隣の席の子テロリスト

りらっくす

第1話

 突然だが、隣の席の子がテロリストだ。



 中学二年もあと少しで終わりを迎えようとする、二月の中旬。

 可もなく不可もない学校生活は、特に悪いことは起きず、周りともそこそこうまくやれていて、仲の良い友達もいる。お手本のような平穏で平和な日々の中に、僕はいた。


 そんな中、僕の隣に座る彼女が、テロリストなのだ。

 彼女――古荘ふるそう歩美あゆみさんは長い黒髪を揺らし、今も筆箱に向かって何かを語りかけている。


「――ああ、革命を起こすための重要任務だ。失敗は許されない」


 耳を傾けると、そんな事を話していた。

 このちょっとした会話一つで、お分かりいただけるだろう。

 彼女は、テロリストなのだ。

 おそらく、あの筆箱は普通の筆箱ではなく通信機か何かが埋め込まれているのだろう。あれで仲間と連絡をとっているに違いない。


「――X国の解放軍から支援要求のコンタクトが来てる? そんなのは後回しだ! 今の任務に集中しろ!」


 ほら、何かすごいスケールが大きい話をしている。

 二限終わりの10分放課の間。一番後ろの窓際の席で、彼女は世界を動かしているのだ。

 クラスの連中が好き勝手にうるさくお喋りをしているその裏で暗躍する女性テロリスト……なんともロマンを感じる。


「――とにかくASAPだ。PDCAを回してレジュメのエビデンスをアライアンスで進めておけ。奴らに死神の足音を聞かせてやるんだ」


 何か難しい言葉を巧みに使いこなしている。普通の中学生の口からは出てこない単語ばかりだ。現に、僕は彼女の扱う言葉の意味が一ミリも理解できない。

 普通ではない。すごい。かっこいい。漠然と、そんな感想が浮かんだ。


「――ああ、そっちも細心の注意を払えよ。オーヴァ」


 仲間との連絡が終わったのだろう。古荘さんは筆箱、もとい、通信機を耳から離し、机に置いた。改めて見ると、いたって普通の筆箱で、通信機にはまるで見えない。

 そして彼女がふう、と一息ついたところで、僕と目が合った。


「……なに?」


 古荘さんがクールな目を僕に向ける。涼やか、というより、冷え冷えとした目だ。

 釣り気味の目はただでさえ不機嫌そうなのに、足を組み、不愉快そうに眉間に皺まで寄せている。道理をわきまえない人間を見下すかのような目つきだ。


「いや、ちょっと話声が聞こえてきて……」


 恐ろしい視線に、僕はたじたじになってしまう。

 古荘さんとはまともに会話をしたことがない。というか、古荘さんは最近は常に一人でいるから、どんなテンションで話せばいいのか分からない。

 機嫌を損ねるようなことを言うとテロリストの標的になるのではないか。そんな背筋が凍る想像をしてしまい、僕は何も言えなくなってしまう。


 蛇に睨まれた蛙のようになっている僕に古荘さんはフンと鼻を鳴らし、「勝手に聞くなよ」とつっけんどんに言い放ち、窓のほうへそっぽを向いた。それ以降、会話はなかった。

 窓の外。彼女が見ている景色は僕の見るそれとはまるで違うのだろう。

 彼女の見ている世界を見てみたいと、僕は密かに思っていた。


◇◆


 六限の終わりを知らせるチャイムが鳴る。下校の時間だ。

 僕は部活には所属していないから、ホームルームが終わると同時に帰宅の荷物をまとめる。

 古荘さんも部活に入ってないため、同じように帰宅の準備を始めている。片手にはやはり筆箱が握られており、それに向かって真剣な顔で何かを語りかけている。


 周りの生徒たちも古荘さんのことをちらちらと見ていた。彼女の常日頃からの奇異な行動は目立っており、みんな気になってしまうのだろう。

 女子グループが古荘さんを指差し、ひそひそと何か話しているのが目に入る。クスクスと笑っている声も、耳に入る。


 気づいているのかいないのか、古荘さんは気にする素振りを見せずに一人教室をあとにした。

 当人がいなくなったことにより、女子たちのひそひそ話は井戸端会議へと進化し、周囲では他の人たちが色んな会話をしているのに、その声だけがはっきりと聞こえてきた。


「古荘さん、いつまであんな感じなんだろうね」「陸上の大会で入賞とかしてたときはすごいと思ってたけど、一年の終わりに突然辞めちゃってから……ねえ?」「二年からいきなりあんなキャラになってさ。何あれ? アニメキャラにでもなったつもり?」「見てらんないよねえ。痛々しいっていうか、普通にイタい」「筆箱を電話代わりにして、何かぶつぶつ話してたよ」「マジできついよねぇ」


 奴らの声は僕の心にまったく響かなかった。それどころか、一人ずつ順番に顎をぶん殴ってやろうかと思ったが、脳内でとどめておいた。

 なぜなら、あいつらが言っている事は点で的外れだからだ。

 彼女の目を見ればわかる。

 あの真剣な眼――正真正銘、テロリストのそれじゃないか。


◇◆


 学校帰り、僕は直接家に帰らず、小学生のころからの馴染の駄菓子屋にいた。

 学生の旺盛な食欲を駄菓子で満たし、一枚20円のクジ引きに一喜一憂していたとき、ふと外を見ると、制服姿の古荘さんが歩いているのが見えた。

 たしかに彼女は僕と同じ帰宅部だから、この時間にここら辺を歩いていてもなんら不思議ではない。

 でも、僕にとって遠い世界の住人である彼女がこんな駄菓子屋の前を歩いてること自体に、どこかシュールさを覚え、気づいたら僕は駄菓子屋を飛び出していた。


 普通でない何かが起こる。

 何の疑問も抱かず、僕は好奇心に身を任せて、彼女の後ろを追った。



 右へ左へ。古荘さんは迷いなく歩を進めていく。

 気取られないよう、一定の距離を保って僕も歩く。はたから見れば一種のストーキング行為に見えなくもない、というかそう思われても仕方がない事をしていたのだが、そのときの僕は周囲の目などまるで気にしていなかった。

 別に古荘さんが悪いことをしているとは思わなかったけど、有名人の誰も知らない 一面を見れるかも――そんな後ろめたい野次馬根性が、僕の背中を押していた。


 15分ほど歩いたところで、古荘さんは止まった。目的地に着いたようだ。

 そこは、公園だった。

 住宅街の道路沿いに位置しており、キャッチボールすら心もとない広さだ。

 特に手入れもされてなく、雑草は伸び放題。フェンスは錆び放題。自ら身を縮こまらせているかのように存在感の薄いその場所は、申し訳程度に二つ並んでいる鉄棒がなければ、ただの空き地と間違えてもおかしくない。そんな、寂れた場所だった。


 僕は隣接する家の塀に身を這わせ、彼女の視界に入らない所から顔だけを覗かせる。

 古荘さんは公園の真ん中に立ち、動かない。

 風が吹き、寒さが意思を持って僕の体にまとわりつくようで、思わず身震いしてしまう。こんな寒いのに、なんで古荘さんはなんでもない表情でいられるんだ。やはり特別な訓練みたいなのを受けているのだろうか。

 雑草たちも身を寄せ合うかのように小さく揺れ、彼女の足元をくすぐっているが、当の本人は全く気にする様子はない。ただじっと、公園の入り口のほうを見て、佇んでいる。


 一体ここで何が起こるというのだ。映画が始まって照明が暗くなった時のようなワクワク感を抱きながら、僕は陰から彼女を見ていた。


 数分後、見知らぬ男がやってきた。

 思わず、ぎょっとしてしまった。

 黒いハットに黒のロングコート。黒のサングラスに黒の皮手袋。


 見事なまでに全身黒づくめだ。辞書に載ってる『怪しい』という言葉の挿絵にしてもいいくらいの、露骨に怪しい人物だ。

 サングラスで顔が良く見えなかったが、ほうれい線や鼻の下に髭にたくわえている髭が見え、そんなに若くはなさそうだ。体型も、これもコートで正確には分からないが、そんなに太ってはなさそうで、身長も大人の男性の平均くらいだ。


 黒ずくめの男は自分の恰好を気にする素振りもなく、悠然と公園に入っていく。

 古荘さんが待っていたのはこの人物のようで、男の存在を認めると「遅い」と不機嫌そうに一言口にした。

 それから、男は古荘さんに何かを渡す素振りを見せた。ちょうど男の背が陰になってそれが何なのか分からない。


 それから、彼女らは何かを話し込み始めた。ここからではほとんど聞き取ることができないが、時々、「例の物だ」だとか「あまり使い込むなよ」といった会話の切れ端が聞こえてくる。

