第7話 朧月夜に約束を
我が学園が誇るマドンナ・真鶴凪沙は昔から心の優しい人だった。
どこまでも手のかかる弟分を、さりとて見放すこともせず、時には寄り添うように、時には背中を押すように傍にいたという。
それは恐らく、誰にでも分け隔てなく接することの出来る彼女の深い優しさからくるものなのだろう。その器の大きさが真鶴凪沙を真鶴凪沙足らしめている所以だということだ。
そう。きっと彼女は誰にでも優しい。そう思う。
■
久し振りに昔の夢を見た。
彼女と約束をしたあの日の夢を。
─渚が好きだった。
波の音を聞いていると心の澱みが洗い流されそうな気がするから。
膝を抱えながら、ただただ真夜中の海を眺める年端もいかない子供。大人が見れば、もれなく何事かと思われるだろう。
就寝前に水分を取りすぎたのが原因だったのか、ついついトイレに起きてしまって。
リビングを静かに通り過ぎた時、僅かに開いた扉から漏れてきたそれが聞こえてしまった。
母と父の、静謐な雰囲気の中で聞こえてきた残酷な真実が。
幼いながらに優秀すぎる姉貴分と共にいるせいで、小賢しい知恵ばかりつけているからいけなかったのか。せめて自分がもっと馬鹿で、理解出来る頭を持っていなかったならどれだけ良かったのだろう。
頭が意味を理解した瞬間、隙間から見える二人が途端に悍ましくなった。
特に母は、自分の目にはとんでもなく醜悪なナニカに見えてしまうくらいに。
…それを理解して尚、母といる父にも。
妹とも、もうまともに話せる自信が無かった。
だから飛び出した。誰にも知られず、夜の暗闇へと。
─渚が好きだった。
波の音を聞いていると嫌なことも全部忘れてしまえる気がするから。
水面とは距離があるから、生気の無い少年の顔なんて見えないけれど。
…この中に飛び込めば、心の澱みだけでなく苦しみも終わらせてくれるのだろうか。
いつの間にか足先がはみ出るくらいの近さで雄大な海を眺めていることに気付いた。
別にどうでもいいけれど。
けれど、その瞬間だけは思わずゾッとした。目に映るあの綺麗なはずの海は、全てを呑み込む深淵でもあると分かってしまったから。
でも、遅すぎた。
「あ」
足を滑らせたのだろうか。それとも無意識に自ら選んだのだろうか。
傾いた身体はゆっくりと、けれど確実に。
ああ
ぜんぶおわれるんだ。
「ここにいたのね。蓮」
瞬間。
何とも軽い口調で、けれど力強く腕を引っ張られて、勢いよく後ろに倒れ込んだ。
背中には、とても柔らかい何かが下敷きになっている。
柔らかい何かは後ろから細い腕を回すと、離さないとばかりに自分を強く強く抱きしめる。
気の所為だろうか。息があがっているのか、背中からはばくばくと、いつも落ち着いた彼女にしては珍しく強く高鳴る鼓動。感触だけでなく音までもがはっきり伝わってくるようで。
「まだ早いわ。寒中水泳するには」
「…凪姉」
時刻は深夜。誰からも気づかれずに出てきたつもりなのに。
家からは少し離れているはずだけど、やはりこの人には見つかってしまうものなのかな。
あんなに何もかもが煩わしいと思っていたのに、包み込む温もりはどこまでも優しくて。
気づけば、瞳から止めどなく涙が溢れていた。
声をあげることもない、無表情で涙を流し続けるいけ好かないガキをそれでも離すことなどせず、温もりは頭を撫でる。
「………ぼく、本当の子供じゃないんだって」
「………」
別にそれだけなら耐えられたかもしれない。
あの人達の愛情は確かにそこにあったから。
「お母さんの一度のあやまちで生まれた子なんだって」
「………」
けれども。
けれども、それは。その真実はどこまでも残酷で、どこまでも悍ましかった。
信じられなかった。罪を犯しておきながら平然と母親面するあの人も。母を赦し、血の繋がりの無い赤の他人に心優しく父親面出来るあの人も。
受け入れてくれた父に頭を下げていた母。落ち着いた老成した夫婦のような雰囲気。不倫なのか、そうじゃなかったのか、あの人達との間に一体、どんな落着があったのかは知らないけれど、どちらにせよ知ったところで理解などできようはずもない。
このままでは何の罪もない妹にまでよくない感情をぶつけてしまいそうだったから、もう自分はいない方がいいのだと、そう思ったのに。
「何でお父さんはお母さんを好きでいられるのかな」
「色々あるのよ。大人は」
「…分かんない」
「分からなくていいの。まだ」
彼女は大人だ。そんな軽い言葉で不満を飲み込めるのだから。
「…どうして気付いたの」
「勉強熱心なのよ。私」
違うだろう。かくあるべし、と朝から晩までずっと努力しているんだ。
なんてことの無い笑顔と額から流れる汗の裏に隠された、そんな簡単なことにも気付けない。だからお前は餓鬼なんだ。
「辛い?」
「…うん」
依然、撫でる手は優しいまま。倒れ込み、重なったまま、二人揃って空を見上げる。
自分の心境を映すかの様に、靄がかかる仄暗い空だった。
「なら、約束しましょう」
「やくそく」
「うん」
「君が泣きたい時は私がいつでも抱きしめてあげる」
