第4話 月食の話

「人間の脳が、十パーセントしか使われていない」

 という話は、実はウソではなかった。

 昔から、偉い学者や医学者などが研究してきて、そんな結論に至ったという。そもそも、その話を宇宙人に聞いたという話がおかしなものなのだが、誰かから聞いたのは、間違いのないことだろう。

 その話が本当のことだったのだということを知ったのは、人から聞いたからではなく、本に書いてあったからだった。

 最初にこの話題の本を読んだのは、ひまりが高校生の頃だったと思うのだが、その頃はいろいろな本を斜め読みしていた時期だったので、どの本だったのかということすら覚えていない。

 ジャンルも決まったものを読んでいたわけでもなく、作者も統一性がなかった。人から聞いて、

「この本が面白い」

 と言われて読んだり、本屋に行って、表紙のデザインで、気に入って本を衝動的に買うこともあったくらいだ。

 マンガも読むこともあったが、高校時代は小説だった。中学の頃まではマンガだったのだが、小説を読んでみると、妄想することに目覚めたのか、高校生になってからは、文庫本を買っては読むという形をとっていた。

 本棚を買ってから半年もしないうちに、すでに半分が埋まってしまった。すでに百冊近くは読んでいることになる。二日に一冊よりもペースが速い計算だ。

 本を読むというのは、最初だけ違和感がある。読みながら、何か余計なことを考えてしまうのだ。

 しかし、十ページ近く進んでくると、そこから先は無意識に何も考えずに読んでいた。その時に自分の意思が物語に入ってしまい、妄想が生まれてくる。そこが、マンガにはない、小説の醍醐味というものだった。

 人から勧められた本を読むというよりも、本屋に行って、本の背を眺めていたり、取っていて、表紙を見たりしていると、

「この本、読んでみたい」

 と感じるのだ。

 一日に買う時は、五冊くらい買ってくることもあるが、普段は多くても三冊までだった。

 勝ってきた三冊は、一気に読んでしまう。一週間もかからないで読み終えてしまう。読み終えてしまうと、内容が頭の中でこんがらがってしまって、どれがどの話だったのか、記憶にないくらいだった。

 しかし、ひまりが本を読む意味は、あくまでも、

「妄想の世界に入る」

 というもので、数十ページ読んで、妄想に入ることができなければ、その本はもう読むのをやめるのだった。

 だが、ずっと読まないというわけではない。

 買ってきた本をすべて読み終わって、頭の中が満足感に溢れ、達成感がある間に、前に読めなかった本を読もうとして、本を開くと、前に読んだ時と違って、今回は、自分の世界に入れるのだった。

 この時大切なのは、いくら前に途中まで読んでいるとしても、最初から読むということである。

「真新しい本を、頭から読んでいる」

 というイメージが大切で、達成感と満足感に包まれながら読もうとするのだから、一番いいタイミングである。

 そうやって読んでいくと、買ってきた本を読まずに、本棚の飾りになるようなことはない。

 内容はどんな本だったのか、覚えていなくても、達成感、満足感が得られ、妄想に浸ることができれば、それだけで、立派な読書ということになるのだ。

 ジャンルも適当だといっても、それなりに偏りがある。

 流行りのケイタイ小説であったり、ライトノベルなどの本は絶対に読まない。そしてエッセイなどのようなノンフィクションにも手を出さない。しいてノンフィクションを読むとすれば、戦国武将の伝記のようなものであったり、歴史書のような、

「歴史の勉強」

 として読む本は別である。

 好きな小説としては、昔の探偵小説であったり、SF、あまり怖くないホラー系の小説などを好んで読んでいた。

 最近は、恋愛ものも結構読んでいて、不倫や愛欲と言った、ドロドロしたものも、中学の頃は敬遠していたが、高校に入ってからは読むようになっていた。

 だが、どうしても苦手な小説もある。サスペンス系や、ファンタジー系は読んでいて難しい。

 自分がゲームでもしていれば、ファンタジー系の小説が読めたり、二時間サスペンスなどのドラマを見ていれば、サスペンス小説も読めるのかも知れないが、どうしても、最初から敬遠してしまうのは、いろいろな小説を読み慣れていることで、読み終わってガッカリしそうな小説は想像がつくので、最初から見ようという気が起きないのだった。

