第4話 先駆者
読者諸君は、
「開けてはいけないもの」
あるいは、
「開けてしまうと、とんでもない災いが降り注ぐことになる」
という言い伝えとして、
「パンドラの匣」
という言葉を使うことがあるだろう。
例えば、今の時代など、
「原爆を開発した科学者は、自らの手で、パンドラの匣を開けてしまったのだ」
というような使い方をすると思うが、言葉は知っていても、それがどういうところからの話なのかというのを知っている人は意外と少ないのではないだろうか。
それこそ、浦島太郎の話や、ソドムの村の話、ノアの箱舟や、バベルの塔の話などほど、知名度が高いわけではない。
作者も、数年前まで知らなかったのだから、興味のない人が知る由もないだろう。
ちなみに、よく言われる、
「パンドラの匣」
という言葉で検索すると、
「太宰治の小説」
という形で返ってくる。
実際の本来の意味での、
「パンドラの匣」
を神作しようと思えば、
「パンドーラ―」
で検索することをお勧めします。
このパンドーラ―というのは、女性の名前である。
出てくるのは、ギリシャ神話で、
「人類最初の女性」
ということである。
つまり、それまで人間には男性しかいなかった。ここが、アダムとイブから人類が始まる聖書とは違うところで、古事記のイザナギ、イザナミとも違っていることが特徴的である。
ここから先は、表しにくいということもあり、日本で一般的に言われている、
「パンドラ」
と表記することにする。
この、パンドラと言う名前の由来は、
「すべての贈り物」
という意味であり、この意味が物語上、重要な意味があるので、覚えておくといい。
問題は、そもそも、人間には男性しかいなかったということと、その頃は、人間界には、火というものがなかった時代だということである。
火がないことで人間界は、争いがあったり、大りんポスの神々が許せるような状態ではなかった。
しかし、そんな人間界に住む。人間というものを好きになったプロメテウスは、人間のために火を与えようと考えたが、
「人間には決して火を与えてはいけない」
というゼウスの掟があったが、あまりにも気の毒な人間に対して、天界から火を盗んで人間に与えてしまった。
怒ったゼウスは、プロメテウスに対し、半永久的な苦痛を毎日同じように与えるようにした。毎日、ある一定の時間、崖に磔のような形にして、ハゲタカに、その肉を食らわせたのだ。死ぬほどの苦痛を与えられて、その日が終わっても、翌日になると、傷口は癒えていて、また前の人同じことが繰り返させる。身体が元通りになるのだから、この拷問は、半永久的に続くわけである。
さらに、ゼウスは火を与えられたことで、さらに争いがひどくなる人間に対しても、怒りをあらわにした。ゼウスとすれば、
「そんな当たり前のことを分からなかったプロメテウスに対しての怒りもある」
ということであった。
そこで、ゼウスは、女というものを作り、(女神はいるので、似せて作った。元々男だってそういう形で作ったのだ)、それに神々が、いろいろな贈り物をして、パンドラを、天界からの悪魔の刺客として送り込むことに」たのだった。
その贈り物というのは、
「アテーナーからは機織や女のすべき仕事の能力を、アプロディーテーからは男を苦悩させる魅力を、ヘルメースからは犬のように恥知らずで狡猾な心を与えられた」
というものである。
そして、最後に、彼女に対して、
「決して開けてはいけない」
といい含めた箱を渡すのだが、これこそが、いわゆる、
「見るなのタブー」
とされるものである。
そして、神はパンドラにこれだけの贈り物をして、いよいよ人間界に、女としてのパンドラを送り込むことになった。
そして、送り込む先は、裏切者として刑を受けているプロメテウスの弟である。エピメテウスの元だったのだ。
プロメテウスは、弟に、
「ゼウスからの贈り物を受け取ってはいけない」
と言われていたが、彼女の美しさに魅了され、そのまま結婚してしまうことになる。
その際、人間界に来たパンドラは、結局その授かった箱を開けてしまうことになる。
その箱の中には、あらゆる幸いが飛び出してきた。疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などの幸いがそうである。
そして、最後に、エルピスというもののみが、縁の下に残って、出ていかなかったという。