ゆっくりと、またお腹に手が回された。
「だから、私が辛い時は傍にいてね」
縋る様に、強く引き寄せられた。
「私達は、お互いに居場所になるの」
「そんなのでいいの」
「そんなのがいいの」
思えばこの時、この瞬間が、自分の根幹を作り上げたのだろう。
これからも続いていく苦痛の中で、この人こそが自分にとっての渚。自分の逃げ場所だと。
だから、この人がもし俯いていたなら、自分は何を置いても助けなければならないと。
なのに。
なのに、あまりに完璧すぎるこの人がちょっと怖かったからなどと、投げかけられる悪意に耐えられなかったからなどと、そんなあまりにくだらない理由で、そう遠くない将来、自分は彼女と距離を置くことになる。
何て愚かなんだろう。こうして思い返して改めて分かる。自分の罪の重さが。彼女が負った傷が。
殴られて当たり前だ。馬鹿が。
起き上がって、改めて彼女と向かい合う。
「…分かった。やくそくする。ぼくがお姉ちゃんをまもる」
「………」
真っ直ぐに彼女の目を見つめて、決して逸らさない。何故か彼女は神妙に俯いてしまったけれど。
「……ふーん」
…関心の薄そうな声。早くも心が折れかけた。
「あう…」
「冗談よ」
今度は頭ではなく頬を愛おしそうに撫でられた。
微かに赤い頬で微笑む彼女は幼心に見惚れる程で。
「格好いいわ、蓮。きゅんきゅんした」
そう言って彼女は自分の頬に一度顔を寄せた後
「いつか、私を助けてね」
満面の笑みで笑うのだった。
■
暫し、寄せては返す波を無言で見つめていた。
後ろから抱きしめたままの彼女がゆっくりと、言葉を選ぶ様に口を開く。
「…ひとまず、今日は帰りなさい。普段通りに、何食わぬ顔で」
「…うん」
「………蓮…」
どれだけ彼女が拾い上げてくれたところで、家に待つのは計り知れない苦痛。
愛情が本物だとしても、もう自分の心が満たされることなど無いのだろう。
「…私はおじ様とおば様を知っている。あの人達の人柄を」
「………」
「蓮。貴方は愛されている。分かるわね?それは」
「……うん」
だからこそ、理解できないのだけれど。
強く、強く抱きしめられた。あの人達とは違う確かな愛情。こっちは微塵も疑いなく受け入れられるのに。
「それでも辛かったら、いつでも来なさい。うちに」
「凪姉のうち?」
「そ。……若いうちから外堀を埋めておかないとね」
「…どういういみ?」
「仲良きことはきゃっきゃうふふかなってことよ」
どういう意味?
けれども、変わらずいつも通りのお姉ちゃんがどこまでも有り難くて、どこまでも好きだった。
「忘れないで。私が、いるから」
■
そして高校入学を待たずして、藤堂蓮は家を出て一人暮らしをすることになる。
両親は多くを聞かなかった。ある時期から露骨に手がかからなくなり、どこか余所余所しくなった子供から、言わずとも何かを察していたのだろう。妹は最後までごねていたけれど。
せめてもの、というべきか、場所は全て向こうが決めた。セキュリティ万全な決してお安くない部屋を。加えて、条件として定期的な連絡は決して欠かさぬ様に約束させて。
そして高給取りな父は子供に見合わない額を毎月の様に振り込んで。
そんな父だからこそ、今も変わらず、いや昔以上に尊敬出来るのだろう。
笑ってしまう。あの家で誰よりも父親を尊敬しているのが自分なのに、誰よりも父親と関係が無いのもまた、自分なのだから。
使う金はあくまで最低限。高校に入ってからは遊ぶ金は自分で。
通帳には今も己に見合わぬ額が眠っている。
成長したら、使った分もしっかりと返していかねばなるまい。
…果たして、その時にまだ繋がりは残っているのだろうか。
掃除しながらぼんやりとそんな事を考えて、何となく部屋を見回した。広い部屋には物が少なく、スペースはだだ余り。子供らしいのは、せめて少しでも気を紛らわせる為にと大金はたいたゲーム機くらい。
年頃の高校生にしては何とも寂しい光景が、余計に胸の奥の虚しさを助長させる。つまりはまめに掃除する必要も無いくらいなのだけど。
けれども最近は
「……お……」
玄関から聞こえてくるインターホンの音に釣られる様に、映し出される画面に目を向ける。実家では見ることの無かったハイテク機器は今ではすっかり馴染んだもので。
『来ちゃった』
ニコニコとした表情でご機嫌にピースを決める高嶺の花が映し出されるのも既に馴染み始めた光景。
「…やれやれ」
何をスカしたように。…口元は緩々のくせに。
いつかの昔の様に彼女がそこにいる。もう二度と失ってはならない光景。
「藤堂くん。ケーキ買ってきたから。食べなさい。貪る様に」
「自分そこまで意地汚くないです」
「泣いてもいいのよ。面目ねぇ面目ねぇって」
「自分ギンじゃなくてレンです」
ああ、救われる。実家の様にズカズカとお構いなしに入り込む彼女の後ろで、自分は笑いを必死に押し殺すのだった。
…そう言えば、定期連絡したっけ?
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