第6話 小田原評定
だが、どうしても、最初は趣味のつもりで書いていて、
「原稿をお送りください」
などと書かれていたら、
「ちょっと送ってみようか?」
ということになるだろう。
すると、添削まではしてくれないが、パソコンでA4用紙三枚くらいに、作品の批評を書いた紙が送り返されてくるのだ。
その内容は、最初に残念なところを書いておいて、その後で、いいところを書くという手法で、
「落としておいて、おだて直す」
という、相手が一番信じやすい心理状態に持っていくのだ。
誉め言葉しか書いていなかったら、さすがに素人の作品なので、何か胡散臭いと思うだろう。
しかし、誉め言葉の前に残念なところという形で書かれていれば、一気にテンションが上がってしまい。相手の思うつぼに嵌ってしまう。
そうしておいて、相手は、
「見積もってみました」
とばかりに、
「あなたの作品は、いい作品ではありますが、当社が全額負担というリスクを背負えるまでの作品ではないので、今回は、こちらから、協力出版の形をご提案します」
と、前書きが書かれているのだ。
協力出版というのは、
「出版社と作者が共同でお金を出し合って、作品提供は作者が、発行までのすべての工程を出版社が行う」
というものである。
有名書店に一定期間置くという触れ込みで、見積もりを出す。しかし、それを見た瞬間、「これは詐欺だ」
とどうして誰も思わないのだろうか?
それに気づいたのは、ひまりの母親だった。相手は、
「一冊千円を定価として、千冊印刷する」
というのである。
その時に発生した値段、つまりは総額で百万円を分けることになるはずなのに、作者に、百五十万の出費を吹っかけてくるのだ。どう考えてもおかしい。文句をいうと、
「本屋においてもらうためのお金です」
という宣伝費のようなものだというが、こちらも、さすがに腹が立って、
「何言ってるんですか。定価というのは、それらの経費をすべて含んだうえで、そこから利益分を加えたものになるのが普通じゃないですか。だから、こっちが百五十万の出費で半額だというのであれば、定価は三千円以上でないと計算が合いませんよね?」
といきり立っていうと、相手はぐうの音も出ないのか、反論できないようだった。
それを見た時、それらの出版社が自転車操業によるものであることをすぐに見抜き、ひまりの母親は、
「どうせなら、こっちが利用してやろう」
と、相手が何を言ってきても、出版するとはまったく言わなかった。
出版社によっては、業を煮やしたところがあり、逆切れしてきたところがあるという。その出版社は今も生き残っているが、そのやり口は後で書くことにするが、その逆切れもひどかった。
何がひどいといって、こちらが、出版社の全額出資の作品ができるまで投稿し続けるというと、
「もう、こちらで相手にしません」
というような言い方をするのだ。
そして、いうに事欠いて、
「出版社が全額負担することは、素人の投稿では百パーセントありません。するとすれば、芸能人か犯罪者のような知名度のある人だけです」
というのだ。
相手も、キレて、いってはいけないことを口にしたのかも知れないが、母親も、それを聞いた瞬間に、完全に目が覚めたということであった。
それをまわりの人に話していると、そのうちに、別の会社が、
「訴訟を起こされた。しかも複数の人から」
という話が伝わってきた。
調べてみると、それら自費出版社系の会社の、
「ウリ」
であった、
「有名書店に、一定期間並べます」
という話がウソだったということを調べた原告が、訴え出たということだ。
しかし、ちょっと考えれば分かることではないか。毎日のように、プロをはじめとして数十冊近く発行されているのに、そんなプロの本を差し置いて、無名作家の本が書店に並ぶわけがない。例えば一週間並ぶとしても、その間にどれだけの本が発行されるかと考えれば、運よく書店に並んだとしても、一日がいいところで、あとは返品されて終わりではないだろうか。
母親としては、
「そんな当たり前のことを、どうして皆分からないんだろうか?」
と言っていたが、自分も、目を覚まさせる言動がなければ、発行をもう少し考えたかも知れないと思うと、
「よくいうよ」