 それなのに、

「なんでもまんべんなく読む」

 と言っているのは、自分の好きな小説こそが小説だという意識があるからではないだろうか。

 小説をいうものが、妄想できなければ、小説ではないと思っている。

 そういう意味で、ノンフィクションというのは嫌いだ。基本的に作者の作文ではないか。人のために書いているわけではなく、まるで自己満足のためだけに書いていると思うからだ。

 だが、この発想は本当は間違いだ。

「小説というものを、もし自分で書いてみようと思うのであれば、ノンフィクションは反俗な気がする」

 と思うのだ。

「小説というのは、自分で作り出すものであり、実際にあったことをただ書き連ねるだけでは何が満足できるというのか。それだったら、エッセイや脚本でいいような気がする」

 と感じるのだ。

 だから、自分でも、ノンフィクションは読まない。読み始めると、腹が立ってくる気がするからだ。

 妄想させてくれるわけでもなく、読んでいくうちに、作者の書きたいことを書いているという思いが、あからさまに感じられるからだった。

 そういう作品は、国語の教科書だけで十分だ。テキストや、教材ではないのだから、小説として読むものに、ノンフィクションはありえないと思うのだった。

「何だかんだ言って、ひまりはわがままだからね」

 と、よく六花に言われた。

「そう? 私は思っていることを思うままに感じたり、したりしたいのよ」

 というと、

「そうよね、それがいいと思うわ。例えばね、プロ野球の選手のピッチャーがね。キャッチャーとサインの交換とかするでしょう?」

 と、六花がいきなり、いつものたとえ話を始めた。

 六花は、いきなり、何を思うのか、まったく違った発想からのたとえ話を始めることがある。ひまりは野球が嫌いではないので、たとえ話も分かる気がした。

 六花が続ける。

「その時に、キャッチャーは、前に打たれたのと違う球を要求したのよね。でも、自分が得意な球は前に打たれた球なの。そこで、タイムをかけて、二人は話し合うのね。でも、最後にはピッチャーが投げたい球を投げさせることに決めたの。それは、中途半端な気持ちで、得意でもない球を投げて打たれたら。ショックは倍でしょう? キャッチャーはそのあたりの気持ちを察したのね。でも、カッチャーも分かっていると思うわ。それは投げたい球を投げて、それで打たれれば、ピッチャー抗体だってね。要するに、どっちが抑える確率が高いかということを考えると、ピッチャーもキャッチャーも結局は答えは一緒だってことなのよね」

 というではないか。

 つまり、

「後でどうせ後悔するなら、好きなようにして後悔したい」

 というのも、ピッチャーのわがままだけど、わがままを通して、ダメな時は潔く交代するというくらいの覚悟がないとだめだということである。

 六花は、本当に時々思いつきでたとえ話をすることがあるが、そのほとんどが、分かりやすく、的を得ているのだった。

 だから、ひまりは六花を信頼していて、相談事があれば、いつも六花に相談していたのだ。

 ひまりは基本的に天真爛漫だが、わがままなところがある。それをうまくコントロールできるのは、六花だけだということであろう。

 ひまりの小説の好みは、好きなものと嫌いなものの共通点があるというところが面白かったりする。

 例えば、読まないジャンルの中に、サスペンスや、ファンタジーがあるが、好きな小説としては、推理、探偵小説という括りのミステリー小説であり、もう一つはSFだったりする。

 サスペンスというと、広義の意味のミステリーにも含まれるのではないだろうか。事件が起こって、それを解決していくという中で、刑事と犯人の間に、昔でいえば、カーチェイスのようなものがあれば、サスペンスと呼べるだろう、

 二時間サスペンスなどのテレビドラマでは、ミステリー作家の原作作品を、刑事にスポットを当てて描くとサスペンスタッチになるであろう。

 また、ファンタジーであるが、これも、異世界ファンタジーになれば、それこそ、異次元世界が絡んでくるので、広義の意味でのSFになるだろう。

 そういう意味で、好きなものと嫌いなものが意外と隣り合わせだったりするのも面白い。

 それはまるで、

「長所と短所」

 というものと似ていたりしないだろうか。

「長所は短所と紙一重」

 であったり、

「長所と短所は背中合わせだ」

 と言われたりするではないか。

 さらに、就活の時などの面接で、

「あなたの長所は?」

 あるいは、

「あなたの短所は?」

 と聞かれた場合、先に長所をいうのであれば、そのあとの短所は、長所と隣り合わせのようなことを言っておけば、面接官の心象もいいことだろう。

 考えてみれば、面接官だって、先に長所を聞いて、それから短所を聞く時、答え方を、隣り合わせの答え方にすれば、無難な回答になり、

「短所の長所の一つ」

 という形の答えを求めていて、受験者が、その通りに答えてくれれば、ここでの採点は、内容がどうこうというよりも、答え方が正解であるから、満点をつけるかも知れない。 

 つまりは、数学の試験などで、答えは合っているが、考え方が間違っているという場合か、それとも、答えは間違っているが、回答を導く考え方は合っているという場合とでは、どちらの心象がいいだろう。

