乙女心子知らず

その日、その日というかこの頃。ここ暫く。俺は元気も生気も覇気も失ってただひたすらに項垂れていた。もう何をするにもやる気なんか出やしない。俺の胸のど真ん中にはぽっかりと空虚な大穴が空いてしまっていた。


「あああ〜…あ…ああ〜…」

「…………」


ベッドの上に身体を投げ出して、お茶の間に放送出来ないレベルでひたすらに転げ回る。黄金の回転。

その手前に座り込む我が恋人殿は珍しくと言うべきなのか、こちらに一切目もくれず、すんとしたお顔で小説を黙々と読んでいる。


「ああぁ〜…」

「蓮、うるさい」


そして、こちらを一瞥することなくこのそっけない一言である。いつもとは立場が逆転したかの様な状態。

俺がこんなんなっちゃったことには、聞くも涙、語るも涙な理由があるのだ。聞く?聞きたい?しょうがないにゃあ。


そう、それは気づかぬ間に俺の中にするりと入り込み、いつの間にやら俺の一部となっていた。それが無ければ俺はまともに立ち行かぬ程に。


…そう。


「ろろに、ロロに逢いたい…もふりたい……」

「うるさい」

「にゃんこ分が足りない〜…」


ここ暫く、ロロに会ってないんですにゃー。

ロロが足りねぇんです〜。あの子をもふらないと手が震えるんです〜。

今までだったら、こんなに長い時間逢わないことなんてなかったのに。

なのに肝心のこの人はその理由すら教えてくれない。


渇いている。焦がれている。それはまるで恋にも似た強烈で熱烈な感情。

あの子の柔らかな肢体。チャーミングなおヒゲ。素晴らしい肉球。少々だらしないお腹。その全てが私を魅了して止みません。

ひょっとして、あの子は何かやばいフェロモンでも発しているのではないだろうか。それを一度吸ってしまえばもう手遅れ。ロロに首ったけになってしまうのだ。

成程、人はこうして堕落していくのか。猫カフェは違法。はっきり分かんだね。


「ろろ……ロロぉ……」

「ノア?」

「ゾロぉ……」


けれど、近頃そんな自分でも分かる鬱陶しいof鬱陶しいな態度が延々と続いていくにつれ、彼女は何故かどんどん機嫌を損ねていってしまい。

終いには、最近はロロのロの字が出てくるだけでそこはかとなく拗ねるようになってしまった。迂闊にオセロとかサイコロとか口にしたが最後。ぷんすこナギちゃんの出来上がりである。そんな我が家の今日のご飯はロコモコ。もう駄目だぁ。


「蓮」

「んあ?」


ぱたりと。読んでいた小説を横に置いて、凪沙が俺に向き直る。

そして何やら小さく咳払いをし、顔を仄かに色付かせた彼女は、徐ろに両手を広げ


「ん」



広げ。




…広げ?




「…?何すか?」

「………………………………か、可愛くない…この上なく……」


何してんだろうねこの人。そんな感情を存分に盛りに盛り込んだ俺の台詞に、何故かピクリと艷やかな唇をひくつかせると、大きな溜息と共に凪沙が立ち上がる。

やれやれと、出来の悪い弟子を見守る師の様に肩を落とすと、イライラのイラといった様子で廊下へと歩を進めていく。


「…仕方ないわね」

「!!な、凪沙……!」

「…名前呼ばれても嬉しくない…」


もしかして、もしかしてだけど?連れてきてくれるとか?そんな淡い期待を込めて彼女を下から上目遣い気味に見つめる。いつもであればそんな事されたら何故か嬉しそうに悶える彼女は、いつもと違い絶対零度の冷たい目でこちらを見下していた。あまりの冷たさにこちらの血の気がちょっと引くほどに。


「…はぁ…。少し、待ってなさい」


そう言って彼女が部屋を出ていって


「お待たせ」


即、戻ってきた。


「!」

「……………」

「……………」


……………。


「……………」

「……………?」


どかりと、戻ってきた凪沙がベッドに手足を組んで勇ましく座り込む。

部屋の中を支配する、暫しの謎の静寂。

その間、俺の目はずっと彼女の頭をロックオンしていた。目が離せなかった。離すことが出来なかった。


「………」


…至って普通のすました顔を崩さない彼女の頭には、明らかに不釣り合いな猫耳。


そう。猫耳である。にゃーん。


ご丁寧に尻尾まで添えて。一体どの様にくっついているのだろうか。

そもそも何故、そんなものを着けているのだろうか。


「……………???」

「ロロはいないから、私を愛でなさい。代わりに」

「?????」


そして何故、そうなるのだろうか。疑問は尽きなかった。

俺が何の反応も示さなかった、いや示すというか示せないのだが。…ことがご不満なのか、組んだ腕の指先を苛立たし気にとんとんと動かしながら、猫は俺を睨みつける。


「…何?まさかご不満だとでも言うのかにゃ?」

「……凪沙別にもふれないし…」

「柔らかいのは同じじゃないの。あ、にゃ」

「う〜〜〜〜〜ん………?」

「私の方が柔らかくない?寧ろ。ほら。にゃー」


四つん這いになり、猫の手をふりふりと振る凪沙。敢えて言うなら、せめてもう少し声に感情を乗せてほしい。棒読みにも程がある。

けれど声はともかくとしてもその体勢は、それだけで彼女の出るとこ出た魅惑の腰つきだったり他のあれこれを存分に強調する。普通の男性であればあっという間にころりと落ちてしまうのだろう。普通の男性であれば。


