第__話 何かが変わってしまった日

少年はどこまでも素直で、心優しい子だった。

少女は、そんな少年がどこまでも羨ましかった。







少女は昔から何でも出来た。


別に嫌味のつもりなどなかった。本当にそうだっただけである。


『どうして分からないの?』


『貴方が何故分からないのかが私には分からない』


『こんなに丁寧に説明しているのに』


少女は今にして思う。何て可愛くない小娘なのだろう、と。

だからだろうか。少女は可愛いものが好きだった。好きになった。


そして分かりきった事ではあるが、そんないけ好かない小娘に誰かがついてくるはずもなく。


少女はあっという間に孤立した。






はずだった。






『………』

『凪姉、できた』

『………出来てない。やり直し』

『うあ』


その日も学校でちょっとした面倒事があった日だった。


少女がどれだけ冷たくあしらっても、その後ろをちょろちょろついてくる妙な少年。

互いの親が仲良しで、普段おどおどしているくせに変なところで頑固な近所の少年は、今日も少女に勉強を教わりに来ていた。

…妹の方は、何故か少女に怯えていた風だった。まだ幼くまっさらな純真さ故に、何か見えるものがあったのかもしれない。


『むー…これが…こうで…』

『…………』


自分の時間を無駄に消費することが鬱陶しかったはずなのに、何故だろうか。少女は今日も少年の隣にいた。

机に齧り付く少年の後ろからノートをそっと覗き見る。


……残念ながら、今回も順調とは言い難い結果らしい。


『蓮。もう諦めたら?やるだけ無駄よ』

『やだ』

『…………何で』

『だって、凪姉がおしえてくれてるのにぼくができなかったら、凪姉がうそつきになっちゃう』

『………』


いや、私は間違ってないから。人を勝手に嘘つきにしないでくれない?

いつもの調子でそう言えばいいのに、今日は珍しく言葉が出てこない。


『…ふーん。ま、好きにすれば』

『うん』

『はぁ…』


それは間違っても優しさなどではない。少年のやる気に水を差すのも年上としてどうかと思ったから。そう思うことで少女は己を無理やり納得させる。


ベッドの上に身体を投げ出して、天井を仰ぎ見る。

鬱陶しいはずだ。鬱陶しかったはずだ。馬鹿と過ごすのはそれだけで時間の無駄。他人がカリカリと鉛筆を動かす音すら煩わしい。




なのに




『凪姉、できた』

『やり直し』

『みてないのに!?』




何故だろう。

不思議と、悪くないと思ったのだ。













それから、また幾度か季節が巡った。


その頃の少女は、怖い話をして少年を泣かせたり、恐ろしい話をして少年を泣かせたり、えげつない話をして少年を泣かせたりしていた。


少年の泣き顔を眺めることで己の中の形容しがたいナニカを満たして悦に浸っていた。少女の母親はどん引いていた。


やがて、何故か少年が逆にもっともっと、とせがむ様になってからはやめてしまったけれど。

少女は少年の中の大切なナニカを歪めてしまったことには気づかない。


少女はそれなりに処世術を覚え、小賢しい世渡りの術を身に着けていた。

上っ面だけでも笑顔を浮かべていれば、簡単に人は集まる。少女が裏で何を考えたところで他人に分かるはずも無い。逆も然り。なら、やらないよりはマシなのだろう。だから彼女は微笑んだ。


