筑紫 薩夜麻

 それから日にちは経ち、ラジンは杖を使って歩けるようになるまで回復した。

 太ももには傷跡が残り、満足に動くようにはならなかったが、それでもウンノや博麻たちは喜んだ。




「みんな、今日は魚がたんまり獲れた。ラジンどのの足が治った祝いも兼ねて、今日は酒と魚を遠慮なくいただいてくれ」




 夜、博麻が近くに住む村人も集め、家の前で祝いの席を設けた。

 家の前の広場では火を炊き、夜でも飲み食いができる明るさが確保された。


 集まった村人は気心知れた者たちだけで、その者たちは、ラジンとウンノの事情をだいだい知ってくれている。

 はじめは異国の人間ということで距離を取っていたが、次第に打ち解け、今では博麻たちに木の実や川魚などを譲ってくれることもある。




「百済のラジンさんよ、足に穴が空いたってのに、死ななくて運が良かったな」

「そうそう。それに、あんたの娘は頑張り屋だ。ちょっと口数は少ないが、良い子だよ」




 博麻から振る舞われた酒を飲み、上機嫌になった村の若者が、ラジンにも話しかける。

 村人の間では百済のラジンさんと呼ばれ、こうして気軽に言葉を交わすようになった。娘のウンノが豆と一緒に働き、村人に好かれていることも大きいのだろう。




「ありがとうございます。博麻どのや、みなさんのおかげで、私たち親子は救われました」




 素直に礼を言うラジンに、若者たちは照れ臭そうにはにかんだ。




「いや、俺たちは大したことしていないさ。たまに余った飯をあげたり、豆やウンノが危ないことをしてないか見守るくらいだ。すごいのは、博麻だよ」




 若者の一人が、遠くで他の村人と話す博麻の方を見た。




「あんたらが村に住むとなってから、村中のみんなに事情を話して、頭を下げて回っていたんだ」

「え?」




 初めて知ることに、ラジンは呆然とした。

 若者はさらに続けた。




「あいつは何も言わないがな。まあ、よそ者が住むことを恐がったり、嫌がったりする村人もいるから、先に話を通そうとしたんだろう」

「俺も小さい娘がいるから、よそ者が来たら気をつけるんだ。自分の子どもがさらわれたり、傷つけられるのが恐いからな。博麻はそれを見越して、あんたら親子は悪人じゃないから見守ってほしいってお願いしてきたよ」




