第7話 弱肉強食の神

 さて、次に信じられている神としては、

「弱肉強食の神」

 というのがある。

 これこそ、この奴隷の土地にふさわしい神であり、それらしい名前の神だといってもいいだろう。

 弱肉強食というのは、その名の通り、

「弱ければ、相手の肉にされ、強ければ、自分が、相手を食うことができるというものである。

 これは、この土地だけに言えるものではなく、全世界共通のことである、間違いなく、この神が、一番、全世界に共通している神であり、そして、そのくせ、世界の他のどこにも存在しない神であろうということであった。

 悪く言われることはあっても、よく言われることはない。弱肉強食というものは節理であって、決まっていることだといってもいい。

 誰が考えても、理屈に合っている逆らうことのできないものなのだ。それを分かっているから、誰もが、

「自分が強者になって生き残る」

 という理念を持って、

「決して弱者にならないようにしなければいけない」

 と思うのだった。

 そのためには、自分が強くなければいけない。それは、身体や技量だけではなく、精神的にも言えることだ。身体や技は鍛錬で鍛えることができるが、精神的なものは難しい。頭を鍛えるのであれば、勉強に励めばいいのだが、勉強がそのまま精神の強化につながるとは限らない。

 精神の強化につなげるためには、

「自分自身に、自信をつけなければいけない」

 というものである。

 いくら勉強をして知識を得ても、それを使いこなせなければ、宝の持ち腐れである。

 さらに身体を鍛え、そして、鍛錬したとしても、あくまでも、訓練で得たものでしかない。

 つまり、実践になると、頭も一緒に働かないと、一瞬の判断が遅れてしまう、その一瞬が生死を分けるのだ。

 だが、普段から、なぜ身体を鍛え、勉強に勤しむのかというのは、

「とっさの判断をしなければいけない時に、本能的に動けるように、普段からの鍛錬が必要であり、その判断を間違ったものにしないようにするのが、勉強であり、

「普段からの自信をつけておくことが、自分を守ることになる」

 ということを、きっと教えてくれることだろう。

 その鍛錬を、

「生きている証」

 だと思っている人たちがいる、

 それが修行僧のようなものであり、仏教の世界では、

「菩薩」

 と呼ばれる人たちなのだろう。

 ただ、世の中は、古代より、弱肉強食が行われてきた。小さな国が、次第に一つにまとまり、国家を形成するようになったというのも、弱肉強食のたまものであると、言えるのではないだろうか。

「弱い者は、強いものに虐げられ、強いものは弱いものを支配する」

 ということであるが、実は中世における封建制度というのは、そうではなかった。

 確かに君主と、配下のものがいる形になるのだが、その関係は、一方通行ではない。

 主君は、配下のものの土地や財産を保証するかわりに、配下のものは、主君が戦争をするといえば、一定数の兵隊を出して、協力をする。そして、保証してくれた土地に対しての一定のものを年貢として差し出すことになるのが、封建制度というものだ。

 そういう意味で、封建制度における体制の崩壊というのは、君主が、配下のものへの約束を果たせなくなった時に生まれることが多い。

 特に戦争をして、勝利を得たとしても、外国の敵であったりして、侵略から国を守っただけであり、相手の領土を獲得したわけではないので、褒美としての土地を与えることはできない。

 配下とすれば、自分たちを犠牲にしてまで君主に尽くしたのに、何も得られないと、当然不満も出てくるというものだ。

 ということになれば、君主は、絶対的な力を持っていないと、あっという間にクーデターを起こされ、政府が崩壊してしまうことになるだろう。それが鎌倉幕府だったのだ。

 また、君主が奢ってしまい、配下のことを考えずに好き勝手にするのも、国を亡ぼす原因である。それが室町幕府だったのだ。

 そして、江戸幕府の場合は、時代の流れに乗れなかったというのが原因ではないだろうか?

