第5話 初恋のひと半井桃水ぬし 🍡
さて、お待たせいたしました、今度こそコイバナの本番でございます~。(笑)
これまでの筆致に継いで、混迷の語りになりますこと、重ねてご海容のほどを。
*
花見から四日後の四月十五日、夏子は芝に住む朝日新聞記者&専属作家の半井桃水を訪ねた。妹邦子の友人が東京府高等女学校で同級の桃水の妹を介しての縁だった。門をくぐって声をかけると返事があり、顔を見せたのは当の妹で、座敷へ通された。
しばらく待つうちに表に俥の止まる音がして常着にあらためた背の高い男が入って来た。年のころ三十歳ほど「色いとよく面おだやかに少し笑み給へるさま まことに三歳の童子もなつくべくこそ覚ゆれ」堂々たる押し出しに夏子は常になく緊張する。
おかしなものだが、自分は仮にも士族の娘という考えが頭の隅をかすめていった。亡父則義は山梨の百姓の出自とはいえ、器量よしの滝子を伴って上京後、維新の前に八丁堀同心の株を買って幕府直参の身分になっていたので、あながちうそではない。
だが、いまの場合、それにどんな意味があるというのか、夏子は日ごろ恃みにしている自分自身に託す矜持を追いやるようなわが心の動きが怪しくも不可解だったが、地位も名誉もある初見の人に認めて欲しいという願望の変形でもあったろうか。💚
*
耳がほてり唇が渇いてろくろく挨拶もできず、多忙なところ時間を取ってもらったお礼ばかりくどくど申し述べていると、見るからに地味なつくりの年少の作家志望の異性の硬さをほぐそうとてか、桃水のほうからあれこれ如才なく話しかけてくれた。
世間話のひとつから幼名が亡兄と同じ泉太郎だったことがわかり、夏子の親近感は他愛なくほどける。自分ではいっぱしのつもりだったが、ひとまわり近く年長の新聞記者の目にはいとも御しやすい小娘に映ったろうと、あとで思い返して身を揉んだ。
*
打ち解けて来ると話は自ずから小説作法に移ったが、まずは師と仰ぐつもりの桃水が自身の小説に対する世間の批判への弁明に熱弁をふるい出したことは意外でもあり同時に自分ごときに苦衷を打ち明けてくれる作家の率直に、夏子は容易に打たれた。
――わが思ふに叶ふべきは人好まず、人好まねば世にもて遊ばれず。日本の読者の眼の幼稚なる新聞の小説といはば、ありふれたる奸臣賊子の伝、あるひは奸婦淫女の事跡やうのことをつづらざれば世に売れざるを如何にせん。
われいま著す幾多の小説いつもわが心にいさぎよしとして書きたるものはあらざるなり。されば、世の学者といはれ識者の名ある人びとには批難攻撃、面も向けがたけれど、如何にせん、われは名誉のために著作するにあらず、弟妹父母に衣食させんがゆえなり。その父母弟妹のために受くるや批難もとより辞せざるのみ。もし時ありてわれ、わが心をもちて小説を著すの日あらんか、甘んじてその批難を受けざるなり。
そこまで一気に述べて磊落に大笑してみせ、あなたの師というには実力不足だが、相談相手にはなれるのでいつでも遠慮なくおいでなさいと言ってくれる親切ぶりに胸を轟かせた夏子は、限りないうれしさに「まづ涙こぼれぬ」というありさまだった。
いくらなんでも初日にと固辞したが、まあまあと勧められて夕飯まで馳走になり、帰り際にようやく自分の小説の草稿を一回分だけ預け、桃水の著作を数冊借り受け、なにからなにまで行き届いた配慮に感謝して帰宅すると、時計は八時を指していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます