノシシの首を貫いた。イノシシは首を振って暴れたが、刃は急所に届いたようで、すぐにふらついて倒れた。


 動かなくなったイノシシを前にしても、ウンノは剣を押し込み、さらに深く刺そうとする。彼女の瞳は周りを映さず、ただ目の前の命だけを見ていた。




「そこまでだ!」




 博麻が怒鳴ると、ようやくウンノは我に返った。


 ウンノは剣を手放し、博麻がイノシシから剣を抜いた。

 刃の先から血がしたたる。鉄臭さがウンノの鼻に届いた。




「はっ……はぁっ……」




 自分が自分ではないようだと、ウンノは思った。

 動物を一頭、殺しただけだ。それなのに体中は熱く、呼吸も鼓動も速いままだ。




「大丈夫?」




 いつもと様子が違うウンノのそばに、豆が駆け寄った。


 赤い化粧をしているため、ウンノから豆の表情は読み取りづらい。

 しかし、少なくともイノシシに対する恐怖や驚きはほとんどない。自分と違い、豆はいたって冷静だ。




「これが殺すということだ」




 博麻に諭され、ウンノは歯を食いしばり、肩を落とした。彼の言わんとしていることが痛いほどわかった。


 自分の見立ては甘かったのだ。口では母を救うと言いつつも、目の前の命に固執して、怒りで我を忘れてしまった。


 博麻と出会う前に、父ラジンはイノシシに深手を負わされた。その後は賊に何度もおどされたあげく、多勢に無勢で殺された。

 それらの憎しみを、襲いかかってきたこのイノシシにぶつけたのだ。自分では思いもよらない、黒い感情を剣に籠めてしまった。



 それに加えて、真っ先に動けなかったことも恥じた。


 博麻に突き飛ばされたのは驚いたが、急いで立ち上がれば、イノシシの横っ腹を突いて、博麻を助けることもできた。

 しかし、それもできなかった。突然のことに圧倒されて動けなかった。それどころか豆が矢で射るまで、恐怖という感情に飲まれかけている自分がいた。


 ウンノはそれがたまらなく悔しかった。

 こうなるために剣を振っていたのではない。




「もう立てるか、ウンノ」




 博麻が近づき、手を差し伸べる。

 だが、ウンノは手を出してこない。うつむく彼女の前髪の奥で、涙が光った。




「悔しいのだな」




 ウンノが鼻をすすり、うなずいた。




「そして、恐さもあった」




 今度は間があったが、もう一度うなずいた。

 博麻は差し伸べた手を引っこめて、ウンノの前であぐらをかいた。




「言っておくが、俺も今のは恐かった」

「えっ?」




 ウンノは驚き、顔を上げた。




「当たり前だ。腹に突進された時も、組みついても暴れられた時も、痛みと恐さでどうにかなりそうだった」




 博麻はそこで、自らの手を顔の前に持ってきた。


 先ほどまでウンノはうつむいていて気づかなかったが、今も博麻の手には震えが残っていた。恐怖と興奮が抜けきっていない証だった。

 震えを少しでも早く抑えこむために、手を下ろして握りこんだ。




「そんな、でも、なんで」




 ウンノから疑問がこぼれる。


 恐くて我を失った自分と、恐くても平静さを保っている博麻の、その違いの正体がわからない。

 体の強さや年齢、または性別という物差しで計れるものではないはずだ。それはなんとなくわかるが、その正体が見当もつかず、言葉にならず、ウンノは困惑した。




「親だからだ」

「親?」

「そうだ。自分がどうなっても良いから、誰かを守り抜く。その覚悟が決まっていたからこそ、感情に振り回されず戦えた」

「……っ!」




 それは、彼女も心のどこかで、おぼろげに理解していたことだ。


 己の命を賭けてでも、守るために、救うために戦う。


 言うのは簡単でも、行うのは難しい。心の底からそう思っているからこそ、博麻も、父ラジンも、大きな敵に怯まず向かっていくことができた。


 それこそがウンノと博麻の、違いの正体だった。




「母を想う気持ちはわかるが、人殺しはさらに覚悟が要る。お前には早すぎる」




 博麻は立ち上がった。


 伝えるべきことは伝えた。

 これ以上、自分が何を言ってもウンノが萎縮するだけだ。




「豆、ウンノのそばについて、先に家へ戻れ。俺はこのイノシシを運ぶ」

「わかった」




 豆はウンノの手を引っ張り、立ち上がらせて二人で歩きだす。


 博麻はイノシシの皮をはぎ、使えない部位を斧で切り落とす。軽くなったイノシシの死体を麻の綱でくくって担いだ。



 ラジンの剣を腰に差そうとした時、柄の部分を改めて見てみた。


 柄の荒れ具合は、ウンノの稽古の凄まじさを物語っている。

 木製の柄は薄茶色だったはずだが、今は赤黒い血で染まりきっており、指が握る部分も相当すり減っている。


