架空小説の一期一会

森本 晃次

第1話 鏡面効果とサッチャー錯視

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和三年十二月時点のものです。それ以降は未来のお話です。今回の小説は、小説というよりも、日ごろ疑問に思っていることを並べていくことで一つの話にできればいいというような発想から生まれたお話だと思っていただければ幸いです。そういう意味で、今回は、超科学ネタを含んだ、ちょっと異質な小説だといっても過言ではないでしょう。最近の作風やアイデアの集大成とのようなものだと言ってもいいだろう。


 人間というのは、実におかしなもので、

「人のことはよく分かるのに、自分のことに関しては、なかなか分からない」

 とよくいう人がいる。

 ちょっと考えればすぐに分かるようなことなのに、その人には分かっていない。

 そう、

「人のことは、自分の目線で見れば、正対することで、見ることは簡単にできるが、自分のこととなると、鏡か、何かの道具がなければ見ることができない」

 ということである。

「それは顔のことだろう」

 と言われるだろうが、確かにそうだ。

 顔であれば、鏡のような媒体がなければ、自分の顔を見ることができない。今さらのことすぎて、誰もいちいち口にしないレベルの話である。

 だから、

「ちょっと考えれば」

 と言ったのだ。

 それでも、考え方が偏ってしまって、まったく違う方向をいったん向いてしまうと、いくら簡単なことであっても、それを正常に戻すことは難しいのではないだろうか。そのことを誰もが分かっているようで、実は分かっていないのだ。分かっているように思うのは、誰かに言われたことで、頭の中の配線がつながって、裸電球がつくというような、昭和のギャグマンガなどに出てきたシチエ―ションのようである。

 考え方が、一つの方向に向かっている時は、答えに向かって一直線なのだが、一旦、迷いのようなものが生じると、今まで見えていたものが見えなくなる。そこに不安が起こってきて、見えないことn恐怖がいきなり襲ってくる。

 何が怖いといって、今まで見えていたものが見えなくなることだった。

 どうして見えなくなるのかということは、いろいろな理由が考えられる。

 目が悪くなってしまったことによる、視力の低下という、物理的な問題。

 あるいは、見えていたものが見えなくなったということは、相手が自分の想定外の行動を起こしたということ。

 そして、

「その相手が、自分に対して何か攻撃を仕掛けてくるのではないか?」

 という行動に対しての恐怖。

 もし、相手がまったく動かない。意思もなければ、本能もないという生物ではないもおによる、外的な意識が働いているとすれば、そこに、

「見えない敵が存在するのではないか?」」

 という恐怖があるのではないかというものであった。

 何かを目標に、一直線に進んでいる時、まわりのことを意識すべきなのか、それとも、気にせずに猪突猛進でいくべきなのかということで悩むこともある。

 当然、その目的がどういうものなのかという問題もあるだろう。強引に突き進んでも手に入れられるものではないといえることであったり、とにかくスピードが求められ、まわりを意識した瞬間に、他の人に先を越されて、すでに、先のステップに上がることができず、早々にリタイヤしてしまうことがあるということである。

 最初は何があっても、先手必勝に打ち勝つことが大切で、そこから先は、徐々に思考能力であったり、判断能力が必要になったり、そのために、自分の中に秘められたどんな能力を使えばいいのかということを、意識させるという、

「試験のようなものだ」

 ということに、いかに早く気づくかというのが大切なことである。

 それは、時系列に逆らうことなく、いかに、時系列に乗っかって、うまく進んでいくかということが、自分の中の本能のように持つことができるかということが、

「自分を見つめ直すことに繋がり、見えるはずのない自分を見ることができるか?」

 ということが問題である。

 つまり、

「目の前に見えているものを、いかに鏡だと思って、自分が映るように仕向けるか?」

 ということなのであろう。

 人のことばかりを考えていると自分のことがおろそかになってしまう。そのことは分かっているのだが、どうしても、人のことを最優先で考えないといけない世代が存在するのではないだろうか?

 同和問題や道徳教育が厳しかった時代に育った人たちは、自分のことよりも、まわりをどうしても意識してしまう。

 しかし、それはあくまでも、まわりを見ながら、自分を見直すということに繋がっているのではないだろうか?

