第5話 自費出版系の会社

 ひまりが大学に入学したのは、まだ平成だったが、すでに、改元は分かっていたことだった。だから、今のひまりは三年生で、二十歳を超えていた。成人となっていたのだった。

 令和四年からは、成人の年齢が引き下げられることになる。考えてみれば、

「そうなると、令和三年での十八歳の人は、成人式がどうなるのだろうか?」

 ということである。

 令和三年で二十歳の人はすでに済んでいる。十九歳の人は、一月には、まだ前のままなので、成人式を受けられる。しかし、十八歳の人は、令和四年になるので、その時は十九歳である。そうなると、二十歳でも受けることができない。すでに令和四年ではすでに十九歳になっているので、成人年齢に達している。

 ということは、

「令和四年の成人式では、十八歳と十九歳を合同で行うのか。それとも、日をずらすのか、それとも、十九歳の人は気の毒だが、成人式をしないのか?」

 どれになるのか、分からない。

 ただ、一つ言えることは、

「そもそも成人式というのは、自治体によって違っている。つまりは、市町村ごとに年齢も違っているということだ。つまりは、二十歳にならないとやらない自治体の隣の自治体は、十九歳でも行う。あるいは、過疎地や、離島などの遠隔地の場合は、帰省もままならないということで、夏休みに絡めたりするところもあったりするくらいだ」

 ということである。

 つまりは、もし、対象年齢で引っ越したりすれば、

「成人式に二回出れる人もいれば、一度も呼ばれない人もいるということで、不公平が生じる」

 ということである。

 それを思うと、今回の法改正でも自治体によって、それぞれが考えることになるだろう。それが一番平和な気もするし、その理由は、そもそも、自治体によって違うがあるのだから、そうしないと、余計に混乱するからに違いない。

 その問題は、パンデミックが発生した時、ワクチン接種が全国的に広まった時期があったが、それも、自治体によってやり方がまったく違い、隣の市では、一回目の予約の時に、二回目が決まっているが、自分のところは、一回目の接種が終わった時点で、二回目の接種を行うというものであったり、さらに、摂取会場も、病院でできるところもあれば、大規模摂取場でしか接種できないなどというところもあった。

 もちろん、人口の問題、場所の問題からいろいろあるのだろうが、摂取準もバラバラで、年齢に伴って予約ができるところと、年齢関係なくできるところもあったりした。

 これには、一長一短があり、

「共通でやろうとすると、その取り決めのためにかなり時間がかかり、実際に摂取するまでにかなり遅れが生じるということだ。しかし、自治体ごとであれば、それぞれに早いところ遅いところは出るだろうが、自分たちに合う独自の方法が出てくるだろう」

 と考えられる。

「しかし、自治体ごとにやると、隣の自治体との差が激しく、市の境にいる人は、隣人はとっくに摂取できているのに、自分たちはまったくということもあるだろう。それが、差別化というものではないか」

 ということである。

 これは、考え方によっては、

「民主主義と社会主義に似ている」

 のかも知れない。

「民主主義は自治体ごとに、その制度が独立していて、自由であるが、貧富の差が激しい。差別化が悪い意味でされているということになる」

 しかし、社会主義は、

「国家がすべてを決め、すべてが国有なので、儲けは皆に同じように分配をすることになるが、いくら頑張っても、給料が上がらないということであれば、モチベーションはがた落ちである。それを考えると、発展性はまったくない。ただ、皆平等なので、貧富の差はない。ただし、全員が貧困だということは大いにありうる。本来なら貧困になることはないはずの人まで貧困にあえぐことになるというのも、社会主義の欠点ではないだろうか?」

 政治体制が、このような中央集権か、地方分権か? ということに絡んでくると思うと、結構面白く見えてくるのである。

 しかし、実際に自治体に任せると、かなり混乱した。一番懸念された自治体によっての差が顕著に表れ、さらに混乱を助長したということもあるだろう。

 これを見ていると、

「これが、民主主義の限界なのか?」

 とも考えさせられる。

「個々のモチベーションによる競争意識か。それとも、貧富の差をなくし、ある程度社会が国民生活に絡んでくる方がいいのか、そのあたりの問題は、経済学、政治学、さらには、社会構造を揺るがすことになりかねない」

