第4話 差別の神
「フランケンシュタイン症候群というのは、人間が作り出したものが氾濫を起こし、人間を支配しようとしたり、人間を殺そうとするものです。一種の本末転倒のお話だといえるでしょうね」
と、いうのだった。
「あれは、ロボット開発への警鐘のようなものだと思っているが、ひょっとすると、神話にも同じようなものが存在するのかも知れないな」
と、団長は言った。
「フランケンシュタイン症候群を神話と結びつけるという考え方は、斬新ですね」
と言われ、
「そうかな? フランケンシュタインというのは、怪物だと言われているが、本当は怪物ではなく神なのかも知れない。いや、逆に神と呼ばれている人たちの正体が、怪物なのかも知れないと考えるのは、おかしなことかい?」
と団長がいうと、
「いいえ、そんなことはないと思います。例えば、中国の西遊記のお話などは、孫悟空や沙悟浄、そして、猪八戒の三人は、それぞれ、罪を犯したために、サル、カッパ、ブタ、とそれぞれの妖怪、つまりは怪物のように言われていますが、本当は、沙悟浄も、猪八戒も、天界では、名のある神だったわけです。元帥だったり、将軍だったりと言われていたというじゃないですか。それを思うと、神だって、罪を犯せば、化け物として生きなければいけないということになるわけなので、そういう意味で、神々の世界でも、上下関係は、しっかりしているということでしょうね」
と団員は言った。
「いや、神々の世界だからこそ、余計に厳しいんじゃないかな? 神には神のプライドがあって、それが、自分たちのモラルとして確立している。それは、高等になればなるほど、その感情は高いものとなっていき。曖昧では許されないということになるんだろうね」
と、団長は言った。
「人間か、あるいは、それ以上の高等な存在でなければ、物語などというものを作ることはできない。だから、物語に、思いを乗せるというのは、高等な生物としてのプライドがあると思うんですよ。だから、高等であればあるほど、プライドが高い。そう思うと、昔から残されてきた物語や神話というのは、プライドが作り出したものだといってもいいのではないでしょうか?」
と団員は言った。
「やはり、この男を選らBで正解だったな」
と、団長は思った。
彼の才能に惹かれたのは確かだったが、それ以上に、団長が彼に惚れたのは、奇抜に思える内容を、話しながらでも、自分の中で説得力をつけていけることだった。
彼が、最初から理解していて、話をしていると感じることは、むしろ少ない気がする。話をしながら、そこで自分の考えを固めていける人間、それが彼の特徴であり、
「誰にもマネのできないところではないか」
と感じさせるところであった。
「フランケンシュタイン症候群」
というものは、人間の意識として、
「人間が、この世の動物の中で最高に高等な動物なんだ」
ということが大前提となり、
「そんな人間が、理想の生物を作り上げようとして、自分たちよりも、高等なものを作ってしまうと、どうなるか?」
ということを戒めたものなのだろう。
フランケンシュタインの物語は、本当は、人間のための理想の生物を作り出そうとしたはずなのに、狂ってしまった悪魔を作り上げたことで、人間よりも、強固で、しかも、頭脳が発達した、いや、悪知恵が発達したというべきか。そんな悪魔を作ってしまったことで、自分たちが、逆に支配されることになってしまうことへの警告である。
そこには、
「生殺与奪」
という問題が出てくるだろう。
基本的に、人間同士であれば、
「人を殺めてはいけない」
ということで、他人はおろか、自分の命も殺めることは許されない。
自殺も認めないのは、
「人間は神によって作られたもので、神によって与えられた命を、勝手に奪うことは、他人であっても、自分であっても許されない」
ということであろう。
日本の戦国時代の女性の一人に、細川ガラシャという人がいた。
彼女の夫は大名で、戦が起きる前触れとして、相手についている旦那をこちらの味方につけるために、家族を人質にしようと企んだ男が、せめてきた時、彼女はキリシタンだったため、
「自殺は許されない」
ということがまずは前提にあった。
しかし、自分がここで人質になってしまうと、夫のためにならないということで、苦肉の策を考えた。
それは、自分を部下に殺させるということであった。
「誰かに殺されるのであれば、自殺ではない」
ということなのだろうが、果たしてその考えは正しのだろうか?
