ウンノの剣

 朝廷が軍を組織して、筑紫の港に集まるのは来年の春以降になる。


 この報せを薩夜麻から聞き、博麻は安堵した。少なくとも今年の冬だけは、自分の手で子どもたちを守れるからだ。


 秋が終われば、すぐに冬が来る。

 筑紫国は倭の中でも温かいほうだが、それでも雪が降り、その年の気候によっては死人が出る。

 貧しい平民たちにとって、冬越えは毎年命がけだ。丈夫な家を作れない、充分な食糧を貯めこめない村から、寒さと飢えの前に力尽きる。




「豆、この冬で俺の知っていることをすべて教える。次の冬から、お前自身の手で家と墓を守り、生き残らなければいけない」

「うん」




 雪の積もった山の中を歩きながら、隣の息子を教え諭す。

 博麻は弓で仕留めた鹿を背負い、豆は罠にかけた野ウサギを二頭持っている。


 どんなに寒くても、二人は毎日狩りに出ている。

 はじめは豆を鍛えるという意味合いが強かったが、戦を控えた博麻にとっても、狩りの日々は有意義な鍛錬だった。




「ウンノのほうが年上だが、守るのはお前だ。お前ならできる」

「わかった。ウンノ姉ちゃんは、僕が守る」




 豆は白い息を吐きながら、力強くうなずいた。


 博麻の出陣が決定してから三ヶ月経つが、豆は見違えるようにたくましくなった。

 何事にも諦めず取り組み、子どもっぽい泣き言や不平不満を言わなくなった。肉体が成長したのも否定できないが、それよりも精神が大きく鍛えられた。


 動物を狩りに行く日は、二人とも顔に朱い化粧をしている。

 この化粧は一見すれば不気味だが、魔除けと命への敬意を表す大切なものだ。


 博麻の父も、祖父も、動物を狩りに行く日は化粧を欠かさなかった。


 すなわち豆も、狩りにおいては一人の男として扱われている。

 未熟なところはあるが、豆の努力を認めて、化粧の業も最近教えた。さらに豆が一人前の大人になれば、博麻と同じように刺青を彫ることになる。


 日に日に立派になっていく豆の横顔を見て、嬉しさと同時に寂しさを抱いた。


 この子が大人になる姿を、見てみたかった。


 息子が一人前の若者になってくれることが、父親にとって何よりの喜びだ。

 だが、それは叶わない。

 我が子の成長を見届ける前に、博麻は海の向こうへ渡るのだ。




「ウンノ姉ちゃん、寂しがっているかな」




 ぼそり、と豆がつぶやいたが、博麻は無言だった。


 ウンノには家の中でできる仕事を任せている。

 力仕事ができないわけではない。父親が賊に殺され、自らも襲われかけた彼女に、博麻は外の仕事をさせなくなかった。


 気晴らしを兼ねて、三人で雪遊びや木の実採りをする時もあるが、家から離れてしまう狩りは一度もやらせていない。

 豆には自分が戦に行った後も、なるべくお前だけで狩りをしろと教えている。


 日が暮れる前に家に着いたが、二人は家までの坂の途中で、家の様子がおかしいことに気がついた。




「家から煙が上がっていない。火を炊いていないのか?」

「でも、ウンノ姉ちゃんが家で待っているよね。火を炊いてなかったら、すぐに凍えてしまうはずだよ」




 二人は歩を早めて、武器を構えながら家の中に飛びこんだ。


 家の中は無人だった。

 ウンノはおらず、不審な人間が居座っていることもなかった。




「どこに行った?」

「……もしかしたら、用を足しに行ったのかも」




 少し恥ずかしそうに豆は言ったが、博麻はまったく動じることなく首を振った。




「用足しだけなら、わざわざ火を消すものか」




 博麻はもう一度外に出て、足跡を探った。

 日中に雪が降ったので、それより前の足跡なら追うのは難しい。


 しかしウンノの足跡はなんとか見つかった。

 かなり前に家を出たらしく、ほとんど消えかかっている足跡だった。




「これを追うぞ。弓と小刀も忘れるな」

「わかった!」




 博麻と豆は足跡を追いかけた。

 ウンノの足跡は村がある方角とは逆へ進み、どんどん高台を下りながら、森の奥へ進んでいる。


 不思議なことに足跡には迷いがない。

 道に迷ったのなら、もっと曲がりくねり、時には立ち止まるものだが、その足跡は木々を避けながら、ほとんど止まらず真っ直ぐ進んでいる。




「父ちゃん、なにか聞こえるよ」

「ここから静かに進むぞ」




 博麻と豆は歩く速度を落とし、体を低くした。

 日暮れ前の森は暗く、遠くの景色はぼやけて見える。


 だが、二人の目は前方の人影を捉えた。

 後ろ姿しか見えないが、ウンノだとはっきりわかった。藁の外套も羽織らず、薄着のまま立ち尽くしている。




