第7話 続きのある話

 さらに部屋を掃除していると、もう一つ、自費出版社系の小説が出てきた。

 その話は、後から読んでも、

「何に、自分が興味を持ったのだろう?」

 という程度のもので、自分が何を気にしてその本を購入したのか、ハッキリと分からなかった。

 ただ一つだけ気になったのが、

「その話には、最後結末がない」

 ということであった。

 だから、最後に、

「この小説は、一旦ここで終わりますが、読者の方には、どこかもやもやしたものが残っておられることでしょう。ひょっとすると、続編が出るかも知れませんが、それが本当に出るかどうか、作者である自分にもわかりません」

 ということであった。

 その文章を読んで。

「ここが気になったのだろうか?」

 と思ったが、それよりも、以前にも似たような作品を見たことがあった。

 それが、母親の作品で、内容はまったく違うものだったのだが、母も、同じように、

「続編が出るかも知れない」

 と書いていた。

 だが、母は結局その話の続編を書いたかどうか分からない。一度以前に、

「前に書いていた続編が出るかもって言っていた作品の続編というのは、書いてみたのかな?」

 と聞いてみると、

「えっ、私そんな話書いたかしら?」

 ととぼけられた。

 だが、母の様子を見ていると、

「本当に忘れていたのかも知れない」

 と感じるほどであった。

 だが、それを聞いた瞬間、ひまりも、その作品がどんな作品だったのかということをすっかり忘れていた。

 そのことを、六花に話すと、

「度忘れというものなんじゃないの? もう一度その本を読み返してみればいいんじゃない?」

 と言われて、家に帰って本を探したのだがどこからも見つけることができなかった。

 実際に、どんな本だったのかということを思い出そうとしても思い出せない。そして、読んだはずの本を探そうとしても出てこない。まるで、煙のように消えてしまったかのようである。

 また、それを六花に話すと。

「それって、本当のことなの? 何か他に類することがあって、自分の意識が勝手に作り出した話なのかも知れない。他の本で似たようなものがあったんじゃない?」

 と言われたが、その時は分からなかったが、今その思いを感じているような気がする。

「確かに、夢のような話というのは自分の中で作ろうとした妄想なのかも知れないって思うんだけど、まさしくその通りかも知れないと思うの。でも、思い出そうとした瞬間、思い出せなくなってしまうというのは、ひょっとすると、自分の中で思い出したくないという感覚であったり、思い出すとロクなことはないとい思いだったりするのかも知れないって感じるの」

 と、ひまりは言った。

「私だって、似たようなことを感じることもあるわ。だけど、きっと私が今感じているのは、ひまりとは少し違うと思うのよ。奇抜なことであればあるほど、似たようなことを感じたとすれば、それは、原点となるものは、元がまったく違っているものではないかと感じるのは、私の思い違いからきているものなのかも知れないわね」

 と、六花がいうのだった。

 六花が、こういう落ち着いた言い方をする時というのは、ゾッとするほど、その言葉に信憑性を感じるのだ。

 この信憑性があるからこそ、余計に六花が言っていることが、説得力も信憑性もあることに感じるのよ」

 というのだった。

 ひまりは、以前、似たような続編がある話を、小説として読んだことがあった。

 最初に書いたものが、人気が出たので、後から続編という形で出てきたのだが、

「やっぱり、最初の話から見れば、だいぶ落ちるわね」

 ということであった。

「何をするにしても、最初が一番で、それ以降は、どんどン飽きられてくるものであり、何よりも本人が飽きてくるのではないだるおか?」

 と感じるのであった。

 ひまりは、自分で小説を書いたことがないので、

「続編というのは、どういう心境で書くことになるんだろうか?」

 と自分が作家になったつもりで考えたことがあった。

「最初から、続編ありきで考えていないと、書けないような気がする」

 と思ったのだが、それは、アイデアは頭に浮かんでも、イメージとしての、作品の配分というものが頭の中で混乱してくるのではないかと思うのだった。

 文章というのは、起承転結で成り立っているということくらいは知っている。もちろん、すべてがないと文章として成り立たないというわけではないが、実際に書く量から考えて、最初にいろいろ書きすぎると、続編にでもしないと、尻すぼみで終わってしまうのではないだろうか。

 だったら、起承転結の転の前までを今回書いておいて、それ以降を続編として出せばいいということである。

 しかし、

「じゃあ、続編はいつのタイミングで出せばいいのか?」

 ということになる。

 あまり遅らせると、読者は前編の話から興味が薄れてしまったり、前編の内容を覚えていなかったりすることもあるのではないだろうか。

 それを思うと、あまり遅いのもダメである。

 では、早い方はどうであろう?