 自分の知らないところで、博麻が世話を尽くしてくれていた。

 ただでさえ感謝しきれない恩があるのに、何も言わずにここまでの親切をしてもらっていたと知り、ラジンはすぐにでも礼を言いにいきたくなった。


 だが、それを若者たちが止めた。




「良いんだ。あいつは、そういう言葉とか見返りがほしいわけじゃない。自分の方から打ち明けなかったのだから、わかるだろう」

「見返りを、欲しない……?」

「多分な。とにかくラジンさんが元気なって、ウンノが笑顔で育てばそれで良いんだろう。あの男は、そんなお人好しだ」




 そう語る若者たちも、博麻をまぶしそうに見つめている。

 彼らもまた、彼のことを強く慕っているのだ。


 博麻の隠れた気づかいを知ったラジンは、目の前にある焼き魚や酒を、噛みしめるように味わうことにした。

 手に持っていた酒を飲み干すと、塩っぽい涙が混じっていた。




 それから宴が始まって少し経つと、馬蹄の音が聞こえてきた。


 おやっと一人の村人が気づき、他の者たちも顔を上げた。

 馬蹄の音は木立を分け入り、博麻の家のほうへ上ってきている。


 やがて馬に乗った若者と、それに付き従う二人の男が現れた。

 若者は清潔な着物をきており、腰には剣を差している。


 百済で生まれたラジンでも。明らかに身分の違う人間だと一目でわかる。




「若っ!」




 博麻が声を明るくさせて、馬上の若者に近づいた。




「元気でしたか、兄貴」




 若者も博麻のことを兄貴と呼び、笑顔で応える。




「まあな。若こそ、前より痩せたように見えるが」

「最近、政務の手伝いばかりで。馬で領地を駆け回れば、体の肉も落ちますよ」




 身なりの良い若者に対し、博麻は遠慮のない言葉を投げかける。

 若者もそれを気にすることなく応じる。


 身分の隔たりを感じさせない二人を見て、ラジンは隣にいた村人に話しかけた。




「あの方は?」

「そうか、ラジンさんは知らないか。あの人は筑紫つくしの 薩夜麻さちやまさまといってな、ここ一帯を仕切っている豪族の若さまだ」

「豪族の、子息」




 この時代、朝廷のお膝元以外の土地は、豪族が支配する。筑紫氏は筑紫国を支配する豪族で、博麻の住む村も属している。




「若さまは筑紫氏の次男坊なんだが、とても頭が良くて、俺たち平民にも優しく接してくれる、本当にできた人だ」


「なるほど。博麻どのは、あの若さまと親密なようですが」


「おう。博麻は少年の頃、川に溺れかけた幼い若さまを助けたんだ。それから付き合いが始まって、若さまも博麻の家が嵐で壊れたと聞けば、屋敷にある木材と、雇った人夫を送ってくれて……今じゃ本当の兄弟みたいなもんだ」