「ご主人様〜(棒)。凪沙にもっとかまって〜(棒)、あ。にゃん(棒)」

「チェンジで」

「猫パンチ」

「いったぁ!!?」


靭やかな動きと気の抜けた声からは想像出来ない、いや想像を絶する鋭い一撃が俺の脳天を直撃した。これはあれか。究極の脱力から繰り出される必殺の一撃とかそういうやつだろうか。鞭打とかそういう。


「君は乙女心というものを学びなさい……にゃ。もう少し」

「…はぁ?」


何故か大変お冠なにゃんこは、悶える俺の頭を持ち上げるとそっと膝に乗せる。

思えば久し振りといえば久し振りなその体勢。そう言えば最近はロロに焦がれてばかりでもう一匹の気まぐれ猫を構っていなかったかもしれない。今更ながら思い返す。


「そもそもあの子が最近来ないのは……っ」

「…来ないのは?」

「………」


暫し言い淀んだ様子で凪沙が視線を彷徨わせる。別に急かしたつもりもないが、溜息と共にすぐに諦めた様に口を開く。


「………ダイエット中、なのよ………のにゃ」

「………だいえっ、と…?」

「あまり言いたくなかったけど、最近……その……ね」

「………」

「…やばいのにゃ」

「やばい」


折れるわ、首の骨。その台詞に、そもそも頭に乗せなければいいのではというツッコミは置いておいて、最近、にわかにぽっちゃり系にゃんこという可愛らしい誤魔化し方では済まなくなったらしいロロを流石に看過出来なくなったのか、こう見えて甘やかしがちな凪沙からああ見えて躾のしっかりしたおばさんが、暫しの間、彼女の身柄を預かったという。

つまり今頃、ロロはにゃんにゃん鳴きながらおばさんとニャンニャンしているのだろう。にゃイザップ。


「俺は気にしませんけど」

「だからっ。…乙女心を学びなさい」

「え〜…」


「ロロは勿論、……その、…私、のも…」

「………」


投げかけられたその言葉に思わず彼女を見上げた。口を尖らせたそのふくれっ面は、いつになく年相応の少女のように幼く、可愛らしく、…愛らしく。


「…私だって」

「………」

「…蓮分、…足りない、のに……」


お姉さん的にはそんな子供じみた事言いたくなかったのだろう。けれど拗ねた様に言いながらも、髪を梳くその手つきはどこまでも優しくて、愛おしむようで。

流石に己に溜息をつかずにいられなかった。彼女が寂しがり屋ということは嫌という程、思い知っていた筈なのに。


「…すみませんでした」

「………ん」


少々、ふざけすぎた。その意を込めて謝ると、直ぐに上から唇が降りてくる。


「許すわ。今日の分は」

「…今日の分は…」


それ即ち、ここ暫くの恋人に対する失礼の償い方をてめぇの頭で考えなさいというお達し。


「あの〜…」

「何にゃ」

「………」


猫は完全に機嫌を取り戻したとは言い難い。

またたびか、猫じゃらしか、そんなものでは決してご機嫌になんてなってくれないのだろう。そもそも猫じゃねぇ。

そしてそんな気の利かないお子様があれこれ考えても答えなど出るはずもなく。


「…何をすればよろしいでしょうか…」

「………ふぅ…」


困り果て、ついには直接聞いてしまう始末。なんて情けない。

それを聞いた彼女はほんの少しの逡巡の後、俺をどかして静かに立ち上がると


「…何をしてくれるにゃ?」


無防備にベッドの上に倒れ込んだ。

彼女の長く綺麗な髪がシーツの上に広がり、いつの間にそうしたのか、わざとらしく開いた胸元と乱れたスカート、そして染まった頬が分かりやすくヒントを示してくれている。


「…ふふ。…発情期、かしらにゃん?」

「………」


挑戦的と蠱惑的、二つを兼ね備えた妖艶な笑みを乗せた瞳が俺を射抜く。

あまりに煽情的なその光景に、思わず石像の様に固まってしまった俺を見て、猫は満足そうに頷くと、そっと耳を外して猫から恋人へと戻る。


「……何を、してくれる?」


そしてもう一度。

けれどそこに込められた意味は。


回りくどい様で直接的な、そんな愛らしい恋人のお誘いにがりがりと頭を掻きむしると、覚悟を決めて見え透いた罠へと飛び込む。

素直になれない我が身、誠に大変遺憾なれど。

…なれど、なればこそ、今更余計な言葉は、もう必要無かった。

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