第3話 【真説】ウラシマ伝説

 箱庭療法として、表から見ているという発想と、中から表を見る発想とでは、どちらが多かったといえるだろうか?

 それぞれに、思い浮かんだ時の気持ちを思い出すことができる。

 外から中を見た時に感じたものとしては、

「実際にその瞬間に感じているということが分かった時だ」

 と言えるだろう。

 というのは、

「表にいる自分が、三次元の世界にいて、中にいる自分が、二次元だ」

 という発想であった。

 つまりは、絵の中に描かれている箱庭を見ていて、その中に自分がいるという発想である。これは、

「自分のいる次元から、下等な次元を見た時には見えるが、逆だと見えない」

 という発想に基づいているものだった。

 逆にいえば、自分が三次元の発想で、中にいて、そこから表を見るということは、高等な世界を見ようとしていることなので、

「見えるはずのないものを見ている」

 ということになる。

 そこには、大いなる矛盾が孕んでいるという思いを抱きながら見ているはずなので、その発想の行きつく先がどこになるのか、まったく想像がつかない。

 ということは、

「その世界は夢を見ているということであり、夢の中がリアルであればあるほど、抜け出しにくいものではないか?」

 と考えることであった。

「夢と現実の違いは、覚めるか覚めないか? ということであり、覚めなかったら、それが現実ということになる」

 という前述の話に繋がってくるのである。

 だから、もし、表から見ている自分と、中から表を見上げている自分のどちらが本当の自分なのかというと、表から見ている自分だということを、このような理屈で考えた時に出てくる答えなのであろう。

 時間の早さを感じるということの発想として、

「理論物理学」

 というものがあると思っているが、その理論として一番最初に思いついたものが、これだったということで、

「タマゴとニワトリ、その発想が交差するというよりも、正面衝突したような感覚になった」

 と言ってもいいだろう。

 要するに、

「どちらから考えたとしても、結局、行きつく先は同じだった」

 ということである。

 この発想は、理論科学における、

「相対性理論」

 ということになるであろう。

 相対性理論というのは、ユダヤ人理論物理学者である、

「アインシュタイン」

 という人が創造した発想であり、理論物理学の重大な発見として、広く今でも研究されていることである。

 その中で、時間と、空間についての発想として、

「光速を超える速度で移動した場合。動いていない人に比べると、時間がゆっくり進むおとになる」

 という発想がある。

 この発想が、それまで空想物語として、不可能に思われた、

「タイムマシン」

 の発想となってくるのである。

 タイムマシンの発想というのは、ロボット開発と同じで、

「分かってくれば分かってくるほど、その先に結界ができてしまって、果たして結界というものがいくつ存在するのかということが大いなる問題になる:

 と言ってもいいものなのであろう。

 このような、時間が速度によって進みスピードまで違うという発想はいつからあったのだろう。

 同じような発想として、思いついたことが、昔からおとぎ話と伝わってきている、

「浦島太郎」

 の発想だったのだ。

 浦島太郎という話は、結構突っ込みどころのある話で、少しずつ、それを明かしていこうと思う。あくまでも、作者が記憶している内容によるものなので、人それぞれ聞いた時の環境や感覚によって、違った解釈があるかも知れないが、それはあしからずということになるだろう。

 最初に、浜辺で子供たちに苛められているカメを助けたことで、そのカメの背中に乗って浦島太郎が、竜宮城に出かけるという話だが、ここでもいくつかの疑問がある。

 まずは、

「人間である浦島太郎が、なぜアクアラングをつけずに、海に潜っていけるか?」

 ということである。

 普通に考えれば、窒息死してそれで終わりではないのだろうか?

 それ以上に気になるのは、カメである。

 子供たちが苛めていたというのだから、そんなに大きなものではないだろう。実際に、ウミガメのような大きなカメがいたとしても、いくら子供が数人いたとしても、それを苛めているというのは、少しおかしな気がする。もっとも、産卵目的で陸に来ていて、それを知っている子供たちが、無邪気というには、あまりにも罪作りな状態でカメを苛めていたというのは、おとぎ話というものの主旨から考えると、言い伝えとしては、少々過激すぎるのではないかという思いである。

 次の話として、

「竜宮城につくと、そこで乙姫様から、カメが世話になったという礼を言われて、そこで数日楽しんでいくことを促された」

 ということであるが、浦島太郎は、よくもこのような理屈に合わない。想像を絶するような場所に連れてこられて、楽しめたというのだろうか?

