第2話 時間の速さの問題

 さて、ここで皆さんは、疑問に感じたことがないであろうか? 同音異義語というのは、世の中にはたくさんあるが、この、

「かげ」

 という言葉にも同音異義語が存在する。

 同音異義語というのは、読んで字のごとしであるが、

「発音は同じだが、互いに区別される語」

 という意味である。

 つまりは、同じ「はし」と発音するものでも、川に掛かっているものは、

「橋」、

 そして、食事をするのに用いるのが、

「箸」

 さらには、中央から一番離れているものを総称して使う言葉が、

「端」

 であるというように、一つの発音でいくつもの意味のあるものがあるということで、それを見分けるのに、文字にすれば漢字というものが当てられるが、言葉に発する場合は、前後の文脈からの判断であったり、アクセントというか、抑揚によるところが違うことで、判断できる。

 抑揚に関しては、方言というものが存在するので、一言で言い表すのは難しいことであるが,、逆に、

「アクセントの違いで、その民族性を理解するのに、役立てる」

 という考えもあるくらいだった。

 そして、この、

「かげ」

 と発音する言葉であるが、思い浮かぶのは、

「影と陰」

 という二つの言葉ではないだろうか。

 影という言葉は、前述に書いた通りだが、陰というのは、前述のものとはハッキリと違っている。ある意味、

「まったく正反対の言葉」

 と言ってもいいかも知れない。

「陰は光が差し込まない場所のことですが、「影」は光が当たることによってできる、物体の形のことである。 「陰」とは、 ほかの物体によって隠れていて、光の差し込まない暗い場所 のことを指す」

 というのが定義ということになるのだろう。

 つまりは、

「影とは、元々あったものではなく、光によって出来上がったものであるということ、しかし、陰は最初から存在していて、影と違い、光によって隠れている、あるいは、光を隠れ蓑にして自ら隠れているという意思の持ったものも、含めて、陰と言っていいのだろう」

 そういう意味では、忍者のことを、影と言ったり、身代わりになる武者のことを影武者というが、本来の意味からすれば、その時に使う言葉としては、

「陰:

 の方が正しいのではないだろうか。

 さらに、

「影と言う言葉は、単独で使うことが多いが。陰という言葉は、陽と言う言葉の反対語として、それぞれでも単独で存在することはできるが、基本的に、その単体の言葉によって、その実際の力が完成されるかのように思える言葉」

 という意味合いが大きいのではないだろうか。

 それを思うと。山陽、山陰という言葉であったり、

「陽という言葉が昼間を表し、陰が夜だとするならば、それぞれに、同じ時間、この世界に姿を現すものではなく、一方が表にいる時は、一方が隠れているという意味で、絶えず、陽だけが表に出ていて、陰は隠れているものだという考え方ではないといえるのではないだろうか?」

 とも考えられるであろう。

 陽と陰のような関係は世の中にはたくさんあるが、その中でも代表的なものが、この二つであり、それらの総称としても用いられる言葉ではないかと考えられるのである。

 時間の速さを感じるというのも、一つである。

 この問題を考えた時、前述の、

「影と陰の違い」

 という同音異義語を考えたが、ここでも、同じように同音異義語が存在することで、その意味を考えていきたいと思う。

「「早さ」と「速さ」は正確に言えば違うものである。?語学的に言えば「早さ」は「速さ」の上位概念である。 「速さ」は速度に対する形容表現であり、「早い」はそれ以外の概念に対して用いられるのである」

 というのが、この場合の同音異義語の意味である。

 つまり、早さというのが、広義の意味であり、速さは狭義の意味に当たるといえる。

早さは、総称と言ってもいいのではないだろうか?

