第38話 日出る渚
「寒中水泳するには、まだ、早く、ないですか」
抱きしめて、二人揃って倒れ込んで。絞り出した声は情けなく震えていた。
「……どうして?」
目を丸くして、いつになく幼い声を出す彼女に苦笑い。
果たして自分は上手く笑えているのかと、心配にならなくもなかったけれど。
血の気が引くとは、まさにこういうことを言うのだろう。
この寒い中を汗だくになるまで走り回って、いざ目的の人物を発見したと思ったら、もれなく海に飛び込もうとしているのだから。
「先輩のことなら分かりますから…」
「………」
「って、格好良く言えれば良かったんですけど…」
情けない笑いを漏らすその向こう側から、チリンと小さな鈴の音が聞こえたかと思ったらゆっくりと遠ざかっていく。
「…そう…あの子が…」
「はい」
役目を終えて帰還する小さな白騎士に心の中で何度も何度も頭を下げて、胸の中の先輩を離さない様に、もう一度強く抱きしめ直した。彼女に抵抗する様子は無い。
「………」
「………」
暫しの間、会話は無かった。何もない時間。聞こえてくるのはさざ波の音だけ。
どれ程時間が経っただろうか。ぽつりと、最初に口を開いたのは先輩の方だった。
「…蓮」
「はい」
「話したいことがあるの」
「………」
「…聞いてくれる?」
「勿論」
「…ん」
彼女は語った。とある少女の半生を。
少女が巡らせた残酷で、優しい罠のお話を。
■
先輩の下敷きになりながら、堤を切ったように止まることのない先輩の話を、俺はただただ黙って聞いていた。相槌も無い。一言も発さずに、ただただ黙って。
「…私はそんな卑怯な女なの」
君に傍にいてほしかった。傍にいたかった。私が私としていられるのは君の隣だけだったから。どこにいたって、何をしても、私を私として真っ直ぐ見てくれる人がいない。もうあの頃とは違う。これが私なのに。私はこういうことするのに。皆と何も変わらないはずなのに。なのに、皆の言葉には必ず、流石だの凄いだの必要のない言葉が付き纏う。
でも蓮は違う。
君が生まれた時から私は君のことを知っている。
君は生まれた時から私のことを知っている。
私が何が好きか、何が嫌いか。共にいた時間が覚えている。もしかしたら今は忘れてしまっているかもしれないけれど、離れたって、一度刻まれたものはそうそう消え去りはしない。
きっと今日まで過ごしていた中で、君は少しずつ思い出している。私と過ごした想い出を。
だから、私は君の傍にいたい。
私の居場所は君の隣にしか無いのだから。
例え、それが私が無理矢理作り出した仮初のものだとしても。
胸に回された手を強く握りしめる細い手が、痛いほどにその激情を伝えてくる。
「蓮、蓮…」
「はい」
「嫌いになってもいい、鬱陶しく思ってもいいから、それでも傍にいさせて……」
「………」
「お願いします…。何でも、するから、」
「私を…もう一人にしないで」
「………」
誰だこれは。
いや、これが真鶴凪沙だということなのだろう。
母二人の言っていたことは正しかった。
震えながら縋り付くその身体は、どこからどう見ても幼い子供にしか見えなくて。
身長は悔しいことに大して変わらないはずなのに、あまりにも小さく、頼りなくて。
「…先輩って」
「………」
「意外に、重い?」
「……意外?」
意外…。そうでもないか。
この人のある種の想いの強さというものは、至るところで感じ取っていたのだから。
それでも、まさかここまで真っ直ぐぶつけられるとは思いもしなかったが。嬉しいやら恥ずかしいやら、顔が熱くてたまらない。
「重いのは……嫌い?」
こちらからは背中しか見えないけれど、震える声色は今にも泣き出してしまいそうで。
込み上げる愛しさを表す様に、腕に力を込めた。
「…軽いよりはいいんじゃないですか」
「………ん……」
聞くやいなや、腕をぽんぽんと叩いて緩めさせ、すかさず身体を反転させた先輩は、俺の胸に顔を埋めてしまう。
背中に回された手に強く、強く力が込められる。
「先輩」
「………」
「『選択肢を奪った』。そう言いましたね」
「………うん」
彼女は言った。己という存在を刻みつけるために、弱り切った少年の心に狡猾に付け入ったのだと。
けれどそれは。
あの時の俺にとってそれは。
「ありがとうございました」
「………?」
「もう何も見出だせなかった俺に『生きる』という選択肢を与えてくれて」
「ーーーーーー」
救いの手に他ならなかった。
闇に飲み込まれようとする少年を救ったのは、闇の中でも真っ直ぐと前を見て歩く少女だった。
俺はこの人に救われた。
奪われたんじゃない。もう何も残っていなかった。そして与えられた。新たな標を示してもらえた。少なくともあの時は。
だったら、彼女を大切に思うことくらい当たり前ではないか。
どうしようもなく気にかけてしまうことくらい当たり前ではないか。
貴方が俺の居場所なんだから。
無理矢理だろうがなんだろうが、最後にそう決めたのは俺なんだから。
だから。
「凪沙」
「!」
今度は俺が。
「俺は凪沙が好きです」
「………」
「貴方と一緒に生きていきたい」
「紛れもなく俺自身の意思で………、重いですか?」
「……………」
「……ぅうん……」
「軽いよりは、いい」
空が徐々に白さを増していく。
…気づかない間に夜明けを迎えていたらしい。
抱き合ったまま、というのは何とも何ともだけれども。
「…れん」
胸の中でもぞもぞと。そのままの体勢で喋るものだから、声はくぐもっていたけれど、どうしてだろうか。不思議とはっきり鮮明に聞き取れた。
「私、君が好きよ」
「大好きよ」
「抱きしめたい。抱きしめてほしい。キスしてほしい。目茶苦茶にしてほしい」
「私だけを見ていてほしい」
「……………」
「………重い?」
「かなり」
紛うことなく。
「意地悪」
即答した俺に、可愛らしく頬を膨らませると、彼女は俺に口づける。
頬などではない。口と口を、はっきりと。鼻腔をくすぐる甘い香り。口の中に広がる濡れた感触。
彼女が口を離せば、重力に従って俺の唇に透明な細い糸が滴り落ちる。
それをまた顔を近づけ舐め取ると、彼女は笑う。
「………………」
「クリスマスプレゼント」
「……………左様で」
「うん」
「ふふ」
朝日のせいで覆いかぶさる先輩の顔は逆光がかかっていたけれど、それでも分かりやすいくらいに、その顔は赤く、蕩けそうな程に笑顔で。
「蓮」
「…はぃ」
「愛しています。…君だけを」
日の出る渚で、二人臆面もなく抱きしめ合う。
ひたすらに恥ずかしい恋人同士を見つめるのは、徐々にその顔を覗かせる太陽だけだった。
「…なんて思ってそうね」
「…青春だねー…ん?青春?だよね……?」
「多分」
「…ありがとね。泉」
「何が」
「蓮ちゃんを凪沙から離さないでくれて」
「………ん」
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