第37話 受け入れた先で
ただ、黙って聞いていた。
本当の父のこと。母が俺を生んだ日。今の父と出逢った日。
有り得ない。そんなの嘘だ、出任せだ、なんて片付ける気は無かった。彼女の口調はそれほど現実味を帯びていた。
「私は、貴方が大切よ。勿論、翠もね」
向き合うことを避けてきた母の真っ直ぐな言葉。
自分でも驚く程に、それはすとんと胸に落ちて、染み渡っていく。
それからも、話は続いていた。
出逢いの後、結婚して、翠が生まれて。温かな家族のいる幸せな生活がそこにあった。それは母が心の奥底で喉から手が出るほどに欲していたもの。語る顔に浮かぶ笑みが、それを表していた。
「ああそうそう、お父さんね。意外に寝顔が可愛いのよ。この前なんか」
「それは別に知りたくないです」
…ただ、話の合間合間にちょくちょくいらん情報が入ってくるのはやめてほしい。親の惚気を聞かされて喜ぶ子供がどこにいるというのか。
「……………そう?」
だから、いちいちそんな寂しそうな顔しないでほしい。まさかだけど、足りなかった親子の交流の埋め合わせのつもりだとでもいうのだろうか。他に方法あると思います。
そっと母を見る。すると、母も俺を見つめていた。
無言で顔を合わせる変な時間。…こうして面と向かい合うのはいつ以来だろうか。
僅かに赤く染まった頬と微かに揺れる瞳を誤魔化すように小さく咳払いをすると、母が再び口を開く。
「……あの日、私はあの人に感謝を伝えていた」
「………」
それは、紛れもない母の愛。
「私を、何より貴方を救ってくれた感謝を」
それは、疑いようの無い父の優しさ。
「全て聞き取れなかったせいで貴方には変な誤解をされてしまったようだけど」
……それは、そんな大きな愛情すら理解出来ない愚か者。
せっかちな子。と何でもない口調で笑う母。
あんなにも愚かな行為を、この人は笑って済ませてしまうのだ。子供の様な行為、そう自分で思ったこともあったけれど、母にとっては紛れもなく拗ねた子供でしかなかったのだろう。
けれど。
けれど、それならそれで俺にも言い分はあるというもので。
「だったら…」
「ん?」
いや、言い分というか一言聞言わなければ気が済まない。
「…だったら何ですぐに教えてくれなかったんですか」
「…む……」
あの日、俺の中で何かが変わってしまったことに母は気づいていた様だった。けれど、この人は決して問い詰めることもせず、真実も明かさず、かと言って怒ることもなく俺を遠くから見守り続けていた。
良くも悪くも、おかげで俺は母よりもあの人に信頼を寄せることになった訳だ。それは、この人としては良いことだったのだろうか。
「気づいていたんですよね、俺が誤解しているって」
「……それは」
「なら、俺は十年近く何を」
「はいはいちょっといいかなぁー」
険悪な雰囲気、いや険悪にしているのは俺だけだけど。そこに遠慮なく響き渡る能天気なお声。割り込んで来たのは、真鶴のおばさんだった。
ぬるっと座り込む母の脇から顔を出し、下から俺達を覗き込んでくる。…登場が不審なのは血筋なのだろうか。
「二人共、うちの子知らない?」
「…凪沙?」
「誰にも何にも言わずに出かけちゃったみたいなの」
「…こんな時間に?」
母ともう一度顔を見合わせる。この人が悠々と月見酒と洒落込む程度には、月が輝く時間帯。車どころか、人の気配すら無いこの真夜中に一体何をしに出かけたというのか。コンビニ?いや、それこそ黙っていなくなる人じゃない。
「…嫌な予感がするわね」
意外なことに、深刻そうな表情で考え込んだのは母だった。
「…いや、先輩は子供じゃないんだから」
「いいえ」
「あの子は子供よ。何なら翠よりも」
きっぱりと、断言された。
しかし流石に納得は出来ない。あの人が普段、自由に振る舞う裏でどれ程周りに気を配っているのかは、母以上に知っている自負はある。
けれど、けれど何故だろう。こうして二人を前にすると、途端にその自信が音もなく崩れ去っていくのだ。…これが、母は強し、ということなのだろうか。
「子供だから、嫌われたくないから自分や他人のためにあれこれしてしまうしよく観察してしまう、逆にそれを傷つけるものには…ね」
「…そう、かな」
「そーよー。人一倍寂しがり屋のくせに素直になれない、かっこつけたくてお姉さんぶってる気にしいの構ってちゃん」
「…ボロクソ言いますね」
「可愛い我が子だものー」
けらけらと、何が面白いのかは分からないけれど、おばさんは笑う。
ひとしきり笑うと、満足したのか身体を翻して頭上の母を振り返る。
その顔は何故か妙に意地が悪そうで。
「やっぱり真似する相手がいけないのかしら?」
「……それ、私が悪いの?」
「かっこつけっていう意味ではそうじゃない?」
「………」
「我が子の前では完璧お母さんでいたくて、素直になれないくせしておせっかいったぁ!!!」
「ぶつわよ」
「ぶってから言わないでよ!!」
何の話だろうか。
何故か容赦の無いげんこつを落とされ悶絶するおばさんを無視して、母は再び、いや三度か、こちらに向き直る。その脇でがっちりおばさんの頭をロックして。
「蓮、とりあえず探しに行きなさい」
「……場所も分からないのに?」
「私達もすぐに行くから」
「……分かりました…」
何も分からない。何一つ分からない。分からないづくしで頭の中は何が何やらでいっぱいだけれど、俺は逆らうことなく立ち上がった。
「蓮ちゃん」
「はい」
「あの子をお願いね」
「……」
この聡い人達にこうまで言われては、流石に胸騒ぎを感じずにはいられなかったのだ。
■
「とはいっても」
とはいってもだ。
息切れる程走り回って、漸く立ち止まる。
この寒空の下、どこに行ったのかも分からない人を一人見つけ出せというのも土台無理な話である。
騒がしい夕食の際には勿論いた。家族の前で俺に執拗にあ〜んを迫ってきたのだから。最終的にすーちゃんで妥協、いや本人は凄いほくほく顔だったけど。
皆が眠る夜更けにも確かに見かけた。ならば、そう遠くには行っていないはずだ。少なくとも町の外へ出る、ということは無いだろう。
考えろ。
あの人が行きそうな場所。好きそうな場所。
そう考えて今更ながらに思い当たる。俺は結局、あの人が何を好きで、何がしたいのかを大して知ってもいないのだ。
「………」
途端に足が重くなる。
自分に本当にそんな資格があるのか。あの人の隣にいていい資格はあるのか。
…いてもいいのか。
「いや」
いつ誰が資格なんて求めたというのか。
あの人は言ったではないか。俺の傍にいたい、と。
俺だってそうだ。あの人の傍にいたい。理由なんてそれだけでいい。
「っ!!」
震える膝に拳で喝を入れて、無理矢理に動かした。
は、いいものの。
状況は何も変わっていない。
さて、どうしようか。
闇雲に動くだけでは徒労でしかない。
何か、何か僅かでも取っ掛かりがあれば。
そう思ったその瞬間。
傍で、音が響いた気がした。
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