 そういう意味での同音異義語も結構あるのかも知れない。それも、

「頭の中ではその時々で納得はしているのだが、頭の中に印象として残らないことから、定着しないものなのではないだろうか?」

 と言えるのではないだろうか。

 ただ、一般的な早さという言葉は、速さという言葉とは、一線を画しているところがあるように思える。これは、

「陽と陰」

 という言葉のように、

「片方が表に出ている時は、片方は隠れている」

 というような、それぞれに反対の意味が隠されているということを示しているように思えてきた。

 つまり、

「速さと言う言葉は、必ずしも、早さの中に含まれるものだけではない、他にも意味するものがあるのではないか?」

 という考えであるが、ただ、その考えはかなり難しいものではないかと言えるのであった。

 そのことを考えると、

「速さが早さを凌駕するかのようなものもあっていいのではないか?」

 と考えるのは、かなり危険なのかも知れないが、ありえることである。

 早いと速いという言葉には、どこか相容れないものが存在し、

「交わることのない平行線」

 と形成しているのではないかと思えるのだった。

 これは単純に考えて、スピードが速いと、早いという考えには至るが、逆に、時間的に早いからと言って、そこにスピードが必ずしも絡むのかというと難しいところである。

 確かに、時間とスピードという発想からすれば、そのどちらも、直線ではあるだろうが、平行線ではないというのが、妥当な考えではないだろうか。

 平面が、縦と横を形成し、二次元を形作る。そこに高さの概念が結びついて。三次元が形成される。それと同じように、時間とスピードというのは、縦と横の関係のように、必ずどこから交わる、あるいは接することになるということは誰もが感じていることであろう。

 そもそも、時間軸というものを、もう一つの新しい軸として考えるという発想から生まれたものが、

「四次元の世界」

 である。

 四次元の世界の創造は、パラドックスというものをいくつも生み出した。

 何しろ、前に進むという概念しかなかった時間軸に、過去に戻ったり、あるいは、心臓の鼓動と人間の生死が大きくかかわっているかのように、正確で微塵の狂いもなく刻んでいる時間というものが、時刻という形の決まったものが存在しているレールのようなものの上を、決まった速度で通り過ぎていくのが、いわゆる、

「時間」

 というものであり、その場合のレールのことを、

「時間軸」

 と言っていいのだろう。

 そんなことを考えていると、次元というものが、

「時間、時刻というものとは切っても切り離せないものだ」

 と考える。

 点である一次元にも、平面である二次元にも、立体である三次元にも平等に同じ時間軸が存在していることから、次元としての矛盾は発生しなかったが、それが、時間軸を一つの軸に加えることで、今まで考えられなかった矛盾が発生することになる。

 それは、息を止めることもできず、不規則な動きをすることが致命傷になる人間の心臓が、ありえない動きをしたのに、人間が生きながらえているというような発想になるからではないであろうか?

 そんなことを考えていると、時間というものが、理論物理学の世界だけではなく、心理学であったり、広さというものがかかわってくると、天文学にも大きなかかわりを感じさせるようになるのだということを感がさせられ、その先に、

「無限の可能性」

 というものを考えさせるものではないかと思わせるのだった。

 心理学ということで考えると、

「時間の早さというものに違いがある」

 と思えるのだ。

 心理学というと、少し仰々しいが、喜怒哀楽を絡めて考えると、分かりやすいのかも知れない。

「時間が短く感じられるのは、楽しいと思っている時であったり、集中している時などに感じることであって、逆に早く過ぎてほしいと思っている時に限って、なかなか時間が経過してくれない時があるが、それが、苦痛を伴う時であったり、嫌なことがあった時などはなかなか早く進んでくれない」

 どちらがいい悪いという問題は、その人の性格であったり、その時々の精神状態によっても関わってくるので、一言で言い表すのは、実に難しいことである。

 ただ、それぞれが、

「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」

 というような発想を思い浮かべた時、複雑なことも、無限だと考えれば、納得できないことなどないような気がしてくるというものである。

 無限というもを考えた時、その正対するものに、ゼロという概念が存在することを意識する人も少なくはないだろう。

 ゼロという概念も、無限という概念に等しく、いや、それ以上に不思議なものだといえるのではないだろうか。

「ゼロ除算」

 という言葉を聞いたことがあるだろうか?