 浦島太郎の家族構成は分かっていないが、もし、彼が陸に残してきた人が、年老いた両親であったり、嫁や子供だったりするかも知れない。

 そもそも、その時の浦島太郎というのはいくつなのだろう? おとぎ話の設定としてはそのことは書かれていないような気がした。

 ただ、ビクと釣り竿を持って、浜辺に釣りをしにきたというだけの男性であるということが分かっているだけである。それを思うと、分からないことが多すぎるといえるのではないだろうか。

 浦島太郎は、タイやヒラメの踊りなどを見て、数日間楽しんだというが、実際に、数日間も眠ることもなく楽しんだというのだろうか?

 確かに、時間を感じることなく楽しんだということになっているが、そのあたりも曖昧だといえるのではないか。

 そのうちに、自分が残してきた世界が恋しくなったのか、一種のホームシックというやつなのか、あれだけ楽しかったといえることが、その間ホームシックにさせなかった理由だとすれば、浦島太郎という人間が、中途半端に思えて仕方がない。

 最初から数日間、いくら楽しいといって、故郷のことをずっと忘れていたのであれば、今さらホームシックに掛かるというのもおかしな感じがするのだ。そこまできたのであれば、ずっと忘れている方が楽であるし、それだけ楽しいところのはずだからである。

 それをまるで我に返ったように、

「もう帰る」

 と言い出したとすれば、まるで幼子であるかのような不自然さを感じるのだった。

 幼子であれば分かるというのは、大人になると、忖度してしまう気持ちになるからだ。面倒臭いことも分かってくるので、そんな面倒臭い思いをするくらいなら、黙っておこうと考えるのが普通だとすれば、それは、

「浦島太郎が、幼子に感覚が戻ってしまったのか」

 それとも、竜宮城、いや乙姫の側で、そう感じるように暗示をかけたり、感じさせるような演出をしたのかも知れない。

 人間の心理の変化というのは、そういう複雑に絡み合った感覚から、生まれてくるのかも知れないと思うのだった。

 そして、竜宮城からまたしても、カメの背中に乗って地上に戻ってきた。その時には、知っている人が誰もいなくて、その世界は、七百年後だったという。

 さて、ここまでで、何か不自然なことはないだろうか? 別におかしいというわけではないが、不自然、いや違和感というべきであろうか? 感じる人は少ないかも知れない。

 当の作者であっても、

「この話を怪しいということを感じ、そこを、中心に考えていて、おや? と感じた」

 ということなのだ。

 それというのは、

「話がここまで続いてきて、ラストが見え掛かっているというのが分かるのが一つ。起承転結のあとは結を残すだけだと分かるのだ。カメを助けるのが起、竜宮城での楽しみが承、元の土地に戻りたくて戻ってきたのが転ということになるのだが、そこまできて、登場人物というのが、浦島太郎と乙姫だけだということだからである」

 確かに、舞台演技をするのであれば、エキストラとして、カメを苛めていた子供たち、そして、竜宮城での宴会に参加して、場を盛り上げている連中。ただタイやヒラメの踊りがあったように、すべてが海の生き物なのかも知れないが……。

 そうやって考えると、人として、いや人の形をしている登場人物は、主人公の浦島太郎と、準主役の乙姫だけである。乙姫は準主役というよりも、ヒロインという主役級かも知れない・

 ただ、ここでいう乙姫にしても、

「登場人物が人間」

 という意味でいけば、本来なら、浦島太郎一人だけということになる。

 そもそも、小説の中で、登場人物が一人だけの物語というのも、非常に珍しいもので、書き手から考えると、これほど不自然で違和感のあるものもないだろう。

 浦島太郎というお話を、皆、

「どこかおかしい」

 と思って、疑問に感じる人は多いが、皆ちょっと違ったところに目を向けているのが、作者としては滑稽だ。

 そういう目で見ていると、このお話は、わざとそっちの方に目を向けさせる、一種の、

「叙述小説」

 なのかも知れない。

 作者の書き方一つで、別の方に目を反らさせて、真実、あるいは話の論点をずらすことで、不思議なことに焦点を当てず、曖昧な中に、この話を置くことで、読者に興味を持たせたまま終わらせることができれば、それが作者の意図だとすれば、最高の叙述小説だといえるのではないだろうか。

