深き愛

それは、私達が共に暮らす様になってから、まだそう時が経っていない頃のお話。





「――それでね、ロロったらあの子また太っちゃって……。この間漸く元に戻ったと思ったのに、リバウンド王でも目指しているのかしらね」

「うん……」

「別に意地悪で言っている訳では無いのに、私だって。どうしたものかしらね…」


彼の胸の中で彼の指をいじいじ弄りながら、私は遠慮なく後ろに背中を預けた。

ふわりと、花の香りが鼻腔をくすぐり、いつの間にかそれが当たり前の様に彼からも香る様になったことに気づいてしまった己にむずむずと。

照れを隠すためか、私の口は頼んでもいないのに流暢にぺらぺら動き出す。


「…最終手段としては志乃さんに預けるという手もあるけれど…」

「?何故それが最終手段なんですか?」

「……君、一度に私3人分に愛を注がれて嬉しい?」

「うっっわ…」

「…ちょっと失礼じゃない??」


何とも呆れた様な彼の声。失礼極まりないのに何故か笑みが漏れてしまう。

それはきっと、何気ない、何でもない時間がどうしようもなく愛おしいから。彼もまた恐らくは、私と同じ様に幸せを噛み締めているのだろう。そうであると嬉しい。


「…ところで、何故タオルで目を覆っているの?さっきから」

「お気になさらず」

「ふーん?」


因みに、のだろう、と言うのはその姿を私は見ていないから。見ていないというかまあ背後だから見えていないというか。見ればいいじゃないという話なのだが。


「暑くないんですか?」

「暑いのは平気よ?私」

「…そうですか」


ならば何故見ないのか。答えは簡単。


「あ、もう。こら、抱きしめる、ちゃんと」

「………はい」

「うん。……ふふ」


ここがお風呂場だから。

今、目の前で私が背中を預けているその硬くも柔らかな感触、その温もりと私との間には隔てる物が何一つ存在しない。そこにあるのは生の人肌云々。

そう、後ろには一糸まとわぬ蓮がいる。恋仲と言えども、振り向くにはそれ相応の覚悟が必要となるだろう。


「で。つまるところそれは目隠しのつもり?」

「お気になさらず」

「ふーーん?」


普通なら。という訳で、物足りなくなった私は腕の中で徐ろに身体を入れ替える。湯船に小さな波が起こり、そして擦れるのは濡れた生の肌。その上、遠慮無くのしかかっているものだから、私の胸が彼の胸の上に。恐らく彼の中ではとんでもなく柔らかい感触がぷにやら、むにやら、たゆんやら。あらあらどうしたものやらいやらしい。


「……まぁ、見えていないならそれはそれで……」

「…え、ちょ、どこ触って」 


そして沸き起こる衝動と共にぽろりと零れ落ちてしまった不穏なお言葉と共にあちこちに唇を落としながら、全く持って己の意志とは無関係に動く困ったちゃんの私の細い指先が彼の顔を撫で、首筋をなぞり、徐々に、徐々に。下へ、下へ。鎖骨、胸、臍、そして。


「っあらあらここもこんなに硬くしてしまって……(※筋肉)」

「あ、こら何タオル縛って…!うわきつ!?取れない!!」


「ああん…!凄ぉい……♡ここも子供の頃とはまるで違うわぁ……♡(※筋肉)」

「うぇ!?何して……!!」

「あらあら抜け出そうと必死なの?こんなにも血管バキバキにしちゃって……か・わ・い・く・ない♡(※筋肉)」

「ひぃ…!やばい…!!」

「せっかくだしちょっとだけ(※筋肉?)」

「あ」












「ふふふふんふんふふんふんふんふ〜ん♪」

「……」

「ふふふふんふんふふんふんふんふ〜ん♪」

「………」

「ふふふふふん、ふふふふふん、ふふふふふんふんふふふふふ〜ん♫」

「………」

「ふふふふふん、ふふふふふん、ふふふふふんふんふふふふふ〜ん♫」

「………」


何故かは分からないけれどのぼせてしまった彼を膝に置いて、私は鼻歌混じりにりんごの皮を剥いていた。勿論、落としたらことなのでそうならない様に身体は背けているけれど。

うん。我ながら見事な出来栄え。綺麗に剥けたそれを、私は彼の眼前に差し出す。


「はい。りんご剥けたわよ、蓮。食べなさい?貪る様に」

「…食べたくない…」

「…食欲無い?でも食べた方がいいわよ」


「…でも食べたくない…」

「あ、もしかしてあまりの出来栄えに食べるの勿体ない?いいのよ、君に食べてほしくて剥いたのだから、はいあ〜ん」











「どんなに高級だろうが超精巧なTHIS MANの顔の形のりんご食べたくない……」

「………」

「世にも奇妙な鼻歌だった時点で嫌な予感してた……」

「…好きなんでしょ?ホラー」

「……もしかしなくても、この間恋愛映画と称してホラー映画見せたことまだ怒ってます?」

「怒ってないわよ。全然。全く怒ってない。おら、口開けなさいクソガキ。今日から君はTHIS RENよ」

「怒ってるぅ」


見ていて不安になる顔を彼の目の前で見せつける様にふりふりと。次作るなら青い鬼さん辺りかしらね。

膝の上で必死に顔を背ける彼の視線の先に回り込む様に何度も何度も動かしていれば、観念したかの様に蓮が長い溜息と共に口を開ける。


「(ん?)」


彼女らしく可愛らしくあ〜んしようとして、ふと気づく。

私の愛する彼が知らない小さなおじさんに唇を奪われようとしているこの構図。あれ?これ寝取られでは?