 何かの数字を、ゼロで割るというものである、

 これは、

「数学において、ゼロで割るということは矛盾が起きてしまい、そのような問題を矛盾なく定義することができない」

 ということから、

「計算は不可能である」

 ということから、

「数学会のタブー」

 と言われるようになった。

 なぜなら、ゼロで割るということは、逆にいえば、割った答えにゼロを掛ければ、元の数になるということであり、掛け算において、

「何にゼロを掛けても、ゼロにしかならない」

 ということであり、

「割った数も、割るもとの数も、ゼロということになる。そうなると、この計算は、ゼロ割るゼロはゼロだということになるのだが、ここに矛盾が発生する。つまり、割り算において、割る数と割られる数が同じものの答えは一であるという法則に矛盾してしまうからである」

 という矛盾の結論に至るからである。

 だからこそ、ゼロ除算は、矛盾なのであり、

「数学のタブー式だ」

 と言われるゆえんなのであろう。

 しかし、

「コンピュータの数値計算においてゼロ除算が発生した場合、無限大というシンボルで置き換えられるか、発生した時点で処理が破綻する(システムエラーとなる)かのどちらかである」

 と言われることから、ゼロという数字の概念が、無限大、つまり無限ということとまったくの無関係ではないということで、それぞれ、一番遠い距離にいるように見えたこの二つの関係が、急に接近していて、

「下手をすれば、隣同士の関係なのではないだろうか?」

 と言えるのではないかと考えるのであった。

「ゼロというのは、無限に限界が存在すると考えた時、その証拠には必ず不可欠なものではないか」

 と言えるものだと考えるのだった。

 時間というものを考えていると、SF的な発想がどうしても先に来てしまう。

「タイムマシンという発想が、その思いを加速させているのであろう」

 と考えられるのだった。

 心理学的な面も前述で少し語ったが、詳しく考えてみることにしよう。

 まず、時間が短く感じる、あるいは長く感じるというのは、錯覚によるものだけであろうか?

 少し考えてみると、時間を短く感じるという、楽しいことであったり。何かに集中している時というのは、一種お、「脳汁」のようなものが出る時ではないかと思われることがあるが、「脳汁」などというような正式な言葉があるわけではなく、

「エンドルフィン」

 と呼ばれる神経伝達物質の一つだと考えられる。

 その機能というのは、

「内在性オピオイドであり、モルヒネ同様の作用を示す。特に、脳内の「報酬系」に多く分布する。内在性鎮痛系にかかわり、また多幸感をもたらすと考えられている。そのため脳内麻薬と呼ばれることもある」

 と言われているようだ。

 これは一種の分泌液で、ホルモンのようなものに近いのかも知れない。それほど医学に詳しいわけではないが、理解しようと考えた時、

「ホルモンのようなものだ」

 と考えた方が、理解しやすいからだ。

 そして何よりも、ここでは理解するというよりも、

「時間を短く感じる時」

 あるいは、

「長く感じる時」

 というそれぞれの考えを示す時に表すことであった。

 ということは、今のが短く感じる時という考えであるが、長く感じる時、つまり、自分にとって嫌だったり、辛い時に、時間を短く感じることがあるとすれば、これは、

「脳汁:

 という曖昧な感覚よりも、もっとリアルで、問題としては大きなものがそこに横たわっているといってもいい。

 そう社会問題としても、大きな問題となっている、

「PTSD」

 と呼ばれるものである。

 これは、精神科においての立派な精神障害として、患者を治療しているものだ。しかも、これは大小の差こそあれ、ほとんどの大人は持っているのではないかと思われるものだといえるだろう。

 PTSD、つまり、心的外傷後ストレス障害と言われるこの病気は、

「命の安全が脅かされるような出来事(戦争、天災、事故、犯罪、虐待など)によって強い精神的衝撃を受けることが原因で、著しい苦痛や、生活機能の障害をもたらしているストレス障害である」