 何らかの取引をしているのだろうか。


 黒づくめの男が通りすがりの変質者とかではなくてよかったと思う反面、彼女はあの男とどういった関係なのかと、新たな不安が芽生えてきた。

 もしかして彼女は物騒な事件に巻き込まれているのでは。そう思うと気が気でなくなり、手足の血の気が引いていくような感覚が襲ってくる。先ほどのワクワクなど、どこかへ消えてしまっていた。


 ほどなくして、二人の怪しげな取引は終了して、男のほうが公園から去っていった。

 残された古荘さんは特に危害を加えられている様子はなさそうだ。

 僕はほっと胸を撫でおろす。同級生が危険な目に遭うのは見たくない。

 公園に残された古荘さんはまだその場を去る気はなさそうで、おもむろに何かを取り出した。


 黒い布の袋だ。さっきの取引で受け取ったのだろうか。手の平に収まるサイズで、そこまで大きくない。一体何が入っているのだろうか。

 そこで僕は、ハッとした。

 古荘さんは、テロリストなのだ。急な展開を目の当たりにして忘れていたが、彼女は屈強な信念の下、革命を起こさんとする一人の戦士なのだ。

 おそらく、世界を揺るがす『ブツ』の取引を、この公園で行っていたのだろう。


 確かに、この時間帯は小学生の下校時間ともずれ、中高生は部活に勤しみ、大人はまだ働いている。取引をするには絶好の場所とも言える。

 まさかこんな辺鄙へんぴな公園で世界を震撼させる取引が行われているなど、誰も思わないだろう。

 僕は非常に歴史的な場面を目撃したのではないのか。だとしたら、この話を代々語り継ぎ、後世に残さなければならない。いや、これは歴史の裏側の話なのだから、僕の胸にだけ秘めて墓場の底にまで持っていくべきな気もする。一体どうすればいいんだ……ッ!!


 ……落ち着こう。歴史の生き証人になれると思って我を忘れかけてしまった。とりあえず、この件は一旦保留だ。

 古荘さんは袋の口を開け、中を改めている。低い位置にいる夕日が最後の力を振り絞るかのように、黒髪の少女を燈色で照らしていて、そこだけスポットライトが当てられているかのようで、僕は思わず息を洩らしてしまう。


 綺麗でかっこいい。そんな単純な感想が込み上げてくる。

 引いていた血の気は持ち場に戻り、それどころか僕の鼓動を速める。体温が上がり、体の内から打ち付けてくるドキドキが僕の背中を押してくれる。

 立ち上がり、鼻から深く息を吸い、僕は意を決する。

 そして――


「古荘さん」


 一歩、公園に踏み入った。砂利を踏みしめる感触すら、足裏から明瞭に伝わってきた。

 僕の声に古荘さんの肩がビクッと揺れた。

 持っていた小袋をスカートのポケットの中に入れ、こちらに顔を向けると、目がこれでもかと見開いた。顔色を一瞬で驚愕の色に染め上げ、一歩後ずさる。


「な、何であんたがここに……!」


 聞いたこともないような上擦った声。そんな声が出るのか、となぜか冷静に考えてしまう。

 古荘さんは口をわなわなとさせて固まっている。いつもの冷たい雰囲気の彼女からは想像もつかない姿だ。


「いや、学校帰りで通りかかったら古荘さんがいて、そしたら知らない人と話してるから」


 後を追っていた、とは言えなかった。後ろめたさからなのか、彼女から嫌悪感を抱かれるのが嫌だったからなのか。


「さっきの黒づくめの人、古荘さんの知り合い……?」


 僕の質問に、古荘さんの顔が歪む。まるで痛いところを突かれたかのように、苦しそうな表情だ。


「み、見てたの……?」「うん、一部始終」「どこから……?」「そこの陰から」「……見てたの?」「……うん、一部始終」「な、なんで見てるのよぉ……」


 なんか同じ質問が飛んできた気がする。それに、最後は恨めしそうな目で呻くように声を出していた。それほど動揺しているということか。

 動揺? 百戦錬磨のプロフェッショナルの彼女が、僕相手に? そんなわけがない。

 ……そんなわけがないはずなのに、居心地悪そうにする彼女があまりにも気の小さな子供のように見えてしまい、申し訳ない気持ちになってくる。ごめん、と口から出そうになった。

 自分の仕事現場を見られ、そんなに動揺してしまうものなのか。それとも、それほど重要な任務だったのか。


「あの、それで――」

「あ! ごめん! ブルった!」


 話を戻そうとしたところに、古荘さんが大きな声で慌てて学生鞄から筆箱を取り出した。

 古荘さんはそれを耳に当て、小さく咳払いすると、「こちらコードネーム〈黒髪ロング〉。どうした」と話し始めた。

 どうやら、古荘さんの所属している組織からの連絡のようだ。というか、コードネームが〈黒髪ロング〉って、随分とストレートだな。他に黒髪ロングの構成員がいたらどうするんだろう。


 古荘さんは相変わらず『シナジー』だとか、『失念』だとか、難しそうな言葉を駆使し、最後に「オーヴァ」と締めて連絡を終えると、深く深呼吸し、僕のほうを見た。

 さきほどまでの動揺は嘘のように消えている。黒髪は優雅になびき、いつも学校で見せる、蛆虫うじむしでも見るかのような冷たい目つきで僕を見据えている。

 正真正銘、いつもの古荘さんに――


「で、にゃんのはにゃしだっけ?」


 戻ってなかった。

 古荘さんは噛んだ。可愛い感じで。

 綺麗な水に赤い絵の具を溶かすかのように、分かりやすく、敏腕テロリストの顔に羞恥の色が広がっていく。ぎゅっと一文字に噤んだ口は小刻みに震え、焦点のあってない目からは若干の涙が浮かんでいる。


「えっと……さっきの黒服の人って……」


 気まずいながらも、ここで黙っていたらかえって古荘さんの傷口がさらに炎症を起こしかねないと思い、僕は同じ質問を投げかける。


「ご、ごめん! もう一回電話!」


 劣勢の状況で審判にタイムを求めるかのように、また古荘さんは筆箱を耳に当てた。さっきとは比にならないくらいの必死さを帯びている。


「こちら〈黒髪ロング〉。……そうか。これはジャストアイデアなんだが、アライアンスをフォーカスしてアジャストしろ。ASAPで、至急頼む」


 彼女は早口で難解な言葉を並べ、やはり「オーヴァ」と締めて筆箱をしまった。そして深く深呼吸をし、またこちらに向き直る。


「で、なんの話だっけ?」


 言い直した。

 古荘さんは険しい表情で自分の髪をかき上げるが、黒髪は所々乱れていて、顔つきは焦燥感や疲労感が見え隠れしている。それでも、まあ、おおむね、いつもの古荘さんだ。


 あの電話が彼女の平静さを取り戻す一種のルーティン行動なのだろうか。なぜだか、違法なドラッグを連想してしまい、すぐさま頭から打ち消した。

 彼女は忙しくて疲れているんだ。加えて、黒ずくめ男との現場を見られてしまい、少し取り乱しただけなんだ。


 となると、おそらく、あの取引はやはり世界がひっくり返るくらいのものだったに違いない。だとしたら申し訳ないことをした。歴史の分け目に横やりを入れてしまったみたいだ。

 疲れも溜まっているだろうし、ここは一旦引き下がって後日また、というのが筋なのだろうが、そうも悠長に事を構えたくないのが、僕の本音だった。


 周囲の目もなく、彼女とこうやって一対一で話せる機会など、これから先訪れるか怪しい。

 この千載一遇のチャンスを、無下にしたくない。

 僕は、言わなければならないことがあるのだ。


「と、突然なんだけどさ」


 声が上擦る。裏返る。

 心臓が飛び出そうなほど緊張してしまう。自分でも顔が強張っているのが分かる。


「な、なんだ突然」


 古荘さんの声には困惑の色が混じっている。

 でも今彼女を気づかえるほど、僕も余裕がなかった。

 はたから見たら僕は相当おかしな奴に見えるだろうが、百戦錬磨の彼女だ。僕のような子供は警戒するに値しない存在かもしれない。

 それでも、彼女に届けたい想いがある。


「前から、古荘さんに伝えたいことがあったんだ」


 僕のただならぬ空気を感じ取ったのか、古荘さんは何も言わず、身構えた表情で僕の言葉を待っている。


「その……学校でも古荘さんのことがずっと気になってて……」


 前々から言いたかったことなのに、いざ本人を目の前にすると、言葉が喉につっかえて中々出てこない。

 もう一度、深く息を吸う。夕日の暖かさや風に溶け込んだ自然の匂いが僕の胸の中に入り込んでいく。心地いいと、そんなことを思ってしまう。緊張が和らいでいく感覚があった。