 そうなると、ジャンルとしてはミステリー、推理小説になるのであろうが、実はこのお話は、恋愛小説なのであった。

 しかも、ハッピーエンドで終わる恋愛小説だという意味で、純愛の恋愛小説だといえるであろう。

 ただ、それはお話を最後まで読んだ場合のことである。

 このお話を知っている人で、

「違和感がある」

 と思っている人のほとんどが、

「浦島太郎は、カメを助けたことで礼を受けただけなのに、どうして、最後は玉手箱を開けて、おじいさんにならなければいけないんだ?」

 ということであった。

 これでは、

「本来であれば、カメを助けたという功労者である浦島太郎の結末はハッピーエンドにならなければいけないではないか?」

 というものである。

 だが、おとぎ話の中には、助けたとしても、最後には必ずしもハッピーエンドにならない話も多いのではないか、それなのに、なぜこのお話だけ、そんな風に言われるのかというと、きっと、

「ラストが中途半端な終わり方をしている」

 というところからきているからではないか?

 玉手箱を開けて、おじいさんになる、そこで終わるということは、最後まで浦島太郎だけが出てくる物語で、乙姫は、ただ、登場人物として、太郎をもてなし、そして定例として、玉手箱を渡したというだけではないか。

 読者が乙姫にそれ以上の何かを求めているのだとすると、このお話は、あまりにも中途半端すぎるということになると、ここで終わっているのは、実に不自然で、不自然だからこそ、その不自然に感じる理由をどこかに求めようと考えると、

「いいことをしたのに、どうして最後はおじいさん?」

 ということが違和感の正体だと思うようになったのだろう。

 不自然さを見つけ、それを?み砕いて考えようとした時、それが違和感として残った場合は。不自然さが本当にそこにあったのかどうか、そこから考える必要があるのではないか?

 浦島太郎の話は、そこから考えさせるものではないかと感じるのだった。

 そんな浦島太郎のお話、実はこの後、続きがあるのだ。

 というのは、

「浦島太郎が、乙姫様から決して開けてはいけないと言われていた玉手箱を、もう自分が知っているところではなくなってしまった地上を見て、自分の帰るところがどこにもないことを察したことで、自暴自棄になって玉手箱を開けてしまったことで、おじいさんになってしまった」

 というのが、通説であるのだが、その続編として、

「玉手箱を開けてしまった浦島太郎に対して、かねてより好きになっていた乙姫様が、自分がカメになって太郎の元に行くと、太郎は鶴になり、二人はそれから幸せに末永く暮らしたという……」

 というのが、大まかなラストであり、これをハッピーエンドだというのだ。

 ここでも、突っ込みどころがいくつかある。

 まず、乙姫がカメになったという話だが、前述のように、このお話には登場人物は、ほとんどいない。

 その中で、何度も登場するこのカメ、子供たちに苛められていて、それを助けたことで、竜宮城に連れていってもらったそのカメ、そして帰りに連れて帰ってもらった時のカメ、そして乙姫が化けた(いや、本来の姿かも知れないが)カメ、三回も出てくるではないか。

 ここで、一つ突っ込みどころとして、

「どうして、助けたカメの背中に乗って、浦島太郎は竜宮城にきたおか?」

 ということである。

 カメという動物がいるだけで、誰も何も説明もしてくれないのに、ホイホイとカメの背中に乗って竜宮城になど、普通なら来ないだろう。カメがしゃべったとでもいうのか?

 もしそうだとしても、カメがしゃべるなど、恐ろしくて誰が信じられるというのだ?