 あまり早いと、

「こんなに早く続編って、じゃあ、最初から続編は分かっていたんだ」

 ということで、読者によっては、白けてしまう人もいるだろう。

 さらに、あまりにも早いと、前編の効果を余韻として残すことで、後編を読みたいと思うタイミングよりも早くなることで、読者の気持ちの高ぶっている時に、起こす時期尚早なことでしかないと思わせるのだった。

 読者がそう思うと、筆者の策略のようなものが妄想できてしまうことになり、読者は、興味を失うかも知れない。

 そんなことを考えていると、

「続編を書く予定にする小説というのは、続編をいつ出すかということが一番の問題なのだろう」

 と思わせる。

 その話を六花に話すと、

「なかなか面白い意見ね。確かにそれはあると思うわね。早すぎてもダメ、遅すぎてもダメ、そんな中で、ちょうど、読者が欲するタイミングがいつなのかということまで見ないと、あざとい読者には、作者の考えなど見透かされてしまうことだってあるんだって、私は思うわ:

 と言った。

「そうなんだよね、どのタイミングが一番読者の望んでいるタイミングなのかと思うと難しくて」

 というと、

「そんなことはないと思うわよ。だって、正解なんてないんだから。つまり作者が、このタイミングが一番だと思ったタイミングで出せばいいだけのことなのよ。素人が下手に考えすぎると、読者にあざとさが見透かされてしまって、結局、どの場面で出しても、あざといとしか思われなくなってしまう。つまり、読者に自分の作品も、自分自身も飽きられてしまうということになるのよ」

 と六花はいうのだった。

「なるほど、そうかも知れないわ。特に続編を書く小説というのは、最初の話が面白かったから出るわけで、たぶん、一定の結論が出るから、続編という話が出てくるのよね。それをうまく見切ることができないと、本当は作品と見比べてのタイミングだということを、忘れてしまうんではないかと思うのよね」

 と、ひまりは言った。

 だが、ひまりは、その時の続編が気になってた。本当に出たのかどうか、そしてそれを自分が読んだのかどうかということである。

 ひまりが感じているのは、

「続編は出されていて、そして、それを自分が読んだ」

 という意識である。

 もし、続編も出なかったり、出ても、読んでいなかったりすれば、心のどこかでそのことが気になっていて、忘れていたとしても、思い出した時、

「続編を読んでいない」

 という感情に襲われるに違いなかったからだ。

 しかし、その小説をことを思い出した今回、

「実際に読んだのだろうか?」

 と感じた程度だとすれば、きっと読んだに違いないと思うのだ。

 確信があるわけではないし、信憑性もない。だが、消去法で考えると、それしかないと思えるのであれば、その通りなのだろう。

 考えてみれば今の時代、消去法で決めることが多すぎる。

 時に選挙などがあればいつも感じること、特に国政選挙などになるとそうである。

 この間あった国政選挙では、一番どこに入れればいいのかということが問題だった。

 政権与党に入れてしまうと、国民の命を守るという口だけの首相になってしまうからだった。

 かと言って、野党第一党はもっとひどい。

「口を開けば、政府の批判ばかり。そして、法案に反対するなら、代替え案を出してこそのものなのに、批判するだけで、代替え案など出しても来ない」

 というのが、野党第一党である。

 しかも、やつらは実際に、

「案はないのか?」

 と詰められると、出し惜しみしていたかのように、出してくる。

 実際に出し惜しみではないかと思わせるのだ。

 最初から質問されることを予期していないとできないような法案を隠し持っている。

「法案を出せと言われて、即席で作ったようなものではなく、見た目は理路整然としていて、立派なものである」

 と言えるのではないか。

 つまりは、まわりを見ながら、相手を責めるという、姑息なことをする政党なのだ。

 きっとその方が、インパクトがあるとでも思っているのか、ここまで姑息だと、法案どうのというよりも、人間性という意味で、とてもではないが、政権を任せることなどできないと思われても仕方がないだろう。