 マークシートでは、それも分からないだろうが、学校のテストなどでは、そのあたりが見られていたりする。その方が、本当は学問に対しての試験としては、正しいのかも知れない。

 ひまりが、最近読んでいる小説の中で、普段はランダムに読んでいたのだが、久しぶりに、気になる作家がいて、

「この作家の本を、まず片っ端から読んでみよう」

 と思うようになった。

 その作家の小説は、

「ジャンルは何か?」

 と聞かれると、結構曖昧な感じがする。

 SFといえばSFだが、ホラーのようでもある。そういう意味で、ラストの数行に、どんでん返しが含まれていて、そういう小説を、

「奇妙な味」

 というジャンルだと聞いたことがある。

 ホラーのようで、SFのようでもあり、ミステリーのようでもある。それらのいいところを少しずつチューニングしたかのような作風で、音楽の好きな人に聞けば、

「まるで、プログレのようじゃないか?」

 と言われたのだった。

 その人は、昔の音楽が好きなようで、最初はビートルズサウンドから入り、六十年代の他のグループを凌駕したビートルズも、七十年代になると、

「プログレッシブロック」

 というものに、趣向が変わっていったという。

「プログレッシブロックってどういうものなの?」

 と聞くと、

「ジャズや、クラシックの音楽を基調に、ロックっぽくした作品なんだ」

 という言い方をしていた。

 その人は続ける。

 十年も続いたブームではなかったんだけど、それでも、全世界的にブームで、ほとんどの地域でバンドができていたんだよ。南米や東洋、日本にだって、バンドがあったくらいだからね」

 という。

「そうなんだ。じゃあ、曖昧な感じではあるけど、音楽としては、いろいろなジャンルの音楽の融合という感じなのかな?」

「うん、そうだね。クラシックとロックの融合、ジャズとロックの融合。そこにポップ調のものが入ってきたりと、面白いんだよ。それに一曲が結構長い曲も多くて、A面すべてが一曲になっていて、組曲としてできている曲もあったりするんだ、そのあたりはクラシックぽいだろう?」

 ということであった。

 当時は、レコードだったので、A面、B面とあったのだ、両面で一枚のアルバムということで、昔は、LPレコードと呼ばれた。

「なるほどですね。なかなか当時としては斬新な音楽だったんでしょうね?」

「うん、そういう意味で、前衛音楽と言われたりもしたんだ。ビートルズサウンドからは、かなりの飛躍のような感じはするんだけど、そもそも、クラシックやジャズというものが、昔からあった音楽だということなんだよね、僕なんかが考えると、クラシックの方がよほど、斬新な気がするんだけど、それだけ、時代が違ったということなのか、作っていた人がルネッサンスの昔をしのんでのことなのかということになるんだろうけど、僕は個人的には、ジャズよりもクラシックの方が好きだけどね」

 と言っていた。

「前、ジャズを聴く人は年をとっても、そのままロックやジャズを聴き続けるけど、クラシックと聴いている人は、演歌に走るというような話を聞いたことがあるんだけどね」

 というと、

「まあ、それは迷信で、都市伝説のようなものなんじゃないかな?」

 と、その時に、迷信という言葉と、都市伝説という言葉を重ね合わせるような形で言われた。

 今でこそ、都市伝説という言葉の意味を知っているので、

「広義の意味の迷信が、都市伝説になるんだろうな?」

 と考える。

 迷信も都市伝説も、似たようなもので、根拠がなかったり、その根拠があいまいなものなどという定義は同じだが、都市伝説の場合は、

「現代において」

 という但し書きが入るだけではないかということだ。

 プログレッシブロックの話から、小説における、

「奇妙な味」

 というのも、似たようなものではないかと思うのだった。

 奇妙な味というのは、そんなに昔から言われているものではない。日本でも、提唱したのが江戸川乱歩という探偵小説作家だということで、ミステリー系が入っていることは確かだろう。