 これが、この後の疑問とも微妙に結びついてくるのだ。

 もう一つの突っ込みどころは、

「このカメが実は、乙姫だったのではないか?」

 ということである。

 これが前述の疑問の解決にもなることで、詳しく書かれていないが、太郎がカメを助けてカメの背中に乗る時、カメが乙姫様になったのだとすれば、納得がいくこともある。

 乙姫様はあまりにも美しく、その姿を見ただけで、浦島太郎は金縛りに遭ったかのように、疑いをまったく抱くことがなかったという説と、乙姫様になったカメが、浦島太郎に暗示をかけて、疑わないようにして竜宮城へ連れていったという説。どちらも、いきなりカメの背中に乗ったことを考えれば、かなりの信憑性があるのではないかと思えるのだった。

 そして、そこまでくると、もう一つの疑問は、

「最初から、乙姫様は浦島太郎を狙っていたのではないか?」

 ということである。

 今の時代でいえば、さしずめ、ストーカーと言ったところか。

 自分が好きになった浦島太郎を自分のものにするために、一芝居を打ったという考え方である。

 ただ、竜宮城の姫である乙姫と、地上世界におけるただの平凡な漁師(あるいは、ニート?)である浦島太郎を好きになっても、気持ちが成就するには、いろいろ問題がある。そのために、これだけのややこしく複雑な設定を凝らす形で、欺かないと、恋愛が成就しないという、乙姫による。

「一方的な恋の押し付け」

 ではないかと言えるのではないだろうか。

 それを考えると、乙姫がカメに化けた理由も、分かる気がする。そうなると、気になるのが、

「果たして、この人の正体は乙姫なのか、カメなのか?」

 ということであるが、最後に太郎が鶴になったということであるが、カメである自分と結ばれるには、人間ではダメで、一度老人になって鶴になるという効果を、玉手箱がになっていたということになるのであろう。

 そう考えると、違和感のあったところが少しずつ繋がっていくような気がする。ひょっとすると、

「最初に助けたカメが乙姫に姿を変えなかったのは、最初から叙述の意識があったからではないのだろうか?」

 と考えられるのではないだろうか?

 それを思うと、前述の、

「カメがしゃべるなどということを誰が信じられるか?」

 という疑問に、微妙にかかわってくるのではないかと思うのだった。

 そして、最大の疑問として、

「なぜ、途中でこの話を終わりにしてしまったのだろうか?」

 ということであった。

 確かに、昔から伝わっているおとぎ話というのは、通説とは違って、続編があったというものも少なくはない。

 しかし、この浦島太郎の話のように、違和感や不自然さが伴うような中途半端な終わり方ではなく、結末に理不尽のないものが多かったのだ。

 それを思うとなぜ、このような終わり方をさせたのかが、疑問に思えてならないだろう。

 そもそも、おとぎ話を教育の一環として定めたのは、明治政府だった。

 学校による教育を決めた時、教育草案のようなものの中で、おとぎ話も吟味されたことだろう。

 その中で浦島太郎という話は、どこで終わらせても、不自然さは残ると考えたのであろう。

 しかも、最後まで話を繋いでしまうと、前述のような突っ込みどころが満載になってしまい、

「これが結末だ」

 としてしまうよりも、少し違和感を起こしたままにしておいて、

@ひょっとすると、続編があるのかも?」

 と思わせることで、違和感が半減するとでも考えているのかも知れない。

 そんなことを考えると、

「では一体どこで切るのが一番いいのだろう?」

 と考えたところで、考えられたのは、この話のテーマを、

「見るなのタブー」

 にしてしまうことが大切だと思ったのだろう。

「見るなのタブー」

 というのは、おとぎ話に限らず、神話などにも出てくる。

「見てはいけない」

 あるいは、

「開けてはいけない」

 という戒めがあったにも関わらず、好奇心に負けて見てしまった時、戒めを受けるというもので、旧約聖書における、ソドムの村の話や、おとぎ話の中でも、鶴の恩返しであったり、舌切り雀の話などに出てくるものを、見てしまったことで、最後は悲劇で終わるというものだ、