 言え。言うんだ。僕の中で誰かが叫んだ。



「僕を、古荘さんの組織に入れてください!」



 腰を90度の角度に曲げ、僕は深々と頭を下げた。

 そう、僕は古荘さんの所属しているテロリスト組織に入りたかったのだ。

 彼女が日頃から見ている景色は僕とはまるで違う。それを少しでも垣間見ることができたら、といつも思っていた。どんな風景が見えているのかと、いつも想像を膨らませるだけだった。


 無茶を言っているのは分かってる。でも、平凡で、その他大勢な僕でも、チャンスがあれば掴みにいくくらいは許されるはずだ。

 組織に入ったあかつきには、古荘さんの手となり足となり、粉骨砕身で働くことを誓う。言葉だけならいくらでも言えてしまうが、それ程の覚悟がある。

 問題は、言われた側がどう受け取るかだ。


 古荘さんは一体どんな反応をするのだろう。

 最初に浮かんだのは、鬼の形相で憤慨する古荘さんだ。ふざけるな。お前ごときが務まるような仕事ではないと、まくしたてるように罵倒する姿が容易に想像できてしまう。

 僕は恐る恐る、顔を上げる。

 果たして、彼女の反応は――


「え、本当……?」


 目をキラキラと輝かせ、超レアおもちゃを偶然見つけた子供のように、口をぽっかりと開けている。

 あれ? 思ってたのと違うぞ。


 別に怒られることを期待していたわけでもないけど、あまりにも予想とかけ離れている反応だったため、僕は一瞬、肩透かしをくらったように放心をしてしまう。

 その隙を縫うかのように、「そうかそうか」と古荘さんは腰に手をやり、得意げに胸を張る。


「そんなに私の組織に入りたいのか」

「は、はい! ずっと古荘さんのことかっこいいと思ってて……憧れていました!」


 僕の言葉に古荘さんは一瞬だけニヘラと恍惚そうな表情を浮かべる。だけどすぐに咳払いすると、厳格な面持ちに変わった。


「そうかそうか……ちなみに、どの辺がかっこいい?」

「え? ……表では普通の中学生なのに、裏で世界を相手に戦ってるところ……とか?」

「……ふ、ふへへ。他には?」

「いつも難しそうな話で通話してるところ……とか?」


 厳格な表情は溶け、フフン、と口角を上げて露骨に満足そうに鼻を鳴らす古荘さん。まるで豪華な子供洋服をお召しになって気が大きくなったお嬢様のようだ。

 ……さっきから、彼女に対する比喩表現が幼稚な子供になってしまう。これはなんだ?

 きっと、僕が古荘さんのことを理解しきれてないせいなんだろう。あまりにもかけ離れた存在を自分の知ってるモノに置き換えてしまう――そんな思考回路に陥ってしまっているんだ。

 すごい。やっぱり古荘さんは僕みたいな凡人のものさしでは測れない器の持ち主なんだ。


「そうなんだよそうなんだよ。世界を相手にすると、どうしても小難しい言葉を使わざるを得ないんだよ。いやあ、これもテロリストの職業病ってやつなのかなあ!? それでな――」


 水を得た魚のように、コードネーム〈黒髪ロング〉は喋り続ける。こんなに溌溂はつらつ饒舌じょうぜつで明るい感じの古荘さんは見たとこがない。まるで大好きな戦隊アニメについて夢中になって話している――いや、これ以上はよくない。本能的にそう思い、僕の中の僕が思考を制止させた。

 まずは古荘さんの止まない口上を止めなければ。このままでは重大な情報までぽろっと出てきてしまいそうだ。


「あの、それで、組織にはどうやったら入れるんでしょうか」

「ん? ああ、それなんだが……」


 唐突に神妙な顔つきになった古荘さん。忙しなく二転三転する彼女の表情に、こっちの目が回りそうになる。この人の本当の表情はどれなのだろうか。それとも、まだ見せていない本当の古荘さんがいるのだろうか。不意にそんな思いを巡らせてしまう。

 古荘さんは仰々しく腕を組み、僕を真っすぐ見据えた。


「厳しい入隊試験を経て、君は組織に入隊できる」

「厳しい入隊試験……?」「そう、厳しい入隊試験だ」「どんなことをするんです?」「それはもう、厳しいことをだ」


 そんなに厳しいんだ……。

 無意識に固唾を飲んでしまう僕の肩に、古荘さんはぽんと手を置いた。


「私もできる限り力になろう。だから、そんなに気を張らなくても大丈夫だ」


 心強い台詞と、これでもかとキリッとした表情の古荘さんのおかげで、僕は冷静になれた。

 そうだ。この時点から入隊試験は始まっているんだ。言葉だけで気圧されてどうする。

 僕の腹の底から熱いものが込み上げてくる。恐れることは何もない。僕には強い味方が付いているじゃないか。


「過酷な入隊試験だが、乗り越えられるか?」


 真剣な眼で問うコードネーム〈黒髪ロング〉に、僕は「はい!」と世界で一番良い返事をした。

 僕は本当にテロリストになれるようだ。古荘さんと同じ景色を、これで見られる。

 周囲の空気が安堵感で包まれていくのが分かる。この公園、この空間こそが世界の全てのように思え、草木が、風が、二つ並んだ鉄棒が、鮮やかに彩られて僕のことを祝福しているように見えた。幸福感で胸がいっぱいになる。真冬なのに、暖かい心地よさが胸の中を満たしていく。ふわふわと、体がなくなったかのように、なのに周囲の物全てに感覚が行き届いているかのような浮遊感が僕を襲う。


 古荘さんも新たに同志が加入するということで、どこか嬉しそうだ。

 だから、僕たちは突然の来訪者に気づくことができなかった。


「おい」


 そのぶっきらぼうな物言いに、最初の、ほんの一瞬だけ古荘さんのものだと思ったが、すぐに勘違いだと気づいた。古荘さんは口を動かしていなかったし、女性では出せない野太い声だったからだ。

 声のした方角は、僕の真後ろ。


 古荘さんを見ると、斜め上に顔を上げ、目を丸くさせて硬直している。ちょうど、僕が公園に現れたときのような驚愕の表情だったが、そこに別の感情も加えられていた。

 怯えや恐怖、竦動しょうどうといった、そんな類の感情だ。

 僕も後ろを振り向く。


 そこには、男が立っていた。


 遠い国から来た人なのだろうか。スキンヘッドで肌が黒く、ぎょろっとした目は焦点があっていないように見えて、どんな感情でいるのかが全く読み取れない。

 極めつけは体格だ。骨格から何もかもが僕と全然違う。

 この季節に半袖なのに全く寒そうではない、今にもモリモリとうねりだしそうな隆々りゅうりゅうとした筋肉が男の周囲を熱気で包み込み、ほのかに暖かくなった気さえしてくる。暑苦しい筋肉が、僕たちに暖気を押し売りしてくる。

 突如現れた黒人のムキムキマッチョマンに、僕らは二人揃って唖然としていた。


「おい」


 男は太い首で僕らを見渡し、同じ言葉を同じ語調で投げる。短い言葉のはずなのに、まるで百トンくらいある綿の塊が僕の頭に乗っかってくるような圧があり、鼻から小さな息が漏れる。頭のてっぺんが熱くなって、絞られた雑巾のように身が縮こまってしまう。

 素朴な公園に黒人のムキムキマッチョマン。この組み合わせがどうしようもなく釣り合わないように思えて、現実感が湧いてこない。こいつは本当に実在する人物なのか? テロリストになれると舞い上がった僕の精神が見せている幻覚なんじゃないのか?