と、子供心にひまりは思ったが、それでも、母親は気づいただけ偉かったのだろう。
それだけ、素人の心理を誘導できるだけのテクニックが、出版社側にはあったということだろうと思うと、
「本当に詐欺って怖いな」
と感じた。
裁判沙汰になったことで、出版社は経営がうまくいかなくなる。
元々が自転車操業、宣伝で客の目を引いて、それで原稿を送らせる。そこで煽てて、協力出版(いや、下手をすると、全額出させていたのかも知れない)に持ち込み、本を出させる。つまり金を騙し取るという構図だったものが、裁判を起こされたことで、本を出したいという人の数が減ってくるし、原稿を送る人も減ってくる。
彼らは、本を出すかも知れないという人がたくさんいなければ、それだけで破綻するのだ。
案の定、これらの業界全体が、詐欺ではないかということに、やっと世間も気づくようになり、一社が破綻すると、他も連鎖的に破綻していった。
「もう、この業界も終わりだ」
と思われたが、生き残ったところもあったようだ。
その会社は、他の会社で路頭に迷った、本を出そうとしていた人たちを救済したかのようなところであったが、裏では、
「元々の裁判沙汰も、今生き残っているあの会社が、画策したっていうもっぱらのウワサが広がっている」
というのを聞いたことがあった。
何を隠そう、その会社というのは、母親に罵詈雑言を浴びせ、キレたあの会社である。
「なるほど、自作自演で、最終的に生き残ったわけか」
と思ったが、
「それこそが、詐欺であるやり方の行きつく先なのではないか?」
と、母親も、ひまりも思った。
ひまりは、成長するごとにそのことをお思い出して、
「変な詐欺には引っかからないようにしないといけないな」
と思うようになっていたのだ。
そういえば、ひまりは、あれはいつ頃だったのか、中学時代だったのか、高校に入ってからのことだったのかということも覚えていないのだが、どこかで、面白い本を読んだような気がした。
その本というのは、ある人が、例の自費出版社系の会社に原稿を送り、お約束の協力出版を申し込まれたというところから始まっていた。そこまでは、よくある話ということなのだが、その人は一人の主婦で、年齢的にはまだ二十代、子供もおらず、結婚二年目の新婚と言ってもいいくらいだった。
彼女は、すっかりその気になっていた。しかし、出版社からの出資金の依頼は、百五十万であった。
旦那に相談してみると、
「さすがにそれは……」
としか言わない。
奥さんの作品は一応読んでみたが、正直、この作品が売れるとは思えなかったし、何よりも自分が第三者であれば、いくら本が好きだといっても、素人の名前も聞いたことのない作者の本を手に取ることさえないだろうと思うのだった。
だから、本屋に並ぶこともないだろうし、ましてや自分が手に取ることなどありえない。
奥さんの本だから読むことができたが、まったくの第三者であれば、巡り合うことなど永久にありえない作品であることは分かり切っていることだと感じたのだ。
そんな本なのに、出版を諦めきれない奥さんは、自分の親や親戚に頼みまくっていたようだ。
だが、親や親戚こそ、
「もっと冷静になりなさい、そんなお金どこにあるというの」
と言って、うてあってはくれない。
そうなると、奥さんは、消費者金融、つまりはサラ金に手を出しかねないところまで追いつめられていたようだ。
元々、危険なところがあると思って奥さんを見ていた旦那が、
「さすがにヤバい」
と感じ、自分だけでは説得できないと思ったので、彼女の両親や親戚に話をして、家族会議を開いてもらうことにした。
そこで、最初はm奥さんが必死に説得を試みる。
「これは私にとってのチャンスなの」
と言って、一歩も引かないという感じだった。
まわりも、
「何言ってるの。こんなの詐欺でしかないでしょう。目を覚ましなさい」
というだろう。
それも当然のことであり、説得力もあるはずなのだ。
なぜなら、奥さんも、心の中で、
「詐欺かも知れない」
ということはウスウス感じていた。
しかし、それを自ら認めることはできなかった。なぜなら、ここまでまわりに、自分が意地になるための、
「お膳立て」