 彼女がイノシシの太い首を貫いたのは、偶然ではない。

 怒りと恐怖でとっさに繰り出した剣で、あのイノシシの命を奪ったのだ。


 確かにウンノの剣の腕は、かなりのものになっている。それは認めざるをえない。

 だからこそ非常に危うい。ウンノは未熟な感情のまま、強い力を得てしまった。




「俺がそばに付いていれば……いや、しかし……」




 いっそのこと戦に連れていって、自分の目が届くところで面倒を見るべきか。

 そんな考えが一度よぎるが、すぐに頭から消した。


 ウンノの身の安全を考えるなら、もちろん戦に連れていくべきではない。


 だが一方で、自分のそばから離れて生活させても大丈夫なのかと考えてしまう。

 いつも一緒に過ごしている豆とは上手くやれても、もしも別の人間といざこざが起きた時、ウンノは自分のことを制御できるだろうか。


 どちらを採っても不安の種は残る。

 あとは博麻が、どちらの不安を飲みこむかだ。




「戦場に行くのは俺だけ……ウンノのことは、豆に任せるほうが……」




 亡きラジンの剣に向かってつぶやいてから、腰に差そうとした。


 しかし、握った柄から手のひらが離れない。

 柄に染みこんだ血のせいで、手の皮膚がくっついたのか。



 そう思った矢先、びゅうっと風が吹いた。


 風は博麻のななめ前方から襲いかかり、彼の左頬を引っ叩くように吹きつけた。

 くうっとうめき声を上げ、目を閉じる。

 風はあっという間に止んだ。頭を振ってから目を開けると、今度はそよ風すらも感じられなくなった。



 そこでようやく剣から手が離れた。あれだけへばりついていたのに、もう一度握ってみても、手のひらはくっつかなかった。




「いや、まさかな」




 博麻は左手で頬に触れてから、苦笑いした。


 今のは偶然が重なっただけだ。

 意思のようなものを感じたのも、きっと気のせいだ。



 自分でそう結論付けてから、博麻は歩きだした。


 家の前に到着した博麻は、イノシシの体を下ろした。まずは外で解体作業をする。家の中にいる豆とウンノを呼びつけ、三人がかりで行えば簡単に終わる。




「父ちゃん!」




 家の中から、豆の大声が聞こえた。

 ただごとではない様子を感じて、博麻はすぐに中に入った。


 家の中央では火が炊かれ、いつも通りの明るさだ。


 豆は入ってすぐのところに立っており、戸惑っている様子だ。

 ウンノは火の向こう側に座っている。炎の輝きと立ち昇る煙で、顔ははっきりと見えないが、豆とは対照的に静かだ。




「何があった」




 博麻が尋ねると、豆はおずおずとウンノのほうに指を向けた。

 すぐに博麻は荷物を下ろし、火の横を回って、ウンノのそばに駆け寄った。




「なっ、お前……!」




 座るウンノが顔を上げた瞬間、博麻は言葉を失った。

 彼女の左頬に、大きな切り傷ができていた。何度も血を拭いた跡があり、かなりの出血があったことがうかがえる。


 しかし、驚くべきはそこではない。

 その傷は曲がりくねり、見覚えのある形となっている。誤ってできたものではない。


 彼女の左手には、血の付いた小刀が握られている。間違いなく自分で刻んだ傷だ。




「その紋様、そういうことか」




 言いながら、博麻は自分の左頬を触れた。


 博麻の左頬には、うねる炎のような朱い刺青がある。

 一人前の狩人は刺青と左右対称となるように化粧を施す。豆はまだ右頬の化粧だけだが、刺青のある博麻は両頬に紋様が広がるつくりになる。


 彼女が左頬に刻んだ傷は、その刺青とほとんど形が同じだった。


 これがウンノなりの覚悟なのだろう。

 自分の未熟な面を知ってもなお、母を救いたいという想いを捨てられない。半人前でも、その想いだけは負けない。

 小刀で荒々しく刻んだ傷は、それを表していた。


 ウンノは立ち上がり、博麻と向かい合う。




「私を、戦に連れていってください」




 頬から血を流しながら、彼女は同じ願いを告げる。


 博麻は鼻からゆっくりと息を吐く。今度はすぐに答えられなかった。

 ただの度胸試しでつけた傷なら、それでもだめだと言うつもりだった。それで認めてもらえると思うのは大間違いだと、つっぱねていただろう。



 しかし、傷口をよく見れば、彼女の覚悟の強さがうかがえる。


 傷の断面がただれている。単純に切り傷をつけたのではなく、刃を火で熱した上で紋様を刻みつけたのだ。

 決して消えないように、皮膚と肉を焼きながら刻んだのだ。



 未婚の少女がこのような醜い傷を負えば、まっとうな人生は送れない。少なくとも、一人の女として生きる道は消えたに等しい。




「どうして、そこまでする」