 村人とラジンが話していると、博麻と薩夜麻の視線が、ラジンの方に向いた。


 薩夜麻は下馬して、馬を部下に任せた。

 薩夜麻が博麻とともに、ラジンのもとに来た。




「あなたが、百済から逃げてきたラジンどのですか」

「は、はい」




 ラジンは立ち上がり、返事した。




「大丈夫、堅苦しいことは抜きにしましょう」




 ゆるやかに口角を上げ、薩夜麻は微笑む。

 ラジンは目の前の薩夜麻に対し、小さな恐れを抱いていた。


 薩夜麻は博麻よりも線が細く、色も白いため、一見すれば弱弱しい印象の青年だ。

 しかし彼の黒い瞳はこちらを真っ直ぐ見つめ、鋭さはないが、思慮深く、油断のない輝きを含んでいる。




「私は筑紫 薩夜麻と申します。父の海麻呂とともに、この筑紫国を治めております」

「は、はあ」

「戦により故郷を追われたこと、私も胸を痛めております。筑紫の一族ともども、倭に逃げてきた百済の方々には安らかに過ごしていただきたいと思っています」




 薩夜麻はそこで区切ってから、さらに続ける。




「そうだ、今度、私どもの屋敷に招きましょう。もしよろしければ、異国の情勢、戦の現実などを、どうか私の後学のためにも語っていただきたい」

「そんな、私が語れる話など、取るに足らないことばかりです。豪族の方のお役には、とてもとても……」




 ラジンは首を振り、視線をそらした。

 薩夜麻は柔らかい態度で接しているが、それでも彼の視線は苦手だと思った。




「若、ラジンさんは大怪我から治ったばかりだ。勉強熱心なのはわかるが、しばらくは娘とともに、そっとしておいてやってくれよ」




 博麻がたしなめると、薩夜麻も「わかりました」と言って苦笑いした。




「まあ、いきなりあれこれと聞くのは無礼ですね。ラジンどの、申し訳ありません」

「……いえ、お気づかいなく」




 ラジンは小さく頭を下げた。




「兄貴、私も宴に参加して良いでしょうか?」




 薩夜麻が訊くと、博麻は笑顔でうなずいた。




「もちろん! 酒と魚しかないが、若も楽しんでくれ」




 博麻は嬉しそうに薩夜麻を連れていき、二人で酒を酌み交わした。

 楽しく酒を飲んで語らう二人を、村人たちはうらやましそうにながめていた。




「ああいうのを見ると、根っからの友情って、あるところにはあるんだなって思うな」

「お互いが、相手のことを大事に想っているからだろうよ。生まれや、身分の差なんて、関係ないってことだ」

「知った口を利くなよ。お前、ちょっと前に奥さんを怒らせて、尻を蹴られていただろう。ちゃんと奥さんを大事にしてやっているのか?」

「ばっ、馬鹿を言うな!」




 酔いが回り、村人たちも遠慮のない軽口を叩き始める。

 薩夜麻に器を渡した博麻は、そこになみなみと酒を注いでいった。




「兄貴、いきなり満杯ですか」




 薩夜麻は苦笑いした。




「お前も大人だろう。遠慮なく飲み干せば良い」




 博麻はにんまりと笑った。




「これを一気に飲み干せるのは兄貴くらいですよ」




 やれやれと首を振ってから、薩夜麻は器に口をつけて傾けた。


 喉を鳴らし、酒を飲みこんでいく。

 半分ほど減らしたところで、ぷはっと息を吐いた。




「いやあ、美味い。これは染み渡りますね」

「まあな。今年の酒は、我ながら良い出来だ」




 自家製の酒を褒められ、博麻も上機嫌に器をあおった。




「そういえば、ご領主どのは元気か?」




 博麻が訊いたのは、薩夜麻の父親であり、領主の海麻呂の容態だった。




「なんとも言えません。床にふせる日がほとんどで、今は兄上たちが、父上の代わりに政務を行っています」

「そうか……肩身は狭くないか?」

「今のところは大丈夫です。ああしろ、こうしろとは言ってきますが、私は私なりに領民に貢献できるので」




 薩夜麻には腹違いの兄が二人いる。

 この兄たちと薩夜麻はあまり仲が良くなく、領民に慕われている薩夜麻は、何かと兄たちの目の敵にされてきた。




「あとは、こうして息抜きできれば私は満足です」




 薩夜麻は自分の器を小さく掲げてから、また一口飲んだ。


 後妻の子として産まれた薩夜麻は、家族の中に居場所を求めていない。

 家にいれば兄たちが小言を言い、機嫌が悪ければ無用の喧嘩が起こってしまう。父は病にふせっており、母は後妻という立場をわきまえているため、両親に泣きつくわけにもいかない。


 ゆえに彼の主な仕事は、領内を見回ることだ。民の困りごとを聞き入れ、争いごとがあれば仲裁などを行う。

 民と直接触れ合うほうが、ずっと性に合っていた。




「忙しくなければ、いつでも息抜きに来い」




 博麻も薩夜麻の大変さを知っている。

 友として、兄貴分として、受け止められることがあれば、受け止めたかった。




「ありがとうございます。迷惑にならない程度に来ますよ」




 薩夜麻は笑い、博麻と酒の器を合わせた。




「兄貴、そういえば少しお耳に入れたいことが」

「なんだ」

「百済から使者が来た話を、ご存じですか」

「いや、知らないな」




 博麻は首を振ってから、「その使者がどうした」と尋ねた。




「先月の初めに、港に百済の使者が到着したのです。他の百済人と同じく避難船に乗ってきましたが、それでもれっきとした使節団で、彼らは飛鳥の都へ向かいました」




 博麻はその話を聞き、酒の器を置いた。




「まさか、倭に援軍の要請する気か」

「その通りです」




 薩夜麻は神妙な顔でうなずいた。




「つい先日、筑紫屋敷に朝廷から使者が来ました。天皇陛下は百済への援軍を承諾したため、各地の豪族も兵を率いて出陣せよという命令です」

「倭も戦に加わるのか」




 博麻はつぶやき、目を閉じた。


 恐れていたことが起こってしまった。

 ラジンから百済が滅んだ話を聞いたが、その遠い異国で起きた話に、自分たちも巻き込まれることとなったのだ。




「……百済は戦に負けて、もう滅んだと聞いたが」

「あの百済人から聞いたのですね」




 博麻が小声で訊くと、薩夜麻は遠くにいたラジンをちらっと見た。




「簡単に説明すると、百済の王が捕縛されたため、戦に負けて王朝が滅んだということになったのです。まだ生き残っている百済の将兵は、唐と新羅にまだ抵抗しているそうで、彼らは百済を復興したいがために、倭に援軍を頼んできたというわけです」

「だが、相手は唐と新羅だ。あの唐帝国と、俺たちの国が争うのか」

「そうです」




 薩夜麻は暗い顔だった。彼も唐がどれほど強大な国か知っている。あまりに強大ゆえに、唐と戦をすると聞いても現実感が湧かない。




「それでも、やらなければなりません」




 薩夜麻はそう言ってから、器をあおった。




「これでも豪族の端くれです。民のためにも、先陣を切らねばなりません」

「おい、まさか」




 博麻は思わず立ち上がりそうになった。




「……兄たちには妻と子がいます。十中八九、筑紫氏の軍は私が率いるでしょう」

「お前が戦に行くとなれば、大勢の領民が悲しむぞ」

「それでも、やらなければなりません」




 博麻は肩から力が抜け、天を仰いだ。




「兄貴、まだ死ぬと決まったわけじゃありません」

「それでも死にに行くようなものだ」




 そう吐き捨ててから、酒の器をあおり、また注いだ。




「なんとかならないのか」

「朝廷の命には逆らえません。それに、私にもやるべきことがあります」

「やるべきこと?」

「はい」




 薩夜麻の目が、熱を帯びた。




「この国の港に逃げてきた百済の民たちと触れ合って、私は戦のむごさを知りました。攻めてきた唐と新羅の兵隊が、百済の民にどんな仕打ちを行ったのか、知れば知るほど他人事ではないと思ったのです」