「ウンノ姉ちゃんだ。あんな格好で、どうしたんだろう」




 豆が疑問を口にした直後、ウンノの体がゆっくり動いた。

 彼女は両手をかかげた。その手には剣が握られている。




「あの剣は……!」




 見間違えるはずもない。ウンノは亡き父の剣を構えていた。

 ただならぬことがあったと思い、博麻は近づこうとした。


 その時、強い風が吹いた。


 風は木々を揺らし、枝に降り積もっていた雪を落としていく。

 ウンノの近くに立っていた木からも、大きな雪の固まりがすべり落ちた。




「ウンノ!」




 博麻が叫ぶ。

 それよりも一呼吸早く、ウンノの体が反転する。


 一瞬、雪がウンノの体を覆ったが、落ちてきた雪は真っ二つに割れた。

 割れて落ちた雪の間に、ウンノが立っていた。


 彼女はこちらを向き、剣を振り下ろした体勢だった。

 運よく雪が崩れたのではなく、あの剣で落雪を両断したのだ。


 ウンノは無表情だった。その表情のまま剣を納め、静かに息を吐いた。




「ウンノ、大丈夫だったか!」




 もう一度、博麻が声をかけたことで、ようやくウンノはこちらに気づいた。

 博麻と豆の姿を見てから、ウンノは顔をそらした。


 二人は彼女に近づいた。

 近づくにつれて雪がなくなり、辺り一面が踏み固められた土だけになっていく。

 通い慣れた足跡に、入念に踏み固まった地面。

 ここはウンノにとって、日頃から来る鍛錬場のようだ。


 ウンノはうつむいていたが、博麻が目の前に来ると、ゆっくり顔を上げた。




「ごめんなさい、おじさん」

「どうして謝る?」

「勝手に剣を持ちだして、家を出たから」

「そんなことでは怒らない」




 博麻は首を振った。


 声をかけられた時、ウンノはとっさに剣を自分の体の陰に隠そうとした。

 今はもう、さすがに隠し通せないと観念して、右手にだらりと剣を持ったままだ。




「手のひらを見せてみろ」




 博麻に言われ、ウンノは剣を腰に差し、両手を前に出した。


 ウンノの手のひらは、ぼろぼろだった。皮は破れ、血まめができて、指の皮膚も固くなっている。この痛みかたは、数日でできるものではない。

 横で見ていた豆も、この手のひらを見てぎょっとしていた。




「ずいぶん、続けていたようだな」

「……うん」




 うなずく彼女に、博麻はため息をついた。




「言ってくれれば、手当てもできた。一人で無理をするな」

「え?」

「わけは後で聞く。ここは寒いから、家に戻ろう」




 博麻は自分の外套を、ウンノにかけた。

 鍛錬の理由を問いただされると思っていたウンノは、家へ向かおうとする博麻に驚いていた。




「ほら、行こうよ、お姉ちゃん」




 あっけにとられた様子のウンノに、豆が声をかけた。

 ウンノは博麻と豆の後ろをついていこうとしたが、足を止めた。




「お、おじさんっ!」




 彼女は大きな声で博麻を呼んだ。

 博麻と豆は足を止めて、ウンノのほうへ振り向いた。




「どうした」




 博麻が尋ねる。




「あの、私はおじさんに、言わなきゃいけないことが」

「無理しなくていい。落ち着いてから話せばいい」

「お願い! 私は、もう決めているの!」




 叫ぶウンノの目は真剣さを超えて、張り詰めていた。




「私も、私も戦に連れていってほしい! お母さんを助けるために!」

「……まさか、生きているのか?」

「わからない。でも、お父さんはあの時、確かに言った。あの賊はお母さんを知っていた、お母さんは新羅にいる、張堯ちょうぎょうという将にさらわれたんだって!」




 そこで博麻は合点がいった。


 ラジンは亡くなる直前に、ウンノに百済語で何かを伝えていた。今までそのことを気に留めていなかったが、ようやく話がつながった。

 ウンノが剣の腕を鍛えていたのも、博麻とともに戦におもむき、張堯という男から母を奪い返すためだった。




「だめだ。お前を連れていくわけにはいかない」

「どうして!」

「お前を守ると約束したからだ。危険な戦場に近づけるわけにはいかない」




 もう話は終わりだというように、博麻は背を向けた。




「私も戦える。この剣を自在に操れるし、敵の兵士だって殺せる!」




 そこで博麻は再び足を止め、顔だけウンノのほうを見た。




「殺すことを、軽く思うな」




 怒りを見せた博麻に、ウンノは怯んだ。




「家に帰るぞ」




 博麻が歩きだそうとしたところで、近くの草むらが揺れた。

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