どんな顔をするのかな

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第1話

「ままー、今、何時?」


 ベッドの上から、お風呂も歯磨きも済ませてパジャマに着替えた娘の陽菜が、絵本を大事そうに抱えて私に尋ねてくる。

 7歳にしてはやや小柄で、そしてちょっと引っ込み思案なところのある子だけれど、日頃からよく言うことを聞いてくれるいい子だ。手を焼くようなわがままを言うことはほとんどなくて、それが助かってはいるものの我慢をさせているのではないかと心配になる時もある。

 その陽菜が、心配そうな顔をして時間を尋ねるのには理由がある。


「今、20時15分、ね」

「そっか……」


 見るからにしょんぼりする姿が可愛らしい。陽菜が寝なければいけない時間は、21時と決まっている。


「お仕事、忙しいのかも。明日、2冊にしてもらったら?」

「うん……」


 私がやんわりと勧めると、陽菜は抱えている絵本をぎゅっと抱きしめるようにして、でも諦めたようにうなだれた。

 どれだけ楽しみにしていたかを知っているだけに、その姿にちょっと胸が痛む。

 でも、玄関のドアが開く音が聞こえて、しょんぼりしていた陽菜の顔がぱっと明るくなった。


「景ちゃん、帰ってきた!」


 ベッドから飛び出して玄関へと走って行く。

 その後を追うと、靴を脱ごうとしていたらしい景が、飛びついてきた陽菜を受け止めて抱き上げるのが見えた。


「ごめんね陽菜たん遅くなっちゃった!」

「ううん、大丈夫! セフセフって言うんでしょ?」

「そうそう、セフセフ!」


 陽菜は景の使う言葉をすぐに覚えて真似をしたがる。だから語彙がちょっと偏って育っている気がする。将来が面白いことになりそうだけど、陽菜本人は楽しそうだからよしとしよう。

 一度抱き上げた陽菜の体をそっと下ろしてから、景が靴を脱いで部屋に上がる。


「陽子さん、ただいま!」


 私の顔を見ると、にぱっと音がしそうなほどの笑顔になる。今は髪が短いから、そうするとまるで青年のようにも見える。背が高くて中性的な雰囲気だから、きっと性別を間違えられることもあるだろうなと思う。


「おかえりなさい、おつかれさま。ごはんは?」

「先に陽菜に絵本読んでくる。終わったら食べるね!」

「……ありがとう」


 景は私にもう一度笑いかけてから、再び陽菜を抱き上げて「今日は何の絵本かなー?」と話しかけながら寝室へと入って行った。


 景が陽菜の、眠る前の絵本の読み聞かせをするようになってから一週間が経っている。小学校でサンタなんていない、いるならどうやってお願いごとするんだ、と男の子に言われたのが事の発端だった。

 夕食の席、懐疑的な表情で、今までプレゼントの希望はどうやってサンタさんに伝えていたのと陽菜に聞かれて返事に窮していたら、代わりに景が答えてくれた。

 今までは、ままがサンタさんにお手紙書いてくれてたんだよ、って。

 それでもまだ納得しきれていない様子の陽菜に、ちゃんと本に書いてあるよ、明日持ってきてあげるね、と言った景が翌日本当に持ってきた絵本が、サンタに手紙を書くお話だった。

 その絵本を読んですっかり信じてくれた陽菜に手紙を書いてもらって、なんとかクリスマスに欲しいものをリサーチすることができたものの、寝る前に絵本を読み聞かせてもらったのがよほど嬉しかったらしい。普段はあまり主張をしない陽菜が、明日も絵本を読んでほしいとねだったのがクリスマスの二週間前だった。

 それを聞いた景が、じゃあクリスマスまで毎日寝る前に絵本読んであげるね、と約束してくれてそれを一日も欠かさず実行してくれている。

 この時間に、私は家事や明日の準備、お弁当のおかずの用意や洗い物や洗濯に手をつけることができてとても助かっている。陽菜の寝かしつけのつもりが一緒に眠ってしまって翌日大慌てすることがなくなったからだ。

