ナニカが変わってしまった日

それは少し昔のこと。


「ねぇ、蓮」


少女は自室のベッドの上にて、十にも満たない幼い少年をほくほくと満足そうな顔でご機嫌に抱きかかえていた。


「んー?」


少年は特に拒絶する様子も無い。というよりかは、抵抗したらしたで腕を絡め取られてさらに拘束が強まるので諦めた、という方が正しいが。


「こんな話を知ってる?」


胸の中の少年の頭の上に微塵の遠慮なく顎を乗せ、少女は楽しげに口を開く。




それが、取り返しのつかない過ちのハジマリ――――













――ある所にとても可愛い一人の男の子がいました。

今日の男の子はとてもご機嫌です。何故なら、パパとママに新しいボールを買ってもらったから。

男の子は毎日ボールを持って駆け回りました。汗だくになっても、泥んこになっても、ボールを大事に、大事に使いました。あまりの溺愛ぶりにパパとママが呆れてしまう程に。




けれど、ある日のことでした。




『もーいーかーい』


それは、お友達と隠れんぼをして遊んでいた日。


男の子はとても隠れんぼが得意でした。周りが降参するまで、いつも見つからないまま。それは今日も同じ。


『あ』


ぽつり。ぽつり。……さらさら…。ざー


突然の通り雨でした。


『……わ……』

『おーい!!『――』!かえろー!!』

『っ!ま、まってよぉ!!』


遠くから聞こえるお友達の声に、置いていかれると思ったのか慌てて草むらから飛び出して、男の子はお友達のところへと駆けていきます。






草むらの中にぽつんと、泥だらけのボールが寂しく転がっていました。











『ない………ないよぉ………』

『『――』。それだけ気にかけてくれるのはお母さんとても嬉しいわ。…けれどこれだけ探しても見つからないのなら……』

『うー……う〜………』

『…ふふ。拗ねないの。また新しく買ってあげるから…』


決して、粗末にした訳ではありません。間違いなく大切に思っていたのです。

けれど、長い長い懊悩の果て、断腸の思いで男の子はついに諦めました。…諦めざるをえませんでした。











『またなー。『――』』

『うん!』


そしてまたある日、いつもの様にお友達と遊び回った帰り道のことでした。

思いの外、外が暗くなっていることに気づいて、男の子は急いで帰路へとつきます。


『コッチ』

『こっち?』


それは普段は使わない道。人通りの少ない、暗い道。

近道でもあるその細い道へと、誘われる様に男の子は脚を踏み入れます。

暗い、暗い道。男の子は少し逸るように足を動かします。


その時です。


コロコロ……。


『え?』


気づけば、隅にボールが転がっていました。何の変哲もないボールでした。


でも、いつの間に?


辺りを見渡します。誰もいません。風も吹いていません。

けれどもボールは、男の子の横にぴったりとついてくる様にそこにありました。


『………』


ちくりと胸に引っかかるものを感じながらも、けれど背中に何やら冷たい汗が流れるのを感じた男の子は、駆ける様にその場を去ろうとして。


コロコロコロ………


『っ!?』


ボールがついてきました。

そして男の子が立ち止まれば、同じくピタリと止まりました。

男の子の真横で。自然に、そして不自然に。


風など吹いていませんでした。他に人などいませんでした。


なのに、そこにあるのです。


なのに、ついてくるのです。


『………!!』


言いしれぬ悪寒を覚えた男の子は次の瞬間、一目散に走り出しました。


振り返らずに、ただひたすらに前へ。


なのに。




なのに。




どれだけ必死に走っても、路地を抜け出す事が出来ません。


どれだけ必死に走っても、後ろから聞こえ続ける何かが転がる音が一向に離れる気配がありません。


コロコロコロ……



コロコロコロコロ




ゴロゴロゴロゴロ





ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ!!!