 いつも自分のことばかりを考えている人間が、気になってくる。すると、

「あいつは、他人はどうでもいいが、自分さえよければそれでいい」

 と思っているようにしか感じない。

 そんな人間が世の中の秩序を乱しているという思い込みを持ってしまい、ついつい、自分だけは、人のことを最優先で考えているということを、まわりの人に見せつけることで、

「あいつは自分のことよりもまわりのことを気にするいいやつだ」

 と思われようとしていることがバレバレなのだ。

 だが、本人はそれでいいと思っている、別に隠すことでもないし、そう思われる方が、いいと感じるのは、

「自分がまわりに対して気を遣っているということを目立たせる方が、まわりも、人に対して気を遣おうと思うに違いない」

 と考えたからだ。

 だが、そんなあざといことをするのが一番嫌いなはずなのに、それを敢えてしようと思うのは、自分というものを鏡を通して見た時に、どのように見えるかを無意識に分かっているからなのか、それとも分かっているつもりになっているのかということを考えてしまうからだった。

「鏡というものは、実に不思議なものである」

 というのを考えたこともあった。

 古代から、鏡というものは伝わっていて、昔の朝鮮半島から伝わってきたという鏡がよく出土し、ニュースになったりしている。そして、何と言っても、鏡というのは、

「歴代天皇が即位する際に、伝承されるもの」

 という、

「三種の神器」

 の一つでもある。

 三種の神具とは、

「八咫鏡(やたのかがみ)」

「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」

 通称、草薙の剣と呼ばれるもの、そして、

「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」

 の三つのことを称する。

「天孫降臨の際に、天照大神が、ニニギノミコトに対して授けたものだ」

 と言われているが、それが、歴代天皇の即位に使われてきたのだ。

 歴史的には、壇ノ浦の合戦で、都落ちした平家一門と、幼少の安徳天皇が入水した際に、三種の神器も一緒に赤間が席(今の関門海峡)に沈んだとされるが、草薙剣だけが見つからなかったと、当時の歴史書である、

「吾妻鏡」

 には、書かれていると同時に、口伝されているのである。

 そんな鏡であるが、朝鮮半島から渡ってきたものとしては、

「三角縁神獣鏡」

 などが有名であるが、当時の鏡は自分を映し出す以外にもいろいろな使い道があったに違いない。

 特に、祈祷などという儀式には、かならず鏡が用いられていて、

「鏡を見ていると、金縛りに遭ったりした人もいる」

 という、信憑性がどこまであるのかが疑問のような話も聞かれたりしたことも結構あった。

 とにかく、鏡というものが、これ以上ないというほどに、忠実にものを映し出すことができるのだから、初めて鏡というものをが発明した人は、すこかったに違いない。

 鏡がなければ、自分を映すものは、水を張った容器に顔を持っていくくらいしかなかったのだから、水面に映る姿の敬意を表しながら、それに代わるものがないかと暗中模索を続けていたに違いない。

 鏡というものに不思議な感覚を感じるのは、今も昔も同じことで、まず一番きになるのは、

「鏡を通して見た時、左右逆になっている」

 ということであろう。

 自分は右手を挙げているのに、鏡を通すと左手を挙げているように見える。そして描いた絵や字までもが、左右対称となっているのは、不思議なことのように思うが、当たり前のことでもあるのだ。

 それは、鏡と、被写体の距離が、見ている目からみれば、同じに感じるということを考えれば、それも当たり前のことに思える。そういう意味で、

「不思議なことのように思うが、実は当たり前のことなのだ」

 と感じるのだ。

 しかし、これが、上下ということになると、まったく正反対のことに思えてくる。

 なぜなら、

「左右が対称であるのなら、なぜ、上下も対称にならないのか?」

 という疑問があるからだ。

 これは前述の左右対称と違って、

「当たり前のことに思うが、実際には、不思議なことである」

 と言えるのではないだろうか。

 確かに、左右対称の時と同じ感覚で、鏡までの距離を等しく考えるから、当たり前のことのように感じるが。

「それを理論的に説明してもらいたい」

 と言われれば、うまく説明することができるのだろうか?