 と言えるのではないだろうか。

 そんな令和の時代から、自費出版系の会社が話題になっていたのは、今から、十数年前くらいの頃のことではなかっただろうか。

 元々は、バブルが弾けたことから始まったのだが、バブルが弾けて、それまでの神話として、

「接待にありえない」

 と言われていたことが、起こってしまったりした、とんでもない時代だった。

 その最たる例が、

「銀行は絶対に潰れない」

 という銀行の、

「不敗神話」

 だったのだ。

 昭和の時代というと、神武景気、いざなぎ景気などという空前絶後の光景に、その間に不況の時期があったりした。まるで、能のあいだに狂言が入るような感じである。

 しかし、バブルが弾けてから、こっち、不況はあるが、好景気と呼ばれるものは何もなく、どんどん景気は下降していく。

「失われた三十年」

 という言葉があるが、このままでは、十年後には、

「失われた四十年」

 という言葉に変わるだけで、よくなるどころか、急降下して、下が見えているかも知れない。

 バブルが弾けたことで、起こった神話崩壊の一番の銀行破綻は、冗談で済まされる問題ではなかった。

 バブルの時代は、お金があれば、事業拡大することが、まるで企業の使命であるかのような感じだった。

 銀行もどんどんお金を貸し付ける。

「過剰融資」

 などをして、余計な利息を得ることで、銀行は儲かってきたのだ。

 しかし、過剰融資の影響もあってか、バブルが弾けた瞬間に、企業拡大した分の採算が取れなくなり、銀行が貸し付けた部分が、すべて併催不可能として、焦げ付いてしまった。

 自転車操業でやっているところなどは、ひとたまりもない。さらに銀行に融資を頼みにいくのだが、考えてみれば、以前融資してもらったものを返済もできていないのに、貸してくれるわけもない。

 それより、銀行は焦げ付いてしまった分、もう企業に貸し付けることはできないのだ。

 それよりも、貸し付けた分を取り立てるだけで精一杯なのに、その取り立てる会社が、返済不可能となって、焦げ付きが鮮明になってくる。そんな状態で、銀行もお金を貸せるわけもない。

 それまでは、ザルのごとく、垂れ流すようにお金を貸してきたが、バブルが弾けてからは、返済計画がよほどの信憑性が感じられないと、決して貸してはくれない。

 しかも、銀行も少しでも利益を上げないと、自分たちが危ないということを痛感してきたのだろう。

 銀行員も、

「銀行なら絶対に潰れることはない」

 ということで、銀行員になることを目指して、今までの生活を犠牲にしてきたのにと、思っている人も結構いるだろう。

 銀行に見捨てられ、自転車操業が機能しなくなった時点で、零細企業はひとたまりもない、そして、大きな企業がどんどん破綻していくと、零細企業も連鎖倒産。一つの産業が崩壊の危機になっている。

