どうか“それ“は私にだけ
「あれ」
何とも勤勉な学生らしく復習に精を出し、水分を欲してリビングに足を踏み入れてみると、そこにはリクライニングチェアにくつろぎながら何やら難解そうな本を読み込む我が彼女殿。それだけなら珍しくもないし、何とも思わなかったのだが、彼女の顔に鎮座する見慣れぬそれに、つい声を出してしまった。
「凪沙、目を悪くしたんですか?」
「ん?」
そう、彼女の整ったお顔に、シンプルなデザインの眼鏡がその存在を主張していたのだ。
「そういう訳でも無いけれど。集中したい時にたまに、ね」
「ふーん…」
「あら?あらあら?もしかして普段妖艶でセクシーで隠しきれないエロスが滲み出てる凪沙お姉さんのまた一つ違った文学かわい子ちゃんな魅力にいたいけな少年の知的好奇心がびんびん刺激されてしまった感じ?する?夜の保健体育。いいわよ、性活指導」
「止まらねえなこの人」
俺今3文字しか発してないよ。
ニヤニヤイヤらしい笑顔で手をワキワキ動かしながらにじり寄る変態から遠ざかりながら昔を思ふ。あの頃の聡明な彼女は何処へ行ってしもうたのかと。
「かわい子ちゃん名乗るにはおっさん臭すぎません?」
「まぁ蓮ちゃんは可愛くないこと」
「可愛くないので」
可愛らしく頬を膨らませ、凪沙が再度俺に手を伸ばす。今度は不穏な空気は感じ取れないので俺も大人しく。
細く滑らかな指が俺の髪を撫で、眼鏡を奪い去ると長い前髪を横へ撫でつける。視界を遮るお邪魔ものがいなくなった俺の眼前には、絶世の美少女(ただし外見に限る)。
「…ふふ、君もたまには眼鏡を外して髪を上げたらいいんじゃない?そうね、コンタクトとかしてみる?」
「嫌です怖い」
「…子供みたいなことを」
好きに言えばいい。そう思いながらも、今、目の前で俺の眼鏡をかけて何やら楽しそうにはしゃいでいる彼女の姿を見ると、呆れよりも愛しさの方が勝るのだから随分と毒されてしまったものだ。もちろん口が裂けてもそんな事言うことは無いだろうけど。
「ほら、あんな所やそんな所も弄くり回してあげる。お姉さんが」
「え、ちょ、やめ」
「こうしてこう……………」
どこからともなく櫛を取り出して、鼻先に迫る距離で何とも楽しそうな顔をした凪沙が、母によく似た俺の大切なご尊顔を好き放題弄くり回す。
「……………」
櫛が引っ掛かって頭が引っ張られる不快な痛み、それを乗り越えた先に訪れる将来を不安にさせる音。それを2、3度繰り返したのち、ふと、凪沙が俺を見つめたまま停止する。
「…………どうかしました?」
1秒、2秒。時が進むたび、綺麗な視界の先で不機嫌そうに眉間に皺を寄せる我が彼女。直後、僅かに顔を色づかせたと思ったら人の頬を鷲掴んで弄くり回した髪の毛をまた元に戻し始める。あっという間に陰気な蓮くんの出来上がりである。まあなんてお手軽なんでしょう。
「………駄目ね、やはり」
「仮にも恋人の顔を否定しないでください」
「仮にもじゃない紛うこと無く」
「あ、ふぁい」
今度は鼻を摘んでそんな事を。間違いなくさっきよりも機嫌を損ねていらっしゃるので、弱者たる蓮くんは情けなく従うのみ。
「…そうね。やっぱり君はこの分厚い眼鏡してなきゃ駄目。下ろしなさい、髪も」
「元よりそのつもりですが」
「うん駄目。絶対駄目」
そこまで否定されると流石に傷つかない事もない。
それともあれだろうか。これは
「フリじゃないから」
「はい」
違いましたでござる。
「………………もう……その目つき、夜のこと思い出して悪いわ、心臓に………」
「何か言いました?」
「とんだドスケベ野郎って言ったのよ。本当エッチなんだかられんれん」
「急にとんでもねぇ言いがかり!!!」
■
などという会話があったのがつい昨夜の話。
そして本日。
「兄様、今日は素顔なんですね」
「あ」
朝、途中で合流した翠と共に、兄妹仲良く登校していた時に投げかけられたそんな一言。それによって今更ながら俺は本日の忘れ物に気づく。
そうだ。今日は寝坊して朝からばたばたしていたから
「忘れた」
「あら、大丈夫なんですか?」
「……多分……」
本日、大学生たる凪沙は午前からの授業が無いことをいいことに未だぐっすりお休みの身である。特にこれと言って深い意味は無いが、昨夜の彼女は眼鏡姿に何やら思う所があったらしく、やけにその後の触れ合いがお盛んで今朝は起きる気配も無かった。正直、俺もまだ眠い。今日が金曜、ギリギリ学校で良かった。休みだったら多分喰われてた。
「まあ、1日くらい何とかなるでしょ」
「……そう、ですか?何かあったら直ぐに言って下さいね?」
「…すーちゃんは本当に出来た妹」
「…こ、こんな人前で撫でないでください……」
人の目の多い校門で頭を撫でられたことで顔を真っ赤にする我が妹は素晴らしく愛らしい。…今、この天使に獣の様な目を向けている有象無象共には、彼女にはこの兄がいるということをしっかり周知させておかねばなるまい。その為の右手。
こういうことも必要なのだ。大切なものを守るためには。多分。決してブラコンじゃないけど。
「授業頑張るんだよ、翠」
「はい、兄様も」
そして俺達は入口で別れた。
