第6話 勧善懲悪の神
一般世界でいえば、
「不倫」
あるいは、
「姦通」
ということになるのであろうが、これらを許しているところは、法律的には、ほとんどない。
姦通罪というものが、以前はあったが、憲法に対して違反した考えだということで廃止された国がほとんどだった。だが、
「種の保存、子孫繁栄」
「労働力の確保」
などの理由で、子供が必要な世界は、もっと切実な問題なのだ。
いくら不倫の子であっても、差別をしないということは、不倫自体が倫理に反するかどうかとは別で、子供に罪はない。つまり、子供に対して差別をするということは、奴隷の世界ではあってはならないことだった。
しかも、子供は大切なものだという理由で、差別をしてはいけないと、法律に文面も罹れている。それを思うと、生まれた子供は、男の子であっても、女の子であっても貴重なのだ。
それは、さらに次の世代のために、男だけが増えても、女だけが増えても、困るということになるからだ。
それにしても、若干の違いことあれ、
「男と女の比率が、それぞれいい塩梅に生まれている」
というのは、どういうことなのだろう?
そこに理屈は存在しないということなのか、それとも、何かの見えない力が働いているということなのだろうか? それを思うと、
「性欲の神」
というものは、この奴隷の世界だけではなく、他の国にも存在していて、誰もが意識はしているかも知れないが、意識をしているだけで、気にしないように、無意識にしているのかも知れない。
そして、そんな性欲の神というのが、実は、
「不倫の子だった」
というのは、実に皮肉なことであろう。
ただ、
「不倫であろうが何であろうが、子供はこの世界にとって大切なものだ」
という意味で。不倫の子が、性欲の神であるというのは、必然のことなのかも知れない。
そんな全能の神の家族はそんなところであろうか。
他にも選ばれた神々はたくさんいる。その中で、全能の神の次、二番手と言ってもいい神は、
「勧善懲悪の神」
であった。
そもそも、勧善懲悪というのは、
「善を勧め、悪を戒める倫理規範や、因果応報を説く思想」
のことをいうのであろうが、もっと分かりやすくいえば、
「善を助け、悪を懲らしめるという考えは、物語や文学などに見られる世界」
であり、理想の思想と言ってもいいだろう。
しかし、実際には人間はそこまで精神的に強いものではなく、
「朱に交われば赤くなる」
という言葉にあるように、どうしても、人間は善悪というよりも、自己保身の考え方から、強いものに、なびいてしまうという性格がある。
それを戒めとして、
「気持ちくらいは、悪を憎むという気持ちになっていたい」
と思っているのだろう。
だから、勧善懲悪の小説であったり、ドラマなどが受けるのだ。
特に、時代劇などに言えることで、
「悪代官と、悪商人とがつるんで、弱き善人たちを迫害している」
というシチュエーションに、勧善懲悪なヒーローを求めるのだ。
それが、印籠であったり、背中の桜吹雪のようなインパクトのあるもので、修飾されると、よりリアルだというものである。
勧善懲悪という発想は、人間であれば、一度くらいは憧れたことがあるはずだ
その理論は、
「自分にできないことを他人が果たしてくれる」
という、
「達成欲の他力本願」
と言ってもいいかも知れない。
だからこそ、時代劇で、印籠や背中の桜吹雪というインパクトの強いものを象徴のように感じ、勧善懲悪をまるで自分の意志のように感じることで、自分ができないはずのことを、自分でもできるのではないかという勘違いを正当化できるのかも知れない。
ただ、奴隷の世界において、勧善懲悪の世界というのは正しいことなのだろうか?