 というような状態が、すべての企業に起こっているのだ。

 それがバブルの崩壊であり、

「売上で利益を出せないのであれば、あとは経費の節減しかない」

 というものだ。

 会社の電気代の節約のために、残業をしないようにする。

 もっとも、仕事自体がなくなったのだから、残業などありえないだろう。

 それまでは、

「二十四時間戦えますか?」

 などというスローガンを元に、働けば働くほど利益が生まれ、社員個人に跳ね返っていたという、時代だったのだ。

 だが、バブルが弾けると、人件費節減が一番の問題で、

「リストラ」

 なる言葉がはやり、早期退職者募集などが行われてきたのだ。

「今辞めれば、退職金が満額もらえる」

 ということであるが、裏を返せば、

「いつ会社が潰れるかも知れない。そうなってしまうと、退職金など、あるわけもなく、社員は沈みゆく船と運命をともにする」

 ということになるのだ。

 絶対に助かることはない。だが、早期退職であれば、会社の道連れにされずに済むということで、とりあえずの難を逃れようと、早期退職に臨んだ人もいた。

 しかし、その時に道連れにされなかったとはいえ、救命ボートで、大海原に放置されただけなのだ。

「水は海水がこれだけあるのに、飲むことができない」

 というジレンマを感じながら、

「こんなことなら会社と運命をともにしていた方が、楽に死ねたかも知れない」

 という思いがあり、

「果たしてどっちがマシなのか?」

 という消去法を考えさせられることになるのだった。

 そんな時代なので、とりあえず、会社に籍があって、何とか生きながらえている人は、何を考えたかというと、

「あまりお金のかからない趣味を見つけて、人生を謳歌しないと、いつどうなるか分からない世の中だ」

 と、考えるようになったのだ。

 お金のかからない趣味というのは、結構あるものである。

 バブルの時代の趣味というと、社会人であれば、ゴルフというのが、定番かも知れない。

 営業の人はゴルフができるのはあたり和え。

「接待ゴルフ」

 などという言葉もあったくらいに、影響での接待には、ゴルフがつきものだった。

 ゴルフもそれなりにお金がかかる、道具にも結構かかるし、コースに出たら出たで、かなりのものだ。

 だが、バブルの時代であれば、それは当たり前のことであり、

「君はゴルフもできないのかね?」

 と、営業先から誘われた時、ゴルフができないことをいうと、そんな風に言われて、バカにされるというのが、関の山だった。

 だが、ゴルフをやっていると、たいていはうまくなるもので、そうなると、道具もいいものを揃えたくなる。どんどんお金もかかってくるというものだ。

 それでも、接待ともなると、領収書で会社の経費にもできる。営業経費として、ゴルフの会員権も会社から預かって、接待もしていたりする。好景気にしかできない接待だったといえるだろう。

 しかも、昼はゴルフ、それだけで終わるはずはない。キャバレーだったり、料亭だったりと、相手のランクによって、店も変えていたりしただろう。

 今からでは考えられないそんな時代を、まだ夢見ている人もいるのだろうか?

「昭和のよき時代」

 と昭和を懐かしむ人も多いが、きっとその頃の華やかさを、当時は好きではなかったかも知れないが、ここまでひどい状況になるとは、そして、ここまで長引くとは誰も思っていなかったからだろう。

「あっという間に過ぎたと思う三十年、きっと次の十年もあっという間に終わってしまうんだろうな」

 と、考えている人は多いに違いない。

 そんなゴルフなどの贅沢でしかない趣味は、今ではほとんどないだろう。せめて、打ちっぱなしのゴルフ場に行くくらいだろうが、そんな打ちっぱなしのゴルフ場も、ほとんどなくなってしまったといってもいい。

「あれだけあったのに」

 と思う人も多いだろうが、ほとんどの人は、ゴルフの打ちっぱなしがあったことすら、覚えていないというのが、本音なのかも知れない。

 やっていた人が何となく覚えているだけで、当時はそれほど違和感がなかった建物が亡くなったのに、それすら意識がないというのは、これほどひどい記憶もないということであろう。

 他に趣味というと、なかなか思いつかないが、とにかくその頃に趣味としてあった場所は、今はすでにゴルフの打ちっぱなしのように、人知れず、意識もされずに消えていったに違いない。

 そんなバブルの時期とは違い、趣味を持たなければ、時間を持て余してしまうという状況になってきた。

 ただ、この時間を持て余すことも、甘く考えてはいけない。

 時間だけあって、お金がないという状況は、それまでとまったく違うのだ。

 お金は入ってくるが、忙しくて、使う暇がないというのが、バブルの時代だった。

 この頃は忙しくても、それなりに達成感があり、その達成感の具現化が、お金ということになるのだから、充実もしている分、いい時間だったに違いない。

 しかし、時間だけあって、お金がないと、何をしようにもすることがなく、不安ばかりが募ってしまい、どうしようもない状態になるのだった。

 それが、バブル後の時代だった。だからこそ、

「お金のかからない趣味」

 を見つけるということは、その人にとっての死活問題でもあるといえるだろう。

 本屋にいけば、

「余暇の楽しみ方」

 などという本も置いてあったりした。

 だが、自分に向いた趣味がどこにあるのか、それまでまったく考えたことがなかっただけに、思い浮かぶわけもない。

 逆に、今まで仕事が忙しく、何かの趣味をしたいのを我慢していた人は、したいことがすぐに見つかるだろうし、それまでのたくわえで、それほどの不安を感じていない人もいあるだろう。

 そういう人はまったく不安はないというわけではないが、趣味をこなしながらでも、何とか生きるということを考えているので、どっちを向いても地獄しか見えない人に比べれば、マシなのではないだろうか。