 浦島太郎の話も、乙姫様からもらった玉手箱を、乙姫様の忠告にあったように、

「決して開けてはいけません」

 と言われて、いるものを開けてしまったことでおじいさんになったというところで終わっている。

 これほど、後味の悪い話はないのだが、これが、

「見るなのタブー」

 という話の結末であるとすれば、実はこれほどの切れ味を放つ話というものはないということになるであろう。

 だが、それでも、違和感は十分にあるのだ。

 ネットなどで書かれていることを総合すると、

「どうして、浦島太郎はカメを助けたといういいことをしたのに、まるで報復であるかのように、おじいさんになるところで終わらなければいけないのか?」

 ということでの違和感であった。

 浦島太郎というのは、最後まで明かしてしまうと、乙姫の策略のようなものが見えてきて。

「浦島太郎が、乙姫の掌で転がされているという構図が見えてくるからではないだろうか?」

 ということが分かってしまうのが、政府としては、教育上まずいと思ったのかも知れない。

 ただ、時代は変わって、自由な発想に自由な想像を許される時代になったから、余計に、疑問を自由に疑問として感じられるようになったのだ。

 明治のように、民衆の心が一つにならなければ、解決できないという問題を抱えた、世界情勢の時代ではないということも言えるであろう。

 ただ、皆忘れているかも知れないが、浦島太郎というおとぎ話の中には、相対性理論という意味のSFチックな話も含まれているのだ。

 人によっては、この話をSFの物語だと思い、恋愛物語だというラストを知らなければ、皆SFに目が行くだろう。

「ひょっとすると、明治政府はそれを狙ったのではないだろうか?」

 と考えたが、それは考えすぎであろうか?

 ウラシマ伝説には、いろいろと曰くがありそうな気がする。

 考えてみれば、

「なぜ、乙姫様が玉手箱を渡したのか?」

 ということが問題である。

 浦島太郎を好きになった乙姫は、浦島太郎と一緒に暮らしたいという願望があり、本来であれば、竜宮城で一緒に暮らしたいと思っているのを、彼に里心がついたことで、最初は引き留めようとするが、それを叶わないと感じたのだろう?

 ここで引き留めたとしても、ずっと浦島の心に残してきた家族への気持ちが残ってしまう。そこで考えたのが、

「一度彼を返して、そして、失望させることで、乙姫である私しかいないと思わせることが大切だ」

 という、ずいぶん都合のいいことを考えたのかも知れない。

 もし、そうであれば、浦島太郎は、完全に乙姫の策略に乗ったことになる。ただ、そうなると、この話は最初から乙姫が組み立てた計画だったのかも知れない。

 浦島太郎がホームシックに掛かったのは若干の計算違いだったかも知れないが、それも想定していなかったわけではなく、そのために、玉手箱が必要だったのだ。

「困った時にだけ、開けてください。それ以外は決して開けないように」

 と言われた玉手箱、これを開けたのは決して好奇心からではなく、本当に困ったからであろうが、それにしても、浦島太郎というのも、かなり優柔不断だったといってもいい。

 そもそも、乙姫たる者が、浦島太郎のどこを気に入ったというのか?

 遭ってもいない相手を気に入ったというのは、それだけ乙姫が特殊能力を持っているからなのであろうが、他の話で、動物が、人間に化けてやってくるというのは、

「弦の恩返し」

 であったり、まずは、一度出会って、その人の優しさに実際に触れることで、再度負いたいと思い、その人の前伊再度現れたのだ。

 浦島太郎の話に、乙姫とは初対面であるということから、最後に乙姫が浦島太郎を好きになったという話がなければ、最後まで、乙姫の気持ちを分かる人などいないだろう。

 だから、浦島太郎の玉手箱を開けるシーンで終わりだと思っている人が見ると、まさかこの話が恋愛物語などと誰が思うことだろう。

「人は、一度も会ったことのない人を好きになるなどありえない」

 という思いが、万人に共通してあるからではないだろうか。

 浦島太郎が、洗脳されやすい、純粋な青年だったからであろうか。それとも、乙姫がそれだけ特殊な能力を持っているからであろうか。とにかく、浦島太郎の話を総合的に考えると、

「乙姫によって洗脳された浦島太郎は、乙姫の感情によって、掌で転がされていたのではないか?」

 という結論に陥ってしまう。

 乙姫の気持ちが強すぎることで、浦島太郎も、乙姫に気持ちが芽生えたのか、それとも、浦島太郎が、どこかに女性を引き付けるフェロモンがあって、そなんな人間を特殊能力を持った乙姫が好きになったということであり、偶然性が強いのではないかとも思うが、もし、助けたカメが乙姫の化身ではないかと思うと、このあたりがこのお話の不自然なところではないかと思うのだ。