 後戻りできない道を歩もうとするウンノに、博麻はそう尋ねた。




「母の身を案じるのはわかる。だが、行き先はあの戦場だ。ラジンさんとともに逃げた時に、その恐ろしさを味わったはずだろう」




 生前のラジンから、ウンノとともに命からがら逃げてきた話を聞いた。

 焼けた村から逃げ、道なき道を進み、泥水をすすり、時には死体から金品を剥ぎとった。そうして、やっとの思いで避難船に乗って倭国にたどり着いたのだ。




「今でも、こうすれば故郷が見えるの」




 ウンノは目を閉じた。




「目の前にはお父さんとお母さんがいる。三人で一緒にご飯を食べて、笑っている。お父さんとお母さんはとても優しくて、二人もお互いに愛し合っている」




 まぶたを閉じたウンノは、おだやかな顔をしていた。顔に刻んだ傷の痛みを、まったく気にしていない。




「そんなお父さんとお母さんの仲を、張堯が戦に乗じて引き裂いた。お母さんは私が生まれた後も、新羅の故郷を憎み、許婚だった張堯を恐れていたのに」




 ウンノは母親から、張堯という男のことを聞いていたようだ。

 ラジンと結ばれた後になっても娘に話していたということは、よほど張堯という男を嫌っていたということになる。




「新羅軍に村を焼かれた時、私だけが山に隠れた。それから村に戻ってきたお父さんと一緒に逃げて、逃げ続けてしまった。お母さんも殺されてしまったと、思いこんだままで!」

「お前のせいではない。村を焼き尽くされた後で、さらわれたと知るのは……」




 博麻がなぐさめると、ウンノは目を開けて、首を振った。




「……ううん、お母さんはあの時、何かに気づいていた。山に逃げてと私に言った顔は、いつものお母さんとは違った」

「村を襲ってきた新羅軍の狙いは、自分だと?」

「今では、そうとしか思えない。そんなお母さんを連れて逃げずに、お母さんも死んだと勝手に諦めてしまったことが、悔しくて仕方がない」




 ウンノの瞳はうるみ、なおかつ煮えたぎる怒りを秘めている。

 やむを得ない状況だったと、自分で折り合いをつけることはない。母を置いて逃げてしまったことを、心の底から悔いている。




「悔いたままで、生きたくない。さらわれたお母さんが張堯を受け入れる前に、もう助けは来ないと諦めてしまう前に、私がお母さんを救い出す」




 断固たる彼女の決意を前にして、博麻はうなった。


 血は争えないものだと、この時ばかりは本気で思った。大切な人間を守るため、恩を返すために命を賭けたラジンの目と、今のウンノが重なって見えた。


 博麻はラジンの剣を抜き、両手でウンノの前に差し出した。




「お前に返そう。もう、お前の剣だ」




 ウンノは目を大きくして、豆はつばを飲みこんだ。


 剣を差し出されたウンノの顔は、博麻の意思を伺いたがっている。

 答えを欲する彼女を見て、博麻はうなずいた。




「背中は任せろ。戦場であろうと、お前を必ず守り抜く」




 ついに博麻の許可が下りた。

 ほっとウンノは息を吐き、剣を受け取った。剣は腰に差していた鞘に納めた。




「おじさん、ありがとうございます」




 膝をつき、ウンノは頭を垂れた。

 博麻も膝をついて、ウンノのあごを指で上げて、頬に刻んだ傷を見た。




「それにしても、ずいぶんな無茶をしたものだ」




 博麻はため息をついた。




「その傷は、後で治療する」

「えっ……でも、せっかく……」

「心配するな。傷を塞ぐだけで、無理やり消すことはしない」




 それから博麻は、豆とウンノに目を向けた。




「お前たちを子ども扱いするのは、今夜でおしまいだ。お前たちは、俺と同じ刺青を入れても良い頃合いだろう」




 同じ刺青と聞き、二人は同時に目を輝かせた。

 それは博麻からしか受け取れない、一人前の証である。




「僕も良いの?」




 豆の問いに、「もちろんだ」と返す。




「すぐさまイノシシに矢を射た動きは、文句なしだった。弓の腕も度胸も申し分ない」




 父から手放しに褒められた豆は、唇を小刻みに震わせ、こみ上げる嬉しさをこらえる。




「ウンノは傷口が塞がりかけてから、その上をなぞるように彫るしかない。それでも、ちゃんと豆と同じように彫ってやる」

「……はいっ!」




 こうして三人の頬に、同じ刺青が刻まれることとなった。


 その刺青は一人前の証だが、ウンノにとっては、自分も家族の一員なのだという証でもある。


 実の父母への愛はもちろん変わらない。しかし博麻と豆もまた、孤独なウンノを守ってくれた大切な家族だ。


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