 だが、日本における奇妙な味というと、昭和の末期から放送され、今では季節ごとの特番のような二時間で四本のオムニバスドラマが作られているが、

「奇妙な物語」

 という形でのドラマを見ていても分かるのだが、奇妙な味を専門で書いている作家の作品のそのほとんどは、短編である。

「短編の名手」

 としての地位を揺るぎないものにしている作家が書いているジャンルが、この、

「奇妙な味」

 という作品だ。

 ちなみに、本作品の作者も、奇妙な味の小説を目指していて、最初は短編ばかりを書いていた。

 短編を書く本当の理由は、

「長編が書けない」

 という単純な理由だったが、書けるようになると、今度は長編を書き始めた。

 だが、書いているうちに少しずつ、作品が短くなり、今くらいの中編に落ち着いてきたというわけだ。

 現在のこの作品で、中編と言われるくらいの作品を書き始めて、五年くらいになるだろうか、その間に書いた作品数とすれば、百数十作品ということになる。

 令和二年と夏くらいまでは、一日一時間か長くても二時間のペースで書いていたのだが、今は平均、一日四時間のペースで書いている、

 乗っている時は、一日六時間くらい書いていることもあるが、慣れてくると結構書けるもので、一日四時間ペースがすっかり板についてきたようだ。

 だが、いつまたペースを落とすか分からない。そういう意味で、今書ける時に、どんどん書いておこうと思ったのだ。

 年齢的にも、もうすぐ六十歳を意識するくらいになってきた。勝手に逆算してしまうと、やはり、

「書ける時に書きまくる」

 という発想は大切なことだと思えてならなかった。

 ただ、作者もなかなか思ったような作品が書けているのかどうか、いつも考えている。

「似たような作品にばかりなっていないか?」

 という思いはいつも付きまとっているが、自分の作品に対して似たようなものであれば、

「盗作」

 という発想はない。

 ストーリー展開で出てくる話が、毎回似ているというのは、作者が同じだったら無理もないことで、テーマやコンセプトが違えば、別に問題はないのではないかと考えるようになると、少し気は楽であった。

 とにかく、

「質より量」

 という発想で書いているのだから、そのあたりのことは、逆に意識する必要はないのではないかと最近考えるようになってきた。

 そもそも、このようなことも、かつて書いてきたような気もするし、今後の作品でも、意識的にか無意識にか、同じようなことを書くような気もする。

「時数を稼ぐ?」

 というのも、一つの本音だが、ライトノベルのように、無駄な空白がある小説に比べれば、マシなのかも知れないと、勝手に思っているのだった。

 そういう意味で、今のライトノベルやケイタイ小説に慣れている人には、作者の小説は、なかなか読むというだけで、ハードルが高いものとなっているのだろうと考える。

 それでも、アクセス数が多いのは感謝すべきで、素直に嬉しい限りである。

 まだしても作家の話に脱線してしまったが、小説のジャンルも、一人の作家が、一つのジャンルに特化する形で、

「このジャンルなら、私だと言われたい」

 という思いを信念として同じジャンルを書き続ける人もいるが、ジャンルにあまり関係なく、いろいろな小説を書く人もいる。

 ただ、プロの作家になると、いろいろなジャンルを書く人はあまりいないかも知れない。

 それでも、同じジャンルを書いている人を見ていると、その作品群には、ジャンルこそ違え、何か骨格として、背骨のように一本筋の通ったものがあるのではないかと思うのだった。

 そんな中で、以前に読んだ小説で面白い発想をしているものがあった。

 ジャンルとしてはあまりハッキリと覚えていないが、気になる一節があったので、思い出してみた。

 どこから出てきた話だったのか、天体を見てのことだったのだが、これも一種の都市伝説という意味で書いていたような気がする。

「皆既月食が起こるというのが話題になっていて、朝方に皆既月食を見たのだが、その皆既月食になる前、そして、翌日の空に浮かんだ月が、きれいな満月で、これ以上ないというくらいに眩しく光っていた」