「あ、あの……どちら様でしょう……?」


 できるだけ相手の神経を逆撫でしないよう、電話に出たお母さんのように1トーン高い声で、僕は訊いた。日本語が通じるか怪しいということに、言ったあとに気づいた。


「俺は、解放軍だ」


 男は流暢な日本語で返して来た。

 そのことも意外だったが、自己紹介どころか日常生活ではまず聞かない単語に、無意識に反芻はんすうしてしまう。


「か、解放軍……?」

「そうだ。今、世界は権力を持った人間たちに支配されている。俺たちは、そんな奴らから人々を救済するために戦っている」


 解放軍の意味を簡単に説明してくれてるようだが、スケールが大きすぎて頭が追いつかない。

 この人は何を言っているのだろう。僕はぼうっと、そんな感想を抱いた。

 世界がどうとか支配がどうとか、こんなしがない公園で話す内容ではない。


 というか、この人は頭がおかしい人なんじゃないのか。そういえば、「俺は次期大統領だぞ」と叫んで子供を追いかける不審者がここらで出没していると、学校で先生が注意喚起していたし、そういった類の変な人なんじゃないのか。

 そんな疑念を抱いていたが、男の顔や腕に刻まれた無数の傷や、分厚い鉄板でも押し付けて来るかのような圧が否定してくる。俺は本物だぞ、と。


「世間では俺たちのことを『テロリスト』なんていう輩もいるが、とんでもない話だ。俺たちは解放軍だ」


 そんな主張をされても、僕らにしたらどっちでもいいんだけど。そう言いたかったが、男はどこか誇らしげに鼻を鳴らすから、僕は「はあ」と気の抜けた返事しかできない。

 それに、下手のことを言ったら、その瞬間、あの鉄骨のような腕が飛んできそうで、おいそれと本音を言うことができない。


 素朴な公園に黒人のムキムキマッチョマン。しかも解放軍テロリスト

 なんだこれは。釣り合いの天秤が男の側に倒れ過ぎて、地面を割ってしまうんじゃないのか。

 さっきまで僕を祝福していた草木たちも、知らん顔して僕らを避けてなびいているように感じた。僕に味方はいないのだろうか。

 いや、味方ならいるじゃないか。こんなわけの分からない状況を僕より体験し、幾度も切り抜けてきたであろう百戦錬磨のテロリスト――コードネーム〈黒髪ロング〉が。


 つわものにはつわものをぶつける。僕は横目で彼女を見やる。

 歴戦のテロリスト、コードネーム〈黒髪ロング〉は、映画の冒頭で未知の巨大生物と遭遇した一般人のように、口をあんぐりとさせて眉を八の字にさせ、絶望的な表情でいる。女の子の中では背の高いほうなのに、いつもより何10センチも小さく見えた。


 ……あれぇ?

 今の古荘さんからは歴戦の猛者感は全く感じられず、年相応に恐い大人に怯えている。これではただの可愛い女の子じゃないか。

 ……分かった。これは演技だ。


 二人ではこの場を切り抜けられないと判断して、弱者を演じて時間を稼いでいるんだ。

 何の時間を? 決まってる。仲間が駆けつけるための時間だ。きっと、無線機か何かで救援信号を送ったのだろう。

 なら、この場を回さないといけないのは僕だ。彼女は演技でただの可愛い女の子になっているから、僕が名司会役を演じてムキムキマッチョマンの気を引くんだ。


「人々を救済っていうのは、具体的にどんな事をされてるんです?」

「武力を持って支配者たちに俺たちの存在を知らしめる。肥えた豚共は痛い目を見ないと分からないからな」

「支配者って、具体的にどんな人たちなんです?」

「政治家や政府組織、そしてそれらに関与してる連中だ。ヤツらは民衆の意見など聞かず、弱者を迫害し、自分の私服をいかに肥やすかを基準にして自分たちの国をコントロールしている。そんな害悪な支配者は根絶やしにしなければならない」

「今までで、どのような実績をお持ちで?」

「某国主要都市のエネルギー施設の破壊。要人の暗殺。在外公館の占拠。数えたらきりがない」

「……それって、あなたたちの言う『支配者』以外にも、犠牲者は出なかったんですか?」

「多少の犠牲は大義には仕方のない些事だ」


 それって、ようするに悪事では? そう言いたかったが、パツパツの半袖から伸びる黒光りした丸太が飛んできて、僕の首から上を吹っ飛ばす映像が脳内で再生され、唾と一緒に飲み込んだ。

 難しい話は反応に困るし、もっとフランクな話題を振ろう。初めて会った人には訊くであろう、定番のものを。


「あなたは、どこの国から来たんです?」


 訊ねながら、空港で外国から来た人にインタビューしていくバラエティ番組を思い出した。こんな厳つい人には話しかけないだろうな、とも思った。


「俺は、X国の解放軍だ」


 X国。解放軍。その二つの単語に頭の中で何か引っかかったが、深く考えている時間はない。

 次の質問は、すぐに出てきた。

 ユーは――


「何しに日本へ……?」


 無感情だった男の目が、一瞬だけ冷酷な色に光ったように見えた。


「今から、お前たちを拉致らちする」


 僕らを拉致しに日本へ?

 そんなわけがあるか。だって、そんな理由なら入国審査で止められるに決まってるもん。

 男の言葉を心の中で否定する。しかし、当の自称解放軍のムキムキマッチョマンからは、冗談の気配が全く感じられない。

 冷たい風が僕の首筋を撫でて頭上ではカラスの鳴き声が聞こえてくるが、どれも遠くに感じて、僕の気を紛らわしてくれなかった。『拉致』の二文字が、頭にこびり付いて離れない。 


「ちょ、ちょっと待ってください……拉致? 僕たち、どっか連れてかれるんですか?」

「そうだ」「なんで?」「日本の連携組織が、我々の支援要求を拒否したからだ」「拒否されたら僕らを拉致するんですか?」「そうだ」「なんで?」「交渉のためだ」


 意味が分からない。僕の14年間で培ってきた常識が無常に否定されている気がして、叫びたくなる。こんな会話の展開、家でも学校でも教えてくれなかったぞ。

 しかしここで僕が踏ん張らなければならない。古荘さんの援軍のためにも。


「僕たちは民衆なんですよ。あなたたちが救済すべき人間に危害を加えてどうするんですか」

「さっきも言っただろう。大義の前では、多少の犠牲は些事さじだと」


 全く話が通じない。うちで飼ってる雑種犬のほうがまだ物分かりがいい。この人に『待て』ができるのだろうか。できなさそうだ。

 男は虚空を見上げ、遥か遠くの祖国を憂うかのように滔々とうとうと話していく。


「俺たちはそろそろ限界なんだ。世界を相手に戦争をしてきたが、物資も底を尽き、怪我人は毎日増えるばかり。そこで日本の連携組織に連絡を取って支援を要求した。だが、返事はノー――拒否されたんだ。このままじゃあ、核爆弾を落とすしかなくなる」


 核爆弾。その聞き慣れたようなそうでないような単語に、空気が一層ピリついた。

そんな物を持っていたら、世界中から怒られるのでは。社会の授業の記憶を掘り起こし、僕は心の中で反論する。


「そんな物を持っているわけないと思ったか? まあ、お前らが信じる必要はないがな」こちらの胸中を見透かしているかのような物言いで、男は抑揚なく続ける。「俺たちも核を落としたくない。だから、お前たちをさらって世界と交渉する」

「僕たちじゃあ交渉の材料にならないんじゃ……」


 腹ペコの猛獣を前に「僕たち美味しくないですよ」と命乞いをしているような気分になってきた。つまりに、無意味な抗弁ということ。

 そしてやはり、男は「やりようはいくらでもある」とばっさり僕の言葉を切り捨てた。


「事態は困窮している。早急に物資支援の交渉をしなければならない。が、今から大物を拉致しようとするとそれなりの期間が必要だ。我々は待っている時間はもうない。だから、手軽に攫えるお前たちを使って日本政府に交渉をかける」

「もしも、交渉が決裂したら……?」

「お前たちを殺す。我々の意志の固さを知らしめるためにな」

「あなたたちのせいで世の中が混乱するんじゃないんですか!?」


 ヒステリック気味な僕の主張は、男に全く届かなかった。


「時には『乱れ』を起こさなければ、臆病な害悪どもは顔を出してこない」


 ブハッ

 感情の風船に穴が開いたような、変な笑い声が聞こえてきた。

 それが僕が発したものだったと気づくのに、数秒かかった。

 理不尽な展開に脳が考えることを拒否して、アウトプットしたものがこの笑い声のようだ。

 こんな漫画みたいな展開ありえない。いや、創作にしてもこんな無理やりな展開作らないよ。これ、現実?


「ちょっといい加減にしてくださいよ」自暴自棄気味になり、気づかいだとかを置き去りにして僕の口が勝手に動く。「いい年こいて、そんな痛いことばっか言っていると、誰にも相手にされなくなっちゃいますよ」


 その言葉に、隣で古荘さんが若干悲し気な表情になった気がするが、気のせいだろう。


「そうか。まあ信じてはくれないだろうな」

「そりゃあ、こんな公園で世界がどうとか言われても、意味わかんないですよ」

「まあ、受け入れなくていい」男はぎゅるんと目だけで僕と古荘さんを見渡すと、淡々と言い放つ。「俺は、お前たちを勝手に捕らえるだけだからな」


 これは本格的にヤバい。でももう駄目だ。だってもう話題がないもん。

 時間稼ぎしたが援軍は間に合わず、これにて終わり。銃を突きつけられて日本政府との交渉の場に立たされる自分を想像し、足の力が抜け、崩れそうになる。

 残された手は、この場から逃げるか、僕がムキムキマッチョマンに立ち向かうくらいだ。


 ……立ち向かうのか? 僕が? こんなラガーマンみたいなやつに?