 国民がどこまでそのことを意識しているのかは分からないが、野党第一党のその党は、きっと国民を舐めているのだろう。

 だから、あのような露骨なことができるのであって、しかもそれが姑息となると、

「どうせ、国民はバカなんだから、俺たちの考えていることなんて分かるわけはないんだ」

 と思っているのかも知れない。

 誰がそんなところに、この国を任せられるというものか。

 しかも、十年くらい前に、そこが与党だった頃、あれだけ期待されていたわりには、結局何も政策を実現していない。しかも、最後には地震災害という非常時が起こったことで、

「結局、非常時には何もできず。被災者の心情をねぎらうどころか、怒りをこみあげさせることしかできない政権だ」

 ということが分かり、次の選挙では、たった一回で下野することになったのだ。

 普通であれば、

「政権に就いて数年で結果が出るとは限らないので。せっかく政権交代があったのだから、もう少し様子を見てもいいのではないか?」

 という人がいてもよさそうなのに、誰も弁解に値するコメントを出す人はいなかった。

 つまり最後には、四面楚歌になってしまったといってもいいのではないだろうか。

 今回は、その元々の与党が政権を持っていて、その中で、起こった伝染病の流行だったが、その手法は最低だった。

 すべてが後手後手に回り、水際対策も経済対策も、感染防止策も、すべてが失敗に終わり、最初の首相は、病気だと称し、十数年前と、まったく同じことをして、政権を投げ出した。

 しかも、その後を担ったソーリは、経済対策と称して、伝染病がまだ流行っているのに、経済を優先させようと、結局感染拡大を招いた。

 さらに極めつけは、オリンピックの強硬開催によって、最初は、

「安心安全を目指す」

「国民の命を守る」

 と言っておいて、結局、感染最大拡大を招いてしまい、医療崩壊を起こさせた。

 救急車を呼んでも、なかなか来ない。救急車が来ても、受け入れ病院がなく。そのまま死んでしまう。あるいは、重症でありがなら、重体になっていないということで、自宅療養させられ、そのまま急変し、命を落とす人が急増した時期があった。

 その時の担当大臣のコメントに、

「今は災害時と同じです。だから、皆さんは、自分の命は自分で守ってください」

 ち言ったのだ。

 国民のほとんどが、開いた口がふさがらなかったことだろう。

「国民の命を守るといって始めたオリンピックで感染拡大を招き、それによって、危機的状況、威容崩壊を招いた本人が、自分の命は自分で守れだと?」

 というのは当然のことだ。

 内閣支持率は最低に達し、結局、解散総選挙、ソーリは党内からの指示が得られず、結局別の人にトップが変わった。

 そんな時の国政選挙だったのだ。

 もう、消去法しかない。

「命を守るといって、守れないどころか、自分の命は自分で守ってくださいと言った与党か? それとも、こんな世の中になってまでも、批判しかせず、まったく今までと考え方を変えない、外には厳しいが身うちには甘いという野党第一党か?」

 という選択だった。

 結果としては、結局与党が残ることになったが。別に国民が信任したわけではない。それを与党政権が、ちゃんと理解しているかどうか、じっくり見ていくしかないのだが、果たして日本を任せていたもいいものかどうかである。

 ただ、野党も、以前の地震があった時の失敗を見せられていなければ、今回の政府の最悪の政策を見た国民は、助けを乞う気持ちで、野党に入れていたかも知れない。

 政権交代委にまでなったかどうか分からないが、せめて、政府が危機感を持つまでにはなっただろう。

 野党としての一番の役目すら果たすことのできない野党第一党は、その存在意義があるのかどうかすら怪しいものだ。

 そういう意味で、今回は、野党第三党くらいの政党が躍進したようだ。

 それは、与党への不信を感じている人の票が流れたわけで。本来なら、第一党に流れなければいけないもののはずだ。

 こんなことで、野党が潰しあいのようなことをしていると、ロクなことにはならない。

 第一党の致命的だったのは、

「本来であれば、まったく政策の違うところと組んでしまったことだ」

 と言えるだろう。

 野党の中でも、昔からあるというだけで、国民から見向きもされない政党、いわゆるアレルギー体質であるといってもいいような党と組んだのだ。これを致命的と言わずに何といえばいいのだろうか。