 そして、そんな時代にたくましく生きようとする企業や業界もあった。スポーツジムなどは、余暇ができた人に、

「これまでの無理を少しでも癒すためと、これからの健康のため」

 ということで、スポーツセンターの需要が上がると見て、結構いろいろなところにできたりした。

 会員だけの利用ではなく、一日だけの利用者も募るようにして、たくさんの人に開放することで、門戸を開いたのだ。

 また、それまでの無理が祟った仕事で痛めつけられた身体をいかに癒すかということで、

「リラくぜージョン」

 などという業界が、マッサージから派生する形で流行ってきた。

 そのモットーは、

「癒し」

 であり、その空間には癒し効果のあるアロマによる芳香剤であったり、岩盤浴などと絡めた施術であったりと、結構、人気だったりする。

 金瀬的にもリーズナブルだったのではないだろうか。今でも結構そういう店は残っているが、ある意味、ブームの再来なのかも知れない。

 ブームというのは、数年に一度の周期で再来するというが、リラクに限らず、他にもたくさんあるのではないだろうか。

 そんな趣味を煽る企業の中には、詐欺商法を基本とした業界もあった。

 それまでの不便なところや、不満に感じていたことを解消してくれるそのやり方に感動し、まんまと騙された人も相当数いたはずだ。

 最後には、複数の裁判沙汰となり、社会問題となって消えていった。

「自費出版系」

 という会社であった。

 世の中には。

「本を書きたい」

 と思っているが、そんなに簡単なものではないということで、心の中で願うだけで、努力をしてみようと考える人は少なかっただろう。

 それには、それまでの、

「作家になるための方法」

 というのが、あまりにも曖昧だったということが一番の原因ではないだろうか。

 昔、つまり、昭和の頃までの小説家になるための方法としては、ほとんど決まっていた。

 一つは、数少ない出版社系の文学賞か、新人賞に入選して、次回作をヒットさせるという方法。もう一つは、直接、原稿を出版社に持っていき、手渡しで読んでもらおうとお願いするやり方だ。

 最初の文学賞であるが、これは今ほど、たくさんの文学賞があったわけではない。有名な出版社が、数社、年に一度か二度くらいの割合で応募しているくらいだった。

 今でこそ、毎月いくつもの文芸を公募している時代になったが、昔は本当に少なかった。

 それだけ、小説家を目指す人も少なかったのだろう。

 しかも、それらの出版社の文学賞は、応募の雑誌には、数名の有名作家の写真が載っていて、審査委員と書かれているが、実際に読まれるのは、最終選考まで残った作品だけである。多くて、五作品ほどが残るだけだ。数百の公募の中からである。

 ほとんどが、一次審査、二次審査。そして最終選考という形になるのだろうが、一次審査というのは、基本的に原稿を見るのは、

「売れない作家たち」

 なのだ。

 つまり、一次審査というのは、作品の良し悪しで審査するわけではない。

「いかに文章として体裁が取れているか?」

 というだけのことである。

 どんなにいい作品であっても、文章の体裁が整っていなければ、落選させられる。

 何といっても、審査する相応の人間ではない、売れない作家が審査するのだから、たとえちゃんと中身を審査したとしても、どこまでの見る目があるのか、怪しいものである。

 彼らは、

「下読みのプロ」

 と呼ばれ、一種の兵隊なのだ。

 何といっても、数百もの応募作品、どれだけの人間が下読みのプロなのか分からないが、一人で数十作品読むとすれば、それだけでも大変だ。

 そう考えれば、雑誌に載っている応募コーナーの作家の先生が、すべての作品に目を通して真剣に審査するなど、できるはずもない。

 どんなに見る目のある人であっても、一気に数百もの作品を読めば、最初の頃に読んだ作品を覚えているわけもない。数作品を審査するだけで限界のはずである。

 それを思えば、自分の作品がプロの作家に見てもらえるようになるまでに、ハードルが高く、しかも、そのハードルをどれだけの見る目がある人が審査するのか分かったものではないだけに、新人賞の選考というのも、どこまでがあてになるものなのか、分かったものではない。

 また、後者の実際に自分から原稿を持って行って、

「営業する」

 ということであるが、まず見てもらえるわけはないのだ。

 毎日のように、持ち込みの人が何人も訪れる、出版社も既存の作家をいくつも抱えていて、どのように編集するかということで日々頭を悩ませているので、何を好き好んで、素人の作品を見なければいけないかというものである。

 プロの作家が、新しい作品を書いたといって持ってくることもない。基本的に小説を書いて出版するというのは、作家がまず企画を持ってきて、それを元に、編集会議で、それが認められれば、やっと作家はプロットに取り掛かれる。そして、本文を書き始めれば、あとは締め切りに追われる毎日だということになる。

