第29話 思い馳せる夜
「〜〜〜♪」
キッチンに入ってご機嫌そうにその腕を振るう彼女の鼻歌を背に、あくまで自然体を装って俺はソファーに姿勢良く座っていた。
何故だろうか。部屋に二人きり、というシチュエーションはいつもと大して変わらないのに、『彼女がここで一晩を過ごす』というその事実が付属するだけで、驚く程に身体はがちがちに硬くなってしまう。
ピクリとも動かずに。背筋を伸ばして姿勢良く。ただひたすらに待ち続ける。
時計の音が、嫌に耳に残って落ち着かない。
何分経っただろうか。鼻歌が途切れ、足音が徐々に大きくなってきた。
「お待たせいたしました。こちら、シェフの気まぐれディナーセットとなります」
「……おお?」
だいたい雑にぶち込んで焼けば食えると思っている己からは考えられない、鮮やかに彩られた何とも食欲をそそる料理が、楚々とした動きと共に丁寧に机に置かれる。
冷蔵庫の中には有り合わせの適当な食材しか入っていなかったはずなのに、一体何をどうしたらこれほどまでに綺麗に仕上がるのか。何か怪しい薬を入れているとしか思えない素晴らしい出来栄えである。
何かあるよね。おしゃれな店だと『〜〇〇の〇〇。〇〇を添えて〜』みたいなよく分からない料理。となると、さしずめこれは……えっと……『〜程よく焼いたお肉。緑と黄色を添えて〜』みたいな?………すみません。おしゃれ力無いです。
「どうぞ存分に貪りなさってください」
「たまに貪らせようとするの何なんです?」
素直にたんとお食べ。とかおあがりよ。とかでいいじゃん。だから俺も素直に感想言えないのっ。
「ではシェフも」
「もういいですって」
「では先輩も」
「「いただきます」」
食卓に陣取る奇妙なシェフと共に、仲良くお手々を合わせてご挨拶。
実はこうして夕食を一緒に、というのは何だかんだ今まで無かったのだ。彼女が隣にいるせいか、無性にざわつく心を抑えるように緊張と共にお肉をゆっくりと口に運ぶ。
「!?」
目の前に突如、豪勢な王宮の食事風景が表れた。
……と、錯覚するような衝撃。舌で簡単に解けてしまうのではないかという柔らかな肉は、それでいて噛む度に肉汁が溢れ出すのではないかと、それでいてしつこくなく、それでいて何か、こう、芳醇で、…それでいて、ではないかと……。
「どう?」
「美味しいです」
つまりはそういうこと。
おかしいな。冷蔵庫には半額で売ってたお安い肉しか無かったはずなんだけど。俺が作ったらこんなにも美味しくなってくれないくせに。何よあんた、結局、顔かい。既に物言わぬ肉のくせして選り好みしやがって。どうあがいたって貴様は松阪になどなれんぞ。
「さらにこちらに特製ソースがございまして」
「お?」
「これをどかん」
「おお」
「そしてずどん」
「すると、あら不思議」
「!?!?」
何だ。安物が松阪へと変貌したぞ。謎の擬音と共に雑にぶち撒けられたソースと、それに身を染めた肉とで奏でられるハーモニー。その衝撃たるや口の中に銃弾突っ込まれて爆破された某ヤクザにも負けず劣らず。
偽物だって己の在り方次第で本物になれる。それが見事に証明された瞬間である。
「どう?」
「美味しいです」
まぁ、私が表に出せる語彙力なんてたかが知れているんですけどね。これが私の精一杯の食レポ。わーい、おにく、おいちい。
「君、何食べても『美味しい』しか言わないわね。昔から」
「失礼な。『嬉しい』も増えましたよ」
ソースは屋上。ソースをかけながら口にする。ごめんなさい。
「…次は『楽しい』とか言い出しそうよね」
「…そこまで子供じゃないですよ…」
そう言いつつも笑顔のままに視線を逸らす。…あっぶね。こうして誰かと食事するの楽ちい、とか思ってた。多大なる疑惑の視線を逃れるためにも可及的速やかに次の策を考えなければ。えっとぉ…えっ、とぉ…。
「…あれですね。何か、こうしていると昔を思い出しますよね」
「………」
ナイス話題転換。やはり俺はできる子。苦し紛れじゃないよ決して。
けれども、心の中でほくそ笑む自分とは対照的に、何故か先輩はほんの少しの陰りをその顔に乗せて、静かにこちらを見つめていた。
「…昔は先輩とこうやって隣り合って、いつも勉強を教えてもらったり」
「変えてあげたりしたわね、おしめ」
「存在しない記憶ですね」
ある訳無いだろう、そんなこと。…え、無いよね?……嘘だよね…?
