第36話 貴方の母だから
夜も更け、騒がしい町もすっかり静かになった頃。
不思議と目が覚めてしまった俺は、水でも飲もうかと思い廊下を歩いていた。
広間の前に差し掛かったところで、人影が見えてくる。月明かりがその姿をゆっくりと照らし上げる。
「(げ)」
縁側に座り込んで、さっきまで握っていたものとは違う酒瓶を何本か横に転がして情緒もくそも無い月見と晩酌を楽しんでいたのは
「眠れないの?」
「…まぁ、はい」
母だった。母は母でも藤堂の方の。
「なら、少し付き合いなさい」
「………」
答えを聞くことなくまた一口呷る。さっき飯時に一体何本酒瓶を空にしていたのか、もう覚えていないけれど、三本四本とかそういう数ではなかったはずだ。ザルとかそういうレベルじゃない。ワクというやつか、これが。
「あら」
俺が立ち去らずに座り込んだのが意外だったのか、あの人が珍しく目を丸くする。
「日本酒でいい?」
「未成年です」
「真面目」
育ちはいいもので。おかげ様で。
僅かに唇を歪めると、今一度酒瓶を呷る。…何と言うか、もう少し身体を労ってほしい。早死にする飲み方としか思えない。
「蓮」
「はい」
「私が嫌い?」
「嫌い、ではないです」
ぽつりと投げかけられた言葉は、自分でも驚くくらい即座に否定した。否定できた。
少なくとも。いつかあの人は言った。俺は愛されていると。
それを疑ったことはないのだ。そして、だからこそ辛かった。この身に流れる誰のとも知れないもう半分の血が。
「なら、憎い?」
「………」
憎い。……とも違うと思う。
俯いた俺の頭を、母の温かな手が撫でる。そんなところまで先輩にそっくりで、…いや、あの人が似ているのか。
「……少し、昔話でもしましょうか」
「……昔話?」
「そう」
「馬鹿真面目に生きてきたせいで馬鹿をみた、馬鹿な女の昔話」
■
卯月家は良く言えば厳格、悪く言えば時代に取り残された家だった。
古臭い風習がいつまで経っても抜けきらない家。
時代遅れの男尊女卑が隅から隅までまかり通る家。
どれだけ能力があっても、『女だから』という理由だけで飼い殺しにされる家。
あまりの古臭さに呆れて縁を切る他家もあったそうだけど。
卯月泉はそんな家に生まれた女だった。
能力はあった。そこらの有象無象がいくら集まっても敵わない程に。
惜しむらくは、生まれる家を完全に間違えたこと。
彼女は徹底的に虐げられ、躾けられた。いつしか本人も本当の自分を曝け出すことは無くなった。
彼女自身、大して己に価値を感じていなかった。ただ生きて、ただ死ぬのだろう。
ただそれだけ。たったそれだけが許される世界。
成人を迎えようとする頃、当主から呼び出された。
軟禁同然の別邸から出たのはいつ以来だろうか。
そこで覚えの無い男を紹介された。
幸の薄そうな笑顔がよく似合う取り柄も無さそうな男。
それが私の結婚相手だった。
ただ、家と家の繋がりを作るためだけの、都合のいい関係。私の使い道はそれだったらしい。
望まぬ結婚。いつしか彼が暴力を振るう人間だと気づいても、私の心は微塵も動かなかった。幸せとは程遠い、どこか冷え切った生活。その中で何の感慨も湧かぬままに身籠った我が子。
それが終わりを迎えたのはいつのことだったか。
ある日、生まれて間もない、自分が生んだらしい赤子を抱いている時だった。
異常に焦り倒した夫が部屋に飛び込んできた。
ぎゃあぎゃあと喚き散らし、部屋中を荒らし回る夫。
気付いた時には私はそれなりのお金を握らされて、寒空の下に放り出されていた。
これは後から知ったことだったが、そのすぐ後、あの人の会社は倒産し、借金に苦しむ彼は程なくして自ら命を絶ったという。
私と離婚し、追い出したのは最期に残された優しさか、哀れみか。今となっては分からない。
少なくとも、いや、どちらにしても良い選択ではなかった。
価値を失った私は、即座に家からも縁を切られたのだから。
私は同時に二つの家を失った。
生きる事は、難しい。
どれだけ能力があっても、活かすにはまず下地がなければ。
加えて、今の私には足枷がある。
私は一日を生きることすら必死だった。
「………」
全てを失って、残されたのはあの男との子供だけ。
私によく似た、私の子供。
捨てればいい。忌々しいのだろう?