 むこうの胸板が『ずどん』って感じなら、僕の胸板は『すとん』だ。厚みや強靭度がまるで違う。金属バットで殴ってもバットのほうがひん曲がりそうだ。僕が殴ったら、僕のほうがひん曲がってしまう。


 逃げようとしたところで、きっと無駄だ。黒人だから、当然足も速い。

 寒い冬の、こんなちんまりとした公園が僕の最後の日常だと思うと、涙が込み上げてくる。 冥途の土産にと、僕は古荘さんの方を見た。


 彼女は顔面を蒼白とさせ、泣きそうを通りこし、この世の終焉を目の当たりにするかの如く、絶望的な表情をしていた。とても演技とは思えない。

 もしかして、と不吉な予感が僕の頭の中によぎった。


 古荘さんは、テロリストじゃないのではないのか?

 今まで学校とかで古荘さんこそが演技で、今の怯えに怯えて小動物のように震えている彼女こそ、素の古荘さんなのではないのか――そんな想像が、僕の頭をかき乱す。

 息苦しくなってくる。首や肩が、見えない何かでギシギシと締め付けられる。不快な痺れと一緒に、血の気が引いていくのが分かる。


 そんなわけがない。彼女は本物のテロリストだ。でも――。

 邪推だと、頭から取り除こうとするが、まるで返しが付いているかのように離れてくれない。

 テロリストなんか嘘で、ただの、綺麗な長い黒髪を揺らすつり目でモデルみたいにスタイルの良い可愛い少女こそ、古荘さんの本当の姿だとしたら、僕の追い求めていた古荘さんが虚像だとしたら――。


 そのとき、古荘さんと目が合った。

 頭に浮かんだのは、学校でいつも見る、眉をしかめて機嫌の悪そうにする古荘さんだった。

 演技でも、この人にこんな顔をさせてはいけない。

 いつもの眉間を寄せて蛆虫でも見るかのように冷たく睨んでくる彼女こそ、僕の憧れていた古荘さんなのだ。

 そう思ったら、頭の中から悪いモノが排出されていくように思考が晴れて、今日の出来事が一から映像として激流のようにとめどなく蘇った。


 学校での高圧的な古荘さん。筆箱型通信機に向かってハスキーな声で話す古荘さん。公園で怪しいブツを受け取る古荘さん――色んな映像が頭の中に直接ぶち込まれていく。

 これが走馬灯なのかと思い出に浸っている途中、ある箇所で引っかかりを覚えた。

 あそこだ。二限目終わりの10分放課。筆箱型通信機に向かって難しい話をする古荘さんだ。

 彼女が話していた内容――


――『――X国の解放軍から支援要求のコンタクトが来てる? そんなのは後回しだ! 今の任務に集中しろ!』


 一言一句、思い出せる。目の前に、あの時の教室の風景が鮮明に広がる。

 だけどそれは一瞬のことで、霧が晴れたかのように教室の映像は消え去って、元の公園に戻った。目の前にはむさくるしい黒人のムキムキマッチョマンが立っている。

 気づいたときには、誰にも聞こえない声量で、その単語が口からこぼれていた。


「X国」

「……なんだと?」


 ムキムキマッチョマンは鋭い目で僕を見下ろす。ドクドクと、誰かが僕の内側から殴りつけられているんじゃないかと思うほど、心臓が強く脈打つ。呼吸が難しくて、息苦しい。目を合わせるのが怖い。

 だけど、ここはちゃんと相手と顔を突き合わせないと駄目だ。

 15年の生涯で一番首に力を入れる。顔を上げ、男と目を合わせる。


「あなたたちX国の解放軍がコンタクトを取った組織の人がここにいる……と言ったら、どうします?」


 僕の言葉に、男の目が一回り大きくなった気がした。今までが『ぎゅるん』って感じだとしたら、今は『ぐょるん』といった感じだ。

 怖い。恐ろしい。でも、欠片も顔に出すな。目を逸らすな。僕とこいつは対等だ。

 自己暗示に気を削いでいると、ムキムキマッチョマンは僕らから離れ、おもむろに鉄棒のほうに歩いて行く。二つ並ぶうちの背の高いほう、といっても男の腰辺りまでしかない高さだが、その鉄棒を右手で摘まんだ。

 体操選手みたいに片手でぐるぐる回り始めるのかと思ったが、違った。


「俺は嘘が嫌いだ」男は僕たちに背を向けて喋り始めた。「この前、嘘をついた仲間がいたから、こうしてやった」


 そう言うと、握り棒を摘まむ男の腕が、膨れ上がった。ただでさえ力こぶやら血管やらが浮き出ているのに、噴火寸前の山や怒りの形相を浮かべる獰猛な獣のような危うさが、その腕に貼りついていた。

 白半袖がピリッと、泣き声のような音を立てた。

 男は車のキーでも回すかのように、鉄棒を摘まむ手を捻った。


 すると、それにつられて鉄棒が形を変えて曲がったのだ。腕の可動域の限界まで捻ると、今度は逆方向に捻りを変える。やはり鉄棒がその方向に曲がる。それを何度も繰り返している。

 安っぽいCG映像のように、鉄の棒が一本のパスタみたいにうねっていく。そして、最後にベギンと鈍い音が鳴り響き、摘まんでいた部分だけが離れて、男の手の中に収まっていた。


 ……鉄棒をちぎった?

 僕らはもはや目をぱちくりと点にさせていた。なにこれ? ギャグ漫画?


「その歳で両腕が使い物にならなくなるのは、嫌だろう」


 男は僕らに向き直って言う。

 ちぎったの? 仲間の腕を? そんな人いたら組織抜けるよ、僕は。そして労基に駆け込む。


 男は手の中の鉄屑に一瞥をくれ、「これは脆くて壊れてしまったが、仲間の腕はひしゃげる程度で済んだがな」と付け足した。そんなことは心配してない。

「言葉は慎重に選べよ小僧。嘘だと分かったら……」


 分かるな? とその目が続きの言葉を述べている。棒の真ん中がちぎれた鉄棒が、男の背後で悲しそうに佇んでいる。あれではもう逆上がりができないじゃないか。

 大の大人でムキムキマッチョマンのくせに、本気で中学生相手に脅しをかけてきている。この人も必死ということなんだろう。というかその白半袖は大丈夫か。力を抜いたら伸びた袖の部分がだるんだるんにたるむぞ。そんな恰好で仲間のもとに帰ったらいい笑いものだ。僕だったら笑う。この人に恥はないのか。


 男は半袖を気にも留めず僕を見据える。また怖気づきそうになるが、息を吐き、古荘さんを一瞬だけ見て、気を落ち着かせる。

 うちの父さんも言っていた。『時には嘘も大事だ。父さんも部長に進捗を聞かれたとき「問題ないです」と堂々と言って事なきを得た。その後、無断で家に持ち帰って徹夜で作業したんだがな……。まあようするに、バレなければ何もなかったのと同じだ』と。強気な姿勢は盤面を変えるのだ。

 それに、これは嘘でもハッタリでもなく、事実なのだ。嘘つきは僕の父さんだけで、両腕がひしゃげるとしたら、それは僕の父さんだけだ。


 だが確かに男の言う通り、言葉は選ばないといけない。あらぬ誤解を受けたら元も子もない。

 一歩でも踏み違えば即奈落……そんな細い道を渡りきらなければならない。

渡りきって見せよう。僕たち二人で。

 格闘技のリングコールでもするかののように、僕は指先までぴんと伸ばした手で古荘さんを差し、張りのある声でそれを言った。


「この人こそが、あなたたち解放軍がコンタクトを取ろうとした組織のリーダーなんです!」

「……え……ええ!?」


 数秒遅れて、古荘さんが反応した。いつもの泰然自若とした態度とは正反対の、右往左往、周章狼狽しゅうしょうろうばいといった様子で僕のことを見て目をひん剥いている。もう演技はいらないんですよ。


「なんだと?」


 解放軍のムキムキマッチョマンは、これでもかといぶかし気に顔を歪め、古荘さんを凝視する。

 コードネーム〈黒髪ロング〉は完全に委縮しきって、ガタガタ震えながら「は……ひぅ」と涙を浮かべ、上目遣いで男を見る。

 すごい演技だ。その演技力たるや、一度ドラマに出演したらその美貌と愛らしさで世の男どもはひとたまりもないだろう。とりこだ。


「古荘さん――いや、〈黒髪ロング〉さん。もう演技をする必要はないんです」僕はその場にひざまずきたくなるのを我慢して、進言する。「この人は、あなたが今日の通信で支援要求は後回しにしろと言い渡していた解放軍の人です」