 消去法を考えていくと、腹が立つことばかりである。

 国民を舐め切った政府であったり、数年前の詐欺にしてもそうだ。

「目の付け所は悪くなかったはずなのに、どうしてあんなあからさまな詐欺に走ったのだろう?」

 と、出だしはいいのに、どこで路線を間違えたのか、詐欺に手を染めてしまったことで、結局どうしようもなくなってしまった自費出版系の出版社たち。

 最後に一人勝ちしてしまった会社だが、やっていることは、どうせ自転車操業なだけだろう。

 ちょっとでも、何かあれば、すぐに潰れてしまうという、まるで零細企業のようなものだ。

 それを思うと、時期がいつになるかというだけで、末路はどのようになるかということは目に見えているように思えてならない。

「今度は人知れずになくなっていくんだろうな?」

 と思った。

 何しろ、自費出版系の会社ということで、それだけで、マイナスイメージがあっただろうからである。ただ、

「助け舟を出した」

 という意味で、当時は正義に見られていたというイメージが今もあるからだろう。ちょっとでも触れば、化けの皮が剥げそうなのに、よく持っているというのが、本当に不思議で仕方がないのだった。

 自費出版社のやり方も、確かに最初はよかった。

 何といっても、出版業界の一番のネックは、

「その閉鎖性」

 にあったのだ。

 新人賞の公募も、その審査は完全に非公開であり、また新人が営業として自作品を持ち込んでも、まったく見てもらえないというそんなひどい世界になってしまったのは、一体いつからなのだろうか?

 テレビドラマなどでは、漫画家や作家が原稿を持って出版社を訪れれば、それなりにその場で結論を出してくれたものだが、昭和末期のことは、会うことは会っても、相手にしてもらえていないのだ。それなら最初から門前払いの方がまだマシなのではないだろうか?

 そんな出版業界にあって、まずは後悔形式でのやり方は、作家になりたいと思っている人にはありがたい。

 原稿を送れば、批評をしてくれて、悪いところも指摘してくれる。今までにそんなところがどこにあったというのだろう。

 お金を出して、添削してもらえるところはあっただろうが、無料で批評をしてくれるところはなかったはずだ。

 そうやって、作家になりたいと思っている人に興味を持たせる。そして、最初は、

「あわやくば」

 だったのかも知れないが、果たしてあれほどの空前の出版ブームがくると、果たして思っていただろうか。

 実際に、出版部数では、大手出版社よりも多く、年間一位を獲得した会社が自費出版会社だというほどになっていた。

 それはそうだろう。協力出版などと歌っておいて、実際にはそのほtんどを著者に出させる詐欺行為をしているのだから、部数が増えるのも当たり前というものだ。

 普通の出版社は、プロの人に原稿を書かせて、原稿料を払い、そして、雑誌を出版社の金で製作する。それでも売れるから、出版社は続いているのだ。

 しかし、自費出版の本が売れるわけはない。本屋に並ぶことがないからだ。

 だとすれば、宣伝費、製作費、そして、作った分すべてが在庫になるのだから、在庫を抱えるための、倉庫を借りる費用、そして一番も問題の人件費、それらすべてを著者に出させようというのだから、定価千円のものを千部作成し、

「百五十万を出資してください」

 などというでたらめな見積もりをしてくるのだった。

 ただ、今でも思うが、

「どうしてそんな算数のような計算が、誰にもできなかったのだろうか?」

 と思うのだ。

 詐欺だと分かっていて、皆本を出したいという思いがあり、これ以外に方法はないということで、博打のつもりで、出資したということだろうか?

 五万円か十万円くらいなら、まだ分かるが、百万以上とか、けた違いなのである。よくそんなことに納得できたというべきなのか、それとも、本が売れるとでも思ったのか。

「一生の記念に」

 というにはあまりにも高価すぎる。

「半年間、給料がないのと同じではないか」

 と誰も感じなかったのだろうか?

