今宵の勝負は負けるが勝ち

「いいかい翠。例えこの先にどんなに辛い結末が待っていたとしても、決して深く掘り下げてはいけない。あくまでもいつも通りを振る舞うんだよ」

「分かっています兄様。例えこの先で首輪を着けた姉様が全裸で四つん這いになって母様の脚を舐めていたとしても翠は決して動じません」

「ごめん妹からその発想が出てきたことに今俺物凄く動揺してるからちょっと待ってください」


俺達が見てはいけないものを覗き見てしまったあの瞬間から、早数時間。

存分に外で時間を潰し、妙にほくほく顔の妹と共に俺は再びこの伏魔殿へと舞い戻っていた。


「……聞こえる?」

「……いえ……」


廊下でひっそり気配を消しながら耳をすます。あの時の様なきゃんきゃんきーきーとした姦しい声は影も形も無い。決着がついて仲直りしたのか、それとも最悪の結果を迎えたのか。

どちらにしても、俺達はこの先に足を踏み入れるしかない。連絡もせず、本来帰るはずの時間を大幅に遅れてのご帰宅なのだ。原因は向こうにあるといえども、恋人を心配させてしまうことはこちらとしても望むべくではない。


「…いこうか、翠」

「………はい………」


行くのか、はたまた逝くのか。いずれにしても我ら死す時は共に。いざいざ、強い決意と共に俺達兄妹は扉に手をかけ


「「ただいまっ!」」


一息に開いた。











「あら、お帰りなさい蓮。ん、翠もいるのね。お邪魔しているわ」

「…………………」


何ともいつも通りの薄い表情の中にどこか恍惚としたものを見え隠れさせながら、椅子の上に寛いだ母が俺達をご機嫌に迎え入れる。


「……ただいま、母さん」

「……ただいま帰りました母様」

「ん」


そう言うと、俺達はあくまでいつも通りに軽い足取りで部屋に踏み入り、時間潰しの買い物で存分に重くなった荷物を降ろす。


「……………」

「随分遅かったわね」

「…あー、ごめん。ちょっとすーちゃんと一緒に夕飯の買い物を…ねえ?」

「へぁ、うん、ですねっ」


俺が何とも歪な笑みを妹に向ければ、鏡に写した様に見事な歪な笑みが返ってくる。

けれど、それを見た母は俺達とは全く異なる実に嬉しそうなほくほく笑顔。


「んふ。兄妹仲良しね。大変結構なことだわ」

「ごめんなさい母様。…もしかして退屈させてしまいましたか?」

「ううん全然。めっっちゃ楽しんでた」

「「……………ですよね」」


頬を色づかせながら、大変珍しくも満面の笑みを見せる母から俺達は静かに顔を逸らす。これ以上その醜態を目に入れることは耐えられなかったから。




「何」




直後、俺達の足下から低い声が響いた。


「…………」

「言いたい事があるなら言えばいいじゃない。さっさと」

「「……………」」

「足置きが勝手に口を開く。マイナス1」

「…………はい……ごめんなさい………」


何故か超絶ミニのメイド服を着せられ、虚ろな目で母の足元に四つん這いになってフットレストと化しているのは、我が恋人。言ってて泣き叫びたくなるけど我が恋人。

大層楽しそうにグラスを揺らしていた母が、中に入っていた残りを一息に呷る。


「あら。飲み物が空だわ」

「…………」

「ねえ?可愛い我がメイドこと凪沙」

「………はい…直ちに………」

「プラス1」


とんとん。母が踵を乗せていたフットレストの大胆に開いた背中をお行儀悪くそのまま踵で叩けば、メイドが丁寧に丁寧に背中の足をどかして立ち上がる。…立ち上がる時、ヒラヒラ揺れる短い布から危うくその下が見えそうになったのだが、何だろう。ちょっと違和感が。


「…?」

「…兄様?」

「…いや…」


いや、まあ、こんなこと妹に話せる訳が無いが。

セクシーメイドは直ぐにお高そうなワインを持ってきて、母が慇懃無礼に差し出したグラスにそれを注ぐ。


「暑いわね」

「はい」

「プラス1」


団扇で扇ぐ。


「肩凝ったわ」

「はい」

「上手。プラス2」


肩を揉む。


「………凪沙ちょっとスカート捲ってみて」

「は「「待って待って待って!!!」」」


短いスカートをたくし上げ、じゃない。あまりにも哀れなその有様に、最早何も言葉に出来ずただ眺めていただけの俺達でも流石にそれは看過できなかった。

言われるがままにスカートに手を伸ばした凪沙の腕を両側から俺達が必死に食い止める。何が悲しくて己の恋人が実の母にメンタル壊された上にセクハラかまされている現場を見せつけられなければならないのか。何が悲しくて、じゃないよさっきからずっと悲しいよ号泣だよ。こんなんもうNTRじゃないですか。