 と言われている。

 つまり、過去にあった出来事で、自分の中でショックに感じたことが、精神的にむしばんでしまったりしたことを、忘れようとしてもある程度までは自然に忘れるのだろうが、それ以上は忘れることのできないものだ。

 その忘れ方の度合いにはさまざまあり、なかなか忘れられないと普段から思っているものや、普段は普通に忘れてしまっているのだが、ふとしたはずみで、思い出してしまうと、手足がしびれたり、震えが止まらなくなり、酷い時には呼吸困難に陥って、泡を吹いて、気絶してしまうこともあるだろう、

 そこに記憶喪失が絡んでいるかどうかまでは分からないが、すべてのことを忘れてしまうことができない限り、死ぬまで付きまとうといってもいいだろう。

 そういう意味では、記憶喪失というのも、何か自分にとってショックなことがあり、その状態から逃れようとする本能のようなものが働いて、記憶を封印させようとする意識の表れではないかと言われている。

 そういう意味では、このPTSDと似ているのではないだろうか。

 ただ、PTSDの場合は、記憶が完全であるが、肝心な部分の記憶がPTSDによって、消えているのかも知れない。

 それがきっと中途半端な聞く喪失となり、余計に、本人を苦しめるものとなっているのではないだろうか?

 ただ、記憶を完全に失うほどのショックを受けた記憶喪失の方が、本人にとって大きなショックであることは間違いない。なぜなら、記憶を取り戻そうとして、無理をすると、ほとんどの場合、頭痛というものを引き起こすではないか、それはきっと、何が辛いというのか、分かっていながらのことであろう。それだけ記憶喪失が辛いということなのであろう。

 エンドルフィンにしても、PTSDにしても、

「人間が作り出した感覚に対して、原因を突き詰めた時に、その方向にちょうどあったのが、この二つではないのか?」

 という考えに至ったと考えるのはいかがなものだろうか?

 もう一つ考えると、時間を感じるというのは、三つの感覚しかない。

「思ったよりも長く感じる時」

「思ったよりも短く感じる時」

「想定内であり、少し違ったとしても、それはあくまでも、誤差の範囲であるという場合」

 だといえるのではないだろうか。

 そうなると、誤差の範囲のその先は、長く感じるか、短く感じるかということの間に隙間はないといってもいい。

 というころは、誤差の範囲に隙間はあるかも知れないが、ほぼ違和感のない時である。そうなると、そこから外れたものは、すべて、何かの原因があるということになるのではないか。

 それが、思いついたこととして、エンドルフィンであったり、PTSDであったりするだけで、もっと言えば、時間を長く感じる時、または短く感じる時にだって、その幅はあるはずだ。

 どんなに長く感じる時でも、その時々によって、

「長く感じる時のいつもよりも、少し短い」

 と考えたり、

「まるで、限界がないかのように、無限に近いほどの長さを感じる」

 ということだってあるかも知れない。

 もちろ、短く感じる時であっても同じことであり、つまりは、

「それぞれに、幅があったり、遊びのようなニュートラルな部分が存在するか?」

 ということになり、それが段階を経ていることであるという考えに至るのは、少し難しいことであろうか? などと、考え方が入れ子になってしまい、まるで、マトリョーシカのような感じさえしてくるのだった。

 そんな時間の感覚が、マトリョーシカの様相を呈してくると、特に心理学というのを考える場合、一つの実験を思い出してしまうのは、作者だけであろうか?

 そう、内容は知らなくとも、言葉くらいは聞いたことがあるのではないだろうか?