 もっとも、そんな詐欺に引っかかる人がいるから、詐欺をする方も、あの手この手といろいろ起こすのだろう。

 今の、

「オレオレ詐欺」

「振り込め詐欺」

 の類やその進化系はそれと同じで、結局は、警察とのいたちごっこを繰り返している。

 コンピュータウイルスしかりで、ソフト開発とのいたちごっこではないか。

 そんなことを思うと、考えるのも疲れてくるのであった。

「あっ、そういえば」

 とふと思い出したのは、前に読んだ本の続編であった。

 あの本の何に興味を持ったのかというと、自分と考え方がどこか似ていたからだった。

 そうだ、あの作品も、自分の怒りのようなものを爆発させるような書き方をしていたような気がする。

 今の自分が感じていることを、その本は同じように描いていたのだ。

「どんな話だったのか、今なら思い出せそうな気がする」

 と感じたひまりは、もう少し、部屋の中を探ってみる気になったのだった。

「ということは、私はいつも怒っているということなのかしら?」

 と思い、少し笑いがこみあげてきそうな気がした。

「怒りというものがどこからくるのかということをいつも考えていたような気がする」

 と感じていたのだった。

 何に対する怒りなのか、今まではよく分からなかった。気が付けば急に怒りがこみあげてくる感じで、一種の、

「キレた感覚」

 というべきであろうか?

 確かに時々、キレた方にヒステリックになっている自分に気づいて、ハッとすることもあった。

 それを自分では、

「親からの遺伝」

 だと思っていた。

 しかし、母親を見ている限りではそこまでの感じはしない。いつも落ち着いていて、そんなにキレるようなことはなかった。例の出版社から言われた時もそうだった。それほど怒りをあらわにすることはなかった。

 ただ、母親は根に持つ方であった。誰かに何かを言われると、執念深く忘れることはない。

「その方が、自分を律することができるから」

 と言っていたが、言い訳のような気もする。

 だが、いきなりキレて、まわりに深いな思いをさせるのとどっちがいいのかと考えると難しい。執念深く根に持っていると、忘れた頃に爆発するかも知れない。

 それを思うと、恐ろしく思えてくるのだった。

 小説を探しながらそんなことを考えていると、ふと、本棚の後ろに、たまに、自分が本を隠しているのを思い出した。

 なぜそんなことするのかというのをハッキリと覚えているわけではなかったが。たまに、本棚の後ろにあるスペースに本を隠した。

 誰かに見つかるのが嫌だったという感覚ではない。あとから見ようとして意識して隠しているような気がした。

 そのくせ隠したことを忘れるのだから、始末が悪い。後から見るつもりで、実際には見ていないのだから、どうしたものなのだろうか?

 ひまりは、後ろをまさぐってみた。そこには数冊の本が隠れていて、懐かしいものも多かった。

 本だけではなく、中学時代のアルバムまで落ちていた。

「こんなところにあったんだ」

 と感じた。

 結構、長い間探していたような気がする。それを思い出せないのだから、相当なものだといえるだろう。

 アルバムを開いてしばし、中学時代を思い出していた。

「こんなに幼かったんだ」

 と、自分のあどけない頃を思い出して、今の自分が汚れているわけでもないのに、どうしてそう重いのか、不思議で仕方がなかったのだ。

 アルバムの中に映っている自分が、こちらに微笑みかけているのを見ると、アルバムの中がまるで鏡の世界のように思えた。アルバムを見ている自分が中学時代の顔になっているかのような感覚だ。

 気持ちや考え方は大学生なのだが、顔だけが中学生なのだ。だから、部屋も中学時代の部屋に戻ったかのような感覚に陥った。

 どうしてそんな感覚になるのかというと、

「やはり、鏡に映った世界を見ているような気がしているからなんだろうな」

 と思うのだった。

 だとすれば、すべてが、反対でなければいけない。

 そう思うと、ある不思議な考えが浮かんだ。

「鏡に映ると、左右は対称になるのだが、どうして、上下は反転しないんだろう?」

 という考えである。

 これは、高校時代に一度感じて、ネットで調べたことがあった。いわゆる、

「ググってみた」

 というやつだ。

 そこには、ハッキリとした理由は解明されていないと書かれていた。

 いくつかの考え方はあるようだが、

「帯に短したすきに長し」

 で、そのどれもが、ハッキリとはしていないのだった。

 これも一種の不思議なことで、昔から言われていることではあるが、都市伝説の類になるのではないだろうか。

 誰もそう聞けば、

「ああ、確かに不思議だ」

 と思うのだが、言われるまでは、それが当たり前のことだと感じるのだ。

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