『はあ……』


時刻は深夜。日付も変わる時間。勉強に熱中していたらいつの間にかこんな時間になっていたのか。

果たして何のために勉強しているというのやら。


『はあぁ……』


…あの子に逢いたいな。


裏なんか無い、馬鹿みたいに真っ直ぐな尊敬の眼差しを向けてくれるあの子に。

いつの間にか、少年と過ごす日々は少女の一部となっていた。

これで少年も上っ面でーす、とかだったら彼女はすぐにでも首を掻き切ってしまうのだろう。信じられなくなる、何一つ。


少女は少年にとって他人。ただの少年の姉気取りでしかない。けれど、少年が少女を慕う様に、少女も少年を。


『……ああ』


…そうか。私はあの子の為に勉強しているのか。

あの子に誇れる私であるために。


なら、この程度では足りない。もっともっと頑張らないと。人に好かれ、頼られ、尊敬される私じゃないと。

そうでなければきっとあの子は離れてしまう。


とうに日付も変わる。なのに少女はペンを取る。己の歪さに気づくことなく。


『よし』


意気揚々と再びペンを走らせた、その時。


『ん?』


外から人が走る、慌ただしい足音が聞こえた。

それ自体は別にどうでもよかった。気になったのはその足音がどうも軽いこと。


こんな時間に子供が?そう思って興味本位で窓の外を見る。


『……………蓮?』


走り去る小さな背中は、少女にとって見間違い様の無いものだった。







走った。


走って走って走り回った。

これまで生きてきてこんなに走ったのは初めてだ。


そして見つけた。


掴み取った。


暗闇に自ら飲み込まれようとしていたその小さな手を。


少年は今にも壊れてしまいそうだった。

信じていたものに裏切られ、己の存在意義を見失い、生きる意味を見出だせなくなった。


このままでは。


このままでは。


心に空いた空虚な大穴。それを埋めることが出来なければきっとこの子は。

すぐにでも誰かが居場所を与えなければいけない。


少女は迷わずそれを選択し、そして












同時に、チャンスだと思った。











今ならこの子が私から離れなく、いや、離れることが出来なくなる。

心の隙間に『私』を無理やりねじ込むことで、私無しではいられなくなるようにさせられる。

『私』に無意識に依存するように。






だから











少女は呪いをかけた。約束という名の呪いを。


『私達ハオ互イニ居場所ニナルノ』












目論見は驚く程に上手くいった。


あの夜からもずっと、少女は少年についてきていた。実の母親よりも少女を信用していた。


少女は少年から見事選択肢を奪ったのだ。


『………』


だけど駄目だ。まだ足りない。もっと私は『完璧』であらねば。

ついてくるからと言って、それに甘えてはならないのだ。

奪った以上のものを、与えなければ。母親から受け取るはずだった温もり以上のものを、私が与えなければ。そのためには、もっと。もっと。




そして少女は今日も机に齧りついていた。

何日も。何週間も。何ヶ月も。少女を慕う人は驚く程に増えていた。

少女も『私』の振る舞い方というものをとうに理解していた。


『…凪姉』

『ごめんね?蓮。忙しいの、今』


今日も声を掛けるあの子を振り向きもしないで、『私』はペンを走らせる。


なんて愚かだったのだろう。手段と目的を完璧に履き違えていることに気づいていない。

そうやって盲目的に存在しない道に邁進しているから、少女はまた一つ気づかなかった。


一心不乱に机に向かう己に微かに怯えを覗かせる少年。その彼の顔。背中をじっと見つめるその顔が






涙で濡れていたことに。













『私』は昔から何でも出来た。


机に齧りついていたおかげで晴れて成績トップで高校生になって、新入生代表まで努めて。

完璧だ。これならあの子も喜んでくれるはず。


無意識につり上がってしまいそうな口元を必死に押さえつけて、私はどんなものだと喜び勇んで後ろを振り返る。






そこにはもう、誰もいなかった。












どれだけ過去を嘆こうと、そんな些末なことなど微塵も気にすることなく、季節は巡る。


巡り、巡る。


『わ、また十位以内』

『流石、真鶴さんだね』

『ふふ、ありがとう』


どうでもよくて手を抜いた順位表を眺めているだけで、今日も『私』の周りには人が集まる。私のことを何も知らない人達が。


…ああ。






鬱陶しい。






『真鶴凪沙』などゴミだ。私にとって何一つ価値が無い。

どれだけ人が集まろうとそこにいてほしかった人がいないのだから。

彼はそれに価値を見出さなかったのだから。


じゃあ、どうすれば良かったの?


頑張ったのに。あんなに頑張ったのに。


頑張ったのにあの子はいなくなった。


『流石、真鶴さん』

『真鶴さんは凄い』

『それでこそ真鶴さん』


『アリガトウ』


真鶴凪沙?真鶴凪沙って何?私は私ではないの?


分からない。


何もかも、分からない。


壊れていく。


私は。



けれど。




救いはあった。




『……あれは……』




私が狡猾に仕込んだ種。

運良くそれは芽吹き、私とあの子を繋ぎ止めた。


あの子の持つ優しさにつけ込んだそれによって、あの子は完全に私のことを断ち切ることが出来ず、こうして同じ高校にまでやってきた。


ああ。


蓮。


蓮。




助けて。




君といたい。君が欲しい。君に縋りたい。君を抱きしめたい。抱きしめてほしい。キスしてほしい。目茶苦茶にしてほしい。縛って閉じ込めて奪って


でも駄目だ。


こんな重たい想いを押し付けられて、引かれるだけなら構わない。もし嫌われてしまったら。


なんて可愛くないんだろう。


私がかけたはずの呪いは、いつの間にか私をも蝕んでいた。

耐えられるはずだった。

我慢出来るはずだった。


でも駄目だ。


そこに君がいる。


手を伸ばせば届く距離にまた君がいる。


だから。


お願い。


また、私を傍にいさせて。




『いい加減にしなさい、蓮』




逃さない。





いや。





もう私は前にも後ろにも、逃げられない。












渚が嫌いだった。


私の大切な人を奪おうとした忌まわしいもの。

私の大切な人の心を少しでも虜にした忌まわしいもの。


「………」


あの日のように、月が朧に輝いている。でもここにあの子はいない。

私は一人でそこにしゃがみ込んでいた。


「…………」


母親との確執を乗り越え、きっとあの子は全てを受け入れる。嫌いだった自分のことも。

また一回り強くなったあの子は、広がったあの子の世界は、もう私のことなど必要としないのだろう。

…『私』という居場所を必要としなくなる。してはいけない。


いいや、そもそもあの子は最初から強かった。それを上から立ち上がれぬ様に無理矢理押さえつけていたのは私だ。

いつだってあの子は、前を向いて一人でも歩いていける。


けれど私は。


「………やだなぁ………」


嫌だ。


嫌だ嫌だ嫌だ。


いなくならないでほしい。傍にいてほしい。いさせてほしい。

何でもするから。私の全部をあげるから。


「………ふふっ……」


笑ってしまう。

私の全部?お前が自身に価値を見出していないというのに、そんなゴミを体よく押しつけられて誰が喜ぶというのか。


忘れられたくない。私という存在を。捨てられたくない。例えあの子にとっては煩わしいだけの姉気取りの不審者だとしても、なんかくっついてくる変な女だとしても、何でもいい。


忘れられたくないから、何でもしてきた。

嫌われたくないから、おもいは告げなかった。




ああ、本当になぎさが嫌いだ。




…あるいは、




この暗闇に身を任せれば、あの子の中に私という存在を刻みつけることが出来るのだろうか。

例え、どんなに最低で最悪なやり方だとしても。




真っ暗な中、私は一歩を踏み出し、それを覗き込むと──




「あれ」




闇が広がった。




あ。






────────











「ここにいたんですか、先輩」

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