 ありがたみを噛み締めつつ手を動かしていたら、絵本を読み聞かせているはずの寝室から随分楽しげな笑い声が聞こえてきて、びっくりして様子を見に行ってみる。

 ドアを開けると、陽菜のはしゃいだ笑い声が一段と大きく響いた。


「どうしたの?」

「あっ、ままー! 景ちゃんがおかしいよ!」

「おかしくないよ!? これは落語っていう由緒正しい朗読の方法だよ!」

「……色々違わない?」

「ままにも! ままにも読んでー!」


 笑いながらそう景にねだる陽菜の目はキラキラと輝いている。こんなに興奮している姿を見せるのは珍しい。


「いいよー! 陽子さんも聞いて!」

「ええ……」


 絵本の表紙に目を走らせると、よりによって今夜の読み聞かせは「じゅげむ」のようだ。

 よく知っている話なのに、独特の節をつけた落語風の芝居がかった口調がおかしくて、そして陽菜の笑い声に釣られてつい笑ってしまう。

 陽菜と2人で散々笑い転げて聞き終わると、


「もういっかい読んで!」


 とアンコールが入り、景は気前良く「いいよー!」と応じてくれる。

 何回も読み聞かせた後、やっと笑い疲れて電池が切れたように眠ってしまった陽菜に、そっと布団をかけてふたりで静かに寝室から出た。


「すぐに景のごはん温めるね」

「ありがとう」


 電子レンジで申し訳ないと思いつつ、今日の夕食だったオムライスを温める。その間に景は自分でお茶を用意して食卓を整える。

 軽快な音とともに出来上がりを告げた皿を、景の前に運んだ。


「ごめんね陽子さん、洗い物になっちゃうね」

「ううん、こちらこそ。疲れてるのに、帰ってきてすぐに陽菜との約束を優先してくれてありがとう」

「全然気にしないで! 私も楽しみにしてるしね」

「そうね、今日は格別楽しそうだった」

「楽しそうだったね、陽子さんも陽菜も。でもはしゃぎすぎて寝ないんじゃないかと思った」


 にかっと笑う景の、その笑顔に救われているのは陽菜だけじゃない。

 景と出会ったのはニ年前で、付き合い始めてからは一年半になる。そして一緒に住み始めて、半年。

 シングルマザーになってもう二度と恋愛なんてしないと決めていたはずなのに、今こうやって誰かと一緒にいるなんてと、ふと不思議な気持ちになった。


「今日のパターンは危険ね……」

「興奮させすぎちゃうと寝れなくなっちゃうかもね。でも、大体の目処はついたよ」

「そうなの?」

「うん。みんなが仲良くするお話が割と好きみたい」

「じゃあ、イブに読む本は決まった?」

「『てぶくろ』にしようと思ってる」


 小さい頃に私も読んだことのある絵本のタイトルを聞いて、懐かしくなる。


「いいチョイスね」

「でしょ?」


 クリスマスまで絵本を読み聞かせるのは、イブにしっかり陽菜を寝かせるためにどんな本を読むかリサーチするためでもある。


「獲物がでっかいから、しっかり寝かさないとね!」


 陽菜が欲しがったのはゴリラのぬいぐるみだ。陽菜の二倍くらいの大きさの。


「無理しないで、リビングに置いてもいいんじゃない?」

「いやー、やっぱり目が覚めたら枕元にある、っていうのがきっと嬉しいよ!」


 陽菜をどうやって喜ばせるか、いつも全力で考えてくれている。それはとても嬉しい。でも、ちょっと複雑な気持ちにもなる。


「ごちそうさまでした、すごく美味しかった……ありがとう!」


 満足げな笑顔で、心が満たされる。


「どういたしまして」

「これ、洗っちゃうね」

「いいのに」

「じゃ、一緒に洗う?」


 少ししかない洗い物の食器を、ふたりで並んで片付けする。こんな時間も楽しい。


「でもなんでゴリラなんだろ。イルカとかうさぎとか、もっと可愛い動物いっぱいいるのになぁ」


 景の呟きに、口元が緩む。


「学校でね。優しくて強い動物だって習ったみたいなの」

「へぇ〜」

「それから夢中」

「そうなんだ……ライバルはゴリラか!」


 そうやって対抗心を燃やす景はとても微笑ましい。

 いつも明るくて、そして前向き。

 その景が、肩を寄せてくる。


「オムライス、美味しかった。ありがと」

「ん……」


 手についた泡を流すのもそこそこに、顔を寄せてキスされる。


「陽子……」


 名前を呼ばれて、また唇が重なる。

 さっきより、深く。

 陽菜だけじゃなくて、ちゃんと私のこともこうやって見てくれて、愛情を表現してくれるのが嬉しい。

 告白は景からだったけど、今では自分でも驚くほどこのひとのことが好きになってしまっている。


 子供のことを最優先にするから、あなたのことを一番には考えられない。


 そう告げたのに、それでもいいって、陽子さんにとって大事なものは私にとっても大事だからって、そう言ってくれたひと。

 そして口だけじゃなくて、行動でも明確に、日々それを証明し続けてくれている。


 そんなあなただからこそ、こんなにも……。


 キスで生まれる熱に流されそうになったその時、寝室のドアが開く気配に慌てて体を離す。


「まま、トイレ……」


 眠そうに目をこすっている陽菜を抱きしめて、手をつなぐ。


「行ってらっしゃい。私、歯磨きしとくね」

「うん、ありがとう」


 陽菜がトイレから戻ってきたら、添い寝してくれるつもりなんだろう。いつもそうやって、私の時間を極力作ろうとしてくれる。

 いつだったか「無理させてない?」って聞いたら、無理じゃないし陽子さんと陽菜のための無理ならむしろさせてほしいよって、あの太陽みたいな笑顔で返されて余計に愛おしくなった。

 陽菜のことを最優先にするってふたりで話し合って決めたあの日から、毎日ますますこのひとを好きになっていく気がする。


 トイレから戻ると、景に抱き上げられた陽菜が眠そうにしながら私に尋ねる。


「まま、寝ないの?」

「ママも準備したら行くから、先に景ちゃんと待っててくれる?」

「わかった、待ってるね」


 陽菜の返事を待ってから、景が「いこっか」と声をかけて寝室に入っていく。

 ぎゅっと景の首に捕まる小さな手に、こもる力は信頼の証だ。

 私も寝る支度を整えながら、陽菜があのクリスマスプレゼントを欲しがった訳を思い返してつい笑顔になってしまう。


『あのね、ゴリラって強くて優しいんだって。みんなのこと守るし、大事にするんだよ』

『そうなの?』

『うん。だから、ゴリラのぬいぐるみがいいってお願いしたの……』

『素敵ね?』

『だってね、あのね』

『うん、なぁに?』

『景ちゃんと同じだなぁって思って。だから、いつも景ちゃんが一緒にいてくれるみたいでしょ?』


 そう教えてくれた時の陽菜の顔を見せてあげたかった。

 もし見てたら、そして理由を知ったら、あなたはどんな顔をするんだろう。

 いつかその時が来るのを想像して、心が柔らかく弾む。


 寝室では、陽菜と景が待ってくれている。

 今日は三人で川の字になって寝よう。

 寒い日はみんなの体温がとても優しく感じるから、嫌いじゃなくなった。

 2人の顔が早く見たくなって、私は寝室へと、逸る気持ちを抑えてそっと足を向けた。






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