ぞわぞわと体に奔る謎の悪寒と共に目を向けたところで、真に残念なことながら、ご飯粒一つ残さず綺麗に食事を平らげ、頬杖をついて荒れ模様の外を眺める先輩の横顔からは何一つ真実を窺い知ることなど出来ない。
けれど一つだけ、分かる真実もある。
「…先輩って昔はもっと冷たかったですよね」
「…そんなことはないわよ」
今と昔で、大きく変わったのは彼女の纏うその雰囲気。
こうして隣り合って思い出す、かつての彼女。
「でも俺が勉強で詰まってたら『やるだけ時間の無駄』ってよく言ってたじゃないですか」
「………愛ゆえよ」
「滅多に褒めてくれなかったし」
「…それは…ほら、あの頃は君……」
「下手に褒めたら嬉しょんしそうだな、って思っていたから……」
「心底知りたくなかった情報をありがとうございます」
誤魔化しにしたって酷すぎる。藤堂蓮は嬉しくなるとついお漏らししちゃうんだ。やっっば。
あまりの馬鹿馬鹿しさに思わず天を仰ぐ自分とは対照的に、僅かに下を向いて目を細める彼女は机の上に置いてあったみかんを徐ろに手に持つと、そのままくるくると指で弄びはじめる。
「…昔の私は好きじゃないわ。可愛くないもの」
「そうですか?」
「そうです」
「俺は好きですけど…」
「……………………」
ぴた。
突然先輩の動きが止まる。数秒程そのまま固まったと思ったら
「危な」
ぽーんと軽くみかんをパスしてきた。
胸元に飛び込んできたみかんを慌ててキャッチして、すかさず顔を上げた時には先輩は既にキッチンへと足を向けている。
「何ですかいきなり」
「別に」
無機質かつ無愛想な声で応えると、先輩はさっさと洗い物に集中してしまったようだ。その姿に、何かしてしまっただろうかと首を傾げたところに耳に届いた電子音。どうやら先程掃除した風呂が湧いたらしい。
さてどうしようか、と思ったところで向こうから声をかけてきた。
「…君、先に入る?」
「どちらでも構いませんが」
「私は時間かかるから、色々と」
「あー…?」
まあ、髪の手入れとか…あるのかな。女性のそういう部分に関しては何も分からない。こちとら濡れた髪なんてろくに乾かすこともせず自然に任せるエコ精神の塊みたいな人間だから。
「それとも一緒に入る?」
「………何がそれともなのか分かりませんが、水着でも着る気ですか?」
「水着は無いわよ。流石に」
なら、それこそ流石にだろうと。
何故かこれ見よがしに絆創膏の箱を胸元で掲げてアピールする彼女と決して視線を合わせないように、早足で脱衣場へと歩を進める。
お陰様で着替えの最中も気配が近づいて来やしないかと、何度も何度も扉を確認する羽目になって気が気でなかったが、何とか杞憂に終わった様で何よりだった。
「ぁ゙ぁ゙〜……」
熱い湯船に浸かれば思わずついおっさんみたいな声が。
本日はいつにも増して熱い湯が染み渡る日である。本当に。
■
そして夜も更け、ソファーでクッションを抱きしめ寝転がる俺。そこに近づいてくる先輩の気配、となると
「上がったわ。ありがとう藤堂くん」
「いえ」
「どうして隠しているの?お顔」
以前、貴方が人のシャツ一枚で下も穿かずに出てきた前科があるからです。
彼女の言葉通り、今の俺は顔を両手で隠して視界を完全に塞いでいる。
そして、その体勢のまま暗闇の中で彼女に問いかける。
「先輩」
「ん?」
「…穿いてます?」
「安心しなさい、とでも言えばいいのかしら」
「それはちょっと安心できないですね」
パンツ一枚の恐れが出てきてしまうので。
彼女の意に反して、俺のハンドディフェンスはより強固と化していく。