いくら、この世界が、奴隷制度を受け入れているといっても、完全に認めているわけではない。人によっては、こんな世界を受け入れられないと思っている人もいるだろう。
そういう意味で、何度もクーデターのようなものが起こる気配はあったが、その都度、達成されることはなかったのだ。
その理由として、
「支配階級の方にも神様がいて、その中には神の予言として、まるで祈祷師のように、その伝承を話す人がいる」
という。
その人が、予言として、
「クーデターを企てている連中がいる」
と言ったことで、ほとんどのクーデターは事前に解明し、すべて潰されてきたのだ。
しかし、逆にいえば、支配階級の連中からは、企てた連中を極刑に処すことはできなかった。
憲法で処罰はできないのだ。さすがに無罪放免というわけにはいかなかったが、その裁判は、国連に委ねられた。
執行猶予付きの有罪が定石であったが、それも、彼らの中にある、
「勧善懲悪の神」
がいたからだと、言われている。
もちろん、恩赦ということもあるだろうが、勧善懲悪の神に刑罰を伺い、その結論によって罪が決まるというのは、
「クーデター事件だけにおける、昔からの決定事項」
だったのだ。
それは、元々、相手に裁判権があるものを、こちらに譲渡してくれるという情けに応じて、
「神による裁き」
が、その恩赦に近いものであると考えられているからだった。
そういう意味で、
「勧善懲悪の神」
というものには、絶対的な存在意義があった。
「どうして、勧善懲悪の神が、全能の神一族の次のナンバーツーなのかということなのか?」
ということの理由であった。
勧善懲悪は、言葉だけを聞けば、
「正義の味方」
という形のものとしての、確固たる絶対的な存在意義があったが、この奴隷の国においては、決して、
「正義の味方」
などではなく、
「制裁の神」
という意味で、大切な神なのだ。
ナンバーツーとしては、自覚がなさそうなのだが、実際の裁きは、結構厳しいものが多い。
彼としては、
「勧善懲悪というのは、妥協があってはならない」
という自覚があるようで、決して正義の味方にこだわってはいないようだ。
勧善懲悪が正義の味方ではないことは、分かっていることであり、テレビドラマなどで勧善懲悪をヒーローとするのは、あくまでも、
「自分にはできない。悪を懲らしめる」
ということが前提なのだ。
何も、正義の味方でなくとも、悪を懲らしめることができるだろうからである。
神々の世界でも、
「どんな神であるか?」
ということは重要だったようで、必ずしも、自分がなりたいという神になっているわけではないという。
世界の他の国ではほとんど、人間の、
「職業の自由」
というものは、認められている。
認められていない国も若干あるが、この国の中の、奴隷民族も、その数少ない一つである。
だから、彼らが信仰している神様にも、
「職業の自由」
ともいうべき、何の神になるかということも、選ぶことはできない。
「人間も、神も、生まれながらに決まっていることなのだ」
というのが、彼らの基本的な考えで、それを悪いことだとは思っていない。
むしろ、最初から突出して一つのことに優れているのだから、何を途中で変える必要があるというのか、変えることによって、
「せっかく生まれ持ってきたはずの才能を生かすことができず、生を受けた意味はない」
と言っているのと同じことである。
だから、それは、神に対しても同じでなのだ。
しかし、この発想は他の地域で信仰されている神や仏とも同じではないか。最初から、神も仏も生まれながらに決まっている。創造物というのは、そういうものではないのだろうか。
「全能の神は別として、奴隷の神、差別の神、性欲の神、さらには、勧善懲悪の神と、生まれながらに決まっていたのだろう」
ということであった。
そもそも、それが信仰というものであり、信仰する相手がコロコロ変わってしまうなど、普通はありえないことではないだろうか・
そんな中で、勧善懲悪の神というのは、漠然とした考え方の一つであった。
勧善懲悪というのは、最初から人間社会にあったものではないだろう。
聖書においても、
「善悪の心」
でさえ、身に着けることになったいきさつが、話として書かれているくらいなのだ。その感情に対して、人間がどのように行動するかということは、さらに後になってからの考え方に違いない。
ただ、人間には本能というものがある。
「一種の何かの心」
というものを持つと、その心に対応するすべを、会得しようとするのが人間の本能だといえるのではないだろうか。
一応、この国にも、宗教とは少し違う意味での、物語が伝わっていた。
日本において、宗教的な含みのある歴史書のような、キリスト教でいえば、聖書のようなものが存在している。
それが、
「古事記」
と言えるのではないだろうか。
そして、人間の神話に近いようなものとしては、
「おとぎ草子」
のような、おとぎ話をまとめた話が伝わっているのだが、この国においても、古事記のような本もあれば、おとぎ草子のような話もある。
日本であれば、それぞれには、あまり共通性がないのは必定で、古事記が神の話であれば、おとぎ草子は、言い伝えをまとめた本だといってもいい、そういう意味ではまったくの別物だ。