「離しなさい」

「いや駄目でしょ!どうしちゃったんですか凪沙!!?」

「凪沙?…って誰のこと?しがない負け犬だけど、私は。わんわん」

「正気に戻って姉様!!!」

「まーいーなーすー?」

「「そっちも少し黙って!!」」

「まあ母に何て口の利き方。お母さん悲しい」


うるせぇ悲しいのはこっちじゃい。

そして、二人がかりで必死に食い止めているというのにこの人は、どこからそんな力が出ているのか少しずつ確実に手を自らのスカートへと動かしているのだ怖い。


「駄目なのこれ以上マイナスにされたら私は負け犬ですらいられないただの塵なの」

「何の話!?」

「そうなれば私に価値なんて無い生きる意味も無いはい凪沙スカート捲りますわんわん」

「姉様ぁ!!」


震えが止まらない。一体、何をどうしたらあの完璧超人・真鶴ちゃんをここまでぐしゃぐしゃにすり潰せるというのか。俺達はあの時引き返すべきではなかったのだ。今更ながらに後悔の念が押し寄せてくる。


「いいの?蓮」

「何が!」


そんな中、そう、俺達がこんなにも死力を尽くす中、それを頬杖つきながらのんべんだらりと眺めていやがる悪魔が静かに囁いてくる。


「その下、凄いわよ。どちゃくそ」

「ぇ」

「兄様!!!!!!」

「すみません!!」


先程感じた違和感の正体を確かめられる、あまりに魅惑的な甘言に揺れる心。それを即座に引き戻したのは、多分生まれてこの方聞いたことの無いレベルの妹の怒声だった。こんなにもドスの効いた声をあの翠が出せるなんて。妹の成長は早いものだ。涙出てくるよね。色んな意味で。


「離して」

「凪沙ぁ!!」

「はなしてよぉ」

「姉様ぁ!!!」


メイドの制圧に成功し、漸く、漸く彼女が精魂尽き果てその場に倒れ伏したのはそれからもうしばらく後のことであった。












「お見事」

「やかましい……」

「ぜー……はぁ……はぁーー………」


ぱちぱちぱち。細い見た目からは想像出来ないストロングメイドとの激闘に疲れ果て、息を切らして折り重なる俺達の頭上から響き渡る、素晴らしく空々しい声と乾いた音。そのくっそ腹の立つふんぞり返った態度たるや、まるで何処ぞのデスゲームの主催者である。


「存分に楽しんだし、そろそろ帰るわ」

「え」


しかし意外にも、ゲームマスターは素直に立ち上がってそんな言葉を口にした。


「…ご飯、食べていかないんですか?」

「お誘いは凄く嬉しいけどね。あの人に仕事放りだしてきた身だからそろそろ埋め合わせしてあげないと」

「何やってんの?」

「気分転かーん」


恐ろしい棒読みとうっすい微笑みでダブルピースを決めた母が、倒れ伏した凪沙にゆっくりと近づいてしゃがみ込む。


「な・ぎ・さ」

「ひっ」


声をかけられた瞬間、見てて可哀想になるくらい跳ねる身体。恐らくこのトラウマは長い事消えることは無いのだろう。

母は薄い微笑みを深めると、優しく凪沙の頭を撫でる。


「んふ。今日は実に楽しかったわ。プラス1000」

「…………あ、う……」

「今日身に付けたもの、全部あげるから。……いくらでも好きに使いなさい。………勿論、二人で、ね」

「っ!!?」


えー…メイド服だけじゃなかったのぉ?何で凪沙はそんな途端に目を輝かせてるのぉ?僕何か背筋が寒くなったんだけどぉ。


「またね。…可愛い可愛い我が娘」

「は、はい……。お、義母、…さん…」


何で感動的な空気出してんのぉ?もう僕ついていけないよぉ。


「翠。帰るわよ」

「…ぇ゙〜……」

「お姉ちゃんに気を遣ってあげなさい」

「ゔ〜………」


腹に目を向ければ、最早妹は反応する気力も残っていないようだ。うつ伏せに伏した頭をゆるゆる動かしていることが取り敢えずの返答と考えて良いのだろう。などと思っていたのも束の間、ひょいっと、いとも容易く翠を持ち上げスムーズに背負い上げた母が、別れを惜しむ様子もなくさっさと立ち上がる。


「じゃ、ごゆっくり」

「「……………」」


無論、俺達がその背中を丁寧に玄関まで見送ることなどできるはずもなく。

2人分の恨めしい視線をものともせずに、弾んだ足取りで母は家を後にするのだった。












「凪沙」

「………」

「凪沙ー。生きてますかー」

「………」


死んだ様に、いやもしかしたらもう死んでいるのだろうか。俺が動き出した後もピクリとすら動かないメイド。その横にしゃがみ込んで、優しく声をかけた所で微塵も反応は無い。