それが、いわゆる、
「パンドラの匣」
というものの正体である。
日本の神話や、聖書にあるような、
「見るなのタブー」
が、ギリシャ神話にも存在するというわけである。
ただ、最後に箱の中に残ったエルピスというものの正体が何であるかということには、諸説ある。
ただ、古典ギリシャ語のエルピスというのは、
「予兆や、希望、機体」
などという訳されるようだ。
そういう意味で、この世の様々な災厄が表に出たが、最後に希望が残ったという意味で、いいことのように解釈されているが、中には悪いことのように解釈される場合もある、
エルピスが、予兆という解釈であると考えた時、悪い予感というのも、一種の予兆であり、知らなくておいいようなことを知らされ、
「いずれ、いつかは災いが襲ってくるが、それがいつなのか分からない」
という不安を持って毎日を生きなければいけないということ自体が、すでに不幸である」
という考えだ。
つまりは、
「知らぬが仏」
という言葉のとおり、何も知らなければ、そうなった時、一瞬にして消え去るだけで、苦痛も苦労も何もないということだ。
しかし、将来においてロクなことが起こるということが確定していて、それを回避できないということであれば、これほどの災難はないだろう。そうなった時、
「そんなことなら、何も知らない方がよかった」
と考えるであろう。
災いを前兆として受け入れることができるのは、あくまでも、回避することができ、それに邁進することが、自分を高めることができるということだという、思い切りポジティブな考えでなければうまくはいかないだろう。
それを思うと、箱の中に残ったエルピスというもの、そして、
「予兆」
というものが、一番の災いだったのではないかと思うのだ。
最初に飛び出した災厄だけが災いではなく、その後に、さらに悲惨なことが残っているのだとすれば、ゼウスを中心とするオリンポスの神々が、
「人間臭い」
などという生易しいものだということでいいのだろうか?
プロメテウスに対して行ったバツにしても、これ以上ないというほどの刑である。よほど一思いに、殺してしまってあげた方がいいといえるのではないだろうか。
これがギリシャ神話における。
「パンドラの匣」
の伝説であるが、
前述のような、
「浦島太郎」
や、それ以外では、
「鶴の恩返し」
などに見られる、
「見るなのタブー」
されている話は、聖書の中にもある。
「ソドムとゴモラ」
というのが、その話であり、旧約聖書の中では、甚だしい倫理の乱れがあったとされる、ソドムの村のひどさは、神々も黙って見ているわけにはいかなくなり、数人を神が助けることになるのだが、助けた人たちを導いて、なるべく早く村から離れることになった。
その人たちというのは、ロトと呼ばれる人とその家族であった。
その際、神様から、
「何があっても、決して後ろを振り向いてはいけない」
と言われていたにも関わらず、爆音が気になってしまったロトの妻が、ロトの、
「振り向いてはいけない」
という叫びとともに、後ろを振り向いてしまったため、彼女は、塩の柱にされてしまったという話である。
この時の滅亡の原因は、天から下された硫黄と火によって滅ぼされたということであるが、イメージとしては、まるで核兵器のようなイメージもないわけではない。
この村の伝説も、
「振り返ってはいけない」
と言われているのに、振り返ったことで、バツを受けるという、
「見るなのタブー」
の話である。
そうやって考えると、この、
「見るなのタブー」
というのは、世界各国、しかも古代において言われ続けたものであり、それぞれの文明がまだ知られていない中でも存在しているというのも、不思議な感じだ。
それこそ、世界の七不思議と言われる、
「クフ王のピラミッド」
「ナスカの地上絵」
など、空中から見なければ分からない正確な幾何学をどうして作り上げることができたのかということである。
それを言えば、日本でも古墳時代にたくさん作られた、前方後円墳も同じことで、そこにも、調べれば調べるほど、精密な幾何学が絡んでいるというではないか。
この、
「見るなのタブー」
とされる、浦島太郎の話もそうである。
あくまでも、文章として実際に残っているのは、室町時代に編纂された、
「おとぎ草子」
というものが、伝わって、
「浦島太郎」