 キリスト教の布教という侵略行為に対抗し、おこなった鎖国であったが、諸外国は、日本にも植民地開拓の嵐を吹かせようとした。

 最初は、攘夷ということで、外国を打ち払っていたが、そのうちに、海外には逆らえないことを悟り、富国強兵政策で、海外に対抗するためには、倒幕しかないと考えた。

 それが、江戸幕府滅亡の直接的な考えであるが、実際には、他にも複座yすな事情があった。

 そういう意味では、鎌倉幕府も、室町幕府も滅亡までに、いくつもの伏線があったことだろう。

 鎌倉幕府などは、元々、源頼朝と、その親族である北条氏、さらには、東国武士団によって成立した幕府で、

「いよいよ、これからは、土地の保障に基づいた武家政治の始まりだ」

 ということであったのだが、まずは、将軍となった、頼朝から、いきなり土台が危うくなっていたのだ。

 平家を滅亡させ、奥州藤原氏を平定することで、幕府を盤石にした頼朝だったが、やはり、彼であっても、親族が可愛いということで、息子をかわいがりすぎた。それによって、息子の頼家は増長し、しかも、その奥さんの実家にあたる、比企氏が勢力拡大を図ってくる。

 頼家の蛮行に怒りを感じた母親の北条雅子は、頼家を幽閉し、切腹させてしまう。

 さらに、三代将軍の実朝に至っては、政治には興味がなく、文化人だったこともあり、御家人たちに利用される可能性もあったのだが、頼家の息子に、

「お前の父親を殺したのは、実朝だ」

 と言ってそそのかし、実朝を暗殺させた。

 そして、その暗殺した頼家の息子を、謀反人として処刑することで、源氏が途絶えてしまい、源氏の幕府はなくなってしまった。

 執権であった北条氏が、その後やりたい放題となるのだが、それは、最初からの北条氏による筋書きだったのかも知れない。

 とりあえず、皇族から将軍を迎えるということで、幕府は存続したが、皇族としてのお飾りに、将軍が務まるわけでもない。執権である北条氏が鎌倉幕府を支えたのだが、このような、

「将軍家の度重なる暗殺」

 というのは、社会主義における、

「粛清」

 に似ているのではないだろうか。

 社会主義と封建制度はまったく違うものである。

 社会主義というのは、資本主義の限界を超えた、

「理想の社会」

 として考えられたものだ。

 資本主義というのは、基本は自由競争で、国家は競争に介入することはなく、市場は自由な競争で形成される。

 しかし、それによって、経済の発展は叶ったのだが、そのための弊害として生まれたのは、

「貧富の差」

 であった。

 それこそ、弱肉強食の世界であり、

「力のあるものは、力のないものを食って、自分だけが大きくなる」

 というのだから、当然のことである。

 そこで考えられたのが社会主義であり、

「社会主義というのは、自由競争をやめて。国家が経済をすべて管理する。つまり企業はすべてが国営で、その利益は国民に平等に分配する」

 というものだ。

 これは、自由競争を否定し、貧富の差をなくすのが目的であるが、とにかく国家による統制がすべてであり、国家の拘束力は、絶対なのだ。

 そのため、政府には、独裁政権が生まれることが多くなってくる。

 これは独裁政権にはありがちなことなのだが、政権を握ってしまうと、それを失うのを恐れて、強権政治を行うようになってしまう。

 それは、内部的には、何とか政権維持はできるかも知れないが、民主主義国家にとっては、目障りで仕方がない。

「民主主義と社会主義のどちらがいいのか?」

 という答えはハッキリとしないが、実際に今の世界情勢としては、第二次世界大戦後に、あれだけ世界地図上にあった社会主義国は、すでに数か国しかなく、盟主と言われた国家もすでになくなっているのである。

 それを思うと、

「社会主義というのは、長続きはしない」

 と言えるだろう。

 ひょっとすると、将来において、

「ネオ社会主義」

 などという態勢が生まれるかも知れない。

 過去の社会主義から失敗を学び、民主主義の欠点を今度こそ凌駕するような体制になるであろうが、果たして、元々社会主義を継承しているのであれば、本当に長続きするであろうか?