「ツ、ツウシン……?」


 初めて聞いた異国の言葉のような変なイントネーションで、古荘さんは僕の言葉を繰り返す。

 ……さすが、古荘さんだ。

 一度時間稼ぎすると決めたら味方すら騙す演技を突き通す。不退転とはこの人のためにある言葉なんじゃないのか。むしろ、この人が語源なんじゃないのか。一流のテロリストは、ここまですさまじいのか。

 でも、テロリストの矜持きょうじに反してでも、ここは僕に賭けてほしい。


「今日の学校で、あなたはX国解放軍からコンタクトがあったと連絡を受けた……そうですよね?」

「え……? なにそれ……へ……?」


 察してください。困惑する古荘さんに、僕は心の中で念じる。ここは乗ってください。

 すると、少しして、中々思い出せない昨日の晩ご飯を思い出したときのように、彼女は「あ」と声を洩らした。

 伝わった。ありがとうございます。僕は心の中で感謝した。


「あなたは『支援要求は後回しにしろ』と言った。そうですよね?」


 古荘さんは驚愕と懐疑が入り混じった表情で僕を見る。

 僕が力強く頷くと、彼女はハッとして表情を引き締めた。

 目が吊り上がり、高圧的で不機嫌そうな、いつもの古荘さんだ。


「ああ、確かにそう言った」


 長い黒髪を不遜にかき上げ、歴戦のテロリストは威風堂々と答えた。

 態度も言辞も、何もかも戻ってくれた。あまりにも嬉しくて、肩の力が抜け、膝の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになってしまう。

 だが気を抜いてはいけない。これで足を揃えてスタートラインに立てたのだ。

 ここからが本番だ。薄氷の上を踏み抜かないように歩ききらなければならない。


「ということは、X国解放軍への支援要求を突っぱねたということではない――そういうことですよね?」

「ああ、その通りだ。支援要求に応える意思はあった。盗聴対策として、私と連絡するのには間に何人もの部下を通しているんだが、どこかの伝達でミスがあったんだろう」


 伝言ゲームで一人一人が微妙に違うニュアンスで伝えていったら、最終的に全く別の回答になっている。そんな、よくあることが起きてしまったのだ。しかも今回は国も言語も違う人たちが関与しているのだから、ミスが起きても仕方がない。

 僕たちの話を聞き、解放軍のムキムキマッチョマンは問い詰めるような口調で訊ねてきた。


「おい、俺たちからの連絡を受けたのはいつだ」


 僕たちが本当にテロリスト組織のメンバーなのか疑っているようだ。確かに、まだ信じるに足る情報などを開示できていない。ここが分水嶺ぶんすいれいだ。

 支援要求の話がこっちに来たのはいつか……それは覚えている。古荘さんが筆箱型通信機で通話していた、今日の二限目終わりの10分放課だ。


「今日の、午前中です」


 緊張で締まった喉で、僕は答える。


「……連絡系統のラグを加味しても、妥当だな」


 妥当らしい。僕にはよく分からないが、妥当らしい。

 だがこれで信用は勝ち取れた。とりあえず一難去ったことに内心で安堵の息を漏らす。

 しかし、一難去ってまた一難。ムキムキマッチョマンは今度は古荘さんのほうを見る。


「おい女」


 荒々しい言葉づかいに古荘さんは一瞬肩をビクッと揺らすが、毅然な態度は崩さず、「なんだ」と聞き返す。


「なぜ我々の支援要求を後回しにした」


 男の声には怒りが滲んでいる。

 ここも大事な局面だ。男が納得するよう、しかしこちらの意思はしっかり伝えなければならない。言葉の選択肢を誤ってはいけない。


「そ、それは……」


 古荘さんは言いあぐねている。当然だ。ここで間違ったら僕らはあの鉄棒のようになってしまうのだから。慎重にならざるを得ない。

 できるなら代わりに答えてあげたい。部下としての使命感が僕の背中押してくるが、ここは古荘さんが答えるべき場面だ。見守ることしかできない。


 古荘さんは中々答えない。きっと、僕にはまるで考え及ばないところまで考慮し、スーパーコンピューターのように分析と予測を何百何千と繰り返しているのだろう。

 経ったのは十数秒程度だろうが、僕には永遠に感じられた。

 古荘さんは決意を固め、ムキムキマッチョマンを鋭く睨み付けると、腕を組み、高飛車な態度で口を開いた。


「革命のためだ」

「革命だと?」

「そうだ。私たちは今、この国で革命を起こそうとしている。膨大な時間や労力が必要なんだ。悪いが、これを完遂するまで他の事に手を回すことはできない」


 はっきりと、整然と告げた。その貫禄のある姿があまりにも鮮麗に見え、僕は誇らしい気持ちでいっぱいになった。瞬きすらもったいなく感じる。この人はなんてカッコいいんだ!


 ムキムキマッチョマンは少しの間だけ考える素振りを見せ、「革命はいつ終わる?」と目線だけを古荘さんに向けた。

 それは僕が知り得ない質問だ。

 僕は古荘さんに向け、目で訴える。革命はいつ終わるんです?


 歯を食いしばり、目をグルグルと泳がせるコードネーム〈黒髪ロング〉。脳内CPUをフル回転させると彼女はこうなってしまうのか。新しい一面を見れた気がして、少し嬉しくなる。

 数十秒後、彼女はおずおずと、自信なさげに答えた。


「多分、来週中には……」


 なぜか僕の脳裏では父さんが電話で上司の人から問い詰められているときの姿が想起された。


「一週間……そんな大詰めに差し掛かっていたのか……」


 ムキムキマッチョマンは驚きの表情を浮かべる。短い間柄だが、この人の表情の変化を見たのは初めただ。でもこの人の新しい一面を見ても、全然嬉しくない。

 ムキムキマッチョマンは熟考の体勢をとり、しばらくしてから「おい」と声を発した。


「は、はい」僕が返事する。

「ここから一番近い駅はどこだ」

「え……? えっと、大通りを道沿いに行けば……」


 たしか、近くに交番もあった気がするけど、大丈夫だろうか。


「そうか」


 男は一人で何か納得したようで、僕と古荘さんをぐょるんと一様に見渡すと、一歩近づいてきた。


「俺はここから近い場所にアジトを構えて待機する。お前らの『革命』が完了したら、またここに来る。それまでに俺たちへの支援の話を通しておけ」

「は、はい!」

「幸運を祈る」


 そう言い残し、解放軍のムキムキマッチョは僕らに背を向けたまま親指を立て、去っていった。

 そして、静寂が広がった。


 夕日はいつの間にか落ちていたようで、薄暗い公園を古い街灯が心許なく照らしている。

 冷たい風が吹き、こずえの葉や足元の雑草たちが擦れ合う音が妙に耳につく。


 終わり? 嵐は去ったのか?

 終わったんだ。嵐は去ったんだ。

 自問自答を終えるとようやく実感ができ、どっと疲れが押し寄せてきた。緊張の糸が切れて肩や足の力が抜け、「へぇぇええ」と変な息を洩らしながら仰向けで倒れ込んだ。ほぼ同時に、隣にいる古荘さんもへなへなと地面にへたり込んだ。


 勝った。その一言に尽きる。僕たちは成し遂げたんだ。

 あんまりにも嬉しくて、お互いを称え合いたくて、古荘さんのほうを見る。

 さすがの彼女も精根尽き果てた様子で、地面に両手をついたまま肩で息をしている。二人して、試合にフル出場したサッカー選手みたいだ。実際、汗もすごくかいていた。


「僕たち、やったんだよ……!」


 空を仰ぎながら、そう呟いた。たったそれだけ、だけどその言葉に全てが詰まっていた。


「……よかったぁ……」


 砂利も気にせず、古荘さんはほとんど地面に伏した状態でいる。絞り出すかのような声で返事も、風船が萎みきる直前のように弱々しかった。さっきまでの泰然自若とした彼女はどこかへ吹っ飛び、今はただただ生き延びれた安堵を噛みしめているようだ。

 しばらく、僕と古荘さんの間に沈黙が流れた。


 無言の間、僕はぼうっと、空を眺めていた。遥か遠くの空では藍色と燈色のグラデーションが広がっていて、その中を雲たちが気の向くままに漂っている。

 呼吸が落ち着いた頃、僕は飛び起きた。昂る感情を抑えられず、顔を下げている古荘さんの肩をガッと掴んで力の限り揺すった。


「僕たちすごいよ! 二人で乗り切ったんだよ! あんな恐ろしい男を相手に立ち向かって勝ったんだ! あ、でもこんなピンチ、古荘さんはもう何回も切り抜けて――」

「違うの!」


 絶叫にも似た古荘さんの叫び声が、公園中に響いた。

 慌ててと古荘さんの肩を持つ手を離す。


 しまった。テンションが上がりすぎて距離感を間違ってしまった。部下の女性の肩に気安く触ったらセクハラだと騒がれたと半泣きで嘆いていた父さんが目に浮かぶ。親子揃って変態セクハラ男の汚名を被るはめになってしまう。