NTRの記載なんてされてないし絵面的にちょっとまずいかしら、なんて思っちゃったり。…そうね。皆様はあの顔の周りに花畑とか想像して自主的に純愛を作り出したらいいんじゃないかしら。そしたらNTRじゃなくてBLになるし。………。


「いや、そもそも寝取られるの私だけじゃない」

「何意味不明なこと言いながら顔真っ二つにしてるんですかね怖ぁ」

「私だけよ。君の全てを奪っていいのは」

「怖ぁ」


綺麗に縦真っ二つに裂かれたおじさんを蓮の口の中に触れない様に放り込む。哀れおじさんであったものは彼の口内で優しく舌に包まれ、胃の中で融けあっていつしか彼の一部に………。


「やはり寝取られじゃないの!!!」

「何が!!?」

「駄目よ君が愛を注ぐのは私だけじゃないとっ…」

「凪沙だけですけど!?」

「そ?…じゃあこの後、……ね?」

「………」

「…ふぅ」


おふざけはここまでにして。

恋人が作り出す甘い雰囲気。普通ならば必然、その先にステップを踏み出すことなど珍しくもないだろう。


けれどここで、誤解されても面倒なので皆々様には知っておいてもらわなければいけないことがある。

私と蓮。意外に思うかもしれないが、私達が身体を重ねた回数は実は初めての一度きりである。

一度きりである。一緒に寝るし、お風呂も入るけど一度きりである。私をさも尻軽ビ◯チみたいに思うのはやめてもらおう。

その直前までなら、いくらでもそういう雰囲気になったことはある。実際に触れ合うことだって。

けれど『そういう時』、彼はいつも後ろめたい顔をする。


「…やっぱり、気が乗らない?」

「……その、決して凪沙が嫌な訳では……」

「うん。分かっているわ、勿論」


いつだったか、それは彼が行為に溺れる自分を嫌うからだと、そう思っていたと、言ったことがあるかもしれない。


「…何と言うか、身体を重ねるということは必然、その先を考える必要がある訳で」


違う。彼はそんな軽い気持ちで私に触れている訳ではない。


「実の父親があれだと母から聞いた身として、果たして自分にはその資格が有るのかと、思ったり思わなかったり」

「……そ。話は聞いたけど」


無論、私とて何の覚悟もなく、ただ快楽に溺れるためだけに身を委ねるつもりもない。


「…君と私、そして君の父親とお義母様とでは、決定的に違う物がある」


彼が苦しんでいるのならば、それを取り除くのは、私の役目。その役目を他の誰にも譲るつもりはない。


「何が…」

「私の愛がある。君は愛されている。間違いなく。紛うことなく」

「………」


そしてこの愛だけは、お義母様にもすーちゃんにも負けるつもりはない。

彼の頬を包んで、揺れる瞳を正面から覗き込む。あの日、彼が私を掬い上げてくれた日は背中ごしだったけれど、今は正面から気持ちをぶつけられる。

正面からぶつからないと、彼の中の迷いを断ち切ることは、きっと出来ない。


「それでも不安なら、一緒に堕ちましょうか?外道」

「……そんなことさせられる訳ないでしょう」

「ほらね?そう言えるのなら、大丈夫よ」


…いいえ。迷い、だなんて。

君はそんな弱い人間じゃなかったわね。私と違って。


「そう言ってくれるから、私は君が好きなの」

「………」

「そんな君だから、私は愛されたいし、愛したいの」


蓮が起き上がり、私の横に座る。

前を向いたまま黙り込んでしまった彼に微笑みかけると、私はその肩に寄りかかる。


「いいわよ、焦らなくても。何年も待ったのだもの。ここにいてくれるだけで幸せだわ」

「凪沙」

「うん?」


静かに声を落とすと、蓮が私をそっと抱き寄せる。私も抵抗することなく、その胸に身体を寄せた。


「何と言うか、凪沙が凪沙で良かったです」

「そ。…私も君が君で良かったわよ。……お馬鹿じゃなければね」

「何のことでしょう」

「そういうところよ」


ああもう。感染ってしまった。

けど、別にいい。何と言うか、それだけあの人みたいに深い愛情を私も持てたのだと、そんな気になれるから。

時計の音だけが響き渡る言葉も何も無い時間。それがこんなにも尊いのだと感じることがあるだなんて思いもしなかった。

そして、これから何度も思うことになるのだろう。


それが涙が出るほどに嬉しくて、どうしようもなく楽しみで。


私は彼の胸の中で子供の様な笑みを漏らすのだった。











「じゃあ恋人らしく、…今度、て、手とか繋いでデートとか、します?」

「………………は」

「何でそんな露骨に嫌そうな顔するんですかね。あまりに予想外な反応に蓮泣きそうですよ」

「嫌だからよ。恥ずかしいもの」

「抱きついて風呂にまで乗り込んでくるのに!!??」

「いいのよそれは。温かいから」

「そう言えばこの人あんま手繋がないな、とは思ってましたけどその謎のライン何なんですか!?」

「無いもの。繋がなきゃいけない理由」

「分からない!!」

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