確かに人に殺させれば、自殺ではないが、相手は自分を殺すことで、
「殺人を犯した」
ということになる。
いくら命令されたとはいえ、人を殺めるのはいけないことだとされている宗教に入信しているのに、その自分が、自殺できないという理由で、部下とはいえ、自分の殺害を命令して、強制的に殺人犯にするわけである。一種の、
「殺人命令」
つまりは、殺人教唆に当たるということである。
ただ、現在の刑法としては、
「殺人教唆」
は、殺人罪に当たるだけの重い罪であるが、戦国時代には、違った考えがあったかも知れない。
しかし、人を脅迫して犯罪を犯させるというのは、
「犯罪を犯したものは、地獄に落ちる」
と言われるような宗教の世界では、
「教唆罪」
というのもれっきとした戒律の一つなのではないだろうか。
ただ、この奴隷の国の法律は、付け焼刃的なところがあるので、どうしても曖昧なところが多い。
刑法においても、教唆は幇助の部分は、かなりあいまいで、教唆はともかく、幇助については、判例まかせというところが多いようだ。
法律が、あまりあてにならないということは、裁判などで判決がしっかりしていればいいのだが、裁判も曖昧だったりする。
ほとんどの裁判は、控訴や上告が行われることはないという。一審で決まったことを覆そうとする場合、もし、成功すれば、罪は軽減される。ただ、軽減されるだけで罪が消えるわけではない。
しかし、控訴や上告をして、認められなければ、さらに罪は重くなってしまうのだという。
それは、
「裁判に時間とお金をかけるというのは、時間とお金の無駄だ」
という、かなりシビアで現実的なところがあることから、
「罪が重くなる可能性があるのであれば、そんなリスクは負えない」
ということで、皆、一審で採決してしまうのだった。
だからこそ、一審にすべてを掛けようとするのが、検事や弁護士の仕事で、証拠集めなど、結構シビアに行われる。
下手をすれば、犯罪ギリギリのところでの証拠集めであったり、下手をすると、リスクを犯してでも、捏造しようとする弁護士もいるだろう。
「弁護士の仕事は依頼人の権利を守ること」
というのは、どこであっても、いつの時代でも同じことのようで、特にこの国の裁判は、酷い時には、非公開も稀ではあるが存在するという。
これは、普通の国でもあることであるが、ただ、それは公式の裁判ではなく、一つの組織の中で行われる査問委員会なるところが行い裁判である。
「軍法会議」
などと言われるものがその一つで、
「軍規に逆らったものは、重い罪に問われる」
というものであった。
有事の際などは、
「敵前逃亡は、銃殺刑」
などという言葉もあるくらい、実際に、戦争から逃げだして、銃殺刑にされた人もたくさんいたことだろう。
また、ここの法律、特に刑法では、
「適用はされていないが、条文から削除されていない」
というのも、結構あった。
それは、他の国でも同じようなことがいえるのだが、それはあくまでも、
「裁判関係者や、有識者による合議がまとまらなかった」
という理由からのものであるのが、他の国の考え方だが。この地域は、奴隷たちの声がそれほど政府に届くことはない。
何しろ国家は、統治されていることで、政府は国連内にあるのだからである。
だから、奴隷たちも、半分は政府に対して諦めの心境であり、政府としても、
「そこあで国民が無関心なら、勝手にすればいい」
というくらいに、いい加減だったのだ。
だから、条文から削除されなかったのも、単純に、
「どうでもいい」
という考えからだったのではないだろうか。
本来削除されてもいいようなことは、小さなことから大きなことまで結構あったというのだ。
大きなものは、他の国でも削除になった経緯のあるものがほとんどで、そのうち大きなもの二つとして、日本では、旧刑法の、第百八十三条における、
「姦通罪」
そして、新憲法の、刑法第二百条の条文としてあった、
「尊属殺人罪」
というものであった。
姦通罪というのは、配偶者がある妻が、旦那に黙って、他の男性と姦通した場合のことをいう。
旧刑法では、告訴できるのは、男性側だけであり、男性が姦通したからと言って、告訴はできなかった。
これこそ、憲法第十四条における。
「法の下の平等」
に違反しているのではないかということで、日本国憲法発布の時、新刑法では、削除されたものであった。
尊属殺人というのは、
「近親者などに対して、殺人を犯した場合。刑法百九十九条で規定されいる殺人罪よりもさらに過量される」
というものであった。
したがって、肉親を殺すと、
「死刑か、無期懲役しかない」
とまで言われたものだった。
この犯罪も、違憲かどうかが、大きな議論となって、熾烈な討論になった。この場合の憲法も姦通罪と同じく、
「法の下の平等」
が、議論になったが、最終的に、刑法から削除になったのだ。
国連も、それらの世界的な情勢を鑑みて、これらの条文の削除には、結構対応が早かった。
要するに、国連という機関の性質上。加盟国に忖度しないといけないということになるのであろう。
そういう意味で、この国の法律は、内部を見るといい加減なところはあるが、国連加盟国の法律と比較すると、シビアに対応するというところがあり、ある意味、
「国連機関が作った法律」
というニュアンスから、極端なことになっているのかも知れない。