を立てられてしまったのだから、言い出した手前、引くに引けなくなってしまったのだ。
旦那からすれば、
「ミイラ取りがミイラになってしまった」
ということなのだろうが、分かったところでどうすることもできない。
かたや意地を張るだけで、かたや、それを何とかこじ開けようとする。それぞれに意地と意地のぶつかり合いということで、二進も三進も行かなくなってしまったのである。
そうなってしまうと、膠着状態が続き、時間が解決してくれるのを待つのかどうか、それが問題だった。
一応何度か定期的に話し合いがもたれた。
さすがに、冷静になりかかっている奥さんも、サラ金に手を出すことだけは控えていた。そうなると、あとは膠着状態が残るだけで、その小説は、この膠着状態と主題として書かれていたのだ。
それは、たぶん、
「作者の実体験が籠っているんだろうな」
と感じるような話だった。
やけに生々しさも感じられ、実体験に基づくものがなければ、そこまで一冊の本になるほどの分量を書けるはずはないだろう。
そんなことを思い出していると、ひまりは、最近、自分の部屋を整理していた時、本棚の奥から、その本が出てきたのだった。
タイトルは、
「小田原評定」
この本を読むまで、その言葉の意味を知らなかったのだ。
この言葉の意味としては、
「結論の出ない意味のない会議を、いつまでも繰り返す」
という意味だという。
本来は、戦国時代にさかのぼる。
戦国時代の小田原というと、小田原城を根拠地としていた、大名に、北条氏がいたが、織田信長が、本能寺の変で急死し、その敵を討った羽柴秀吉が、謀反人の明智光秀を打つことで、天下統一の足掛かりを得た。
そして、賤ケ岳、小牧長久手の戦いを制し、四国、九州征伐もうまくいくと、いよいよ小田原征伐に乗り出した。
すでにほぼ、天下統一していた秀吉の大群が、小田原城を包囲する。
しかし、小田原城は、以前から、武田信玄、上杉謙信などの、群雄が攻めてきても、落ちることのなかった難攻不落と言われた城であった。
彼らとすれば、
「半年や一年くらいの籠城はできる」
と踏んでいたが、腰を据えて陣を構えている秀吉軍を見ていると、家臣団の間でも不安感が募ってくるのだ。
いくら籠城できるとはいえ、相手は被害が出るのを恐れて攻めてこない。包囲されているのはこちらなので、攻めていくこともできない。まるで水攻め。兵糧攻めにでもあっているかのようだっただろう。
そこで、毎日のように、家臣団を交えた善後策を話し合う会議が、が城の中で行われていた。もちろん、結論が出るわけもなく、ただ時間だけが経っていく。そんな状況を見た誰かが、きっとこのような状況の会議を、いつしか、
「小田原評定」
という言葉で表すようになったのであろう。
つまり小田原評定というのは、まさにこのことからついた言葉であった。
ただ、もう一つ言えることは、
「この小田原評定がまったくの無駄だったといえるのは、結局、北条氏は籠城できずに、城を開放するに至り、北条氏は滅亡した」
ということである。
そういう意味で、
「小田原評定による結末は、決していいものではない」
ということも含んでいるのではないかと、ひまりは思うのだった。
実際に、この本の話も、最終的にうまくいくわけもなく、そんな不毛な会議を続けているうちに、出版社の方が、潰れていったという話である。
この本では、潰れるような画策をしたのが、この時の親や親戚だったというが、しょせん彼らだけでは、そんな大それたことはできないだろう。きっと、似たような家庭があちこちにあり、皆小田原評定を経て、結論として、
「出版社を陥れるしかない」
と感じたのだろう。
そして、それを後押ししたのが、最後に生き残った、あの悪徳企業である。
この話は、フィクションだと書かれていたが、果たして本当なのだろうか。。
ただ、何と言っても不思議でしょうがなかったことは、
「こに本の出版元は、何と、その潰れていった自費出版の会社だったというのは、何とも皮肉なことだ」
ということであった。
自分たちを陥れるような話を書いた作家の本を、自分たちで出すなんて、どういう心境なのだろうかと思ったが、
「気を隠すには、森の中」
という言葉があるではないか。
