私を呼んで
「まあ大変。私の愛しい人が死んでいる」
それはある日のこと。私が本日のお客様のためにちょこっと買い物に出ていた数刻の間の出来事。
私と彼の愛の巣に帰ってみればあら不思議。巣の主が地に伏しておられるではございませんか。
「で?」
と言うわけで、私は這いつくばる屍に一切構うことなく、そのすぐ傍で(‘・v・`;)みたいな顔で正座して困り果てていたお客様、即ちすーちゃんに声をかける。
「………ぉ、姉さま、その…」
「(お?)」
そしてすーちゃんといったらもう、私のこの一文字だけで何を求められているのかを察したらしい。流石すーちゃん。これぞ阿吽の呼吸ならぬすーなぎの呼吸。…語呂悪いわね…義姉妹の呼吸。
マイフェイバリットシスター・すーちゃんは疲れた顔で小さく溜息をつくと、その瑞々しい口を開く。
「あの」
「うん」
「今日、学校で顔を合わせた時、ついいつもの癖で『兄様』と呼んでしまいまして」
「うん」
「大したことではないのですけど、お友達にちょっとからかわれてしまって」
「成程。理解出来たわ、全て」
「流石姉様」
「からかってきた輩を東京湾に沈める計画ね?どんと任せなさい、お姉さんに」
「何もかも気の所為でした」
豊かな胸を張れば何故かすーちゃんの顔が曇る。
?何だろう。何でそんな失望した瞳で私を見るのだろうか。止めてほしい興奮するから。
「…だから、その、この際だから呼び方を改めようかと」
ということらしい。…そっか。沈める必要は無かったのか。この間通販でいい感じのドラム缶を見つけたのだけど。…え?一体何に使うつもりだったのかって?やんえっち。
「それで何故死ぬのよ、彼が」
「試しに『お兄ちゃん』って呼んだらこうなりました」
「…ふむ?」
すーちゃんが告げたその不可解極まりない事象の究明のため、私は何も言わず黙って蓮の頭に耳元を近づける。すると、微かだが彼がボソボソと何かを呟いていることが分かった。
しかし一体何を…。まさか本当に輩を抹消しようだなんて――
「(『兄様』………『お兄ちゃん』………!無理だ……!どちらかなんて選べない……!!俺は…俺は、どうしたらいいんだぁ………!!!)」
「どうもしねーわよ」
「姉様?」
「おっと」
いけない。つい口調がブレてしまったわ。私は完璧完全な高嶺の花だというのにおほほ。…薄々思っていたけど高嶺の花って何?そこまでじゃなくない??私。
「くだらないわ、実に。どうでもいいじゃない、呼び方なんて。例えメス豚と呼ばれようがすーちゃんが私を愛していることなど分かりきっているのだから」
「姉さ「分かりきっているのだから」あ、はい」
ほら見なさい?この凄い何かを噛み潰したかの様な可愛らしいお顔。私への抑えきれない愛情を心の奥で必死に押しつぶしているのが容易く想像できるでしょう?…できるでしょう??
「分かってませんね、凪沙」
ぐりん。伏したままの姿勢で首だけを動かして、蓮が力強い目で私を睨む。ホラーっぽい演出に思わずすーちゃんが肩を跳ねさせるのが視界の隅で確認できた。可愛い。
「何がよ」
「確かに小さい頃は翠も『お姉ちゃん』、と呼んでいたかもしれません。あどけない、鈴を転がす様な声で。分かります、それは地上に舞い降りたエンジェル。ブロークンしたはずのガラスのハートが瞬く間に癒されることでしょう分かりますともアイ・シー」
「君とうとうホラー以外でもお馬鹿になる感じ?」
「だけど、今のすーちゃんだから良いんじゃないですか」
「………っ……!?」
その言葉に、私は思わず言葉を失ってしまう。
…彼のその一言は、私が忘れ去ってしまったかつての情熱を心の奥から呼び戻す。
「まだ純真無垢で何も知らなかったピュアホワイトすーちゃんが『お姉ちゃん♡(裏声)』と呼ぶことは何ら可笑しいことではない。けれど、それが今の成長したすーちゃんなら?想像してください、礼儀正しく、清楚可憐な我らが妹が恥じらいながら『お、お姉、ちゃん?』と顔を赤らめて名前を呼ぶその光景を」
「まさか……、そういう…こと……?」
「そう」
