第35話 私は君の

約一年ぶりに足を踏み入れた自室は、何も変わっていなかった。


机の位置も、棚もベッドの布団も何もかも。

いや、それどころか定期的に掃除までされているのだろう。埃も全く溜まっていない。まるで今でも俺が暮らしているかのように。


分かりきっている。それはいつ帰ってきてもいいようにという、家族の心遣い。


「情けな…」


情けない。本当に情けない。これ程までに自分を愛し、慈しんでくれている家族に背を向け、向き合うことから逃げ出した己が。


新品同然のふかふかベッドに頭から飛びこんで、目を閉じ暫し停止する。

遠くからは微かにあの人達が騒ぐ声が聞こえてくる。


それを他所に、思考はだんだん深層へと沈み込んでいく。


頭の中を巡るのは、あの日の光景。

あの人が父と話している。ずっと目を背け、まるで霞がかかっていたかの様に朧げだった輪郭が今更になって徐々に、徐々に、けれど確かに形を生していく。


『ありがとう。あなた』


あの日、父と話すあの人の顔に、申し訳なさはなかった。

あの日、あの人と話す父の顔に、怒りなんてなかった。


二人の間にどんな落着があったのかなんて分からない。

そもそも、そんなもの最初から無かったのかもしれない。


俺はあの人達の話をちゃんと聞いていたのか?


いいや、聞かなかった。僅かな部分、都合の悪い部分だけを切り取って勝手に解釈して、勝手に落ち込んで、勝手に逃げ出した。

彼女に連れ戻された今でも、核心になんて少しも近付けていない。


けれど、今なら。だからこそ、今なら。


愛されることが、大切に想うことがしかと理解出来る今ならば、俺ははっきりと向き合うことができるのかもしれない。


走馬灯の様に、脳裏にかつての情景を映しながら、思考は巡る。


巡って、巡って。


いつしか俺は深い眠りに落ちていた。












何も無い暗闇の中で、ただただ揺蕩っていた。

ふと、頭の中に声が響く。


『お前なんていなければよかったのに』


それは、疎ましそうな父の声。


うるさい……


『貴方なんて生まなければよかった』


それは、感情の抜け落ちたあの人の声。


うるさい……


『君は本当に愛されているの?』


それは、かつて聞いたことの無い、彼女の嘲笑うかの様な声。


小さな少年が泣いている。

学校の教室で、仲の良いお姉ちゃんのことで心無い言葉をかけられて。

ただ、お姉ちゃんが家族同様に好きだから一緒にいるだけなのに。


少年は強くはなかった。

悪意に負け、お姉ちゃんを恐れ、そんな自分が死ぬ程嫌いだった。

だから自分を大切にしなくなった。



………。




俺は……




おれは…?




『蓮』




………………。




「蓮、起きた?」

「………」


ふと、声が響いた。

何故か頭の後ろから。


「…先輩」

「ん?」

「…何故俺は後ろから抱き抱えられているんですか」

「それを知りたければDLCのナギナギ動乱篇を買うことね」

「課金コンテンツかぁ…」


眠った時は絶対にちゃんと枕を下にしていたはずなのに。

後頭部に感じるそれはそれは柔らかな、幸福まっしぐらな感触。これはあれですか。あれですね。そりゃこんなに抱き込まれていたらね。


「ん…」


何故か俺を胸の中に抱え込み、ご丁寧に逃げられない様にしなやかな脚を絡めて優雅に本を読んでいた先輩は、もぞつく俺に反応したのか、何とも形容しがたい吐息を漏らす。

あくまで冷静を装いながら回された腕を引き抜けば、名残惜しそうな、拗ねた様な声がまた背後から。


「おさまりよかったのに」

「……そっすか…」


俺はおさまり悪いことこの上なかったっす。


「うなされていたわね、酷く」

「………まぁ」


自分でうんざりしてしまうくらい、夢の記憶は鮮明に残っていた。…人は大きな失敗や嫌な出来事程忘れられずに引きずるものだ。それは悪夢だろうが例外ではない。起きたらさっぱり忘れてしまえる、そんな単純な人間にはなれなかった。


「ねぇ、蓮」

「はい?」


「…無理する必要は無いのよ?」

「………」


静かに投げかけられたその言葉に対する返事、という訳でもないが、体を翻して先輩と正面から相対する。

狭いベッドの上、互いの吐息がかかる程の至近距離。普段の俺ならばとても耐えられるものではなかったけれど、今は不思議と恥ずかしさは無かった。


長い前髪から覗く気だるげな瞳が、一体自分の何を見つめているのかは分からない。

というより、果たして本当に見つめているのかもどうか定かではないが。


「無理なんてしていません」

「…そう?」


それだけは言える。そう、無理はしていない。子供の様に背中を向けて、逃げ出すだけの時間はもう終わったのだ。


あの人と、母と話がしたい。話さなければならない。

例えどんな真実が待ち受けていようと、嫌いになんてなれる訳が無い。それが残酷だろうと、くだらないことだろうと。

この部屋と、過ごした時間が物語っていた。


「…私がいるから」

「大丈夫です。例え、先輩が傍にいなくても、もう向き合えると思います」

「………」


出来る限り、精一杯の笑顔を作ったつもりだったけど、肝心の先輩はそれを大して見ることなく、また俺を胸に抱き込んでしまう。今度は後頭部ではなく真正面からその柔らかさを堪能することになったのだが、それよりも、何よりも気になったのは、一瞬垣間見えた先輩の暗い瞳だった。


「凪沙先輩?」

「蓮は、強くなったのね」

「……子供じゃないですから」

「うん」


「……可愛くない」


以降、先輩はそれ以上口を開くことは無かった。

ただ無言で胸の中の俺の頭を静かに撫で続ける。

その居心地悪く、心地よくもある奇妙な時間は、いつまでも続きそうな、そんな錯覚につい襲われてしまいそうになるけれど


「凪沙ー…蓮ちゃん起きたー?…………ぉあ…」

「「………」」


終わらないものなんてない。

娘がベッドの上で男と抱き合っている。親からしたら脳が破壊されるその光景を目の当たりにしたおばさんは、たっぷり10秒程固まった後、とても、とても優しい笑みでふわりと笑った。


「…ぇと…………二時間くらいで、いい?」

「誤解です」

「ご飯出来たんだけど……先に凪沙をいただいちゃう感じ?」

「誤解です!!」


何一つ理解していない、呑気そうなおほほほという笑い声が遠ざかっていくのを絶望と共に感じながら、それでも先輩は俺を離そうとしなかった。


「…先輩、ご飯ですって」

「うん…」




「もう少し…、もう少しだけ、ね」

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