 という話であった。

 その小説では、その出来事を、いかにも都市伝説のように書いていて、都市伝説というものが、何を意味するのかというと、

「いかに幻想的であるかということを、読者に示しておいて、その事実が、最後の大団円にどのように結びついてくるか」

 というのが、この小説の一つの骨幹なのではないかと思ったほどだった。

 ただ、冷静に考えてみれば、この話は当たり前のことなのだ。

 皆既月食というのは、月が短時間の間に、どんどん欠けていき、最後には消えてしまうのだが、すぐに、また現れてきて、最後には元に戻るという現象である。

 さぞや、昔の人はビックリしただろう。ただ、月食よりも日食の方がインパクトは強いだろう。

 何しろ、空が一気に昼間から夜に変わり、それがすぐにまた昼に戻るのだから、それは怖かったことだろう。

 ただ、考えてみれば、それもそれほど驚くことではない。

「太陽を隠すことは雲にだってできるのだ」

 ということである。

 別に雲によって太陽が隠されたことで、いちいち驚いたり、ましてや恐怖に感じるなどという人がいるわけもない。

 しかし、日食のように、いきなり太陽が欠け始めて、昼がさながら、夜になってしまうのだから、当然驚くのも無理はない。

 月食にしてもそうなのだが、要するに、日食も月食も、

「影ができる」

 というだけのことなのだ。

 月食というのは、光を放つ太陽が、地球も月も照らしているが、地球が太陽と月の間に入ってしまって、月に光を与えない。つまり、地球の影で、欠けたりしているのだ。

 これは、通常の月の満ち欠けと同じ原理のはずなのに、なぜ月食だけ特別なのかというと、そのスピードがあっという間の出来事だからであろう。

 本来なら、定期的な月の満ち欠けであっても、これくらい不思議なこととして考えればいいものを、

「毎回のことだから」

 ということで、慣れてしまっているのだろう。

 それを思うと、普段慣れていることが、少しでも違った動きをすると、その動きが必要以上に不思議な現象に見えてくるに違いない。

 ちなみに日食というのは、太陽と地球の間に月が入ってしまい、月が太陽の影として君臨することで起こる現象だ。

 つまり、月食も日食も、あくまでも、自転と公転によっておこる偶然の自然現象なので、見られる地区は限られていて、今の科学では、その発生は容易に予知できるのだ。

 それだけ、自転も公転も、人間の身体の心臓が、ずっと定期的に動き続けるように、寸分たがわずに、ルーティンとして成り立っているということであろう。

 そう考えてみると、月食の前と後ろの月が、これ以上ないというくらいに、きれいな満月であるというのは当たり前のことである。

 そもそも、月を隠す太陽は、月食の前ということで、その瞬間、太陽の影響をまったく受けていない。後ろにしてもそうなのだが、そう考えると、満月であるのは当たり前のことだ。

 もっといえば、月食というものが珍しいものだというだけのことであり、偶然である月食が重ならなかったら、

「ただの満月の月齢の期間だ」

 というだけのことである。

 しかも、太陽の光をまともに受けている月が反射しているのだから、月食の前と後ろが、名月と言われるほどきれいであるということは、当然のことである。

 ちょっと考えれば分かるようなことであるが、それを人間は考えようとしない。

 ただ、それを怠慢だといえるだろうか。

「世の中には、知らなくてもいいことがたくさんある」

 と言われている。

 確かに、

「知らぬが仏」

 という言葉のように知らなければ、それに越したことはないことも多いだろう。

 この場合をそうだと思っている人もいるはずだ。なぜなら、

「せっかくの夢のある月食を、科学で解明してしまって、気持ちが冷めるのは、果たしていいことなのだろうか?」

 ということである。

 昔から、日食や月食が起きた時、それを儀式として、霊媒であったり、祈祷であったりして、その時の世俗に対しての祈りを捧げている人も多かったことだろう。

 ただ、もう一つ考えれば、最初から用意ができているわけなので、科学的に、

「月食が来る。日食になる」

 というたぐいのことは、科学的に予知できたということである。

 そうなると、理屈も分かっていなければできないことで、その理屈を分かったうえで、祈祷や霊媒を行っているのだ。

 日食や月食の短時間を、起こってから用意しても、とてもではないが、間に合うわけはないのだ。

「自然の神秘こそが、偶然ではなくとも、いや、必然だからこそ、我々人間に、大いなる影響を与えているのかも知れない」

 と思った。

 そもそも、偶然が必然よりも神秘的だと誰が決めたのだろう? あくまでも、勝手な思い込みに違いないのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る