 これほど登場人物が少なく、ヒロインである乙姫様が、あまりにもラストまで描かれていない話の中では、

「脇役にすぎない」

 と思わせるほどの、まるでエキストラのようではないか。

 それこそ、竜宮城での最初の挨拶と、帰りたいと言った時に、名残惜しさを表には出しながらも、

「困った時にだけ、開けてください」

 と言って渡した玉手箱のシーンが、重要なシーンであるにも関わらず、ストーリーの枝葉として描かれているのが不思議な気がした。

 この話の結末を、誰が想像したというのか、途中で終わっても、最後まで語られたとしても、どちらにしても違和感は残るといってもいいのではないか。

 この玉手箱というのは、一種の伏線に過ぎないのではないか?

 もちろん、このことは最後まで話を読まなければ感じることはないのだが、つまりは、玉手箱というアイテムを使うことで、乙姫の願望が満たされるということではないか?

 元々、おじいさんになってから、鶴に変身したという話もあるし、最初から、本当はおじいさんではなく、鶴に変身していたという話もある。

 そう考えると、この玉手箱という箱の正体は、

「相手の願望を叶えてくれるものではないか?」

 と考えられないだろうか?

 というのは、浦島太郎が帰りついた土地は、すでに七百年後の未来だった。

 そして、その土地には、自分の知っている人、自分を知っている人のどちらも生存していない。七百年もの未来なのだかから、当たり前のことだ。

 もし、自分がそんな土地に来たら、どう考えるだろう?

「こんなところでは暮らしてはいけない」

 と思うだろう。

 もし時代が同じで、まったく違う土地に行きついたということであれば、何とかして生まれた、そして自分を知っている人がいるところに帰ろうと努力をするに違いない。それが生きがいであり、生きる活力にもなるのだ。

 しかし、時代が違っていて、自分を知っている人が誰もいない。その場所に変えることがまったく不可能だとすれば、自暴自棄になり、

「このまま死んでしまった方が、どれほど気が楽か?」

 と考えるに違いない。

 しかし、玉手箱というものの主旨として、

「死ぬ」

 ということは許されないということであるなら、なるべく死に近いということで、老い先短い老人になるというのは、次の希望として十分にありえることではないか?

 ただ、そうなると、乙姫とすれば、太郎との幸せな生活を望んでいるので、おじいさんになった後、玉手箱の効力を使って、浦島太郎を鶴に変えるということだってあり得なくはない。

 そうなると、乙姫が最初から最後まで計画を練っていたのだと考えると、太郎が鶴になることも、最初からの計画だったのだ。

 たぶん、乙姫は、竜宮城の性格的なもので、きっと天界のように人間界に比べて、優れた場所なのだろう。どんなに乙姫が太郎を慕っても、一緒になることが許されないということであれば、それを何とかするために、太郎の人間性を見せつけ、そして、竜宮城に招き、人間のよさを竜宮城の人にアピールした。しかも、身内を大切にするところがあるというのも見せつけておいた上で、元の世界に返す。

 その時、太郎を未来の世界に返すようにして、太郎が途方に暮れたところで、自分がカメになって現れ、鶴となる太郎と夫婦になるという計算であった。

 つまり、

「弦は千年。カメは万年」

 というありがたい存在ではないか。

 まるで神のような存在になった太郎と、カメの化身である乙姫が結ばれることに、誰が反対するであろう。

 あの玉手箱は、太郎を、

「神様にする」

 という魔法の匣だったのだ。

 ただ、それは、その時々で願いを変えることも可能な、

「願いをかなえられる」

 という箱だったのだ。

 それを思うと、話の辻褄がすべて合うではないか。

「身分の違いで結婚できない二人が、乙姫の魔法の力によって結婚できるような、乙姫による計画された物語」

 というものが完成することになる。

 しかし、その内容が分かってしまうと、この物語の本質である、

「恋愛物語」

 というものが消えてしまう。

 だから玉手箱の正体や、この話が乙姫の計画されたことだということが分かると、せっかくの話が台無しになってしまう。そのため、矛盾だらけの話にする必要があったのではないだろうか。

 昔話や伝説というのは、意外とこういうものなのかも知れない。

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