 それが不思議なのであった。

 実際に、いろいろと難しい話ではあるが、幾何学的には証明されているとも言われるが、認知心理学ではまだまだ証明されていないとも言われている。

「鏡との距離」

 という前述の考え方を用いれば、この問題も解決するというものであるが、

 実際に、上下が反対にならない理由の中に、まったく関係のない感覚が含まれているのではないかとも考えられる。

 一般的に考えられているのは、

「目が二つあって、その目が水平、つまり左右についているからだ」

 という考えが主流であるが、実際には、

「見る視点」

 というのが、問題だと言われている。

 そして、その謂れのもう一つの理由として、

「見るということは、目で見るわけではなく、目に映ったものが、頭に伝わって、脳の中でみるものである」

 ということなのだ。

 つまり、脳というのは、

「鏡の中の自分」

 の支店に変換して情報を伝えるので、左右が逆になったかのように感じる。

 という考え方である。

 つまり当たり前に見えるのは、自分の目が判断したわけではなく、脳が、

「不可思議なことを、いかに当たり前のように思わせるかのように辻褄を合わせようとしているからだ」

 と言えるのではないだろうか。

 そういう意味で、普段から意識をしていないことでも、不可思議なことはたくさんある。今まで不思議だと感じたことのないことでも、少しでも不可思議に感じてしまうと、どれほどの疑問が溢れてくるのかということであろう。

 一つ不可思議なことが起こると、そこから芋づる式に、いくつも出てくるのだから厄介なことである。

 そもそも、

「目が左右にあるから」

 という説がウソだというのは、横になって鏡を覗けばすぐに理解できるということであった。目の位置に由来するなら、この状態で上下が逆にみえるはずだが、なにも起きない。上下が変わらないどころか、脳は「自分が寝そべっている」ことを冷静に判断し、鏡が壁からはえているとも感じない。

 そして、上下を反転させるためには、平面ではダメなのだ、凹面鏡のような鏡が必要で、実際にはレンズで見ると、それが証明されることになる。つまり、視界に絶対的に必要な、光というものが影響してくるということであろう。

 人間の目にもレンズがついている、そして、理屈は同様であるため、スクリーンの役目をする網膜には上下左右が逆に映しだされていることになる。

 つまり、人間が見ている光景は、実際には逆に見える構造なのに、脳がそれを補正して、辻褄を合わせる形で意識させられているのだ。

 人間はそのことに気づいていないのが、実際ではないかと言われている。

「人間の五感、特に視覚は、最後には脳が判断する」

 ということを考えれば、一つの疑問も解決されるかも知れない。

 それがいわゆる、

「サッチャー錯視」

 と呼ばれるものである。

 サッチャー錯視というものは、

「上下を反転させた倒立顔において、局所的特徴の変化の検出が困難になる現象である」

 と言われるもので、特に人の顔の写真などをさかさまから見ると、まったく違って見えるという感覚である。

 これは完全に錯覚であることは分かっている。それは特に表情豊かな人にありえることではないだろうか。人は笑った時、口元が緩んだり、目元にしわが寄ったりする。どこから、感情が一番最初に表情に現れるのかは分からないが、口元と、目を見れば、大体は分かると言われるであろう。

 しかし、さかさまに見てしまうと、降格などが逆になってしまい、その表情がその一部分を錯覚してしまったとすれば、そこからすべてが錯覚することになり、脳に働きかけた残像は、勝手な補正をしてしまうことで、まったく違った感覚に見えてしまう。それを認めたくないという思いから、わざと錯覚を覚えたように感じさせ、それで辻褄を合わせようとしているのかも知れない。

 この感覚は、半分以上、作者の感覚が入っているが、賛同いただける人も多いのではないかと思うのであった。

 さて、この逆さから見るという感覚であるが、これは、平面である写真や絵で見たとして、どこまでがリアルに感じられるであろうか。これが立体である風景などであれば、また違ったものが生まれてくるというものだ。