さて、今日も今日とて学生の務めを果たさなくては――――
「…藤堂くん、プリント提出してもらってもいいかな…?」
「あ、ごめん。えっと」
「…え、ちょ、近」
「……ああ、藤井さんか…」
「…び、びっくりした…どきどき…」
「藤堂。この後一緒に飯でも」
「え、あ〜………んー……?」
「お、あ?……お、おい近くね?」
「……ああごめん。藤代ね」
「……くっ…同性なのにキュンとした……」
「……ねえ、なんか今日の藤堂くん…」
「…うん。雰囲気違うね」
「分かりにくかったけど、近くで見ると割と……」
「あの甘いフェイスに真鶴さんは落ちたってことかな」
「俺男だけどいける……」
「あたしも男だけど食べちゃいたい……」
『来なさい校門大至急』
そして、そんなメールをいただいたのは昼休みの事だった。
お弁当を食べようとしていた所に突然訪れたそんなメール。昼食を共にしていた今日はやけに顔の赤い友人に理由を告げると、俺は教室を後にし
「きゃ」
「あ、ごめん」
「う、ううん……」
ようとした所でまた人とぶつかってしまった。いかんな、今日は不注意が過ぎる。ここまで不便になるとは思わなかった。
ぶつかってしまったクラスメイトに顔を近づけ、怪我が無いかを確認する。
「本当ごめん。怪我は…」
「いや、大丈夫っ大丈夫だから!!」
「あ、ごめん、なさい……」
いかんいかん。陰の者に顔を近づけられて気分を害さない人間がこの世界の何処に存在するというのか。
慌てて顔を離し、ちくりと傷つく胸から目を逸らすと改めて俺はメールの主の元へ。
「…………………………」
「(おう……)」
そして辿り着いてみれば、そこには腕を組んで仁王立つ鬼神の姿。
普段であれば、卒業したと言えどあの高嶺の花が校内に現れたのならばたちまち人が集まるものなのだけど、現在は彼女が放つあまりの闘気に気圧されあの周辺だけ人がいない異様な空間となっていた。
「お待たせしましたー」
「遅い」
ぎろりんちょと、彼女殿の鋭い目が俺を貫く。昨日の今日で一体全体、私が何をしたというのか。こちらとしては首を傾げることしか出来やしないのだけど、それもまた、今の凪沙にはお気に障るらしい。
「ん」
「ん?」
そんな彼女がぶすくれた顔のまま差し出したのは、よく覚えのある黒いケース。というか俺の眼鏡。
「忘れたでしょう」
「…ありがとう、ございます?」
「…すーちゃんからの連絡に気づいて急いで来てみれば………」
ぶつぶつぶつぶつ、低い声で凪沙が何かを呟いている。その視線は俺、というよりかは俺の後ろにいる不特定多数に向けられているようで。
「…君。何かやらかしてないでしょうね?」
「やらかすとは」
「…だから、その、……顔を、……よく見せたり、とか」
「良く見せる意味は分かりませんが。ああでも、顔がよく見えないからちょっと人と距離が近くなったりしちゃったくらいですかね」
「……………あ、そ。道理で」
道理?
訳も分からぬままに眼鏡を掛けることしか出来ない俺。つかつかと近づいてきた凪沙がずいっと俺に顔を近づけて人差し指を押し付けてくる。
「どうして忘れるの」
「昨日凪沙が俺の眼鏡掛けたまま戯れてきたからですけど」
「……………………………………………………………………………………………」
怒りのままに、俺の落ち度を突こうと思っていたらしい。手を不自然に上げたままの態勢で綺麗に一時停止した凪沙が、これまた不自然に手を上げ下げし始める。
「………そうね。……もしかしたらそんなこともあったかもしれないわね」
「もしかしなくてもありましたよ」
「………ぷい」
責めようとした相手に一転攻勢、反撃されて、頬を膨らませる凪沙。
そんな幼い姿を見たからか、そう言えばまた顔が近くなったな、などと関係のない事を頭の隅で考えたりした次の瞬間
「………お………」
彼女が抱き着いてきた。
昼休みといえど、それなりに人の目のある校門で。後ろから何やら盛り上がる声が聞こえてくる。
「いや、あの、凪沙。流石にここでは……」
「必要なことよ」
「ええ…………」
衆人環視の中、わざわざ惚気を見せつけることの何が必要だと言うのか。
これ以上騒ぎになる前にどげんかせんといかんなどと考えるのも束の間、名残惜しむ素振りも無く、さっさと彼女が身体を離す。
「よし」
「何が」
「気にしなくていいわ」
満足そうに頷いた凪沙が、大学の方へと歩いていく。
その場に一人取り残されて、それを唖然と見送ることしか出来ない俺は
「蓮」
「は、はいっ?」
と、振り向かぬままに、彼女が突然声をかけてくる。
「今日は寄り道せずに帰って来なさい。真っ直ぐ。速やかに」
「は、はい……」
「私も明日休みだから」
「はい…?」
何とも簡潔にそれだけ告げると、さっさとさっさか去ってく凪沙。遠ざかりゆくその背中からは、感情を窺い知る事など出来るはずも無く。
訳が分からない。この時の俺はその言葉の意味を深く考える事もなく、首を傾げることしか出来ず。
そしてその夜、嫌と言うほど思い知る事になるのだった。
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