第8話 口さがない世間に抗う 🪵 





 明治二十五年、夏子二十歳、三月三十一日の日記は、もうだれがどう見ても恋する女のそれでしかなく、どうか本当のことを言って欲しいなどと恋人にせがんでみせ、桃水もそれに応えるようすは、率直に言って、読まされる身の置き所がない。(笑)


「おのれが小説とうてひ世に用ひられまじきものなれば、つつみなく断り給ひてよ、おのれはおのれの心を信ずるが如く人の仰せられし言を信ずるものなれば、君も表面のみの賞詞を下し給ふとも、その真偽をしはかるべき智は侍らずかし。とても世に用ひられまじきものなれば、いまよりもすぐに心あらためて我が身に応ずべきこと目論見候はん」


 君いたく呆れ顔して「そはまた何ぞのことよ、おのれかひなしといへども男のかたはしなり。うけがひ参らせしこと偽りならんや、月々に案じ、日々にかうがへて君が幸福を願ふぞかし。われはあくまでも相携へて始終せんと思ふを、君はなどさばかりに疑ひ給ふ。われ思ふに君が著作、この『武蔵野』三回のちには必ず世に名を知られ給はん。さすれば朝日にまれ何にまれ、われ周旋の方法あり。家事の経済などについて憂ひ給ふことあらば、そはともかくもわれすべし。『武蔵野』初版より二千以上の発売あらば利益の配当あるべき約なれば、この分のみはわれのも合せて君に奉らんの心なり」




      *




 それから数日後、いよいよ逼迫して来た生活費の援助を頼んでおいた知人から断りの手紙を受け取った夏子は「思ひ出ては半井ぬしのみなり。常、義侠の心深くおはしますを、いかで、すがり奉らばやとぞ思ふ。言ひにくけれど、思ひ定めてそのことを打ち出しぬ、面あつきことよ。半井うじ、案じ給ふ気色もなく、そはうけ給はりぬ、何とかなすべし、心安かれとすみやかに宣ふ。かたじけなきまま、また涙こぼれぬ」


 その桃水の周旋で改進新聞に小説を掲載してもらえることになった夏子は、一応、あれは力不足でと遠慮してみせ、「それは困るなり、すでに絵の注文さへなしたり」桃水に言わせる。このあたりの駆け引き、どっちもどっちというところやも知れぬ。




      *




 そのうちに桃水との噂が広まって歌子師の耳にも入り、交際を断つように言われた(師自身も激しい恋を知っている身ではあったが、それはそれ 💦)、歌塾での立場の至難を思った夏子は今日を限りと思い定め、五月二十九日、桃水のもとを訪ねた。


 互いに独身の男女の交際がなぜとやかく言われるのか、現代の感覚では一向に理解できないが、日記の行間を観察すれば、それぞれの胸に渦巻いたであろう嫉妬を含め女性ばかりの歌塾の独特な空気が夏子の一途を恋から遠ざけたのかも知れなかった。


 といいながらも翌六月七日に早くも桃水を訪ねたのは「母の勧め」によるもので、迎えた桃水は「君の小説は絵入りの新聞などには向き難くや侍らん、さる伝手をやうやうに見つけて尾崎紅葉に引き合せん」とて、読売新聞掲載への道を探ってくれた。


 その後も就寝中の桃水を訪ねて慌てさせるなど、別れると言いながらなかなか実行できずにいた夏子だったが、口さがない友の囀りもあって身辺いよいよやかましく、歌子師にも真意を疑われるなど切羽詰まったので、今度こそ桃水から足を遠ざけた。




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