 日本三景といえば、

「天橋立」

「松島」

「安芸の宮島」

 というのが有名であるが、このうちの天橋立というところは、

「股覗き」

 というものが名物であるという。

 写真などで一番有名な、向こう岸まで伸びている細長い道の光景があるが、

「股覗きの名所」

 として有名なところから、後ろ向きに立って、身体を前に腰から傾けるようにして、そこから股に手をかけて見ると、逆さの光景が浮かび上がってくる。これを、

「天橋立の股覗き」

 というが。その光景が、

「まるで、竜が天に昇って行っているように見える」

 という風に見えるということも相まって、日本三景として、称えられるようになったのだろう。

 また、股覗きの効果は、何も天橋立だからというわけではない。元々素晴らしい光景を逆さから見ると、ありがたい風景に見えるということで、威厳も倍増するというものだが、別に他で股覗きをして、錯覚を起こさないというわけではない。

 特に、上に空、下に海、それを水平線が一直線に横に伸びているというような光景の場所で股覗きをすると、最初は、水平線が、ちょうど視界の中間くらいの場所に横たわっていて、海と空が、半分ずつくらいの配分に見えるのだが、股覗きをすると、空が八割くらいで、海が二割というくらいに見えるものだ。

 これは、水平線に限ったことではなく、山と空というのを見ても同じことに感じられる。

この原理は。遠近感にあるのではないかと思っている。空と他の光景を見比べても、一番遠くにあるのは、空である。海であっても、山であっても、空が一番遠いところにあるという、いわゆる

「視界の限界は、空なのだ」

 ということで、一番遠くに見えるのが空だということを分かったうえで、普段は見ない、

「股覗き」

 などということをすることで、距離感が錯覚を起こし、それを補正しようとする働きが、距離感お違いを全体のバランスを崩すことで、納得させようという辻褄を合わせようとしているからであろう。

 人間による錯覚というのは、辻褄を合わせるという意味で、いろいろあるに違いない。

「光あるところに影がある」

 という言葉がある。

 つまり、この影が錯覚を呼ぶという考え方である。前述の鏡の錯覚においても、同じことがいえる。左右対称、上下対称の錯覚、いわゆる、

「脳が見る」

 というものも、

「部屋を暗くして、後ろから光を当てるようにすれば、右と左の錯覚もなくなるというものである。鏡に映ったものを、相手がこちらを向いていることで、相手の立場になって考えるからであり、それは中途半端な見方に過ぎない。相手の立場になって考えるのであれば、相手が見ているものを素直に考えるのではなく、自分の分身であると考えることで、そこにいるのが陰であると思えばいいだけなのだ」

 という理屈で考えられなくもないだろう。

 人間は、影というものをいかに考えていたというのだろう?

 影のないものは存在しないといってもいい、ただ、その影というのは、あくまでも、光を使って、人間自身が媒体になったことで作り上げられた虚栄のようなもの。この世に生があるわけでもなく、生のあるものが、生きているという証拠でもあるかのように存在しているのが影である。

 さらに、影というものは、実際に生きていないものにも存在している。

「形あるものには、必ず影が存在している」

 ということだ。

 それは、生のあるもの、ないもの、それぞれに関係がない。関係があるものとして考えられることとしては、

「その存在そのものに関係していることだ」

 と言えるのではないだろうか。

 たとえば、

「形あるものは、最後には滅びる」

 という、平家物語の冒頭でも有名であるが、元々は仏教用語である、

「諸行無常」

 というものを思い起こさせる。

 それは、生命というものでも同じこと、必ず老朽化して、朽ちていくということに他ならない。

 影というものは、

「そんな形あるものの、生命力を表しているのではないか?」

 という考えがあるが、信憑性があるなしにかかわらず、どうしても気になってしまうことであった。

 昔から言われることとして、

「死が近づくと、影が薄くなってくるのではないか?」

 と言われるが、果たしてどこに、その信憑性があるというのだろう?