しかし、この奴隷の国における、古事記のようなものと、おとぎ草子のようなものとでは、結構な共通点があるようだ。
その中で、神の存在が、古事記のようなものでハッキリと歌われていて、おとぎ草子のようなものでは、漠然と言われている。だが、その中の共通点としての一つに、今回話題にした、
「勧善懲悪の神」
というのが出てくるのだ。
おとぎ草子のようなものでは、人間の中の信仰心として存在する勧善懲悪の神が実際に現れるというような話であった。
それが、勧善懲悪だけではなく、他の神のことも書かれているが、その共通点としては、
「漠然とした表現の神様ばかりである」
ということであった。
勧善懲悪の神は、奴隷という世界の中で、
「その住民が一番心の中に宿しているという感覚を持った神である」
と言われている。
つまり、
「奴隷という世界では、自分たちの運命は決まっていて、変えられないものだ。だから、今さら勧善懲悪などということを、なぜ意識しなければいけないのか?」
という意識を持っていた。
だから、勧善懲悪という言葉は、彼らにとって、
「自分たちの存在t、その覚悟を脅かす存在のようなものだ」
と考えられていた。
そんな言葉なのに、なぜこのように信仰されるようになったのかというと、彼らの中には、
「逆説の心理」
というものが働いている。
彼らは、奴隷という立場でありながら、結構勉強をしている。本来、支配階級の連中から見れば、
「支配される階級の人間が勉強することで、自分たちの運命に疑問をいだいたりして、自分たちにクーデターを仕掛けてきたら大変だ」
という意識から、学問や勉強ができない立場に追い込むように、図るのが普通だったはずだ。
しかし、彼らは奴隷としての覚悟は最初からついていて。奴隷という立場をそんなに悪いことのように思っていないようだ。
そのことを考えると、
「勉強をすることによって、クーデターを起こす可能性は低いかも知れない。逆に勉強ができないということがストレスとなり、せっかく彼らが奴隷として、誇りをもって生きようとしている決心を揺さぶって、生産性が悪くなったり、余計にクーデターというものを考えさせるという無駄なことをしてしまうかも知れない」
というのが、支配者階級の考えであった。
この国が、異様な状態であるにも関わらず、体制として問題なくここまで来ていたのは、支配階級側にも、奴隷側にも、それぞれに、自分たちの存在意義を理解し、相手に対して、決して恨みのようなものを持っていないからだといえるのではないだろうか。
そんな状態になった理由の一つが、この、
「勧善懲悪の神」
の存在なのかも知れない。
善悪というものがどういうものなのかを知るという意味で、勧善懲悪の神の力が必須であり、善悪というものをハッキリと理解できるようになると、そこには、
「封建制度というものの理想の形」
が生まれてくるのかも知れない。
これは、時代が未来という一方向に向かって進んでいることでの、一番の危惧と言ってもいい、
「時代が逆行し、過去の政治体制に戻る」
ということにはならない。
なぜなら、あくまでも求めているものが、
「過去の政治体制であり、失敗に終わったものだ」
としても、あくまでも、失敗はしたが、最終的な理想を掴んだわけではない。
過去の時代の失敗を踏まえて、いかに悪かったところを解消していくかということが重要なのだ。
そういう意味で、勧善懲悪の神が一役買うことになった。
考えてみれば、
「勧善懲悪の神が出てくる物語であったり、その時代背景は、主に時代劇と言えるではないか」
つまりは、
「封建制度の理想とする世界を見つけ出すことができれば、それは、究極の政治体制だといえるのではないだろうか?」
というものである。
歴史を勉強するうえで、一番大切なことは、
「何が正しく、何が間違っていたかということを、史実から検証することではないだろうか」
ということである。
この地区の信じられている神は、他の神と一線を画しているところがある。
と言っても、他の国や地域の神にも。そんなところのある神もあるが、あくまで少数派と言ってもいい存在で、主流ではない。
彼らの信じる神は、そういう意味では、
「異端神」
と言ってもいいかも知れない。
そんな言葉は存在しないとは思うが、彼らにとって、その思いは、
「他の連中とは違う」
と思わせるに十分なものであった。
彼らには、自分たちが奴隷だということで、他の連中にはないプライドがあると思っている。
プライドと言っても他の地域の連中の感じている、
「普通」
と呼ばれるプライドではない。
そのプライドは、まわりに向けたプライドではなく、あくまでも、自分を律するために必要だという意味でのプライドだった。
彼らが、元々、
「他の地区の連中とは違う」
と思っているから、神を信じているのか、それとも、
「神を信じる」
という意識があるから、まわりの地区とは違うというプライドを持っているのかの順序は分からない。
しかし、な順序はプライドという言葉の前では凌駕されたも同然であった。
他の連中が、
「プライドを持つことで、まわりの人に認められたい」