「私は、違うの」


 そのまま風に呑まれて消えるんじゃないかと思うほど細く震えた声で、古荘さんは言った。

 気づけば、彼女の肩は小刻みに震えていた。しゃくりあげるような音も聞こえてきて、僕は何が何なのか、どうすればいいのか分からず、ただ茫然とすることしかできない。


 遠くの民家とかから聞こえてくる子供の騒ぎ声が、やけに鮮明に耳に入ってくる。なのに、近くにいる少女のしゃくりあげる声は遠くに感じ、聞こえなくなっていく。実際に泣き止んだわけではない。僕が受け入れられずにいるのだ。


 こんな古荘さん、見たくない。顔を上げて、いつもの蛆虫を見るような目で僕を見てくれ。そう祈ったら、彼女は顔を上げてくれた。

 上げてくれた、けど。

 その表情は、僕の望んでいたそれとはあまりにも違い過ぎていた。



「私は、テロリストなんかじゃないの!」



 大粒の涙をぼろぼろ流して顔をくしゃくしゃにさせながら、黒髪の少女は懺悔するように、はっきりとそう告げた。


「へ……?」


 僕の口から間抜けな声が出る。どんな言葉にも粋なコメントで返そうとしていたのに、返ってきた言葉が予想のはるか斜め上を通過していき、泡食ったしまった。

 どういうこと? テロリストじゃない……? どういうこと?

 当惑する僕をよそに、悪いことをしたのがバレて泣きだしてしまった子供のように、古荘さんは言葉を吐き出していく。


「家でお父さんと映画を観てて……テロリストの集団が主人公の映画なんだけど……すごくかっこよくて……最初は家で映画の真似事をするぐらいだったんだけど……いつの間にか外でもするようになってて……でも、それが自分が特別なんだって思い込んで……X国とか解放軍とかも、自分で考えただけで、たまたまあいつの話と噛み合っただけだし……変な目で見られてるのは分かってたけど……それでも私の中であの映画が……」


 バリバリと、彼女の守っていた殻のようなものが、音を立てて破れていくような気がした。

 新たな古荘さんを見た気が――いや、これこそが古荘さんの本来の姿なのだろうか。


 彼女の話は所々で泣きじゃくったり鼻水をすすったりして要領を得ないところがあったが、なんとなく理解できた。

 ようするにあれだ。中二病ってやつだ。うちの兄が数年前にリビングで桃色のカーテンをマントみたいに首に巻いて孫の手片手に高笑いしている現場を目撃した記憶がまざまざと呼び起こされる。糞兄貴に汚染された脳内を瞬時に浄化する。


 古荘さん涙を手で拭っているが、決壊したダムのようとめどなく流れ続けて、止まらない。

 演技、ではないだろう。ここで僕を騙しても何の得にもならない。

 つまり古荘さんが言ったことは、紛れもない真実ということだ。黒人ムキムキマッチョマンとの舌戦を繰り広げる最中、僕の脳裏によぎったあの考え――古荘さんは演技ではなく本心から怯えていたという、あれが見事に的中していたとういことか。

 じゃあ、この少女こそ――綺麗な長い黒髪を揺らすつり目でモデルみたいにスタイルの良い可愛い少女こそ、古荘さんの本当の姿なのか。


 じゃあ何か? 僕は来るはずもない、というか実体すらない架空の援軍を待って、あんなに頑張ってペラを回していたのか……とんだピエロ君じゃないか、僕。そして古荘さんのことを勝手に本当のテロリストだと思い込んで崇めていただけなのか。彼女のことをろくに知らず、勝手な妄想で神格化させて……まるで厄介なアイドルオタクみたいじゃないか、僕。


「ごめんなさい!」


 自己評価にショックを受けていたら、不意にそんな声が飛んできた。

 古荘さんの声だ。唇を噛み、下を向いたまま、僕と目を合わせないでいる。


「私が変な……イタいことしてたせいで勘違いさせちゃって……私が巻き込んで……私のせいで……ごめんなさい」


 いや、僕の思い込みが激しかったというのもあるし、完全に古荘さんが悪いわけではない。そもそも、僕が勝手に古荘さんの後を追ってここに来ちゃったわけだし。

つまり、何が言いたいのかと言うと、


「お互い様だよ」


 僕にも古荘さんにも落ち度があった。それで終わりでいいじゃない。誰がどう悪かったなんて厳密に推し量る必要はない。曖昧なままでいい事もある。


「それに、嘘だとしても、朝学校で古荘さんが筆箱で通信してくれてたから僕も閃けたんだ。もはや古荘さんのおかげで助かったようなものなんだよ」


 僕の訴えに、古荘さんは顔を上げ、ようやく目が合う。彼女の顔は涙以外にも鼻水とか涎とかでめちゃくちゃになっていた。

 不思議なことに、そんな彼女に対して失望や軽蔑といった感情は、これっぽっちも生まれなかった。あるのは変わらず憧憬どうけいの念だけで、僕の中で残り続けている。


「で……でも」


 古荘さんはまだ何かを言おうと言いあぐねている。どうしても自分のせいにしないと気が済まないようだ。

 このまま話を続けるのはよくないと思い、僕は話を変える。


「そういえば、あのムキムキが来る前に来てた、黒ずくめの人。あの人って何者なの?」

「あれは……私のお父さん」


 まさかの親族の方だった。


「じゃ、じゃあ、黒い布袋みたいなのを受け取ってたけど、あれは何?」

「あの中に、私のお小遣いが入ってる……」「いくら?」「三千円」「お父さん、普段からあんな恰好してるの?」「私が頼んだから」「何て?」「私と会う時はあの恰好にしてって……じゃないと……」「じゃないと?」「……お風呂、一緒に入ってあげないって……」


 ……僕も全身真っ黒コーデにしたら、一緒にお風呂に入ってくれるのだろうか。

 いかん。煩悩が。男なら当然の思考なんだけど、この場面では全く不要な邪な思考が邪魔をしてくる。

 聞いたことを素直に受け答えてくれる古荘さんだが、徐々に俯いてしまい、とれたてのトマトのように顔を綺麗に真っ赤にさせている。


 しまった、気になって必要のない事まで聞いてしまっていた。古荘さんの精神的ダメージが計り知れないほどになっている。

 どうしよう。僕のせいだ。

 何を喋ればいいのかと悩んでいたら、震える声でぼそっと、古荘さんが呟いた。


「私、キモイよね」


 キモイ? 何が? また意味が分からないことを言い出すなあ。


「イタい妄想ばっかして、本当はただの何もない中学生のくせに……。テロリストの真似事なんてもうやめて、これからは大人しくするから」


 古荘さんがどんどん小さくなっていくような気がした。自信という空気が抜けて萎んでいくような、そんな錯覚に陥る。

 やめてよ。そんなこと言わないでよ。


「あんたも、私に関わってると変な目で見られるし……これ以上は――」

「関係ないよ!」


 頭で考える前に、自分でもびっくりするくらい大きな声が口から飛び出た。勢いよく立ち上がったものだから、古荘さんは体をビクッとさせ、反射的に僕を見た。

 涙は止まっているものの、弱々しく、今にも壊れてしまいそうな少女の表情に、胸が詰まりそうになるが、ここで黙ったら何かが終わりそうに思えて、一心不乱に口を動かした。


「とにかく、僕らはあの恐ろしい状況を乗り越えたんだ! 二人で力を合わせて、それがとにかくすごいことなんだ! 古荘さんはすごいんだ! イタくもキモくもない!」


 今の古荘さんには、本心をぶつけるしかない。僕の想いが届くか分からないけど、止まるのだけは選択肢になかった。


「あんなゴツい筋肉だるまみたいな相手に堂々と喋れるなんて、そんなのクラスの連中の誰にもできないことだ! すごいことをしたんだよ!」

「でも、あんたは私より長い時間あいつと――」

「僕のことなんか今はどうでもいいだろ!」

「え……えぇ……」


 僕の意図を汲んで毅然とした態度でムキムキマッチョマンに相対した、あの気高さこそ、僕の憧れそのもの。そのど真ん中にいるのが、古荘さんなのだ。


 今、分かった。

 彼女がテロリストだとかそうじゃないだとか、本質はそこではなかったんだ。


「あのムキムキと話してるとき、頭の中で走馬灯みたいなのが流れたんだ。今までの思い出みたいなのが頭の中で流れたんだ。そのおかげでX国のことを思い出したんだけど、僕の思い出にはどの場面にも古荘さんがいて……僕の頭は、古荘さんでいっぱいなんだ!」