という話になっているが、それ以前から、口伝という形で、それぞれの地方に伝わっている話を編纂したのが、
「おとぎ草子」
ということであれば、元々の話は、室町時代から、さらに昔にさかのぼるうことになる。
いわゆる、
「ウラシマ伝説」
と言われるものだが、それぞれの地域に、微妙に違う形で残っていて。
「これも浦島太郎の話の減刑だ」
と言えるものが、いろいろな地域に起こっていると考えると、古代から言われていたことだといってもいいかも知れない。
しかも、ウラシマ伝説には、カメの話であったり、乙姫や竜宮城の話が単独で残っているところもある。やはり、それらの話は、おとぎ草子を編纂する際に、作者が、全国を巡る巡って、探してきた話を総合したフィクションなのではないだろうか。
桃太郎の伝説も全国には多く、桃ときびだんごという繋がりで、岡山県を押す説が有力であろうが、
「鬼が島伝説」
だけに限っていえば、沖縄や鹿児島などの離島だったと言えなくもない、
そもそも鬼ヶ島というのが、流罪の島だという発想もまんざらでもないと思えるからだ。
特に鹿児島県には、鬼界が島というのがあり、平安時代に、鹿ケ谷の陰謀を企てた、俊寛僧都と呼ばれる僧侶が流されたのが、鬼界が島だという。
そんなところに鬼がいたという話があっても不思議ではない。そういう意味で、瀬戸内海の孤島が、罪人と海賊の子孫の島ということで、探偵小説の舞台として描かれたのも、この伝説からなのかも知れない。
岡山県にゆかりの瀬戸内海というのも、作者からすれば、まんざらな話でもなかったのかも知れない。
そうやって考えてみると、
「果たして、おとぎ草子に書かれている話の一番古いものって何なのだろう?」
と考えてみたりもするのだ。
かつてのおとぎ話的な話として残っているもので一番古いものは、
「竹取物語」
だという。
これも、そもそも各地に残っていた話を総合的にまとめたものだという話もあるので、下手をすると、実際に残っている物語を、さらに総合して出来上がった話などもあったりすると、何が元祖なのか分からなくなるのではないだろうか?
それこそ、
「タマゴが先か、ニワトリが先か」
というマトリックスのような話になりかねないからだ。
しかも世界各国に似たような、話が散らばっていて、しかも、そこが、おとぎ話や神話の根源の部分のように思うと、
「昔には、今をもしのぐような文明が出来上がっていたのかも知れない」
という、都市伝説的な話もまんざらでもないように思えてならないのだ。
となると、
「一体、どの話が、元祖だというのだろうか?」
ということを考えたくなるのは、作者のくせのようなものだった。
それは、
「何事も、最初に始めた人が偉いんだ」
という考えを持っているからであって、いくらその後に改良を加えて、最高にまで仕上げた人が、それから出てきたとしても、
「最初に始めた人には絶対にかなわない」
という思いは、絶対な感情だったのだ。
確かに、最先端の技術までい仕上げた人も確かにすごいのだが、何もないところから、作り上げた人にかなうわけはない。
それが、モノづくりというものが、どれほどすごいことなのかということを感じたことがある人間であれば、誰もが感じることであろう。
絵を描くにしても、音楽を作曲するにしても、彫刻を作り上げるにしても、小説を書くにしても、すべてのクリエイトは、その先駆者には適わないという発想である。
ただ、ほとんどのものは、すでに作られていて、一番になることはできない。一番というのは、てっぺんという意味と同時に、最初に手掛けた人だということである。
「将棋の一番隙のない布陣というのは、どういうものなのか分かるかい?」
と聞かれたことがあったが、答えられなかった。
しかし、考えてみれば、分かっていたことではないかと思う。そう答えてしまって、もし違ったら恥ずかしいなどという発想と、
「一番最初に手掛けた人が一番偉い」
という発想が結びついて、自分の中で。
「認めたくない」
という思いがあったのかも知れない。
それを思うと、その答えを導き出せなかったのだが、
「分からない」
と答えると、相手は得意がって、自分が最初に思ったことを言ったのだった。
「最初に並べたあの形なんだよ。一手打つごとに、そこに隙が生まれる。つまり、最初は最強だということなんだ」