という意識を一番に持っているのだとすれば、彼らは、
「プライドを持つことは、自分を律するためだ」
という意識を一番に持っている。
そのどちらも、この地域であっても、表の地域であっても、持っていることだろう。しかし、その優先順位というものが違っているだけで、
「ここまで感情が違ってくるものなのか?」
と思うほどに、大きな差があるということであろう。
そして、彼らの信じる神は、
「戒めのための神だ」
という存在が多い。
そもそも、神を信じるということは、神に助けを乞うという意識ではなく、自分たちを戒めることで、自分たちが強くなるという意識に基づいているのである。
確かに宗教というものは、弱い者に対して、その情けを掛けることで、救われるということになるのであろうが、そうなると、目の前の苦難に打ち勝つことはできない。
あくまでも、
「死んだ後に、極楽にいけるためのもの」
というのが宗教であったのだろう。
もし、そうではなく、
「目の前の苦痛から逃れるための宗教だ」
ということであれば、彼らに救われるための教えなどは、まったくの無意味である。
それよりも、
「自分を律し、戒めることで、強くなる」
ということであれば、目の前の苦痛を逃れるためになるというものだ。
つまりは、
「強さが備わっていなければ、いくら神に祈ろうとも、それは他力本願でしかなく。肝心な時に何の役にも立たない」
ということになるであろう。
自分を律し、自分を強くしておけば、そこから生まれるものは、真の強さであり、決して今後、神に助けを乞うこともなく、救われるなどという感情がなくとも、
「自分の身は自分で守る」
という究極の教えを全うすることができるのかも知れない。
それが、この地域の神というものの存在意義であり、信者の心にしっかりとした形で根付いている。これこそが本当に、
「強い信仰」
なのではないだろうか。
信仰心がない国は国家というのは、有事には脆いものである。
かつての日本もそうだった。あれは、大東亜戦争が集結し、アメリカによる、
「押し付けの民主主義」
のせいで、
「そもそも、有事というものが存在しない」
ということにされてしまい、有事の際の国家による行動は制限されることになった。
それ以前の大日本帝国では、
「戒厳令」
というものが存在し、
「クーデターや、災害などが起こった際には、国家や軍で、その混乱を収めるための部隊を組織し、国民の権利を制限することができる」
というものである。
戒厳令が出されると、戒厳司令部が組織され、彼らが非常事態時の警察であり、政府であり、治安部隊として働くのだ。
そこで、たとえば、
「夜間外出禁止エイ」
などというものができ、それを破ると、まるで刑法犯のように、罰金、あるいは懲役に科せられることになる。
それが有事というものであるが、日本においては、憲法において、
「基本的人権の尊重」
が謳われていて、さらに、
「戦争放棄、平和主義」
という項目まであることで、国家が市民の権利を制限することはできないのであった。
それがm
「日本には有事などない」
と言われるゆえんで、戦争とは違い、災害というのは程遠い、国家陰謀によるパンデミックが起きてしまったのに、日本政府は、国民に、お願いするしか方法はなかったのだ。
一応、措置としては、
「緊急事態宣言」
などという、言葉だけは立派な宣言であるが、実際には、すべてがお願いレベル。
しかも、国民にお願いしておきながら、政府内部では、
「いうほど大したことはない」
と思っている輩が多いせいか、彼らには。緊張感がまったくなく。マスゴミにその甘さからの行動の悪さを指摘され、辞職しなければいけなくなったりした事件が多くおこったりした。
そんな政府に対して、国民がついてくるはずもない。
しかも、政府はお願いと引き換えになる
「金銭的補償」
を、中途半端にしかできていない。
「支給されるのも、かなり後になってから、支給される時になってみると、店はすでに潰れていた」
などというのは、当たり前にあったことだ。
政府や国民の安全のために行動して、自分だけが潰れるなどという、割に合わないことになってしまい。さぞや不本意であろう。
それこそ、
「保障は国が十分に行います」
などという言葉は詭弁であり、そのことに気づいた国民は、もう国家のいうことを聞かなくなった。
二回目以降の緊急事態宣言下では、誰が国のいうことを聞くというのか。お願いはしても、まったく見返りはない。まるで、はしごをかけて、
「お前だけが頼りなんだ」
と煽てておいて、はしごを外して、置き去りにしてしまったのと変わらないではないか。
それが、当時の日本国の政府であり、ソーリの態度だったのだ。
この地域の奴隷たちは、決してそんな日本のような末路を迎えることはないだろう。
その教訓は、その地域に根付いていて、国家体制に大いに影響を与えているのだった。
「勧善懲悪の神」
その存在は、
「生まれるべくして生まれたこの土地の神」
ということで、市民一人一人の心の中に潜んでいることであろう。
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