「…取り敢えず何か食べません?」

「…………」


いくらお馬鹿なイベントとはいえ、あれほどまでに散々に体力を消費すれば、お腹は急激に空腹を訴えかける。けれども、メイドは職務を放棄したまま動かない。

もう諦めて一人で食べてしまおうか。そんな事を思いかけたその時


「……ねぇ藤堂くん」

「はい?…ん?……藤堂くん?」


漸くメイドが口を動かした。

あまりに消え入りそうな声。俺が耳元を近づけてやっと聞き取れる程に。


「…どっちがいい?抉られて記憶を消すのと、穿たれて記憶を消すの」

「どっちも嫌っすね」

「…………」


ぎりぎりぎり。めきめきめき。手元と口元から果てしなく物騒な音が。ふふ、怖い。


「………私……もっと頼れるお姉さんのはずなのに………かっこ悪いところ見られた……恥ずかしい…もうやだお嫁にいけないいけるけど……」

「………」


今更?と思わなくもなかったけれど、それは胸の奥にひっそりとしまい込む。今追い打ちをかけたら、それこそもう一度海にダイブしかけない。

それにお嫁に行けなくなったら、こっちだって困る。何がとは言わないけど大変困る。なので傷心の凪ちゃんをこちら側に引き戻すため、少しくらいならこちらも恥ずかしい思いをしてやるとしよう。


「…俺は嬉しかったですよ。凪沙が年相応にはしゃいでる姿を見れて」

「………」

「失礼かもしれないけど、…か、可愛いと思いましたし」

「っ」


母の様に優しく頭を撫でれば、小さく息を呑んだ凪沙が、首だけを動かして俺を見上げる。拗ねたように唇を尖らせて、真っ赤な頬と潤んだ瞳でこちらを睨むその顔は、あまり見る事が出来る表情ではないだけあって恐ろしい程に。ただでさえ熱を持っていた顔がさらに。


「…何。君。ご機嫌取りのつもり?」

「捻くれてるなぁ……」


その通りではあるんだけど。


「………」


と、凪沙がむくれた顔のまま、身体を翻して仰向けになる。


「ん」

「………」


そして俺に両手を突き出して、何やら謎の催促。


「ん゙!!」

「…す◯ざんまい」

「抱っこ!!!」

「………」


あまりにあまりな幼児退行。無視されたことに寂しさを感じながら小さい溜息と共に抱き抱えれば、途端に笑顔になった凪沙がご機嫌にこっちの胸に頭を押し付け擦り付けてくる。


「…お姉さんキャラいいんですか?」

「…もういい、今日は。こうなれば徹底的に演じてやるわよ、負け犬。わんわん」


そう言って腕の中でもぞもぞと顔を動かすなり、濡れた音と共に首筋で何やら小さな痛み。


「ちょ…」

「犬のすることよ。マーキング」


犬はキスマークなんてつけないと思う。知らんけど。


「可愛いペットがこんなにも落ち込んでいるのよ。優しく励ましなさい、飼い主なら」

「…はいはい、何をしてほしいんでしょーか」

「…ふふ。…そうね。……」


俺が形式だけの返事をするやいなや、腕の中で実にわざとらしく考え込む振りをする凪沙。大方、何をしたいかなどとっくに決まっているのだろう。ならばさっさと済ませてほしいものだ。ぼくお腹空いた。


「……なら」


「君がさっきからずーっとチラチラ見てるこの中。……確かめて、みる?」


そして凪沙は、呆れた俺の目をものともせず、いや、寧ろ見られる事を楽しむように、短すぎるスカートをヒラヒラと挑発的に振ってみせる。白く眩しい太腿、その際どすぎるところまでも簡単に見えてしまうその光景に、俺も思わず息を呑んで固まってしまう。


されども、ここで見え透いた罠に嵌まるような藤堂君ではない。


「………ふっ…何のことでしょうかね」


至っていつも通り、努めてクールな顔で俺は彼女に言葉を返す。

残念ながら、俺がいつまでも成長しないと思ったら大間違い。数多の試練を越え、我が心、泰然自若なり。


「あら?私の勘違いだった?あーそうごめんねなら今の言葉は忘れてもらっていいわよさっさと着替えるからそしたらこんな下着当分日の目を見ることはないでしょうね残念ながらだってすごいものだって普段穿ける訳ないものだってこの下本当すんごいものどちゃくそもうこれなぎなぎ即R指定みたいな?真鶴凪沙=えちちの東照権現みたいな?」

「…………」


………。


「でも別に興味無いんですものね?」

「…………」



………………。



「………………………………………い、です………」

「え?何ぃ??聞こえなーい」




…………………。




「………みたい、………です………」

「もっと腹から声出せ1年」

「………」


こ、この野郎…。溜まった鬱憤をここぞとばかりに………。


「…………っ見たい!です!!」

「………ふーん」


「…ふふ。素直。…可愛い」


恐らく、いや間違いなく真っ赤になっているであろう俺の顔を見上げて、蕩ける様に笑みを漏らす凪沙。

再び彼女の顔が近くなる。静かな部屋にもう一度響いたその音は、今度は胸元ではなく唇から。


「…うん、いいよ。今日一日、…私は君のメイドでペットだから」


「……嫌な記憶なんて全部飛んじゃうくらい、目茶苦茶に、して?…ね?ご主人様」


瑞々しく濡れた唇に人差し指を添え、妖艶に微笑む愛しい恋人。その魅力に抗うことなく、…抗えるはずもなく。小さく悲鳴を上げた彼女を勢いよく抱き上げると、先程までの空腹の事など彼方へと忘れて、俺達は部屋へと直行するのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る