どれだけ必死に走ったことでしょう。

けれど、元気が取り柄だろうと、どうしたって子供。

やがて、動かしていた足が徐々に言うことを聞かなくなり…。


男の子は遂に足を止めてしまいました。



コロコロ…



とーん。とーん………。






………とっ。






踵に、何かぶつかりました。


その時です。



『っ!?』


突然、一際強い突風が男の子を襲い、男の子は思わず目を閉じて、腕で顔を庇うようにして身を捩りました。


もう一度目を開けたその瞬間。





まるで、立場が逆転した様に。


口の無い筈のボールが、地の底から響くようなおどろおどろしい声で言いました。






『ドウシテボクヲオイテイッタノ?』





―――――――――――――――――――――











―――あら?どうしたの蓮。そんなに涙目で震えてしまって」

「…………………」

「私はボールを無くしたのが君だなんて一言も言っていないのだけど……」

「……………………」

「………………何か、心当たりでも?」


ぶんぶんぶん。少年が見ていて可哀想になるくらい激しく首を横に振る。それを見るなり、少女の恍惚とした笑みがより深まっていく。


何とも憎らしい笑顔を貼り付けたまま、少女が少年の視界の外で静かに指を手繰り寄せた。


その時である。


とーん……。


天井の隅から、突然ボールが落ちてきた。………少女が眼前に落ちてくる様に細い糸で細工をしておいたただのボールである。


「あら?何かしら?このボール……」


そのあまりに白々しい声。

けれども今この時、この瞬間、少年にとっては只事とはいかず。


「_:❩◁♡$〉︶【∨ー※#=1;‘【❩(︹△#:!!!!!!!!!!!??」

「あらあら」


室内に響き渡るけたたましい叫び声。

少女は大変堪らないとでも言いたげな笑みで胸の中で暴れる少年を抱きしめる。

少年の恐れを己が栄養にする魔女の如き所業。最近ハマっている最悪のブームである。


「どどどどうしたの二人共!?蓮ちゃんのこの世のものとは思えないエッグい奇声が聞こえたんですけどもぉ!!?」


無論、その様な雄叫びを聞かされて恍惚としていられるのは少女のみであり。

どたばたと騒がしく足音を響かせながら、少女の母親が駆け込んでくる。

それを目にして、少年は決死に少女の拘束から逃れると、這々の体で四つん這いのまま少女の母親に縋り付く。


「おばおばさばばばばばばおばばばおばばぁ!!!!」

「誰がばばぁじゃい!じゃなくて蓮ちゃんどうされ申した一体!?」

「ぼーるぼーるぼーるぼーるぼーるぼーるぼおぉーーーーーーる!!!」

「何何!?その歳でジョ◯・カビラのモノマネはニッチすぎない!?」


大粒の涙を垂れ流しながら、形容し難い顔で喚き散らす少年の姿。一体全体何事なのか。困惑する少女の母親がそれを理解するのに、そう時間を必要とはしなかった。


「ぷーくすくす」

「はっ!?」


何せ、目の前で己の娘が大変愉快な笑顔で少年を眺めていたのだから。


「凪沙っ、貴方まさかこの間突然お母さんに枕元で話してきたあの怖い話のどれかを蓮ちゃんに話したんじゃないでしょうね!!」

「そんなことするわけないじゃないなぎさはいいこよ?」

「お腹を痛めて産んだこの母ですらこの方見たことのない輝く笑顔を…!せめてもっと微笑ましい場面で見せてよぉ!」

「ウケる」

「ウケない!いつか本当に嫌われても知らないからね!?」


我が娘ながら、愛が歪んでいる。一体、誰に似たというのか。

少女の母親は未だ発狂したままの少年を抱き上げると、少年をあやしながら急ぎ魔女の目の届かぬ所へと避難する。

少女は笑みを絶やさぬままにそれを手を振って見送り、姿が見えなくなるなり笑みを止める。すんと澄ましたその顔に、先程までの子供らしい面影は無い。






「凪沙」

「っ」


そんな彼女に、先程から騒ぎの後ろで声も出さずに淡々と状況を観察していた女性が、少女・凪沙に声をかけた。少年・蓮の母親、泉である。


「あまりうちの子をいじめちゃ駄目よ」

「………ごめんなさい」


意外にも、と言うべきか凪沙は彼女に対しては素直に頭を下げる。


凪沙は己の見られたくない所まで容赦なく暴く様な、彼女の眼が苦手だった。その落ち着いた性格も、美しく整った作り物めいた美貌も、その全てが憧れであり、恐怖だった。


「………でもおば様」

「うん?」


泉は気づいている。年齢に全く見合わない聡明さと利発さを秘めたこの少女のその不安定さ、その歪さに。そして己の息子に何やら昏いどろどろとした感情を向け始めていることに。


それはいつか、こちらに矛先を向けるかもしれない。周到に、狡猾に。己の目の届かない所で。この子はそれをやれる子だ。そして、やる時は躊躇いなく。泉はそう思わせる少女が何処か空恐ろしかった。


「駄目なんです…」


けれども何も言わなかった。この少女から息子を取り上げる事の方が危ういと、無意識に感じ取っていたからかもしれない。


「私……」


或いは信じたかったのかもしれない。自分が息子に、そして夫に救われた様に、息子がこの少女を救ってくれるかもしれないと。あの子の存在が、いつかこの子を暗闇の底から引っ張りあげてくれると。




いつか。




……いつか。




「蓮のあの泣いて震えている姿を見ると、お腹の辺りがきゅんきゅん熱くなってえ……たまらないんですぅ♡♡」

「………………………………………………ふーん」


ただ、『それはそれとしてこいつやべぇな』とも思っていた。少し揺らいだし、後悔しなくもなかった。でも、素質に関しては己も人の事を言えない気がしたので言わなかった。


藤堂泉、旧姓・卯月。腐りきった生家ですら感じなかった『戦慄』という感情を覚えた、ある夏の午後だった。












「ありがとうございました。葵先輩」


幾度かの季節を巡り、凪沙は高校生となっていた。

一人になりたいという後輩の頼みを何も聞かず聞き入れて、離れの鍵を貸してくれた物静かな先輩に別れを告げて帰路につく。


…頼んでおいて何だが、失礼ながら彼女はどうも苦手だ。どれだけ仮面を取り繕っても、あの澄んだ瞳は奥まで容易く見透かしてくる気がしてならないから。あの人と似たタイプだ。


とうに人の気配の去った校舎を出て、闇の中一人、昏い夜道を歩いて行く。

並大抵の不審者なら容易く制圧できる自信はあるが、所詮は小娘の浅知恵。それを理解して尚、凪沙は一人を望んでいた。


とある路地に差し掛かり、一度足を止めると、凪沙は一瞬迷う様にしてそこへと歩を進めていく。


そこは何の変哲も無い細い路地。


「………」


ボールも、ましてやそれを無くして悲しむ男の子などいるはずもない。



「……ぅして……」






「…どうして私を置いていったの………?」






暫しの間、虚ろな瞳で暗闇を見つめ続け、その言葉はぽつりと吐き出された。

掠れた様に吐き出されたそれは、誰に聞かれることも無く、静かに風によって夜空へと運ばれていく。


そして少女は、頼りない足取りで緩やかに闇の中へと消えていくのだった。




再会まで、後2年―――















「凪沙凪沙!新しいホラー映画が公開されたんですけど行きません!?行きますよね!?行くしかない!!」

「………………………………………………………………まさか、ね…」

「凪沙?」

「…ふふ。はいはい、付き合ってあげるから。急かさないの」

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