 しかし、

「影というものが、存在しているもののすべての寿命を表しているのだとすれば、その発想には、大いなる信憑性が考えられる」

 というものである。

 そして、影というものを考えた時、どこかに違和感を覚えていたのだが、それが何なのかということを考えていると、ふと子供の頃から疑問に思っていたことがあった。

 これは、前述からの話に結びついてくるもので、一種の、

「錯覚」

 と同じようなものだが、最初に気づいたのは、小学生の時の、全体朝礼の時だった。

 朝、通学してから、週に一度の月曜日、全校生徒が校庭に集まって、校長の訓辞を受けるというものだが、クラス、学年ごとに、一定の距離を保って、整列することになる。

 その時、一定の距離を保とうとすると、まず目が行くのは、足元である。足元から伸びる影を見て、無意識に距離感を保っているのだが、その距離感を影に頼って見ることになるのだが、それは、皆共通で足元から影が伸びていることで分かることであった。

 だが、ある時、感じたことがあった。

「何か変形して見えるんだけどな」

 という思いであった。

「影が、細長く見えて。まったく本人とは違ってしか見えないのだが、これはどういうことなのだろう?」

 ということなのであるが、最初は、その違和感を感じていたはずなのに、

「何かおかしい」

 と感じることはなかった。

 あくまでも、違和感でしかなかったのだ。

 違和感にも、大きなものと小さなものがあり、そのまま、忘れ去るものもあれば、ある主観に一気にその信憑性が浮かんできて、

「これは、酷い錯覚じゃないか」

 と思うことが多い。

 考えていたはずのことを、どこまで自分で意識できるのかということが問題であり、錯覚と違和感が同じもののように思っていたが、そこに微妙な行き違いや勘違いがあるのではないかと思うのだった。

 その行き違いや勘違いは、思ったよりも奥が深く、その深さゆえに、すぐには思い浮かばないのだろう。

 最初にその思いが抜けてしまうというのは、ひらめきによるものなのだろうが、我に返るといえばいいのか、それとも、逆にそれ以上、踏み込んではいけないところがあり、その時点で我に返るということなのか分からない。

 もっとも、ここまで深く考える人はなかなかいないとも思うが、不可思議なことや、違和感をいかに立ち止まって考えることができるのか、考えない人と比べれば、天と地ほどの違いがあるのではないかと思うのだった。

 影に感じた違和感は、まったく違って見える感覚だったのだが、最初はなぜなのか分からなかった。

 しかし、そこでじっと見ていると、影の色が最初に比べて、次第に濃くなってくるのを感じた。

「これはきっと、自分が影をじっと見ていて、そこから視線を外すことができなくなったからなのかも知れない」

 瞬きをしないなど、もちろん、ありえないことであるが、それこそ、

「瞬きもできないほどに凝視している」

 と言ってもいいくらいであろう。

 そのことを考えると、目の前にいる影によって作られた異様な形も、影に変わりないが、それは、自分の視点で見る影とは明らかに違うものだった。

 そして、なぜなのかは、少し考えれば分かることだった。

 ということは、

「自分でなくても、誰にでもわかることに違いない。つまりは、どこまで真剣に深く考えることができるか?」

 と考えられる。

 よくよく考えてみると、影というのは、光が差し込んだ時に、

「光によって作られるものである」

 ということだ。

 つまりは、

「自分から作り上げたものではなく、光によってもたらされた過程、一種のプロセスに他ならない」

 ということである。

 そして、それを映し出すものを影が指定することはできない。つまり映し出されたその物体は、平面でしかありえないということである。

 写真にしても、映像にしても、どんなに立体的に表現しようとも、立体ではないのだ。そこには、完全な、

「次元の結界のようなものが存在していて。高度な次元から、下等な次元を見ることはできるが、逆はありえない。つまり、見える方が高度な次元で、見ることができない方が、下等な次元だといえるのではないか?」

 ということであった。

 影は二次元と言われる平面世界のものであり。ただ見えているだけのものなのだ。そういう意味で、影は、三次元の我々と、光によって作り出された、

「創造物」

 でしかないということである。

 だから、目線が違うことで、まったく違う見え方がしたのだから、それも当たり前のことであろう。

 ただ、それと同じ考えで、鏡面効果にも同じことがいえるのではないだろうか?

 鏡面効果にも、明らかに光と影が存在している。いや、広い意味でいえば、形あるものは、すべて、光という恩恵を受けているといっても過言ではないだろう。

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