 それを思うと、どのような国家になるかということは分からない、

 国家というものは、本当は封建主義のように、主君と配下が、双方向の関係になっていることが理想なのではないだろうか? 今の世界の会社というのもそうではないか。ただ、目立たないまでも、どんな国家体制であっても、主君と配下が存在すれば、そこに生まれるのは、

「双方向の関係」

 なのではないだろうか?

 それを分かっていないと、配下のストレスが爆発し、クーデターが起こる。それを起こさせないようにするために、君主は、治安を守るためと称して、国民を締め付けようとする。

 それが結果として、

「負のスパイラル」

 を形成してしまい、国家が永遠でないということを証明しているのだろう。

 今までの歴史で、滅亡しないまま続いている国がどれだけあるだろう。

 日本でも、江戸幕府の二百六十年くらいだろうが、そもそも、その奥には、万世一系の皇族支配がある。

 それを考えると、日本という国が、いかに例外的な国であり、国民感情も他とは違っているかということがよく分かる。

 だから、

「神風特攻隊」

 であったり、

「戦陣訓」

 に基づいた、玉砕というものが考えられることになるのだ。

「国民がたった一人になろうとも、戦い続ける」

 という、信じられないようなことであっても、大日本帝国での国民であれば、ありえることに違いない。

 封建制度のあと、諸外国から侵略されないようにするため、富国強兵策をとった日本は、中央集権を勧め、万世一系の天皇を神と崇めて、その実は、政府の要人たちが、日本を動かしていたのである。

 安全保障の問題から、軍部が台頭してきたが、それもm憲法で決まっている

「天皇の統帥権」

 というものが、大きかった。

「日本の軍部は、天皇直轄による組織であり、政府を介していない」

 ということで、政府、首相であっても、軍の作戦に口を出すことはできないし、大東亜戦争中には、政府の人間に、軍部の作戦が知られることはなかった。

 なぜなら、外交の手段として使われては困るからだ。

 あくまでも、外交は外交、軍部の作戦は作戦なのだ。いくら外交がうまくいきそうだとしても、軍部の準備を妨げることはできない。ある程度まで準備ができてしまうと、いくら外交で戦争回避がうまくいったとしても、下手をすれば、

「軍隊の士気に影響する」

 ということで、強硬に攻撃に入るかも知れない。

 それが、大日本帝国の限界でもあったのではないだろうか。

 統帥権のしがらみで、政府は軍部に口を出せない。だから、軍部は秘密主義に走り、ミッドウェイの敗戦をひた隠しに隠したため、生存者を、離島で隔離したりまでしていたのだ。

 つまり、軍部や政府などの支配階が、自分たちの都合のいいように情報を操作したり、隠蔽に走ったりすれば、国家は終わりだということだ。

 そういう意味で、パンデミックが起こった時のソーリだった男が、数々の自分にかかわる汚職事件を隠ぺいしたり、さらには、そんな自分の有利に動いてくれる検察のお偉いさんを定年退職させないようにしようと、自分の都合で、法律を変えようとまでした男だった。

 汚職事件の際も、

「もし、私がかかわっていれば、首相どころか、国会議員も辞職します」

 と、国会でぬけぬけと言っていたくせに、結局、その男は、歴代一位の首相在籍年数を誇ったのだ。

「他に誰もやれる人がいない」

 という消去法でなった首相の座、ただしがみついていただけのことである。

 隠ぺいに、政府内での強硬姿勢、さらには、緊急事態においての、すべった政策の滑稽さを考えると、

「ソーリなんて、誰がやっても同じだ」

 と言えるのではないだろうか?