 薩夜麻は自分の器に酒を注ぎ、一口つけてから話を続けた。




「そして、おそらく倭も狙われています。筑紫港にやって来た避難船の中に、唐人しかいない船がまぎれていました」


「なに!」


「もちろん追い返しました。唐の使者の船が来るという連絡は聞いてないから、上陸しないでほしいと要請し、対馬国までの食糧を与えて帰らせました」


「それは、本気で偵察するつもりだったのか」


「真意はわかりません。ですが、その唐船は食糧を与えてもなかなか帰らず、港の中をゆっくりと周遊するようにしてから、やっと帰っていきました」




 ここまで聞いて、ただの気のせいだと考える人間はいない。その唐船がやっていたことは偵察行為であり、また挑発行為でもある。




「新羅はどう出るかわかりませんが、いずれ唐は倭も攻めるつもりでしょう。そうなれば、この筑紫国が最前線となります」




 筑紫国は海に面し、日本列島の中で最も異国に近い港がある。

 ここを攻め落とせば軍の拠点となるため、標的になることは間違いない。




「私は、命令だから仕方なく戦うのではありません。虐げられた百済の民を救うため、そしてこの筑紫国から少しでも唐を遠ざけるために戦います」

「若……」




 博麻は呆然となった。少し見ないうちに、薩夜麻は立派な豪族の顔になっていた。


 それからも二人は飲み続けた。

 こうして酒を酌み交わすのも、数えるほどしかないとなれば、この時間が何よりも惜しかった。


 たんまりと用意された飯や酒は、全員で平らげ、そこでお開きとなった。客として来た村人はもちろん、もてなした博麻たちも腹いっぱいになった。


 最後の村人が帰ったところで、薩夜麻が従者たちとともに別れを告げた。




「さて、そろそろ私もお暇いたします。ああ、名残惜しい」




 博麻と酒を飲んだことが楽しかったようで、薩夜麻も顔を赤らめて上機嫌だった。だが、その笑顔の中には、一抹の寂しさもあった。




「また来てくれよ。今度は豆にも挨拶させるから」




 そう言って、博麻は家の方をちらっと見た。

 酒宴が始まった時は、豆もウンノもまだ起きていたが、昼間に外遊びしすぎたせいか、二人は早くに眠っていた。




「それは楽しみです。豆とは一緒に川遊びする約束をしていたので、次は明るいうちにお邪魔することにします」

「お前が川遊び? 流されないか心配だな」

「いやいや、それは子どもの時の話でしょう。今なら兄貴より速く泳げますよ」

「へえ! それなら、次は勝負だな」

「ははっ、望むところです」




 機嫌よく笑い合う二人だったが、心の内は重かった。出陣まで期間はあるが、心の底から楽しく笑い合える日はもう来ない。




「道中、馬に落ちないよう気をつけてくれよ」

「心配ありません。今夜はここの村長の家に泊めてもらうことになっているので、ここからすぐですよ」

「あれ、そうだったのか」

「ええ。また明日の朝、ここに顔を出してから屋敷に帰ります」




 薩夜麻はその時、博麻の隣に立つラジンに視線を向けた。

 ほんのわずかな、一瞬のことだったが、ラジンはその視線に気づいた。




「では、また」




 薩夜麻は手綱を引いて馬首を返し、従者を引き連れて帰っていった。




「ラジンさん、気にしないでくれよ」




 薩夜麻を見送りながら、博麻がささやいた。




「どういう意味ですか?」

「若のことだ。あいつは良くも悪くも初対面の人について、深く知りたがる。決して悪いやつじゃないんだが、異国から来たラジンさんを、見定めるつもりだったかもな」

「そう、ですか」




 ラジンがうつむくと、博麻は笑った。




「心配ない。あんたがどんなやつか、俺はちゃんと知っている。若だって、あんたの人となりを見れば、助けになってくれるはずだ」

「……ありがとう、ございます」




 ラジンは目を閉じ、頭を下げた。

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