 それは、

「箱庭療法」

 と言われるもので、

「箱の中にクライエントが、セラピストが見守る中で自由に部屋にあるおもちゃを入れていく手法。表現療法に位置づけられるが、作られた作品は言語化されるときもある。基本的に自由に見守られながら表現することが重要である」

 という定義があるようだ。

 この発想は、

「遊びと自己表現の融合」

 と言ってもいいかも知れない。

 ただ、ここでの箱庭という発想は、作者が勝手に考えたことであり、マトリョシカのように、入れ子にあった発想からきているものである。

 つまり、箱にはの中にいる自分と、それを箱庭の外にいて、中を見ている自分という二つの視線が融合する形での考え方だといえるであろう。

「人間というのは、二つある手が、片方は熱くて、片方は冷たかったとした場合、

「それを一緒に掴んだり一人で手を繋いだ時、熱さと冷たさのどちらが、脳に伝わるのか?」

 ということを考えるのと同じではないかと思うのだ。

 箱庭から見る自分も、外から箱庭を見る自分も同じ自分として解釈した場合に、頭の中がどうなっているのかを考えると、エンドルフィンも、PTSDという考え方も、いかに考えればいいのかというヒントになるかも知れない。

 しかし、基本的に人間というのは、

「同時に一つのことを考えることは苦手だと思っている」

 とすると、このお話は先に続かない。

 どう考えればいいのだろうか?

 ただ、このような箱庭の発想は、今までに何度か感じたことがあったような気がした。

 それは何かというと、

「夢の感覚」

 であった。

 夢というものと、現実が分からなくなった時というのは、

「夢と現実が頭の中で混同しているほど、その境目を感じることができない」

 という思いと、

「夢を見ている時、夢だと思うとその場で目が覚めてしまう」

 という感覚があったり、

「夢と現実が、昼と夜のように、必ず循環したものではないか?」

 と感じた時などと、いろいろな発想が生まれてくることがある。

 まずは最初の混同であるが、

「夢の世界と現実世界があまりにも酷似していることで、分からなくなってしまっている」

 という発想である。

 この発想は結構ありえることで、デジャブなどを感じる時に生まれる発想ではないかと思うのだが、

「デジャブ自体が、信じられないようなことを自分の中で納得させようとする、一種の辻褄合わせではないか?」

 と思うのだ。

 このお話の中でちょくちょく出てくるキーワードとしての、

「辻褄合わせ」

 のの発想は、意外と人間の真理をついているのではないかと感じるのだ。

 二つ目の、

夢を見ている時、夢だと思うとその場で目が覚めてしまう」

 という発想であるが、これこそが、夢と現実が分からなくなった時、その違いがどこにあるのかということを示したものではないかと思うのだった。

 つまり、

「今のこの目の前の世界が、夢であるか、現実であるか?」

 と聞かれた時、どう答えるであろう?

 人によっては、

「死ぬまで分からなかったらどうしよう?」

 という答えを出す人がいるが、その言葉が、実はこの答えを表しているのだ。

 つまり、

「夢の世界というのは、必ず覚めるものであり、逆にいえば、覚めなければ、それが現実なのだ」

 と言えるであろう。

 今、この瞬間に死んでしまったとすれば、答えは出ないかも知れないが、

「夢が現実になったことで、死を迎えた」

 と言えるのではないかと思うと、少し恐ろしいが、それも真理と言えるのではないだろうか。

 そうなると、死を迎えた瞬間、現実はなくなってしまうということになるのかも知れない。

 最後に、

「夢と現実が、昼と夜のように、必ず循環したものではないか?」

 という考えが一番突飛に感じるが、だが、この発想がある意味、しっくりくるものである感じもある。

 それこそ、ひらめきの豆電球が点灯するというようなもので、

「昼と夜がどうして毎日規則的に循環するのか?」

 ということに繋がってくる。

 天文学的に言えば、地球が自転をしているから当たり前のことなのだが、逆に、このような自転と恒星の間で距離を保って公転しているということが、バランスを保ちながら、存在できる星だから、人間や、その他の生物は存在することができるという、

「奇跡の星」

 だといえるのではないだろうか。

 これだけでも奇跡なのに、さらに、深堀りをしようというのは、贅沢な発想で、これだけのことを、

「自然の摂理」

 という言葉一言にまとめてもいいのではないかというのは、壮大な発想からくるものであった。

 しかし、人間というものの探求心が深いことで、文明を持つ存在になれたのだから、人間が人間であるゆえんとして、この考えを大切にしていくべきだろうと考えるのだった。

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