 そういえば、ちょうどその頃、ネットで、皮肉を込めて、ソーリの写真を切る抜いて、それを募集高校のようにして、

「次期首相募集」

 という見出しの後ろに、応募条件がいくつか書かれていた。

「国会に出席し、ただ原稿を読むだけの簡単なお仕事です」

「自分で意見を述べなくても、原稿さえ読めるだけの感じの読解力さえあれば、あなたにもできます。それで、月収百万以上」

「失敗すれば、部下に責任を押し付けて。自分は黙っていればいい職業です」

 などと、完全に、そのソーリをディスっていたのだ。

 さらに、

「自分を守るためなら、法律を変えることもできます。それがどーりという職業です」

 と書かれていた。

 パンデミックの最中に、国民の注意を引いて、

「首相は、俺たちのために頑張ってくれているんだ」

 などと思ってもらいたかったのか。

 それを思うと、

「そんなソーリだから、諸外国から舐められるんだ」

 と、誰もが感じただろう。

 かといって。代わりはいない。どうすればいいのかと思っていると、首相としての通算人気が歴代一位になったとたんに、

「身体が悪くなり。病院に行くと、ドクターストップがかかった」

 と言って、逃げ出したのだ。

 明らかに、時期的に考えれば、理由は病気などではない。

 なぜなら、その男は、過去にも一度首相をしていて、その時も都合が悪くなると、

「持病が悪化した:

 などといって、病院に逃げ込んだことがあった。

 前科一犯の、確信犯なのである。

 国民からみれば、大した男ではないように見えるのだが、政党の中では他に代わりがいないほどの大物である。ただ、日本の場合は、

「世襲の政治家」

 というものが多く、そのほとんどは、父親の地盤を引き継ぐ形で、

「裸一貫から」

 というようなことはないのだ。

 つまり、最初から土台があって、それを継続させるだけでいいのだ。

 ただ、逆にいえば、自分という人間を支持してくれているわけではなく、

「父親がよくしてくれたので、息子にも票を入れておけば、今までどおり、よくしてくれる」

 という考え方である。

 そんな政治家が政権を握っている国家が日本なのだ。最終的に、

「選挙は消去法でしかない」

 と言われるゆえんなのであろう。

 そんな、

「日本のような国家になってはいけない」

 という戒めもあって。

「弱肉強食の神」

 がいるのではないか?

 そんなことを考えていると、団員の一人は、

「それじゃあ、この奴隷の国の神を作ったという人たちには、このような世界になるということを予見できていたということなのか?」

 という驚愕にも似た思いだった。

 神様というのは、人間が創造したものである。ただ、神様の存在意義としては、

「創造主としての神」

 というものが、彼らの大前提にはある。

 だから、その創造する対象は他ならぬ人間だということになるのではないだろうか。

 彼ら奴隷民族を作ったのが、神様、その神様をあの国では信仰しながら、祖先の創造物だと思っている。

 そこに、矛盾が存在するのだ。

 それこそ、

「タマゴが先か、ニワトリが先か?」

 と理論である。

 だから、彼らの創造する神には、必ず、創造に値するような事実、いや、史実というものが必要になってくる。

 なぜ、その発想が日本になるのかは分からない。別に奴隷の土地と日本が、いつの頃からか、親密な関係になったというような話を聞いたことがない。

 国家間のことにおいては、一番詳しいはずの国連であるはずなのに、少しも聞こえてこないということは、その話に信憑性は皆無だということだ。

 それなのに、彼の中で考えるモデルとなる国は、どうしても日本になるのだった。

「じゃあ、他の人たちはどうなのだろうか?」

 と考えてしまう。

 団員の中での感覚だけなのだが、

「皆も日本を意識しているのではないだろうか?」

 という気がした。

 話に出てきたことはないので、何か胸騒ぎのようなものという、れっきとした信憑性ではないのだが、自分が日本と気が付けば比較して考えていたのと、どこか似ているような気がする。