と言われると、自分がどうして答えられなかったかということを、身に染みて感じたのだ。
やはり、
「一番最初が何と言っても一番なのだ」
ということになるのである。
そういう意味で、発明家であっても、科学者であっても、最初に何かを作り出し、あるいは、見つけ出した人は、その後に何をしようとも、その人には適わないと思っている。
ただ、それは発明発見に限ったことではない。事業家であってもそうだ。何かを最初に始めた人はすごい。その後にいくら似たような店ができようとも、彼らの名前は残らない。よほどの奇抜なものであれば別だが、それほど奇抜なものであるということは、もはや、別の事業と言ってもいい。そういう意味で彼も創始者になるのだ。
初めて何かを始めた人は、先駆者と呼ばれ、その業界では永遠に名前が残るのだ。もちろん、その業界という意味でもそうなのだが、一つの会社を興すのもそうである、
起業者として、
「初代」
としての名前は、いかにその後全盛期が来ようともかなわないのだ。
室町幕府の、足利尊氏しかり、最盛期の三代将軍義満よりも、そして江戸幕府においての、徳川家康しかり、これも最盛期が奇しくも三代目となった家光よりも、先駆者として、そして、
「初代将軍」
という意味で名前が残るのだ。
何も名前が残ることだけが偉大だと言っているわけではない。初代以降は、起業に関しては関係なく、
「生まれながらにして社長が決まっている」
というようなところが多い。
もちろん、同族会社に限ってのことであるが、昔はそういう会社が多かったではないか。
今の時代は起業するどころか、会社を存続していくのが難しい。だが、やはり一番難しいのは、起業することだろう。
少なくとも、まわりからの信頼を得なければ、一番大切な資金が手に入らない。誰が好き好んで、生まれたばかりの海のものとも山のものとも分からないものに、融資をするというのか、融資先が決まって、さらに、取引先も決まって、そこから、起業計画を立てる。そして、承認を得て、会社を設立。そこからやっと、事業を回転させることができるのだ。
二代目以降は、軌道に乗っているものを引きついて、いかに衰退させずに、少しでも成長させるかということに集中する。それはそれで大変なのだが、起業に関しては意識しないでいいだけに、初代の苦労は知らないことになるだろう。
しかし、同じ職種で、初めてその業種に乗り出した人は、根拠も信憑性もないものに手を出すわけだから、それは大変なことであろう。
何と言っても、信用がないのだ。
業種に対しての信用もなければ、自分に対しての信用もない。そのどちらも同時に得なければいけないということで、今の時代では、なかなかできることではないに違いない。
かつての、先駆者たちは、しっかりとした考えを持っている。まるで武人のように、しっかりとした考えを持っていて、ビジョンもしっかりとしていて、さらにその道を究めることに、ブレることはなく、自分の人生を伝記にして残すことができるくらいの才能があったりするのだろう。
そんな先駆者、パイオニアと呼ばれる人たちが今までにたくさんいたことだろう。
おとぎ話にしても、神話にしても、誰が書いたのかということは残っていなくても、実際に編纂した人がいて、物語を作りあげたのだ。
確かに、口伝をまとめただけかも知れないが、その人の中に感じるものができなければ、口伝をまとめようとは思わないだろう。
そして、その話はフィクションであることは間違いないのだが、いかにも実在した話であるかのように作ることが、
「話を作り上げる」
というフィクションにも負けないものなのではないかと思うのだ。
ということは、
「古代で、交流がないにも関わらず、似たような話を書けるというのはどういうことか?」
という疑問もあるのだが、天才というものが、似たような発想を持って生まれたものだとすれば、その話がフィクションであればあるほど、同じような話を考える人が偶然いたとしても、不思議ではない気がする。
しかも、古代という時代的には、かなり幅の広い時代範囲なので、余計にあり得るのではないだろうか。ひょっとすると、
「それだけ人間の頭の中の構造は、思ったよりも、限界が狭い範囲で存在しているのかも知れない」
と考えられるのだ。
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