つまり、ウソを隠すには本当の中に紛れ込ませればいい。逆に本当のことを隠すには、ウソに紛れ込ませるということも言えるであろう。
そういう意味で、敢えて自分たちに不利になるようなものを発行させ。
「実は自分たちはそんな詐欺行為はやっていない」
ということを、まわりに思わせるというやり方ではないだろうか。
そう思うと、
「自費出版社の方でも、生き残るために、毎日のように会議をしていたことだろう。しかし、それは何をやっても詐欺にしかならない状況なので、まるで、結論の出ないことを、不毛な状態で行っているという小田原評定そのものではないか?」
と考えさせられてしまうのだった。
実は。ひまりの部屋にはそんな自費出版の会社の出した本がいくつか置かれていた。
「どうして、こんなにあるんだろうか?」
と不思議でしょうがなかったが、
「そういえば、子供の頃に母親によく連れていってもらった本屋で、何冊か母親が勝っていたっけ」
と思ったのだ。
その本屋には、喫茶コーナーも設けられていて、そこで買わなくても、置いてある本は読書可能だったのだ。電源もあったので、そこで作業もできる。中には執筆している素人作家もいたという。
その本屋は自費出版の会社が最盛期の時に始めた店で、彼らとすれば、これも宣伝の一環であり、そこで、時々文章講座のようなものを開けば、自分たちが出版に関して、どれだけ真剣に考えているかということの最大のアピールになると考えたのだろう。
実際にその考えがよかったのかどうか不明だが、母親もひまりも、自分たちとしては、出版社の一定の努力は認めざるおえないと思っていたのは事実のようだった。
「なるほど、いい考えなのかも知れない」
と思ったことと、他の素人の人のレベルがどの程度のものかということを含めて、本を買ってきたのではないかと思えた。
もちろん、ひまりはそこまで思いつくこともないので、単純に、普通に本屋で本を買っているような気持ちになった。
お金は母親が出してくれたので、自分で本を買ったという意識がなかったこともあって、そんな本を読んだという記憶が薄かったに違いない。
そんなことを考えていると、ひまりは、母親の気持ちを分からないまでも、成長していくうちに、母親の気持ちが分かってくるのではないかと思うようになっているようだ。
小田原評定の本を見つけたのは偶然だったかも知れないが、その本の内容を何となくいつも意識していたような気がした。
プロの作家の本でもないのに、自分でもどうしてなのかということがよく分かっていなかったのだ。
今から思えば、あの喫茶店が懐かしい。
木の香りがしてくるような雰囲気で、黒を基調にした店内は、少し薄暗く、それでも、読書ができるスペースはスポットライトが設けられていて。さながら自分の部屋で勉強しているかのような錯覚にも陥った。
ひまりは、試験前などは、この喫茶コーナーで勉強していた。
土日は人もそれなりにいたが、平日はガラガラだったので、いくらでも自習ができた。
それは店側にとってもよかったのだろう。ちょうどいいサクラと思われていたのかも知れない。
それに、このスペース自体が、自分たちが真剣であるということの現れだっただけに、まわりに対して開放しているということで、自習する人が利用してくれるのは、ありがたいことだったに違いない。
ひまりは、そこまで出版社の意図が分かっていたわけではないが、母親の方は分かっていたようだ。
だから、ひまりがその店を利用していることを悪くは言わなかった。母親自体も自分で利用していたからである。
たまに二人は一緒にそこで作業することもあった。
ひまりは受験勉強。母親は、執筆活動であった。
母親としては、自費出版社系の会社に恨みを持っているので、
「利用できるものはいくらでも利用する」
という考えを持っていた。
それだけに、いくらでも利用しようと思っていて、まわりの友達にも宣伝していた。
「あそこは、穴場な喫茶店ですよ」
とである。
母親としても、そう簡単に潰れられるのも困ると思っていた。
こんな便利な場所は今までにはなかったので、これで終わりになると、あとはなかなかこんな店が出てこないのは分かっていたからだ。
今でこそ、
「ノマドスペース」