嗚呼、一体いつから私はここまで怠惰に成り下がってしまったというのか。己が恥ずかしい。そう、今こそ思い出すべきだったのだ。かつて私達が目指した理想郷を。見果てぬ夢のその先を。
「「ここが我らの『シャングリラ』」」
「卯月さん真鶴さんわたくしそろそろ帰らせていただいても宜しいでしょうか?」
「「翠さん!?」」
■
「…せっかくだし、君もこの際、改めてみる?私の呼び方」
「え〜?」
私達の留まることを知らぬ愛に流石に可愛らしくむくれる妹を、近日中に最善案をまとめたいと思います、とか何処かの政治家みたいな言葉でどうにかこうにか宥めすかした夜、私達はいつもの様に二人で揃って部屋で寛いでいた。
「…例えば?」
本日の話題はまさに名前の呼び方。さっきも言ったが、呼び方一つで私達の愛がそう簡単に揺らぐとも思わないが、『時には新鮮な気分を味わう事も大切なのだ』と、この間お義母さんがコントローラー片手に言っていた。『だからこうしてつけ上がった若い芽を摘んで遊ぶ』、とも。なんて意地の悪い。雪辱はいつの日か必ず。
「マァイスゥィイトハニイ(吐息多め)、とか」
「却下で」
でしょうね。私もそんな呼び方嫌d……何かこの文言嫌ね。完全に拒否反応が出るようになってきているわ。見なさい、この鳥肌。どうしてくれるのマイスイートダーリン。詫びとして私を癒しなさい、ということでとん、と静かに彼の肩に頭を乗せることにする。
「因みに私の中のぶっちぎりワーストは志乃さん命名『づる☆づるえんじぇる♡なぎっつぁん』だからそれ以外でね?」
「多分頭引き千切れるレベルで雑巾絞りしても出てきませんよ」
呆れたようにそんな言葉を吐きながらも、彼は馬鹿真面目に頭を捻って呼び方を考えようとする。知恵を絞るその横顔を眺めながら、私はふと笑みを漏らす。そういうところも好きよ、なんて言葉にしない想いを瞳に乗せながら。
暫しの時間が流れる。けれど私は何も言わない。急かさない。
飽きている訳ではない。彼が私のことで頭をいっぱいにする。それを間近で眺めていられるなんて、寧ろご褒美だろう。
「あの」
「うん」
答えが決まったらしい。蓮がゆっくりと私を振り返る。
目と鼻の先で交錯する視線。長い前髪に隠された整った顔が私を見つめている。
…キスしたいかも。うん、後でしよう。
「やっぱり俺にとって凪沙は凪沙です」
「………」
「そりゃあ、凪姉とか、先輩とか、色々呼んだ時もあったけれど、…やっぱり何処か引っかかっていたというか」
頬をかきながら、慎重に言葉を選ぶ蓮。
「俺の愛しいって気持ちも、からかう気持ちも、その三文字に全部込もっています」
「………」
「え〜……それじゃぁ、ご不満、…でしょうか…?」
私が何の反応も示さない事が不安なのか、言葉尻はどんどん弱くなる。
分からないだろうか。張り付いた微笑みの下で今、私の心がどれだけ踊り跳ねているのか。
「ううん」
分からないなら分からせてあげよう。彼の頬にそっと手を添えると、私は唇を重ねる。
真っ赤に染まった彼の顔を眺めながら、濡れた唇をぺろりと舌で拭うと、私は今度こそ素直に笑みを浮かべた。
「120点。また惚れ直しちゃうかもね」
「………どうも」
つれない言葉は照れ隠し。恋人なのだからそれくらい。
「そういうなぎ―」
再度言葉を紡ごうとする彼の唇に人差し指を添えて蓋をする。
「さっきも言ったけれど、私は本当に呼び方にこだわりは無いわ」
「勿論、限度はあるけれど、ね」
「君が私の事を呼ぶ。それだけで私はどうしようもなく嬉しくて、どうしようもなく愛しいのだから」
「…逆も然り。…それではご不満かしら?」
彼の言葉を真似するように、私はそう口にする。
どうするべきか分かる?などと意地汚い本心を笑顔の中に含みながら。
「……いいえ」
そして、私の意図を汲み、柔らかく微笑んだ彼の顔がゆっくりと近づいて―――
…この後の事は、悪いが割愛させていただくとしよう。
どうしてかって?
…だって、名前を呼びすぎて痛いんだもの、喉。
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