そんな法律なので、奴隷たちも、国連からの派遣委員に対して、複雑な思いをいだいているに違いなかった。
ただ、それはあくまでも、今までの委員たちのことであって、今の委員は結構真剣に、この統治体制に対して考えている。
なぜなら、最近では、国連が世界の組織の中で、必ずしもトップであるというような昔からの、
「神話」
が崩れてきていて、
「そんなものは都市伝説にすぎない」
と言われるようになってきたのだった。
憲法も、実際には、支配国との忖度の中で作られたもので、結構妥協的なものも多かった。
実際に、ここでの犯罪発生率は実際には少なく、
「決められたことは守る民族」
ということなのか、
「決められたことに逆らうということができない」
という民族なのかということが問題であった。
どうやら、彼らを見ていると、後者のように思えてならないのは、彼らが信じている神の存在が大きいのではないかと、思えてきたのだ。
彼らが信じている神は、その存在は、それほど奴隷たちの心のよりどころということではないようだが、
「抑止力」
としての力は働いているようだ。
「神の存在こそが法律のようなものであり、絶対的なものだ」
と言われている。
やはり、国連という他の組織によって作られた法律と、自分たちの心の中で創造した神のどちらが自分たちに深くかかわっているかと言われると、当然、自分たちが創造した神であるということは、必然のことであろう。
彼らが創造する神の原型になっているのは、ギリシャ神話である。
彼らは、神話というものを、信じている。宗教とは違った意味での説得力があり、信憑性には欠けても、説得力が自分たちを動かすと思っていることから、彼らの創造する神は、おのずと、オリンポスの神々に似てくるのだった。
彼らが、いかに人間に近いかということも、奴隷たちは分かっている。
そして、
「俺たちとは、次元が違うところにいる神なんだな」
と思わせた。
次元が同じだと思うから、空間が違うと思い、距離感を感じるのであって、次元が最初から違っているのであれば、そばにいても、見ることができないという発想に至るのではないだろうか。
そう考えると。神々の存在を、宇宙の星になぞらえたのも分からなくはない。
ギリシャ神話の神や動物は、ほとんどが、夜空の星や星座となって延々と続いていくものである。
そういう意味で、奴隷たちの神は、すぐそばにいると考えられている。
それは、四次元の世界の創造と似たところがあり、
「そばにいても、誰も気づかない」
という、
「路傍の石」
のような存在も、別に不思議なこととして考えられない状態にあるのだった。
ところで、彼らが創造する神は、都市伝説と言われていることのほとんどをつかさどっているというような言われ方をしている。
それだけ、神話というものには、信憑性を持っていて、
「その信憑性の裏には、神がいる」
ということになっているのだろう。
信憑性の証明のための存在というのは、神としては、許容できるものなのだろうか?
奴隷が個々で感じているのが、神であるという形になっているのは、そのあたりに原因があるのではないだろうか。
ゼウスがいて、ポセイドンがいて、ヘラがいる。さらに、オリンポスの十二神と呼ばれる神々と同格の神に、ハーデスやペルセポネがいる。いろいろな絡みがあるのが、
「ギリシャ神話」
における神々であるが、この国が信仰する神々は、そんなに複雑ではない。
ただ、複雑に感じるのは、
「人々が勝手に創造した個々の神だからだ」
と言えるだろう。
「そういえば、全能の神の奥さんが、さっき、我慢の神だっていったでしょう?」
と、団員に言われて、
「ああ、そうだったな」
と、団長が答えると、
「実は二人には、息子が一人いるんだけど、これも神なんですよ」
というではないか。
「ほう、どんな神なんだい?」
と聞かれた団員が、
「差別の神というものなんです」
というと、
「さっきから、奥さんも子供も、何か微妙な神様なんだね。我慢に差別って、いったい何なんだっていうんだ?」
と、半分呆れたように、団長が言った。
「ふざけているわけではなく、大真面目なんですよ。差別の神というのは、ある意味では重要な神で、彼らが奴隷と言われても、怒ったりしないのは、そのあたりに原因があるようなんです。つまりは、まわりから差別を受けることで、自分たちの間はすべて平等だということのようなんです。まわりの人間はよその人間なので、別に差別があっても、それは当たり前のことだと思うと怒りもしない。でも、自分たちうちわだったら、その中で差別があれば、これ以上の情けなさと寂しさはないということのようなんですよ。それを、全能の神の息子がつかさどるというのも、何か不思議ですよね?」
と団員がいうと、
「何か、母親との間に確執でもあるのかも知れないね」
と、団長は言った。
それを聞いて団員は、なるほどと思ったが、その時にはそれ以上聞かないつもりだったが、
「母親は、父親がたまに浮気をしているのを知っていて、それなのに、自分が嫉妬で夫を責められないのかということを分かっていた。さすがに、全能の神には逆らえないということなんでしょうが、それを息子も陰から見ていて、父親と母親の間に、埋めることのできない壁と距離を感じたということなんです。それで子供が成長していくうちに、それが差別だと分かってくると、自分が何をつかさどるかと考えた時、差別なのではないかと思ったらしいんです」