「そういえば、日本という国は、陰ではどうだったのか分からないが、大っぴらに、奴隷というものを持っていた国ではないような気がするな」

 と感じた。

 江戸時代には、

「士農工商」

 などの身分制度があった時代はあったが、奴隷として、人間をこき使うというようなことをしたりはしなかった。

 農民に対しては、奴隷以上な態度をとってきたことはあったのだが……。

 だからこそ、奴隷というものを名言し、さらに、当の本人たちがそのことを、悪びれる様子もないというのはおかしなことだ。

 彼らは、奴隷ということで、自分たちの人生を諦めているわけではない。奴隷ということを十分理解したうえで、

「これが俺たちの生き方なんだ」

 と考えている。

 そう、彼らにとって、奴隷というのは、

「生き方」

 なのだ。

 決して、運命だとは思っていない。運命だと思ってしまうと、それは、

「自分たちが受け止めるという受動的なことになってしまうからだ」

 と考えるからだ。

「生き方ということになると、それは、自分たちが選んだものであり、もっと積極的な考えになる。まさか、奴隷というものを、能動的な、自分たちの生き方だと考える民族がいるなど、まったく想像できるものではない」

 ということであった

「そういう考え方が、日本人という民族に似たところがあるのだろうか? 確かに日本という国は島国であり、他の国にはない、万世一系の天皇制というものが残っている国ではないか?」

 と考えたのだ。

 どうしても、日本という国を意識してしまうと、それが神を慕っている彼ら奴隷という民族性と、かつての日本という国とが、どこか似ているような気がする。

 一番の違いとして考えるのは、

「この地域の人間が奴隷という意識を持っているからなのか、神様について、信仰心同様に、皆がしっかりと勉強している。しかし、日本はどうだろうか? すっかり神というものの信仰はおろか、まったく勉強もせず、宗教団体がからむと、毛嫌いすら覚えるくらいではないか」

 ということであった。

 特に、

「日本という国は、神の国であり、元寇来週の時には、神風が吹いて、わが日本を助けてくれた」

 という伝説。

 さらには、国家体制として、万世一系の天皇家が存在し、歴史の途中で武家政治に変わったとしても、天皇家と、その権威は存在していた。それは紛れもない事実なのだ。

 ただ、奴隷民族が、

「自分たちの国以外のことを意識しているのか?」

 と聞かれると、ハッキリ言って、

「そんなことはありえないだろう」

 としか思えない。

 何しろ国家大切としては、すべてを国連に委ねるという。委任統治ではないか。

 委任しているのは、支配階級の国。自分たちでも統治をできないこともないのだろうが、彼らが自分たちを奴隷として意識していることで、どのように彼らにかかわっていいのか分からないのだ。

 だから、直接統治に対しても消極的で、実際に国連から、奴隷地域を、

「委任統治したいのだが」

 と言ってきた時は、

「渡りに船」

 だったに違いない。

 彼らの崇める神には、そのほかに、

「生殺与奪の神」

「復讐の神」

「嫉妬の神」

 などという、おおよそ、神と呼ぶには疑問に感じられる神が多く存在するが、ここまで表記してきた神も、それに負けず劣らずだったではないか。

 それを思うと、この国の神は、彼らを奴隷として意識させるにふさわしいものなのかも知れない。

 まわりの人間には決して理解することのできない信仰心を持っていて、しかも、奴隷に甘んじていることを、誇りにさえ感じているというその民事区政だからこそ、存在する神なのだろう。

 そして、その共通点として、

「戒めの意味を込めて」

 という感覚である。

 復讐にしろ、生殺与奪にしろ、基本的に人間は持ってはいけないものだ。

「だからこそ、神がつかさどる」

 ということであれば分かるのだが、

 時々、復讐というのも、

「自分がされて、報復をしたいと思う相手が、勝手に滅んでしまうということがあったりする」

 というのは、この地域だけのことではなく、日本という国家にもあった。

 基本的に、復讐などということは許されていない日本の国家では、何かをされても、

「され損」

 というころになる。

 それを思うと、

「生殺与奪」

 にしてもそうだ。

 人の命を奪うなど、どんな理由があっても、適用されるのは、殺人罪。

 だが、裁判によって、いろいろな状況や、事実となる証拠が見つかれば、情状酌量から減刑になることは当然ありうる。だが、無罪放免になることはない。あるとすれば、

「正当防衛」

「緊急避難」

「自己防衛」

 などという、いわゆる。

「違法性の阻却事由」

 というものでなければ、有罪になってしまうのだ。

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