 それなのに、素人が原稿を持って行って、それを見てもらえるはずがない。別に出版社の編集長は、

「新人発掘が仕事」

 というわけではないのだ。

 だから、持ち込んだ人が帰れば、あとはゴミ箱にポイである。

 ちょっと考えれば、新人賞の選考にしても、持ち込み原稿にしても、この仕組みは分かりそうなことなのに、どうして分からないのかというと、

「まさか、そんなことはないだろう」

 という思いが先に来ることで、最悪で悲惨なことを考えたくないという思いが無意識に働いているのかも知れない。

 小説家というものが、どういうものなのか。新人賞を取って表彰されても、プロとして生き残っている作家はさらに一部である。中には、

「デビュー作で、すべてを出し切ってしまった」

 ということで、それ以降の作品が書けなくなったり、書き続けることの辛さを感じてしまったりと、なかなか作家として、気力が続かない人もいるに違いない。

 それだけ達成感が、燃え尽き症候群となってしまうということでもあるのだろう。

 また、最終選考にでも残らなければ、自分の作品がどれほどのものなのかということを理解することはできない。

 入賞できるかできないかということくらいしか分からず、自分の実力が分からない。

 それはそうであろう、批評とできる専門家というのは、最終選考でしか出てこないから、人の作品について批評できる人間が見ているわけではないということの証拠でもあるのだろう。

 しかも、

「選考に関してのお問い合わせには、一切お答えできません」

 と。たいていの文学賞では歌っている。これは今も同じことであり、審査に関しては非公式で、どこまでが真剣なのか、分かったものでもないだろう。

 そんなことを考えると、

「作家になるというのも、運不運があるんだな」

 と考えさせられる。

 しかも、運不運でなった人であれば、元々実力もあるわけではないので、なってから先が本当の生き残りなのに、まるで、武器を持たない人間を、獰猛なライオンやトラの檻に入れるのも同様である。

 そんな状態で、生き残れるわけもない。だから、新人層に入賞できても、そこから先、皆生き残れないのではないだろうか。

 そんな状態の不透明な作家への門。そこに表面上、メスを入れようとしてくれたのが、いわゆる、

「自費出版社計」

 の出版社の出現であった。

 昔から、自費出版というものはあった。

「別にプロにならなくてもいいから、自分のお金で製本し、それを友達に渡すという、一種の思い出作りのようなもの」

 としての自費出版である。

 数十冊くらいなので、かかっても、十万か二十万くらいのものなので、昔であれば、お小遣い程度の感覚で出すこともできる。

「老後の記念」

 ということで、退職金の一部を充てることだってできるだろう。

 何しろ中古車を買うよりも安い値段で、趣味の集大成ができるのだから、プロになるわけではない素人の発刊という意味では、ちょうどいいのだろう。

 だが、世の中、

「何か趣味を持たなければいけない」

 と言われる時代になると、筆記用具かパソコンかワープロさえあればできる小説執筆という趣味は、それまでに比べて、爆発的な人気が出てきた。

「人間、生きていれば、自分史を書くとしても、三百ページの本くらいのものは皆書けるはずだ」

 と言われてきたので、実際にその言葉を信じている人も多いことだろう。

 しかし、なかなか小説を書くということはハードルが高いものだ。それでも、何かお金のかからない趣味をするということになると、小説執筆は人気になってきた。

 それまでまったく何も書いたこともなく、文章体裁すら知らないような人が、

「私だって小説家になれるかも知れない」

 などと思うと、どこか自惚れてしまう人もいるだろう。そうなると、もし、簡単に新人賞に応募できる機会がたくさんあり、あるいは、原稿をいくらでも、読んでくれるという会社があれば、飛びつくのは当たり前というものだ。

 それが、自費出版社系の会社であり、それまでのブラックやグレーな部分を、すべて明らかなものにすると言われれば、誰もが送ってみたくなるというものだ。

 通信講座であったり、東京近郊であれば、

「小説講座」

 なるサブカルチャーの学校もあるだろうが、それにも結構お金がかかる。

 半年で十万近くかかるところもあったりして、マンツーマンで教えてくれるわけでもなく、書いた作品を添削してくれるくらいであった。

 そもそも、それだけでプロになれるのであれば、プロは過密状態になることだろう。それこそ、胡散臭いというものだ。

 プロ作家の数が決まっているのだとすれば、アマチュア作家の人数が爆発的に増えれば、そこからプロになれる確率はグーンと下がるというものだ。

 しかし、実際にはアマチュア作家のほとんどは、最近、その気になっただけのアマチュアにも手が届いていない連中がほとんどなのだ。そういう意味では、本当にプロを目指そうとしている人たちがライバル意識を燃やす相手というのは、昭和の頃と少しも変わっていないといってもいいだろう。

 にわかというものが、どれほど甘いものなのかということであり。そんな連中が詐欺に引っかかったり、ちょっとしたことで挫折し、目指していたものを簡単に手放すのだ。

「そんなことであれば、最初から目指さなければいいのに」

 と思う。

 それこそ、時間の無駄なのだ。

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