と団員は言った。
「ということは、ここの神というのは、神として生まれて成長過程で、何をつかさどるかということを、選択することになるのかな? それとも、何かをつかさどるために、神になる選択をするということなのかな?」
と団長に聞かれて。
「彼らは、生まれながらに神になることは決定しているということなんです。そして、成長過程で、どこを目指すのかを決めて、そこから、専門的な知識や技を身に着けていくことになるんですよ」
と団員は言った。
「じゃあ、息子は両親を見ていて、差別というものに。特別な感情を覚えた。だから、差別をつかさどる神になることを決意したということだろうか?」
と聞かれ、
「そうだと思います。ただ、差別の神になるというのは、結構難しいらしいんですよ。というのも、神の間に差別というものはないんだけど、階級は存在している。息子はまだ若く、その理屈が分かっていない。だから、差別というものが、自分たちが作り出したものだということを、知ってはいるが、どのような影響を秩序として与えるのかが分からない。そのために、神をいただいている人間がいるということを知って、人間界に差別を与えるようにした。階級もそうだが、精神的な差別を与える。肉体的な差別は元から感覚としてあったが、精神的なものは曖昧なんです。それを差別の神は、ハッキリさせ、自分たちを信仰している連中に身につけさせようとするんですよ。そうすると、差別を差別だとは思わない連中に、違和感を与えるようになる。敵意をいだくことになって、活気を起こさせ、普段から冷静で、冷静でいれば、苦痛も感じないという考えのもとになっていることから。差別というものは必要悪ではないかと思うようになったんですよ」
と、団員が言った。
「差別なんて、そういう意味では概念でしかないのかも知れないな」
と団長がいうと、黙ってうなずくしかなかった団員は、差別というものを、自分だけで、勝手に膨らませて考えているのだと思うようになったのだ。
差別というものは、
「何をもって差別というか?」
という問題である。
日本という国では、差別というと、人種差別、性別差別、年齢差別などというものがあり、就活における面接などでは、
「聞いてはいけないこと」
や、募集要項には、
「不問」
などと書かれていたりするものがある。
例えば、年齢不問となっているが、企業的には、
「三十歳まで」
と規定していても、差別問題から、
「年齢を表記してはいけない」
などということで、
「年齢不問」
と書かれているが、実際には、
「採用に関しては、一切の質問にはお答えできません」
などと表記してあれば、問い合わせても何も教えてくれない。
相手も教えるはずはない。正直に、
「年齢表記は法律でできないようになっている」
などと答えると、相手が逆切れすることもあるからだ。
そんな状態なので、差別が厳しくなると、就活する方も、面倒くさくてしょうがないということになる。何しろ、年齢不問と書かれてしまえば、自分が応募して合格の可能性が少しでもあるのかどうか分からない。まったく無駄だと分かっていても、面接に行かなければならないということになりかねないのだ。
また、差別ということで、よく言われているのが、男女差別である。
特に、男女教均等法なるものが定められてから、それまでの呼称が、
「男女差別になる」
という理由で、変わってしまったものがたくさんある。
「看護婦が看護師」
「スチュア―デスが、キャビンアテンダント」
「婦警さんが、女性警察官」
などである。
正直、
「昔のままでいいのでは?」
と思う人も少なくないだろう。
男女で統一すると、それこそ、就職などで、男女のどっちが必要なのか、曖昧で分からない。年齢表記と同じで、募集性別も書いてはいけないのだ。それを思うと、ややこしくて仕方がない。
また、コンプライアンスの問題から、
「ハラスメント」
というのが、言われるようになり、上司が部下に言った言葉が、
「セクハラだ」
「パワハラだ」
と言われるのもどうであろうか?
そこまでの問題でもないものが大げさになるだけだ。そうなると、今までの復讐を企てる女性も出てくるかも知れない。
昔のことを持ち出して、それを復讐のネタにして、上司を陥れようという、過剰防衛ともいえるようなことが行われるかも知れない。
確かに昔のように、男だから許されるなどというのは、いけないことだが、今のように男女平等ということをかさに着て、
「今こそ、昔の恨みを」
などと言って、復讐でもされた日には、目も当てられない。
そういう意味で、この国における差別の神というものは、差別をする人に対して戒める神というわけでも、差別を受けた人間を救うというものでもない。
あくまでも、平等という観点が、過剰になり、逆差別にならないということを律する神であった。
「差別の神」
という言葉を聞いて、閉口した人には、永遠に分からない発想なのかも知れない。
行き過ぎに制御を掛けるというのも、神としての大切な仕事なのであった。
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