「え……ちょっと、どうしたの」


 古荘さんも立ち上がり、手をあわあわとさせている。傷だらけのボクサーを制止させようと努めるレフェリーみたいだ。

 でも、僕は止まらない。


 自分の感情に、今気づけたんだ。

 そうか。そうだったのか。


 古荘さんが自分はテロリストじゃないと告白したとき、不思議とショックを受けなかったのは、僕はテロリストの古荘さんに憧れてたわけじゃないから。

 放たれた矢のように確固たる意思で自分を突き通す、どこまでも真っすぐで一生懸命な――


「古荘さんが好きなんだ!」

「……え……ええええええ!?」


 古荘さんの仰天驚愕とした叫び声が、公園の中に響き渡った。


「な……ちょ……じょ、冗談でしょ……?」

「冗談なんかじゃない! 僕は本気だ!」

「わ、私、嘘ついてたんだよ……自分がテロリスト組織の一員で、入隊試験にも協力するなんて言っちゃってたし……あんたを騙してたんだよ」

「そんなことはどうでもいい!」

「え……えぇ……」


 嘘か本当かなど、取るに足らないことだ。

 この人と肩を並べて歩きたい。

 それが僕の行動原理なのだ。


「古荘さんは僕の憧れなんだ! 憧れてる人と、同じ景色を見たいんだ!」


 僕の言葉に、しどろもどろ、右往左往と古荘さんの目がスイミングする。落ち着きなく前髪を触ったり、何か言おうとしてやっぱりやめて口をパクパクとさせたり、見事なまでの動揺だ。


「わ、私……」


 古荘さんは取り乱したように両手で顔を覆うと、目を逸らしながら続ける。


「私……妄想でキャラ演じるようなイタい奴だし」

「そんなのはどうでもいい! 第一、古荘さんはイタくない! 目に入れても痛くない!」

「え……」

「キャラを演じていようが、真剣な顔で自分の思った通りに生き抜く古荘さんがすごく綺麗でかっこいいんだ! クラスの奴らみたいな、周りの好き嫌いばっかうかがって右向け右の思考停止なんかじゃない。古荘さんは自分を貫き通す、芯の通った素敵な人なんだ!」


 だから好きなんだ。僕は何度でも叫ぶ。思考を置き去りにし、僕の本心を余すことなく吐き出す。あまりにも考えないものだから「それに、顔もすごく可愛い!」と口走ってしまう。これも本心なのだから仕方がない。


「そ、そんなこと言われても……私、どうしたら……キャアッ!」


 まくし立てるような僕の口上に、古荘さんは気圧されるように後退ろうとするが、足がもつれて、後ろ向きに転んでしまう。

そのとき、彼女のスカートが大きく揺らめいた。


 膝下15センチ丈のスカートは校則を守っても、彼女の下着は守ってくれなかった。

転倒の拍子にふわっと柔らかく広がるスカートの中にあったのは、純白だった。美しい雪景色と評して良いほどの、まごうことなきの、真っ白のパンツだった。

 しなやかで程よく筋肉の付いた脚と共に、僕の眼前に、それが露わとなったのだ。


 見てはいけないものを見てしまった。

 本能的に瞬時にそう感じ、僕は首を痛めるのも気にせず刹那の速度で顔ごと視線を逸らした。

 古荘さんも、ものすごいスピードでスカートを押さえるが、時すでに遅しだ。

 見てしまったのだ。古い街灯の光量は頼りないながらも、はっきりくっきり映し出していた、真っ白パンツを。


 古荘さんは立ち上がらず、その場でまた俯いてしまった。肩を小さく震わせ、口を一文字に固く結び、顔は目玉焼きでも焼けるんじゃないかというほど真っ赤になっている。

 異性に下着を見られた女の子の気持ちを、僕は察することができずにいた。せめて忘れようと努めるが、意識すればするほど古荘さんのパンツが脳内から離れてくれない。僕の兄が机の奥底に隠しているエッチ本に載っている女性に比べたら全然色っぽくなかったはずなのに、なぜか鮮明に記憶されてしまっている。僕はあの光景を一生忘れない自信があった。


 パンツを見た人と見られた人。そんな関係性の僕らは、互いに声を発せられず、変な沈黙が生まれた。

 俯く彼女に僕はどんな言葉をかければいいのか分からないでいた。謝罪の言葉だろうが、慰めの言葉だろうが、どんな言葉だろうと彼女がさらに傷つくような気がして、踏み込めない。


「何でそんなに……こんな私に」


 先に沈黙を破った少女が、消え入りそうな声でそう言った。

 ガツンと後頭部をハンマーでぶん殴られたような衝撃が、僕に走る。 

 情けないと、僕の中で誰かが言った。

 尊敬する人が、好きな人がこんなに弱っているのに、うじうじ足踏みしやがって。男なら自分の気持ちくらいちゃんと言葉にしろよ。


「古荘さんが……」


 言いたい想いを頭の中で整理できないまま、僕は声に出す。

 鼓動が高鳴る。上手く伝えられる自信がなくて、もどかしい気持ちに駆られる。

 だけど、言わないといけない。僕が言わないと駄目だと、強く、そう思った。

 この気持ちをそのまま伝えればいい。そう自分に言い聞かせたら、不思議と言葉は出てきた。


「好きなんだ。古荘さんがどんな人だろうと……古荘さんのことが大好きで、もっと古荘さんのことを知りたくて、一緒にいたいんだ。だから、その……パン――下着を見ちゃった後にこんなことを言うのもおかしいんだけど……これから先、古荘さんの隣にいてもいいですか?」


 握手でもするかのように、僕は右手を差しだす。

 黒髪の少女はゆっくりと顔を上げた。綺麗な長い髪は所々乱れていて、目元も、涙のせいで赤らんでいる。


「えっと……その……あぅ……」


 周りには何もないのに、古荘さんは右を見たり左を見たり、たまに僕と目を合わせるとすぐ目を逸らしたりして、一生懸命自分の言葉を探している。

 その姿がどんな言葉にも言い換えられないくらい健気で愛らしくて美しくて、僕は心奪われ、見惚れてしまっていた。


 古荘さんはぎゅっと目をつむると、慣れない手つきで僕の手をとった。小さく震えているが、確かな温もりが、伝わってきた。

 彼女はゆっくりと目を開け、僕に目を合わせると、


「私でよければ……」


 恥ずかしそうに、だけどはっきりと、そう言った。 


◇◆


 次の日、どの報道番組も同じニュースを流していた。


 世間を騒がしていた国際テロリスト組織の構成員が、日本で捕まったのだ。

 不審な男が駅周辺をうろついていたため、交番にいた警察官が職務質問をし、逃げ出そうとしたところを数人がかりで取り押さえた。身元確認から男は国際テロリスト組織と関りがあると判明した。男の所持品から国際テロリスト組織の有力な情報が入手でき、組織の瓦解は時間の問題――そんなニュースだ。


 テレビではテロリスト組織の相関図が描かれた大きなパネルの横で、男性ニュースキャスターが神妙な顔で説明をしていき、専門家たちがああでもないこうでもないと熱弁をふるっているのだが、パネルの真ん中あたりにでかでかと貼られている男の写真に、見覚えがあった


 スキンヘッドの黒人男性――昨日、僕たちの前に現れた、あのムキムキマッチョマンだ。


◇◆


「おはよう」


 朝、僕は教室に入り、自分の席まで行くと、弾みそうな気持を抑えながら、隣の席に座っている少女に挨拶をする。

 少女は長い黒髪を揺らし、不機嫌そうなつり目で僕を見るが、すぐにぷいっと窓のほうへ顔を逸らしてしまった。


 少しして、少女はきまりが悪そうに僕に視線を送るが、またすぐに逸らし、また見てまた逸らし、そわそわと落ち着きがない。

 やがて、少女は意を決するように、鞄から筆箱を取り出した。

 呼応するように、僕も机に置いていた筆箱を手に取る。

 少女は手に持った筆箱に顔を近づけ、おずおずと口を動かした。


 おはよう


 微かに、隣からそんな声が聞こえてきた。

 僕も筆箱に向かって、口を開く。




 突然だが、隣の席の子がテロリストだ。

 そして僕は、そんな彼女を、どうしようもなく好いている。


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隣の席の子テロリスト りらっくす @relax

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