などと言って、作業場を提供するオフィスや、喫茶店のようなものが出てはきたが、なかなかこのような場所はなかった。
フリーランスなどが増えてきたという要因でのノマドスペースなので、当時とは趣旨という意味で、少し違っていたからである。
「ノマド」
というのは、遊牧民とかいう意味で、
「仕事場を決めずに、いろいろなところで活動する人のためのスペース」
ということである。
まさに、その言葉の通りの場所が、自費出版社が時代を先取りして作っていたのだった。
そういう意味では、すべてがよくなかったわけではない。ただ、あまりにも詐欺行為がひどかったことと、それを誰も疑わずに信じて、大金をはたいてまで、本を出す人がいるということである。
確かに、詐欺には違いないが、普通に、
「金を騙し取る」
というだけのものではなかったことも特徴だった。
人によっては、
「自分の本を出すというのが目的で、そりゃあ、確かに遊泳書店に並んだり、万が一売れでもすれば、こんなに嬉しいことはないけど、自分の本を出せるというだけで嬉しいと思う人も若干名はいたかも知れない。何と言っても、自分の本が世に残るのだから」
という人もいただろう。
しかし、最後にはそんな優しい人たちの気持ちを裏切ったのも事実だった。
本来なら、自分もお金を出しているのだから、会社が破綻した時、在庫を処分するという意味でも、著者にすべてを返すくらいのことをしてもいいのに、何と、
「七掛けで買ってくれ」
というのだ。
さすがにこれには怒りをあらわにした人も多いだろう。そもそも、破綻したのは、こちらの責任ではない。会社の自転車操業と詐欺行為が引き起こしたことなのだ。それを定価千年のものを、七百円として、在庫を引き取らせようとしたのだ。これは悪徳と言われても仕方がない。このあたりが、社会問題としてクローズアップされることになったのだろう。
それを思うと、いかに最初から無理なことだったのかということを、証明しているような気がするのだ。
そんな自費出版の会社の本が、なぜ自分の部屋の隅から見つかったのか、最初は分からなかった。
しかし、その見つかった本は、その本を買った時、気になったから買ったに相違ないはずだ。
だが、どんな心境だったのかなど、覚えているはずもない。
当時の出版社は、結構似たような名前のところがあったので、どれがどこだったのか、ハッキリと分からないくらいである。
母親は実際に原稿を送っていたのだから分かっているだろう。しかし、今さら過去のことを思い出させるのも気の毒で、触れないようにしていた。
ひまりは、中学時代か高校時代のどこかで、都市伝説というものに、興味を持った時期があった。
ただ、怖がりなところがあるので、恐怖系の都市伝説には近寄りたくはなかった。
こっくりさんなどは特に典型であり、誰かが話を始めると、
「きゃっ、嫌だわ」
と言って、耳を塞ごうとするが、面白がってまわりは余計に話をしてくる。中学生くらいであれば、よく見る光景だったのかも知れない。
だが、今回見つかった、
「小田原評定」
の本は、そこまで怖くはない。
だが逆に、
「そんな印象にも残っていないような本を、私がわざわざ買ったりするだろうか?」
と感じたのだ。
その本のどこかに、何かを感じるものがあって、それでこの本を手にして買うことになったはずなのだ。
それが何だったのか、今では覚えているということもない。
ただ、
「小田原評定」
という言葉は印象的だった。
籠城している時に、いつ攻められるとも分からない場面で、先の見えない、不毛な会議を続けるということを考えると、他人事のように見ているのが、何か怖い気がした。
「彼らは一体、怖くはなかったのだろうか?」
とも思ったが、怖いと思ってしまうと、思考能力がマヒしてしまい、考えれば考えるほど、考えがまとまらなくなるのではないかと感じるのだった。
それを思うと、その本を今見つけたというのは、そこに何か暗示のようなものがあるのかも知れない。
「自費出版社のことを思い出していた最中だというのも、因縁のようなものを感じる気がする」
というものであった。
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