「先輩」
「ん?」
「…服着てます?」
「人を露出狂みたいに……」
いいんですね。信じますよ。信じますからね。
恐る恐る手を外す。目の前に腰に手を当てて立つ彼女は、風呂上がりなだけあって上気した肌がなんとも色っぽい。
「ほら」
そして言葉通り、ちゃんと服を着てくれていた。上はシンプルなスウェットなのに下は動きやすさを重視しているのか短いホットパ…
。…。………、
「何故顔を隠すの?」
「……逆にまずいかなって……」
「?」
何だかさぁ。何だかねぇ。寒いんじゃないのぉ?気を許しすぎってのも問題だよね。
顔を隠したまま丸くなる俺に呆れの溜息を遠慮なくついて、先輩は髪を乾かそうとして、また俺に視線を戻す。
「というか、君も拭きなさい。ちゃんと」
「いいんですよ俺は」
「良くない。来なさい、乾かしてあげるから」
「…めんどくさ」
「禿げるわよ」
「……………」
それはどんな強者だろうと抗う術を持たない、最強の脅しだった。
■
「はい、おしまい」
特に会話もなく、髪を乾かす時間は静かに過ぎていった。ただ、髪を撫でる手つきがとても優しかったことだけがやけに印象に残っている。
「さ、良い子は寝る時間よ」
先輩はぱんぱんと二回、軽く手を叩く。その仕草がまるで幼稚園の先生みたいで何だか笑ってしまう。けれど決して嫌味な笑いではなく。
「夜ふかしは肌の天敵ですもんね」
「もう、可愛くない」
頬を膨らませる先輩と共に、二人連れ添って寝室へと入る。
疲れの溜まった身体は布団の温もりをどうしようもなく欲していて。温まった身体に少し冷えた布団の感触、何でこんな微妙な心地よさがいつもたまらないのだろう。
背中に感じる温もりを感じながら静かに目を閉じて……
「じゃないよ!!」
「?」
「?でもないよ!!」
何でごくごく当たり前に一緒に寝ようとしてるんじゃ。
さっき私はソファーでいいから、って自分で言ってたくせに。
「子守歌いるかな…って」
「布団に入る理由になりませんが!?」
「寒いし…」
なら穿きなさいよ股引でも。互いに温もりを求めてしのぎを削るせめぎ合い。その果てに勝利を掴んだのは、いや譲ってもらえた気がしなくもないが俺の方だった。
参った参った、という様に両手を上げて身体を起こした先輩は、我儘な子供を諌める母のように顔を顰めている。誠に遺憾である。
「はいはい。分かった、分かりました」
「……」
「君が寝たらちゃんと戻るから、だから、もう少しお話ししましょう?」
「………」
「ね?」
なんとも空々しい言葉と思わなくもなかったけれど、何故だろうか。真っ直ぐに自分を見つめるその目だけは何故か信用出来た。それは付き合いの成せる信頼か、それとも。どちらにしても性質が悪い。
「何を話すと言うんですか」
「何でもいいの。他愛ない話でも、くだらない話でも」
「私が知らない君の話を、もう少し聞かせて?」
「……」
小さく息をついて、俺も身体を起こすと壁にもたれかかる。それを見た先輩も毛布を持って嬉しそうに隣に並んで。
…何から話そうか。ただただ無為に生きてきたせいで朧気な記憶を必死にかき集めるれば、良いこと、嫌なこと、余計なこと含め諸々が思い起こされる。その中から、話してもいいレベルの話題のみを必死に抜き出さなければならないのだ。難易度はベリーハード。
眉根を寄せて唸りながら話題を探す俺を、先輩は少しも急かす事なく微笑みながらじっと待ち続けていた。
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