殺せばいい。何も感じないのだろう?
耳元で悪魔が、囁いている。
何故必死になって生きている?お前には守るものなんて無い。
ゆっくりと小さな首へと手が伸びる。
薄皮一枚の距離まで近づいたところでその指を、もっと小さな、簡単に折れそうなくらい小さな指が掴み取った。
何も知らない無垢な笑顔を浮かばせながら。
「……ふ……」
「………ふふっ………」
捨てられる訳がなかった。殺せる訳がなかった。
この子の中には私の血が流れている。どんな理由があろうとも紛うことなき私の“子”なのだ。私がお腹を痛めて生んだ“子“なのだ。
「『蓮』」
生きていこう。二人で。
私は貴方の母なのだから。
■
残されたお金をやりくりしながら、どうにかこうにか生きる術が見出せていた頃だった。
ある日、一人の男性が私を訪ねてきた。
「お久しぶりです。…私のことを覚えていますか?」
「………?」
全く覚えは無かった。年の頃は私と同じくらいだろうか。
柔らかな雰囲気によく似合う温和な笑顔。経験上、こういう男が面倒だったりする。
とにもかくにも関わらないに越したことはない。無言でさっさと締め出そうとした刹那。
「卯月さん!」
「………!」
今はもう存在しない家の名前。少し前に取り潰されたはずの名前を、彼は口にした。
意味などなかったはずの昔を懐かしんだのか、価値など無かったはずのあの頃にすら縋りたくなったのか、気づけば私は彼を部屋に通していた。
聞けば彼は昔、卯月の家を訪ねた際、私と話したことがあるのだという。
同い年とは思えない聡明さに幼いながらに心打たれた彼は、私が結婚した後も、行方をくらませた後も、私のことをずっと気にかけていたらしい。
何て優しい人なんだろう。だから私はそれを聞いて思った。
ストーカーだぁ。
「お帰りください」
「ええっ!?」
それが夫との馴れ初めだった。
それから。
それから色々なことがあった。
諦めずに何度も押しかけてきては世話を焼いてくる変な男を、時には殴り、時には投げ、そして時には共に過ごす。そんな奇妙な関係は、暫く続いた。
そしてある日のこと。
「泉さんさえ宜しければ、私のお手伝いをしていただけませんか?」
虫も殺さぬ顔していた割にそれなりに出世には貪欲な彼は、私の身体のみならず私の能力にも目をつけていたらしい。あの家では活かせなかった、活かせるはずもなかった私の学んだ数々を。
「あ、いえ、勿論泉さんのことも好きです!よ!!本当に!」
「気持ち悪い」
「…ぁ、はい……すみません」
けれど、私自身を求められたのは初めてだったから。あの家では、私の価値は子を生むことだけだったから。
胸の内が温かい。とうに冷えきったはずの心に熱が灯っていく。
私は隣で眠る蓮を見た。もしかしたら、この子には私と違う明るい未来が待っているのかもしれない。
何も出来ないと思っていた私が、作り出せるかもしれない。
だから。
「…条件があります」
「……条件?」
「私は貴方より蓮を優先します」
この子のために私はもう一度、立ち上がる。
「勿論です」
「む…」
迷いなど微塵も見せない即答。
短い付き合いなれど、彼が彼なりに蓮を大切にしてくれていることには気づいていた。本当に変な人だ。血の繋がりも無い赤の他人なのに。
けど、そんな人だから。
「いいですよ」
「!!」
「支えましょう。貴方を」
「あ、ありがとうございます!!」
感極まった様に頭を下げて、そのまま机に顔をぶつける男。
私も思わず吹き出してしまった。…笑ったのなんていつ以来だっただろう。
「…ふふ、大袈裟」
私は彼と共に歩む。
最初の一歩はかけがえのない、我が子のために。
二歩目からは、新しい家族のために。
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