2. 貴女のそばにいたいから
天海先生とこの準備室で会ったあの日からほぼ1年が経ち、私は高等部1年生となっていた。
この1年間、私は時間さえあればここで過ごしていた。
天海先生は最初『もう、一度入れてしまったから二度も三度も大して変わらん』とおっしゃっていたけれど、気が付けば最早数えきれないくらいこの部屋に入っている。
いつしか『二度も三度も大して変わらんと言ったような気はするが、まさかそこまで入り浸られるとは思っていなかったぞ。もう大して変わらんどころの話ではない気がするが……今更だ。』と言われたときは、ごめんなさいと思いながらもこっそりと、嬉しく思っていた。
だってそれは、それだけ天海先生が私をここに居させてくださって、これからも居ていいって意味ですよね。
「お前、他に行くとこないのか。」
天海先生は呆れた様に聞いてくる。
「ここ以外行きたくないです。」
春休みの少し前。ある日の放課後。
生物準備室でコーヒーを飲みながら、私は春休みの宿題を、天海先生はたぶん仕事をしている。
「ここしか落ち着いて勉強できないので。」
「そういう言い訳をされるとなあ。追い出しにくい。」
「なんだかんだ言って天海先生、コーヒーくれるじゃないですか。」
「そ、それは。早く使い切って次の豆を試したいからだ。」
「またまたぁ。」
実際、ここが一番勉強が捗るのである。
誰にも邪魔されない、というのは理由の一つに過ぎない。
本当の理由は、天海先生がそこにいるから。
天海先生が淹れてくれるコーヒーは、優しい味がする。
「天海先生、私、理系選択しました。」
「そうか。」
返事はそれだけで、天海先生はカタカタとパソコンのキーボードを鳴らし続ける。
そのリズミカルな軽い音に、私の心音がバスドラムのように相槌を打つ。
勉強なんて本当は言い訳に過ぎない。
私がこの準備室に居たい理由は、天海先生が好きだから。
私を崇拝や色眼鏡で見ない。一見は無愛想だけれど優しい。
ぶっきらぼうな態度や口調を纏いながら
私は、天海先生の傍にいたい。
今日天海先生にお伝えするべきは、理系を選択したことなんかじゃない。
天海先生のキーボードと私の心音が何小節かリズムを刻んだのち、私は天海先生の前に立って襟を正す。
「天海先生、……唐突ですけれど、大切なことをお話していいですか。」
「なんだ、藪から棒に。……まあいいが。」
「本当に藪から棒でごめんなさい。でも。言わずにはいられないんです!」
「だからなんなんだ!」
「天海先生……好きです! 私を、先生のスールにしてくれませんか!」
想い人への告白。私はそのような言葉を何度も受け取ってきたけれど、いざ自分が告白するとなると、こんなにドキドキして緊張するなんて。
天海先生はまるで目の前に妖精でも出たかのようにぽかんとしている。
無音が場を埋め尽くす。
少しして天海先生の声が、場を満たした無音を払う。
「……本当に唐突で藪から棒だったな。お前、いつからそんなことを?」
「きっと去年、はじめて天海先生が私をここへ匿ってくれた、その日からです。」
「最初からじゃないか。」
「覚えていてくださったのですね。ええ。あの日のあの後、私はどうにも落ち着かなくて。周り全てから追いかけられる落ち着かなさとは全くの別物でした。気が付いたら天海先生のことを思い出していて。いつしか、ここに来る理由が隠れるためでも勉強のためでもあるけれど、それ以上に、天海先生に会いたいのが強くなっていました。」
天海先生は何も言わず私の話を聞いているけれど、その目は見開いたまま私を見据えている。
「天海先生、優しい天海先生が大好きです。私は、先生のスールになりたいのです!」
「……私は優しくなど、ない。」
「優しくなかったら、あの日私を即効ここから追い出してたと思いますよ?」
「……そこは置いておこう。……そう、か。」
正直、ダメもとではあった。私は生徒で、先生は先生だから。
でももしも。僅かでも希望があるなら。
か細い希望に私は縋って、想いを告げた。
「まずそもそも。スールとは生徒同士の結びつきだろう。私とはそうはなれん。例えスールでなくても、私はお前の相手にはなれない。先生が生徒と付き合うわけにはいかない。……諦めろ。」
「……うう。」
覚悟の上で言ったけど、いざ実際に断られると心が辛い。
私は、こんな思いを何十人にもさせてきたのね。
天海先生に振られた事実と、今まで自分が沢山の誰かを振ってさせてきたであろう思いの重さがのし掛かる。
顔を上げられない。
どうすれば良いのかもう分からない。
自分がこんなに弱いなんて。
「……まあ、飲んで落ち着け。座りな。」
「え、あ、はい。」
天海先生と私を隔てる机にはいつの間にか2杯のコーヒーがあって、私の横にはさっきまで宿題をするために座っていた椅子があった。
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